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慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

綱吉の「生類憐みの令」「鶴字法度」「能」

2018年12月31日 | 歴史
江戸時代2

江戸時代の身分制度
 ☆武士は特権階級で苗字を名乗ることと刀を持つことが許されていた
 *「士農工商」士は武士(僧侶含む)、農は農民(漁師含む)、工は職人、商は商人
 ☆「農、工、商」の間に身分の上下はない
 *「工、商」は、都市部に住む町人、「農」農村に住む職人は農民
 *人口比は、武士は人口の7%前後、農民は80%前後、町人は10%前後
 *約3%前後の階級(代表的なのは皮革業を生業とした)
 ☆皇室や公家は別格の身分
 *皇室は幕府から3万石の領地を与えられていてやりくりできた
 *中級以下の公家は朝廷からの俸給も少ない(和歌や書道を庶民に教えたりし生計を立てる)
 ☆「士(下級武士)」と「農工商」との区別
 *足軽と農民の間にははっきりした線引きはない
 *坂本龍馬は土佐藩の郷士であったが、身分は武士と農民の間のようなもの
 ☆苗字を名乗れるのは武士に限られた
 *農民や町人たちの多くも苗字を持っていたが、公式には名乗れなかった
 ☆「御家人株を買う」
 *旗本や御家人に持参金を持って養子に入れば、町人でも容易に武士になれた
 *勝海舟の曽祖父は町人、御家人株を買って名目上は徳川直参の家臣となっている
 *新撰組隊士の多くは、町人や農民でした
武士は幕府や藩に召し抱えられ、禄(給料)を与えられる身分
 ☆禄は個人ではなく家に与えられた
 ☆家の主人が隠居すると、家督を継いだ息子が父に代わって城勤めをする
 *禄も役職も父と同じで、家老の子は家老になり、足軽の子は足軽になる
 ☆父の跡を継げるのは長男のみ(次男以下の男子は他家に養子に入る)
 ☆女性の場合、
 *男子の跡継ぎがいない家では、長女が婿を取る
 *次女以下は他家に嫁に行くか、「部屋住み」として1生独身で暮らす
 ☆農民の場合
 *父の土地を継ぐことができるのは長男のみ
 *次男以下は、ほとんどが武家の奉公人になったり、他の農家の下男になったりした
 ☆都市の町人の場合
 *自由な身分といえるが、生活の公的保障は一切ない
武断政治から文治政治へ
 ☆家光が死去し、長男である家綱が10歳で4代将軍となった
 *幼い家綱が政務を執るのは難しく、老中や大目付などが彼を支えた
 ☆武力を背景にした武断政治から文治政治へと舵が切られた
 ☆家綱の在職中、「明暦の大火」が起きた
 *江戸城の本丸、多くの武家屋敷や神社仏閣が焼けた
 ☆家綱は身体が弱く、嫡男をもうけることなく亡くなる
 *館林藩主松平綱吉(家光の四男)が将軍職を継いだ
徳川5代将軍綱吉
 ☆悪法「生類憐みの令」で知られる将軍
 ☆綱吉の評判の悪さはそれだけが原因ではない
 *在職中に天変地異が頻繁に起こったことの方が大きかった
 *奥州の飢饉、勅額大火、元禄大地震、浅間山噴火、富士山噴火、宝永の大火などである
 ☆災害は、為政者のせいであるとも考えられ綱吉は不運でもあった
綱吉の馬鹿げた法律「鶴字法度」他
 ☆綱吉は長女である鶴姫を溺愛し、庶民が「鶴」の字を使うことを禁止した
 *井原西鶴は西鵬と改名、京都の老舗「鶴屋」は「駿河屋」と屋号を変えた
 ☆綱吉は能を舞うのが異常に好きだった
 *陰で「能狂」と呼ばれるほどだったがその舞は下手
 *家臣たちに頻繁に披露し、大名の屋敷や寺社を訪れた際も能を舞うのが常だった
花開く元禄文化
 ☆戦国時代から江戸時代初期までの日本は、世界有数の金銀銅の産出国
 ☆豊かな財力で江戸の町の整備、全国の街道と河川の普請などの公共工事が盛んに行なわれた
 ☆江戸中期以降は、金銀銅の採掘収入が減り幕府財政が苦しくなった
 ☆幕府は、貨幣の金銀含有量を減らす改鋳を行なった
 *市中に多くの貨幣が出回ったため、インフレにはなったものの景気は良くなった
 ☆好景気を背景にして「元禄文化」生まれた
 *中国で生み出された囲碁のレベルを飛躍的に高めたのも元禄の日本人
 ☆自然科学が発達した
 ☆関孝和は、和算と呼ばれる日本式数学の基礎を確立した人物
 *独力で代数の計算法を発明し、世界で最も早く行列式の概念を提案した
 *円周率を小数点第16位まで正確に求めている
 ☆江戸時代の庶民が数学を勉強したのは、出世や仕事のためではない
 *純粋に知的な愉しみとして取り組んだ
 *世界を見渡してもこんな庶民がいる国はない
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』






綱吉の「生類憐みの令」「鶴字法度」「能」
(ネットより画像引用)
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百歳まで健康で生き抜く知恵と行動

2018年12月31日 | 医療
健康づくり&充実した生活を毎日送る

 ☆健康長寿を目指して一生懸命健康づくりをするだけでは駄目、
 ☆毎日充実した生活を送る結果
 *健康長寿がついてきたというのが理想

孤立すると死亡率が高まる
 ☆健康寿命の平均は約75歳
 *最後の約10年間は介護が必要では、長寿もあまりありがたくはない
 *健康寿命をどれだけ延ばしていけるかがポイント
 ☆健康長寿に欠かせない決定的な要件
 *出かけたり、他人と交流する、社会参加を心がけることだ
 *社会的孤立が死亡率に影響を与えるというデータは、世界の多くの国で見られる
 ☆社会的なつながりにより、健康を気づかう機会が増えることが要因
50歳までには地域デビューを′
 ☆健康維持のために薦める社会参加活動
 *ボランティア活動
 ☆ボランティア活動をしていると、基本的日常生活動作の能力(自立度)が落ちにくい
 *認知症にもなりにくいなどの報告書もある
 ☆ボランティア活動を始める時期
 *60歳で退職してからだと、やろうという気にはなれない
 *60歳の年齢になると簡単に地域に溶け込むことが難しい
 *開始は若ければ若いほどいいが、50歳までには始めるのが望ましい
健康長寿を維持する3本の柱
 ☆運動、食事、社会参加は、健康つくりに大切な3本の柱
 ☆どの柱が崩れても健康長寿の実現が難しくなる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『THEMIS12月号』




健康づくり&充実した生活を毎日送る
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)



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徳川幕府の鎖国政策を検証

2018年12月30日 | 歴史
江戸時代1

江戸幕府の幕藩体制
 ☆家康は江戸幕府の支配するための法律「武家諸法度」を制定
 *200人前後いた全国の大名たちを管理下に置いた
 ☆大名とは1万石以上の領地を持つ者
 *江戸時代初期には全国で200人、中期以降は270人ほど
 ☆1人の人間が年間で食べる米の量はおよそ1石
 1万石の藩は、1万人の人間を養える国力がある
 ☆全国の土地は、藩主が支配し法律も藩ごとに違っていた
 *藩により、領内でしか通用しない「藩札」を使用していた
 *「分国法」に近いものが江戸時代にも受け継がれていた
 ☆「幕藩体制」の制度は、日本独特の封建体制
 *各藩は江戸幕府の命令には逆らうことができず
 *改易等の命令が下った時には、従うほかはなかった
 ☆江戸時代に改易を命じられた大名家は、248家にも及ぶ
家康は全国の諸藩を三つに分類した
 ☆徳川家の血筋を引く「親藩」
 ☆関ヶ原の戦い以前から徳川家に忠誠を誓っていた「譜代」
 ☆関ヶ原の戦い以後に服従した「外様」
 *親藩や譜代の多くは、石高は少ないが要地を与えられていた
 *外様の多くは、石高は多くても僻地に追いやられていた
 *外様は軍役などの負担も重く財政的にも苦しめられていた
 ☆幕府の管理体制
 *朝廷には「禁中並公家諸法度」
 *寺院には「寺院法度」、神社には「諸社禰宜神主法度」
幕府を開くことができるのは征夷大将軍
 ☆征夷大将軍は、源氏の血を引いている武士でなければならないという不文律があった
 ☆家康は系譜を書き換え、自分の祖父は源氏の流れを汲んでいるとした
 *氏を源と自称し、征夷大将軍の地位を得た
 *公式には徳川家康の正式名は源家康
 ☆後の徳川将軍も、国の公式文書などには「源○○」と署名している
 ☆徳川の血を引く松平一族も同じ
 *会津藩主、松平容保も正式名は源容保
 ☆豊臣秀吉も征夷大将軍の座に就こうとしてた
 *足利義昭の養子になろうと画策したが、義昭の拒絶にあって叶わなかった
三代将軍徳川家光
 ☆家光は、大名たちの改易、減封、転封を行ない、巧みに彼らの力を削いだ 
 ☆参勤交代と江戸屋敷に妻子を置くことを命じるなどの制度を取り入れた
 *大名たちに大きな負担を強いた(各藩とも江戸に大名屋敷を建てた)
 ☆江戸の7割を大名屋敷が占める
 *人口の大部分を占める約50万人の町人たち、1割の土地に住む
 ☆江戸幕府は、諸藩が力を蓄えられないようにする施策でした
江戸幕府の政治体制
 ☆政治は老中と呼ばれる者たちが執り行なった(老中は現代風にいえば首相)
 *老中は、親藩や譜代大名の中から有能な者が選ばれた
 *老中は、外様大名から選ばれることはなかった
 ☆将軍は世襲
 *本家の血筋が絶えた時のために、家康の血を引く大名をこしらえた
 *家康の脳裏に、三代で絶えた鎌倉の源氏将軍のことがあった
 ☆水戸藩は変わった藩で、伝統的に皇室に対する尊崇の念が特に強かった
江戸時代の鎖国
 ☆家光の時代に行なわれた
 *鎖国に至った理由の一つは「島原の乱」
 ☆幕府はキリスト教に対する弾圧を一層強めた
 ☆オランダと中国(明、清)以外の外国船の入港を禁じた
 *他に交易を許されたのは朝鮮と琉球国だけ
 *窓口は、長崎、対馬、薩摩、松前の4つに限られた
 ☆日本は世界に背を向けて、 1国平和主義を目指した
 *鎖国が、200年以上も続いたのは地理的条件に恵まれていたから
 ☆琉球国は、二重外交を続けた
 *薩摩藩に服属し、明の冊封(後に清の冊封)も受けていた
 ☆蝦夷地(現在の北海道)
 *17世紀になってからは松前藩に支配された
 *アイヌの祖先は北海道に暮らしていた縄文人?
日本が鎖国政策を取らなかった場合
 ☆世界有数の鉄砲保有国であった日本の兵力で、東南アジアを支配下に収めていたのでは
 *日本の進出経路は、インドシナ半島からビルマ経由でインド
 *17世紀の後半に、インドの支配でイギリスと1戦交えていた可能性が高い
 *戦いは海戦になったであろうが、イギリス海軍が若干有利だったのでは
 ☆朝鮮半島に進出していたならば、朝鮮軍は日本軍の敵ではない
 *崩壊寸前だった明には朝鮮に援軍を送る力はない
 *朝鮮半島は日本の支配下に置かれたであろう
 *日本はそのまま大陸へ進出し、明を減ばしていたかもしれない
 *女真族が率いる後金(清)との対決で、日本軍はあるいは敗れたかもしれない
日本には虐殺によって他国を完全服従させ、他民族を奴隷化するという伝統はない
 ☆ヨーロッパは古代からそうである
 ☆後にヨーロッパ諸国が行なったように中国大陸や東南アジアを支配できなかったのでは
 ☆逆に大東亜文化圏のようなものが生まれ、膨張するヨーロッパ諸国に対抗しえたかもしれない
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』








徳川幕府の鎖国政策を検証(ネットより画像引用)

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鉄道オタク急増・撮る・聞く&葬式鉄まで

2018年12月30日 | 遊び
全世代”走る魔物”の不可思議な魅力に憑かれている

 ☆鉄道の話題で、最近JR西日本の三江線廃止、JR北海道線区見直しなど暗い話も多い
 ☆鉄道を興味持つために、軽く「乗り鉄」から始めてみよう

「鉄子」や「ママ鉄」も定着し
 ☆「鉄子」とは、女性の鉄道ファンを指す言葉
 *90年代頃まで、鉄道は男性のものとみなされてきた
 *最近では若い女性の鉄道ファンも珍しくない
 ☆鉄道ファンは、老若男女に愛される趣味といった様相を呈している
 ☆「鉄子」、漫画『鉄子の旅』に由来する
 *07年には流行語大賞でノミネート入り
 ☆最近「女子鉄」「ママ鉄」などの言葉も出てきた
コアな鉄道ファンの広がり
 ☆写真を専門にしている「撮り鉄」
 ☆乗るのをメィンに行う「乗り鉄」
 ☆模型作りや収集に余念のない「模型鉄」
 ☆時刻表で机上旅行を楽しむ「時刻表鉄」
 ☆車両の研究をたしなむ「車両鉄」等
 ☆廃線や列車の引退にばかり興味を持つ「葬式鉄」もいる
 ☆最近台頭しているのは、「豪華列車」と呼ばれるもの
豪華列車の旅は満員御礼続き
 ☆豪華列車、正式名称を「周遊型豪華寝台列車」という
 ☆1人の価格
 *安いもので20万円強、100万円を超えるものもある
 ☆富裕層のシニアを中心に人気殺到で、満員御礼が続く
 ☆豪華列車とまではいかずとも、「レストラン列車」も国内各地で運行している
お手頃価格で乗り鉄デビューヘ
 ☆JR線の普通列車や快速列車が乗り放題になる「青春18きつぷ」
 ☆JR東日本が提供する50歳以上向けの会員組織「大人の休日倶楽部」
 ☆新幹線まで乗り放題になる「大人の休日倶楽部パス」
 ☆JR東海の「50+」
 *パッケージツアーが中心京都、奈良への旅が人気
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS12月号』










全世代”走る魔物”の不可思議な魅力に憑かれている
(『THEMIS12月号』記事他ネットより画像引用)

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「文禄・慶長の役」で、日本軍は明軍を圧倒していた

2018年12月29日 | 歴史
戦国時代3

豊臣秀吉キリスト教宣教師の追放
 ☆秀吉は当初、キリスト教の布教を認めていた
 *勢力を拡大したキリスト教徒が、神社や寺を破壊する事件が多発する
 *イエズス会が日本人を奴隷としてヨーロッパに売買した
 ☆秀吉「バテレン追放令」を発布し宣教師を国外追放とした
 *庶民の信仰までは禁じなかった
 ☆「サン=フェリペ号事件」とは、サン=フェリペ号の水先案内人が告げた内容
 *スペイン国王は、キリスト教の宣教師を世界中に派遣する
 *その土地の民をキリスト教徒にして国を裏切らせその国を武力征服する
 ☆当時のスペインやポルトガルが宣教師に先兵のような役割
 *中南米や東南アジアの国々を植民地にしてきた
 ☆日本がそういう運命を辿らなかったのは、武力を有していたから
 ☆秀吉はキリスト教に対する態度をいっそう硬化さる
 *庶民の信仰も禁止した
 ☆日本におけるキリスト教の布教の勢いは急速にしぼんでいく
秀吉の朝鮮出兵
 ☆秀吉は天下統一後、大明帝国の征服を計画した
 ☆秀吉は明の冊封国である李氏朝鮮に服属を強要し、明への道案内を要求した
 ☆拒否されたので、朝鮮を征服するために15万人を超える大軍を朝鮮半島に派遣した
 *日本にとっては「白村江の戦い」以来、約900年ぶりに行なわれた対外戦争
 *日本軍を迎え撃ったのは朝鮮軍・明軍合わせて約25万人
 *両軍合わせて四十万人を超える戦争
 ☆日本軍は、一時は朝鮮半島のほぼ全土を制圧した
 ☆明が参戦等で、戦線は膠着状態になった
 *戦いが4年に及ぶと、日本軍の中にも厭戦気分が蔓延
 *日本と明との間で講和交渉が行なわれ休戦となった
 ☆双方の講和担当者は、本国に向けて、相手が降伏したという偽りの報告をしていた
 *明は秀吉に対し、日本国王の称号と金印を授けるために使者を派遣した
 *秀吉は激怒して使者を追い返し、朝鮮への再度の出兵を決定した
 ☆秀吉は14万人を超える大軍を朝鮮半島に派遣した
 *日本軍は、数に優る明・朝鮮の連合軍を各所で打ち破った
 *そのまま攻め込んでいたら、明を窮地に追い込んだ可能性は高い
 ☆秀吉が病死
 *本国で豊臣政権を支える大名間での対立が起こり、対外戦争を続行する状況ではなくなった
 *豊臣家の五大老は秀吉の死を秘匿して日本軍に撤退を命じ、全軍が撤退した
 ☆歴史教科書には、「慶長の役」で日本軍は苦戦したと書かれていることが多いが間違い
 *日本軍が「慶長の役」で明軍を圧倒していたことは中国も認めている
 *秀吉による朝鮮出兵が開始されて明は10万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費する
 *明と朝鮮に勝算はなく、ただ秀吉が死去するに至り乱禍は終息した
 ☆日本もこの戦いにおいて、少なくない損害を出す
 *豊臣政権が倒れる原因の一つとなったことはたしかである
秀吉が明を征服しようとした動機?、
 ☆秀吉の老いによる「呆け説」もあるが、計画そのものは周到に練られている
 ☆日本の歴史学者の大半は、秀吉の誇大妄想と見倣している
 ☆「文禄の役」と「慶長の役」において、日本軍は終始、明軍を圧倒していた
 *日本軍が、モンゴル軍のように捕虜とした朝鮮人を兵隊として用いる
 *明を征服することは決して不可能ではなかった
 ☆日本との戦いで疲弊した明
 *農民反乱指導者の李自成により減ぼされている
 *李自成も翌年、北方の少数民族である女真族の清に減ぼされた
 ☆元も清も少数民族でありながら、中国大陸を百年以上にわたって支配している
 ☆近年の歴史教科書では、「朝鮮侵略」と記述されていることが多い
 *他国に攻め込むことを侵略と書くなら
 *世界史におけるアレクサンドロス大王やチンギス・ハーンやナポレオンの遠征
 *すべて侵略と書かなければ辻棲が合わない
関ヶ原の戦い
 ☆秀吉の死後、五奉行と五大老が合議制で政治を運営する
 ☆五大老の筆頭徳川家康
 *多くの大名と姻戚関係による同盟を結んでさらなる勢力の拡大を図った
 ☆五奉行の一人である石田三成と対立する
 ☆三成は家康を討つために挙兵し、家康もまた挙兵した
 *三成についた西軍と家康についた東軍との決戦となった
 *戦いはわずか半日で、東軍の一方的な勝利に終わった
 ☆戦いに勝利した家康
 *三成をはじめとする西軍の大名たちを処刑
 *領地を没収して、多くの大名たちを傘下に収めた
 ☆豊臣家も大幅に領地を減らされ、65万石の一大名になった 
 ☆家康の心配は、豊臣家から恩顧を受けた大名たちが秀吉の遺児秀頼を担ぎ出すこと
 *家康は「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の二つの戦いで、豊臣家を完全に滅亡させた
大坂夏の陣で死んだ豊臣家の当主豊臣秀頼(不義の子?)
 ☆秀頼を産んだ茶々の母の市(信長の妹)を自害に追い込んだのは秀吉である
 *茶々にとって秀吉は両親の仇に他ならない
 ☆茶々が不義の子を産み、その子が豊臣家を継いだなら、復讐を果たしたといえなくもない
秀吉の死後、女同士の間にも熾烈な戦いがあった
 ☆ねねは豊臣家の多くの家臣から慕われ、豊臣政権において大きな政治力を持っていた
 *茶々との関係は良くなかった
 ☆豊臣恩顧の武将の多くが西軍につかなかったのは、ねねが茶々を嫌っていたから
 *ねねは豊臣家の減亡後、徳川家に厚遇された
 ☆徳川二代将軍の秀忠の正室であるお江は茶々の妹である(信長の姪)
 *お江は後に三代将軍となる家光を産む
 *これによって織田の血が徳川へと流れ込む
 *信長の血が、支配者の血脈に残る
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出典、『日本国記』








「文禄・慶長の役」で、日本軍は明軍を圧倒していた
(ネットより画像引用)




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自民党内でも”亡国の移民政策”と批判

2018年12月29日 | 政治
日本に在住して必要書類を出せば、母国の家族も被保険適用者になる

 ☆厚労省が最も困惑している年金と医療保険の問題
 *現在は現地の医療費も我が国の財政で負担している
 ☆安倍政権は、”亡国の移民政策”から退くことはない
 *彼らの受け入れ先となる中小企業庁を所管する経産省だからだ
 ☆結論が出ている政策に対し、野党はあまりに無力である

新原経産省産政局長が先頭に
 ☆野党・霞が関からも噴出する批判を押し切る形で、衆院本会議で成立した
 *『出入国管理及び難民認定法』及び『法務省設置法』の一部を改正する法律案」
 ☆経産官僚は愚痴をこぼす。
 *中身は青字だらけで、いわば”たたき台”程度にすぎない
 *法務省の”根回しや経験不足”が感じられる
 ☆入管が官邸の”拡大ありき”という強い意向を盾に提出した
 *約7千人いる失踪者の情報全く出さない
 *野党から突き上げられ入管がいかに世間知らずかということ
 ☆経産省の経済産業政策局長が、先頭に立って絵を描いた政策
 *法案が通らないということだけはなんとしても避けたい
 *堺屋太一現内閣官房参与の全面的な後押しを受けた一大プロジエクト
 ☆自民党党内右派から”亡国の移民政策”と、不評のこの政策
 *臨時国会は、安倍首相の外遊が多く、法務審議会も綱渡り状態になる
 *審議がお蔵入りなれば、山下法相が詰め腹を切らされることになる
丸山秀治課長は追及に震えて
 ☆「役者が悪すぎる」という声も聞こえてくる
 ☆丸山秀治入国在留課長の答弁力不足は誰がみても明らか
 *時折、震えていたようにも感じ
 ☆財務省、財政諮問会議で総理指示があった以上、満額回答せぎるを得ない
 ☆法務省は、検事ではないキャリア官僚のための高位のポストが増える
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出典、『THEMIS12月号』


日本に在住して必要書類を出せば、母国の家族も被保険適用者になる
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)







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宣教師が驚嘆した日本人の素晴らしさ

2018年12月28日 | 歴史
戦国時代2

羽柴秀吉による天下統一
 ☆信長の突然の死で、信長の家臣の一人であった羽柴秀吉が踊り出る
 *一介の足軽から成り上がった男
 ☆秀吉は信長の後継者争いにも勝ち、天下統一に乗り出した
 ☆秀吉の天下統一は日本全土に及ぶものではなかった
 ☆すべての大名を服従させたにすぎず、中央集権的な政治機構ではなかった
 *地方では、各大名が治める封建社会体制が継続していた
 *秀吉の絶対的な武力の前に反旗を翻す大名はおらず
 *東海に一大勢力を持っていた徳川家康も秀吉に臣従した
秀吉の性格
 ☆宣教師フロイスの評には秀吉が多指症(右手)であったという記述
 ☆足軽から天下人にまでのし上がった秀吉という人物
 *切り落としもせず、異常に強い自尊心と意地のようなものを見る
 ☆差別につながるのを避けるため?
 *歴史書に秀吉の多指症についての記述はない
鉄砲伝来
 ☆種子島に中国船が漂着したが、その船に二人のポルトガル人が乗っていた
 ☆ポルトガル人の持っていた鉄砲に、領主の種子島は関心を寄せた
 *鉄砲は15世紀にドイツで発明されたもの
 *当時の日本人がヨーロッパの鉄砲と火薬の技術をたちどころに吸収
 *量産化に成功し、戦国時代末期の鉄砲保有数は世界一ともいわれている
 *当時の宣教師の多くが日本の軍事力に驚嘆している
 ☆カソリック教会の男子修道会イエズス会の宣教師フランシス・コザビエル
 *ザビエルにより、日本に初めてキリスト教が伝えられた
 ☆織田信長の庇護を受けたことで、信者(キリシタン)を増やすことに成功した
 *一般庶民だけでなく、大名や侍の中からもキリシタンとなる者が出た
 ☆信長がキリスト教の布教を認めたのは、一向宗の力を削ぐためであった
キリスト教の伝来
 ☆日本にやってきた宣教師たちは、日本人と日本の文化の優秀さに感嘆している
 ☆ルイス・フロイスが書き残した文章
 *この国の人々は、これまで私たちが発見した国民の中で最高の人々
 *日本人より優れている人々は、異教徒の中では見つけられない
 *彼らは親しみやすく、 一般に善良で悪意がない
 *驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじる
 *彼らは、恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしません
 *窃盗はきわめて稀で、彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる
 ☆宣教師が共通して挙げているのは
 *日本には庶民にも読み書きのできる者が多いということ
キリスト教の宣教師たちを精神的に苦しめたは禅僧たち
 ☆宗教家で、高い教養を身につけた哲学者でもあった当時の禅僧
 ☆全国各地でキリスト教の宣教師たちに鋭い質問を浴びせた
 *神が愛の神であるならば、なぜ人が罪を犯さないように作らなかったのか? 等
 *質問は、キリスト教の本質と弱点を衝くもの
 *宣教師たちは明確な答えを示すことができなかった
 *フロイスは「禅宗はキリシタンの最も厳しい敵である」と書いている
 ☆宣教師たちが世界の他の地域で出会うことのなかった鋭い知性に遭遇
 *戸惑った様子がありありとうかがえる
太閤検地
 ☆天下統一を果たした豊臣秀吉は全国で検地を行なった
 *検地により、日本の国力が正確に把握された
 *秀吉は、「太閤検地」と呼ばれる
 ☆太閤検地は、画期的な政策であった
 *課税対象者を、土地の所有者ではなく耕作者にした
 *長らく存在していた土地の中間搾取者が一掃された
 *奈良時代から続いていた荘園制度がなくなり、近代的ともいえる土地制度となった
農民から武器を取り上げる「刀狩」
 ☆「刀狩」は、日本を戦国の世から近代社会に変革させようという試みでもあっ
 ☆「刀狩」によってそれまで曖味だった武士と農民
 *区別が明確になり(兵農分離)、後に身分の固定化が進んだ
 *秀吉の「刀狩」は歴史的に非常に大きな意味を持つ政策であった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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出典、『日本国紀』






宣教師が驚嘆した日本人の素晴らしさ(ネットより画像引用)
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「旭日旗」を拒否した韓国の無礼

2018年12月28日 | 韓国・中国
日本は自衛艦旗を「戦犯旗」と主張する韓国の要請を突っぱね観覧式参加見送る

 ☆騒ぎを、日本は呆れて見ているだけでは済まされない
 ☆朝鮮有事で、韓国内の日本人救出する際に
 *海上自衛隊の自衛艦旗が気に食わない
 *韓国が海上自衛隊の入港が許されないケースも想定される
 ☆そこまで突き詰めての議論や危機管理をする必要がある

軍艦旗への他国の指導許さじ
 ☆韓国がますますおかしくなっている
 ☆話題の旗は「旭日旗」であることに間違いなく、正確には「自衛艦旗」である
 ☆国際的には、「自衛艦旗」には、違和感がある呼び方で、「軍艦旗」が適切だ
 ☆軍艦旗とは、その艦艇が正真正銘の「軍艦」であることを示す標識
 ☆国連海洋法条約において「軍艦」の特別な位置付けが明確になっている
 *「公海上の軍艦は旗国以外のいずれの国の管轄権からも完全に免除される」とされてる
 ☆韓国には自衛艦旗を「戦犯旗」などと主張する声が多くある
 *韓国与党のある議員が旭日旗使用を禁じるという法案を国会に提出した
 ☆韓国は、韓国主催の国際観艦式において「自衛艦旗を掲げない形での参加」を要請してきた
 ☆日本政府は、国の軍隊に所属する船舶の国籍を示す『外部標識』として参加を見送った
洋上の民間船は軍艦旗に敬礼
 ☆「旭日旗」が「自衛艦旗」になった理由
 *図案作成した米内画伯は「軍艦旗」としてこれ以上の図案は考えようがないとした
 *お気に召さなければご辞退するし、画家としての良心が許さないとも述べた
 ☆軍艦旗の重み
 *洋上で民間船舶が軍艦と行き合った場合、揚げる国旗を少し下げて敬礼をする習わしがある
 *敬礼されたら軍艦側も自らの軍艦旗を少し下げて答礼をする
 *軍艦同士なら指揮官の階級が低い方が先に敬礼する
 *海上でこれを確認するのは至難の業で、神経を使う瞬間だ
 *タイミングが遅れたり欠礼などすれば、その国の体面にも関わる
 ☆艦艇を訪れる際はまず軍艦旗に対し敬礼をする
 *それほどに軍艦旗とは敬意を払われるものなのだ
統合幕僚長は記者会見で述べる
 ☆海上自衛官にとって自衛艦旗は誇りとしての旗
 ☆降ろしていくことは絶対にない
 ☆海上幕僚長も記者会見で
 *自衛艦旗は法律上や規則上、掲揚することになっている
 *韓国の要請には応じない日本としての姿勢を明確にしている
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS12月号』




日本は自衛艦旗を「戦犯旗」と主張する韓国の要請を突っぱね観覧式参加見送る
(『THEMIS12月号』記事・ネットより画像引用)



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「天下布武」&「岐阜」

2018年12月27日 | 歴史
戦国時代1

 ☆「天下布武」とは、「天下に七徳の武を布く」という意味
 ☆岐阜は「周の文王が岐山(阜)より起こり、天下を定む」という故事にちなんで命名した

戦国時代の前半
 ☆応仁の乱以後、管領職を独占した細川氏が政治の実権を握った
 *時代区分は室町幕府の時代だが、実質的には「細川政権」と呼ぶべきだ
 ☆細川氏もまた盤石ではなく、 一族内で何年も争いを続けた
 *細川政権には全国を統治する力などない
 *各地の守護大名や有力武士たちを抑えることはできなかった
 ☆武士と同じくらい力を持っていたのは寺院である
 *武器を持った僧たちの集団は強大で、武力にものをいわせて土地を奪った
 *守護大名を領地から追放し、自治領を作ったところもある
 ☆弱肉強食の流れは16世紀に入ってさらに加速
 *戦国大名と呼ばれる存在が台頭し、先駆けが関東を支配した北条早雲
 *戦国大名の多くが伝統的な守護大名ではなく、新興の勢力であった
 ☆戦国大名たちの領土は「分国」と呼ばれた
 *室町幕府や将軍の存在は形だけのものとなる
 *「分国」それぞれが独自のルールで統治する独立した国家のような存在
戦国時代の後半
 ☆戦国時代に最初に京都を支配したのは、畿内一円を支配していた三好長慶
 *長慶は細川晴元を京都から放逐し、実質的な政権を握った
 *その力もまた細川政権と同様、全国を支配できるほどではなかった
 ☆政治の実権は、長慶から三好家の家臣の松永久秀に受け継がれていく
 *久秀も畿内の平定に精一杯で、天下統一を目指すことはなかった
室町幕府の滅亡
 ☆戦国大名の中で、急速に勢力を伸ばしていたのが織田信長だった
 ☆桶狭間で今川義元を破った信長は、近隣の敵を滅ぼし領地を拡大していった
 ☆信長は、自らの朱印に「天下布武」という文字を用い始める
 ☆信長は、城下町「井ノロ」の地名を「岐阜」に改めているからだ。
 ☆13代将軍足利義輝が三好家の家臣である三好三人衆に暗殺される
 *三好三人衆は義輝の従兄弟を将軍にして、自分たちの愧儡とした
 *奈良に逃れていた足利義昭は、岐阜の織田信長に上洛を要請した
 ☆信長は足利義昭を奉じて上洛し、三好三人衆を四国へ追い払った
 *信長は、義昭を15代将軍に擁立して、政治的実権を手にした
 *その後、信長は義昭と対立し義昭を京都から追放する
 ☆室町幕府は、240年の歴史に幕を開じた
乱世の怪物、織田信長
 ☆天下統一を狙う信長は、強大な兵力を手にするために、経済力を持とうと考えた
 ☆楽市 楽座を敷き、城下町の経済を振興させた
 *商人たちの組合のような存在であった「座」を廃止し、経済活性化を図った
 *現代風にいえば、「規制緩和」と「減税」である
 ☆撰銭令(良銭と悪銭の交換レートを定める)などの貨幣改革を行なう
 ☆大きな財力を掴んだ信長は、他の戦国大名にはないアドバンテージを手に入れる
 ☆信長は、商人たちから「みかじめ料」を取っていた寺社勢力と真っ向から対立する
 *僧兵たちは武器を持っていた上に、彼らと戦う兵たちが仏罰を恐れた
 ☆信長は仏教を恐れなかった
 *延暦寺との戦いでは、寺を焼き尽くし、僧だけでなく女性や子供まで数千人を皆殺しにした
 *伊勢長島の一向一揆鎮圧の際も、女性や子供を含む二万人を皆殺しにしている
 *日本の歴史上かつてない大虐殺
 ☆信長は、戦国大名との戦いにおいては、勝った後に相手の兵隊や住民を殺害することはなかった
 *信長が皆殺しにしたのは一向宗などの宗教を背負った一揆に限られた
 *信長が、宗教のもたらす狂信的な力を憎むとともに、その勃興を恐れた証でもある
 ☆織田信長の出現は日本史におけるエポックメーキングな出来事である
 *信長は、古い社会通念に縛られない、近代的な合理主義に基づく考え方をする人物だった
 *自らの家臣も、身分や出自に囚われることなく、能力がある者はどんどん出世させた
 *鉄砲をいち早く取り入れたのも信長である
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』








「天下布武」&「岐阜」(ネットより画像引用)


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「モンゴル会」の正体ー貴ノ岩報告書が暴く

2018年12月27日 | スポーツ
但木元検事総長らが解明した貴ノ岩事件の驚くべき真相

 ☆被害者が泣きを見て、被害者の親方が「異議あり」と主張し協会を追われた
 ☆こんな事件が公益財団法人相撲協会で起きた
 ☆真相究明できないまま幕引きとなる?
 ☆国技としての相撲人気が急上昇することはないだろう
 ☆但木氏の報告書は、相撲協会の病巣が何ひとつ完治していないことを明らかにした
 ☆この現実に怒り、根本的改革を訴えたのが責乃花だった
 *改めて彼の存在がクローズアップされている
 ☆相撲協会がモンゴル勢に乗っ取られ、「モンゴル相撲協会」になってからでは遅い
 ☆貴乃花を再び呼び戻し、日本の相撲界改革のために全力で取り組んでこそ、明日の大相撲がある

白鵬が酒席で厳しい”説教”を
 ☆元横綱が起こした傷害事件で被害者の幕内貴ノ岩が提訴を取り下げた
 *「母国で家族が強烈なバッシングを受けているから」というのが理由
 ☆この事件の真犯人は日馬富士ではない
 *流れの裏には”黒幕”横綱白鵬がいる
 *彼の責任を追及しない限り解決はない
 *協会の圧力に怯むマスコミが情けない
 ☆協会は貴ノ岩事件のあと、「暴力問題再発防止検討委員会」を立ち上げ報告書を発表
 *約900人の親方や力士から聞き取りを行い、調査を経て公開した
 *協会は内容が知れわたることを恐れ、メディアも詳細を報じたところは殆どない
 ☆本誌が入手した報告書
 *モンゴル人力士の問題を含む相撲界の驚くべき真相がつづられていた
 *約4時間にわたる一次会の終盤、白鵬は貴ノ岩に厳しく説教をしたという
 *理由は貴ノ岩が、カラオケバーで休場中のモンゴル人力士を激しく叱責したことだった
日本人の兄弟子より恐ろしい
 ☆この酒席に出席していた鳥取県のスポーツ関係者はこう証言
 *一般関係者はほとんど宴席で眠り込んでいた
 *意識があったのは酒が強いモンゴル人力士だけ
 *事件の全容を知っているのは白鵬、日馬富士、貴ノ岩だけで、
 *報告書には、事件の直前、照ノ富士に対しても暴行があったことが記されている
 ☆報告書では「モンゴルカ士会」の内容が記されている
 *モンゴル人力士にとって「日本人の兄弟子以上に恐ろしい鬼の組織」
 *上の者がいうことは絶対服従
八角理事長の「次」を巡る争い
 ☆但木氏はモンゴルカ士会を「モンゴル語によるブラックボックス」と表現している
 ☆モンゴル人力士にとっては部屋の親方よりも「モンゴル人力士の先輩の方が上」という図式
 ☆相撲界で外国人力士の最大派閥はモンゴル勢である
 *彼らの組織が幅を利かせるようになってから、暴行事件などの不祥事が増えた
 ☆外国人力士問題について、相撲協会はあまりに無関心すぎる
 ☆相撲協会が徐々にモンゴル人力士に侵食されている
 ☆貴乃花親方が引退したことで、「次の理事長」を巡る争いが再び混沌としてくる
 ☆八角理事長の次ということになると、有力な候補者がいない
 *相撲協会の理事長というポストは過去横綱であることが前提
朝青龍&旭鷲山も動き出すが
 ☆白鵬が日本に帰化することで、白鵬は親方株を所有しなくても部屋をもつ親方になれる
 *過去、大鵬、北の湖、貴乃花の3親方が受けた特別な年寄名跡
 ☆相撲界の流れでいくと再来年の東京五輪後、「白鵬親方」が誕生する可能性がある
 ☆そうなれば確実に10年以内に「白鵬理事長」が誕生する
 *白鵬が理事長になれば、現在の外国人力士枠(1部屋1カ士)を撤廃する方向に動く
 *相撲界から身を消した朝青龍、旭鷲山の両氏がなんらかの形で白鵬理事長とタッグを組む?
 *引退した日馬富士が再び日本で動き出す*
 *相撲協会に引退を届けた者は、協会復帰することはできないが、特別理事など役職はどうにでもなる
相撲協会は、貴乃花を呼び戻して改革を
 ☆あとを絶たない不祥事の問題、根深く未だにあるとされる無気力相撲
 ☆新たな入門者が激減する傾向にある状況を打破する明るいニュースが今の相撲界にはない
 ☆大相撲「満員御礼」の垂れ幕も見られなくなる日は近いだろう
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『THEMIS12月号』


但木元検事総長らが解明した貴ノ岩事件の驚くべき真相
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)





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毀誉褒貶の足利義教

2018年12月26日 | 歴史
鎌倉幕府~応仁の乱5

 ☆毀誉褒貶(きよほうへん)
 *「毀・貶」はそしる、「誉・褒」はほめる意味
 *悪口をいうこととほめること
 *世間の評判( 相半ばする、定まらず)

毀誉褒貶の足利義教
 ☆4代将軍の義持(義満の長男)の頃までは、幕府も安定した政権運営をしていた
 ☆義持は政治の実権を握ったまま、息子の義量に将軍職を譲る
 *義量は17歳で急逝し、義持は後継者を決めないまま亡くなる
 ☆後継者を指名しない状況に、困った群臣
 *クジ引ききをして次の将軍を決め、次の将軍に、義持の5男義教が決まった
 ☆義持が後継者を決めなかった要因
 *義持は、有力な守護大名の許可を得なければ認められない状況があった
 *義持の将軍の力は、それだけ弱かった
 ☆義教は、義満時代のような将軍家の復興を目指した
 *義教の強引な手法は多くの敵を作り、部下の守護大名に謀殺されてしまう
 ☆義教の死で、室町幕府は急速に弱体化していく
 ☆足利義教の後世の評価
 *織田信長を先取りしたような先進性を持った人物
 *すべてを性急に進めすぎた一面がある
 *配下の者に討たれるという最期も似ている
守護大名の台頭から応仁の乱へ
 ☆義教の死後、息子の義勝が8歳で7代将軍となったが、義勝はその翌年亡くなる
 *義勝の弟の義政が8歳で8代将軍に選ばれた
 ☆将軍の座に就いた義政は政治を疎むようになった
 *義政は妻の日野富子や有力守護大名の細川勝元、山名宗全らに政治を任せる
 ☆8代将軍義政は、東山殿(銀閣寺)に住み、趣味の世界に生きる
 ☆「将軍不在」の間に政治は大きく乱れる
 *後の応仁の乱を引き起こす原因となる
 ☆8代将軍義政の文化面での功績は大きい
室町の文化
 ☆室町文化の特色としてまず挙げられるのは、「わび、さび」
 ☆「わび」は、「心細く思う」「落ちぶれた生活を送る」「困って嘆願する」などの意味を持つ
 *良くない意味を持つこの言葉が、室町時代の茶の文化などと結びついて、独特の美意識が形成された
 ☆「さび」「さびれる」を意味する
 *「時間の経過とともにものが劣化する」という意味の言葉
 *「閑寂さの中に、奥深いものや豊かなものが感じられる美しさ」という意味を持つようになった
 ☆「わび、さび」を象徴する存在が、足利義政が建立した銀閣
 ☆「わび、さび」という美意識から生まれた様々な文化や考え方
 *その後の日本人の生活や文化に根強く生きている
応仁の乱
 ☆義政の妻、日野富子は自分が産んだ子(義尚)を将軍にしようと考える
 *有力守護大名の山名宗全に義尚の後ろ盾になってもらうよう依頼する
 ☆将軍を約束された、義視は管領だった細川勝元を頼る
 ☆山名宗全と細川勝元の間にはそれ以前から権力をめぐっての確執があった
 ☆山名宗全と細川勝元が覇権をめぐって京都を戦場にして戦う「応仁の乱」が始まる
 *両者の戦いは、他の有力守護大名たちを巻き込む
 *山名側(西軍)と細川側(東軍)に分かれて、全国的な争いへと発展する
 *戦い7年目総大将であった山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなった
 *乱は終わらず、何のために戦っているのかわからない状態だった
 *乱は11年間続いた後、急速に収束、何も決着がつかず、勝者も敗者もない争い
 ☆応仁の乱は、主だった将が戦死することもなく、戦後に罪に問われた守護大名もいなかった
 ☆日本史上、これほど無意味な戦いは例がない
応仁の乱の影響
 ☆応仁の乱は、社会や制度を大きく変え、従来の身分制度が崩れた
 ☆家格に関係なく、実力ある領主が各地に誕生し、後に戦国大名へと成長していく 
 ☆それまで有力武将はすべて源氏や平氏の流れを汲む者
 *天皇の血統に連なる者が尊ばれた
 ☆応仁の乱以降は、血統とは無縁の実力者が現れるようになった
 ☆戦国時代を象徴する「下剋上」の思想もこの時代に生まれた
沖縄諸島に琉球国が誕生
 ☆琉球国は、室町幕府からも明からも独立した王国と見倣されていた
 ☆現在の沖縄の人々の主な祖先は、10世紀前後に九州の南部から移住してきた人たち
 *沖縄県民の遺伝子は、中国人や台湾人でなく、九州以北の本土住民に近い
 *琉球の古語や方言にも、中国文化の影響は見られず、7世紀以前の日本語の面影が残っている
 ☆沖縄県は、民族的にも言語的にも日本であるといえる
 ☆中国に対して朝貢外交をしていた歴史はあるが、中国の領土であった時代は一度もない
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』








毀誉褒貶の足利義教(ネットより画像引用)



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仁徳天皇陵発掘の成果?

2018年12月26日 | 皇室
宮内庁が困惑する新事実が明らかになるかも

 ☆今回、宮内庁が陵墓の調査を外部機関と共同で実施したことの意義は大きい
 ☆陵墓の調査がほとんどなされず、閉ざされたままでは、何も知ることができない
 ☆世界文化遺産は、真実性も重視されている
 ☆調査の積み重ねが、倭の五王の時代に新たな光をあてる
 ☆陵墓にまつわる謎を解き、真実に近づいていくことになるだろう

『記紀』は大山古墳を仁徳陵としている
 ☆大阪府堺市の大山古墳、全長525m日本最大の古墳(前方後円墳)
 ☆エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並び、世界3大墳墓の一つとされる
 ☆「仁徳天皇」という名前は奈良時代に付けられた漢風諡号
 *仁徳天皇が実在したかどうかさえ疑問
 ☆被葬者は5世紀、中国・南朝に通交した「倭の五王」の一人である
 *「仁徳天皇」と同一人物なのかの確証はない
 ☆第16代仁徳天皇を、古事記では名を「オオサザキ」と称している
 ☆「仁徳」の名前の由来
 *天皇は、高殿に上って炊事の煙が立っていないのを見る
 *民の窮乏を知り、3年の間、税や労役を免じ、自ら倹約した
 *「仁徳」の名の通り、理想の聖帝として描かれている
 ☆8~9世紀の律令国家が、大山古墳を仁徳天皇陵と見なしてた
 ☆中国の歴史書より、5世紀日本では、5王が活躍していたのは事実である
 *5王(讃・珍・済・興・武)で、仁徳天皇を讃にあてる見方が有力
世界文化遺産登録が期待され
 ☆陵墓で、外部機関を交えて発掘調査が行われるのは初めて
 ☆「閉鎖的」とされてきた宮内庁にしては、画期的な出来事
 ☆被葬者解明につながる調査成果が得られることは期待できない
 ☆固有名詞の特定につながる文字資料が見つかる可能性はゼロに近い
 *日本の古墳で、墓誌などの文字資料が見つかった例は、これまで一つもない
 ☆大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群
 *19年にも世界文化遺産への登録が期待されている
「倭の五王」解明も待たれるが
 ☆仁徳天皇陵古墳が、履中天皇陵というような調査・研究結果が出ればどうなる
 ☆宮内庁は陵墓について、皇室祭祀の対象としている
 ☆違う祖先の墓をお祀りさせられてきた皇族らに、宮内庁はどんな説明をする?
 ☆面倒事に巻き込まれるのを避けるため、宮内庁は陵墓の立ち入りすら規制してきた
 *問題を先送りしてきたのではないかと勘ぐりたくもなる
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出典、『THEMIS12月号』


宮内庁が困惑する新事実が明らかになるかも
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)
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中国の 冊封は属国を意味するものではない

2018年12月25日 | 歴史
鎌倉幕府~応仁の乱4

観応の擾乱
 ☆足利政権は誕生した時から盤石な体制ではなかった
 ☆足利尊氏を軍事面で補佐する高師直と行政面で補佐する足利直義(尊氏の弟)が権力争い
 *権力争いに敗れた直義は南朝と手を結ぶ(その後、直義は師直を殺す)
 ☆尊氏は朝廷を南朝た和議を結び、北朝の天皇を廃す
 *直義と南朝の間を裂き、南朝に直義追討の綸旨を出してもらうための策略
 ☆南朝勢力は京都に侵攻して、義詮(尊氏の嫡男)を追い払い都を占拠する
 ☆義詮は反撃に転じて南朝を再び京都から追放する
 *義詮は北朝の天皇を三種の神器なしに即位させる
 *尊氏も征夷大将軍に復帰
 ☆幕府の権力争いはその後も続く
 *直義も、尊氏との戦いに敗れ殺される
 ☆直義の残党はその後も南朝を支持し、幕府と対立し続けた
 ☆一連の争いは「観応の優乱」と呼ばれてる
 ☆室町幕府の権力基盤は脆弱で、政敵を倒すためには天皇の後ろ盾が必要だった
南北朝の統一
 ☆南北朝時代に終止符を打ったのは、足利三代将軍の義満(尊氏の孫)
 ☆義満は自分の側近を全国の守護職に就け、南朝を支持する守護大名の力を削いでいく
 ☆南朝側は、精神的支柱人物、武将が亡くなり、急速に勢力が衰える
 ☆義満の仲介で、南朝は北朝との和議を受け入れる
 *南朝の第99代天皇が退位し、北朝の後小松天皇が第100代天皇となる
 *56年続いた南北朝時代は幕を開じた 
 ☆尊氏が政権を取って約60年後、室町幕府は全国を制覇した
足利義満の野望と死
 ☆足利義満は武家の最高権力「征夷大将軍」と、公家の最高職である「左大臣」になる
 ☆義満は、征夷大将軍を息子の義持に譲り、太政大臣となる
 ☆義満は自分の妻を天皇の准母(天皇の母親格)にする
 *自らは太上天皇(上皇)となることを望む
 ☆義満の最終的な目標は次男の義嗣を天皇にすることだった
 *義嗣を皇太子にし、天皇が亡くなれば、義嗣が自動的に天皇となるようにした
 *義満が後小松天皇に退位を迫って譲位させることも可能だった
 ☆義満の計画は皇位寡奪であり、皇統を破壊する企みであった
 ☆義満は、義嗣の立太子式の6日後、発病し5日後に急死した
 *義満の死亡の原因は、毒殺されたとの見方が強い
 ☆義満には死後に太上法皇の尊号宣下がある、子の義持はそれを辞退する
倭寇と勘合貿易
 ☆中国では漢民族の王朝、明が勢力を伸ばしていた
 ☆義満は、明と貿易(日明貿易)を行ない、巨万の富を得た
 *公私の船を区別するために勘合を使い「勘合貿易」が行われた
 ☆勘合が使われた背景には「倭寇」の存在があった
 ☆倭寇は、中国や朝鮮の沿岸で略奪行為を働いた海賊
 *倭寇の意味は「日本人による侵略」です
 *対馬や壱岐等の漁民たちが、元と高麗に対する復讐のため始めたものだった
 *倭寇は、海賊行為だけでなく私貿易や密貿易を営み、一部に高麗人も交じっていた
 ☆今日の日本の歴史教科書では、中国に配慮し「元寇」という言葉を使用しない傾向にある
 *それならば、倭寇の言葉も日本の歴史教科書から削除すべきである
 ☆逆に、歴史用語を現代の感覚で言い換えたり、使用禁止にするのは間違いだ
明との貿易
 ☆明との貿易では、「君臣」関係を結び朝貢をして「冊封」を受けるのが必要でした
 *冊封は属国であることを意味するものではない
 *明は民間貿易を許さなかった
 ☆足利義満は明皇帝から「日本国王」として冊封を受けた
 ☆日本が中華王朝の冊封を受けたのは、古代を除いて初めてのこと
 ☆日明貿易は、朝貢貿易で、わずかな品物を明帝国に棒げる
 *それ以上の価値のものを受け取ることができた
 *足利幕府は巨額の利益を得た
 ☆明の冊封を受けていることは国内でも大いに問題とされた
 ☆義満の死後、跡を継いだ4代将軍・義持は貿易を中止した
冊封は属国であることを意味するものではない
 ☆中国皇帝のメンツを重んじた儀礼で、実効支配や統治とは異なる
 ☆中国共産党政府が、最近主張していること
 *古くから中国王朝に朝貢をしていたチベットなどは、「古代から一貫して中国の一部だった」
 ☆この論でいけば室町幕府も琉球も「明の一部だった」ことにされてしまう
 ☆私たちの先人が、冊封すら嫌ったということをしっかりと覚えておきたい
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中国の冊封は属国を意味するものではない


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日産「100年に一度の変革期」に前進する

2018年12月25日 | 企業
日産「コネクテッド」「自動運転」「シェアリング」「電動化」で好ポジションを取れ

車も一種の情報端末に変身ヘ
 ☆いままではエンジンと変速機を作れない企業には自動車メーカーにはなれない大きな壁
 ☆先の電気自動車(EV)の時代では、参入の壁は限りなく低くなる
 ☆日産自動車は、一歩でも先んじようと、あらゆる手を打っている
 ☆次世代の日産自動車のコネクテッドカー
 *グーグルマップ、スマートスピーカーのグーグルアシスタントが情報検索を行う
 *自動車向けの様々なアプリ(応用ソフト)が使える
 ☆現在、ベンツのコネクテッドカーのニューモデルが注目されている
日産、無人運転車両の実証実験開始
 ☆日産のEVリーフはすでにトップランナーだ
 *EVの世界は拡大しているが、その牽引力となっているのが日産のリーフ
 *日産は、DeNAと提携し、無人運転車両での実証実験を始めている
 *後ろ向き駐車、縦列駐車、前向き駐車も、すべての操作が自動化されている
 ☆世界の変革は、新領域の「CASE」の各分野で起きている
 *コネクテッド(C)、自動運転(A)、シェアリング(S)、電動化(E)
 ☆新領域での覇者を目指して、日産は22年までの中期計画を発表した
 *年間販売台数1千400万台、売上高合計2千400億ドルを見込む
日産ベンチャーキャピタル挑戦ヘ
 ☆自動車業界は、100年に1度の大変革期
 ☆ルノー・日産・三菱アライアンス
 *5年間で最大10億ドルを投資するベンチャーキャピタルファンド設立
 *名称は「アライアンス・ベンチャーズ」
 ☆新しい競争分野「CASE」
 *ルノー・日産・三菱アライアンスとっては大チャンスです
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日産「コネクテッド」「自動運転」「シェアリング」「電動化」で好ポジションを取れ
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)


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歴代天皇にカウントされない北朝5代の天皇

2018年12月24日 | 歴史
鎌倉時代~応仁の乱3

鎌倉の仏教
 ☆平安時代末期から鎌倉時代にかけては、戦乱と飢饉がたびたび起きた
 ☆末法思想が流行し、同時に、庶民の間に救いを求める風潮が強まっていた
 ☆鎌倉時代の仏教は、現代にまで続く二つの流れに大別できる
 *『南無阿弥陀仏』と念仏を唱えれば極楽に行けるという、大衆を救う教えである
 (法然らの教えは庶民の間にまたたくまに広まっていった(浄土宗、浄土真宗))
 *もう一方の仏教の流れは「禅」
 (「禅」は座禅などの修行によって自らを救済するという教え)
 (禅の厳しい修行は鎌倉武士に受け入れられて、全国に広まった)
 ☆日本独自の神道理論が形成された(伊勢神道)
後醍醐天皇の討幕運動
 ☆鎌倉時代の天皇には政治的な実権はなく、内輪の後継者争いに明け暮れていた
 ☆後深草上皇と弟亀山天皇の間で、どちらの子供を次の天皇にするかで争いが起こった
 *二人の子孫は各々幕府の支持を得ようと働きかける
 *幕府はたびたび調停役となる
 *後深草上皇と亀山上皇の子孫から交互に皇太子を立てることを提案し了承を得た
 *後深草上皇側の系統を「持明院統」、亀山上皇側の系統を「大覚寺統」と呼ぶ
 ☆二つの系統は、その後も皇位継承をめぐって争いを続ける
 *後の「南北朝」の対立を生むもとともなった
 ☆後醍醐天皇(大覚寺統)の活動
 *二つの系統の争いに終止符を打つ
 *天皇が自ら政治を行なう親政を復活させようれ考えた
 ☆後醍醐天皇は、討幕を計画するが、幕府軍に捕らえられて隠岐に流す
 *幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光厳天皇を即位させる
 ☆この事件がきっかけとなり、鎌倉幕府に不満を持つ各地の武士が次々と蜂起する事態となった
悪党、楠木正成の挙兵
 ☆後醍醐天皇が隠岐に流され、河内国の悪党、楠木正成が挙兵した
 ☆鎌倉幕府は正成を追討するために十万人の大軍を送った
 ☆楠正成は、千人の軍勢で千早城という小さな山城に籠もって、これを迎え撃った
 ☆幕府軍がどれほど攻めても千早城を落とすことはできなかった
 ☆幕府軍が千早城にかかりきりになっている時、後醍醐天皇は隠岐を脱出し討幕の兵を挙げた
 ☆幕府は後醍醐天皇軍の討伐と千早城攻めのため、援軍として、御家人の足利尊氏を派遣
 *尊氏は幕府を裏切り、幕府の出先機関である京都の六波羅探題を攻め落とした
 *千早城は百倍の軍勢を相手に、半年以上も戦い、幕府軍を釘付けにしていた
 ☆幕府は、新田義貞に千早城を攻めるための高額の戦費を要求した
 *義貞がこれに応じなかつたため、幕府は義貞追討令を出した
 *怒った義貞は逆に鎌倉に攻め込み、この戦いによって北条高時は自害し幕府は滅亡した
建武中興
 ☆鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都に入り親政を行なった
 ☆後醍醐天皇の恩賞は、たいした働きをしなかった公家に厚かった
 ☆武士の間で不満の声が高まった
 *六波羅探題を滅ぼした足利尊氏も重要な役職に就けなかった
 *北条高時の息子、時行が建武の新政に対する反乱を起こした
 ☆尊氏は弟を守るために、後醍醐天皇の許可を得ることなく、鎌倉に出兵して反乱軍を鎮圧
 *尊氏はそのまま京都に帰らず、自分に付き従った武将たちに独断で恩賞を与える
 ☆後醍醐天皇は尊氏の謀反を疑い、新田義貞に尊氏追討令を出す
 *尊氏に代わって足利一族を率いた弟の直義が朝廷軍に打ち破られた
 *尊氏は京都まで進軍するが、ここで北畠顕家や楠木正成との戦いに敗れ、九州へ逃げる
 ☆尊氏は、光厳上皇の支持を得て「官軍」を名乗る
 *西日本各地の武将を味方に引き入れ再び京都に攻め上った。
 *楠木正成はこの状況を見て、後醍醐天皇に対して、尊氏と和睦することを進言する
 *天皇や側近の不興を買い、正成は国許での謹慎を命じられる
 *尊氏を迎え撃った朝廷軍の総大将、新田義貞が敗北を続けたため、後醍醐天皇は楠木正成を呼び戻す
 *正成は敗れて戦死する(新田義貞も戦死)。
 ☆尊氏は湊川の戦いの後、京都に入って後醍醐天皇を追い払う
 *持明院統の光明天皇(光厳上皇の弟)を即位させ、政治の実権を握った
 ☆天皇の親政による建武政権はわずか三年で瓦解
南北朝時代
 ☆後醍醐天皇は足利尊氏との和睦のしるしとして、三種の神器を光明天皇に譲り京都に幽閉された
 ☆後醍醐天皇は、密かに吉野に脱出し、自分こそが真の天皇であると宣言した
 ☆京都の天皇(北朝)と吉野の天皇(南朝)の二つの朝廷が存在するという前代未聞の事態となる
 ☆南朝を正統とする者たちと、北朝を正統とする者たちが内乱を繰り返すこととなる
 ☆明治の国定教科書で南朝を正統とし、北朝は認められなくなった
 *大東亜戦争終結まで、「南北」という言葉は学会では禁句となる
 ☆現在、北朝の五代の天皇は、歴代天皇百二十五代の中には数えられていない
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詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』








歴代天皇にカウントされない北朝5代の天皇
(ネットより画像引用)

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