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『京都の平熱 哲学者の都市案内』 鷲田清一著

2024年04月30日 | 読書雑感
京都人がこれまで「得意わざ」と密かに自負してきたもの:
 めきき:本物を見抜く批評眼
 たくみ:ものづくりの精緻な技巧
 きわめ:何事も極限まで研ぎ澄ますこと
 こころみ:冒険的な進取の精神
 もてなし:来訪者を温かく迎える心
 しまつ:節度と倹約を旨とするくらしの態度
対抗評価軸(オルタナティブブ)がいっぱいある街いいると、ああ都会にいるのだなあとおもう。アブナイ両極端、これ以上行ってはいけないリミット、それらがはっきり設定されている街ではmそうそうかんたんに残虐な事件は起こらないと思う。人生の避難所と実験場とがいたるところにある街では、ひとはかえって堅実になるように思う。型にうるさい街、型を外すとあぶないことをよくしっている街では、たんなる型破りはバカにされるだけだ。

ひとにも旬というものがあるのだろうか。あったのだろうか。青年、想念、熟年、老年・・・・。それぞれの季節(とき)にそれなりの旬があるはずなのに、旬は「盛り」に取って変わられた。元気の満ち溢れている季節、青年から壮年にかけてを人生のピークとし、そのあとは下り坂という、なんとも貧相な一直線のイメージで人生が描かれる。そしてそんな下り坂でも「元気」を(年齢不相応に)保っていることが、まるで理想のように語られる。「アンチ・エイジング」だとか「サクセスフル・エイジング」だとか。

じっさい、これほど気質もカルチャーも、さらには言葉も異なる百万都市が、それぞれ30分もあれば行き来できる距離にあるというのは、世界でも例がない。これに奈良を加えれば、世界でも屈指の地域である。関東のようにいろんな都市が東京を中心に同心円になるのではなくて、つまり地方に行けば東京度がしだいに薄まっていくというのではなくて、それぞれにじぶんところが最高と、プライドをもって思い込んでいる多中心的な地域は珍しい。文化が何重にもなっているのである。(京都・大阪・神戸の「三都物語」に関する筆者の考え)

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