お愉しみはココからだ!!

映画・音楽・アート・おいしい料理・そして...  
好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

出張の愉しみ お土産編

2018年09月24日 | スウィーツを愉しむ
大阪に出張するたびにお土産として551の豚マンとシュウマイを買っていました。とっても美味しく家族にも好評なのですが、今回はスイーツを買おうと思い立ち阪急デパートへ。

数多いスイーツ店の中から、今までに聞いたことがないような店舗を選んだところ、これが大正解。「ブルトンヌ」という焼き菓子のお店で購入したのが、ガトーナンテ。フランスなブルターニュ地方独特の焼き菓子とのこと。


直径6センチ、厚さ2センチくらいのぶ厚いクッキーなのだが、生地にフルーツが入れ込まれていて、甘すぎずに適度かつ上品な甘さと美味しさが娘に好評でした。種類もいくつかあって、中には季節限定モノも。私は、栗のブルトンヌが気に入りました。
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極味やで出張飯を愉しむ in 博多 Part1

2018年09月17日 | 美味しいを愉しむ
福岡に出張した際に食した美味しいものがこれ。



"極味や"という店の生ハンバークなのだが、これが激ウマ。表面が軽く炙ってあるハンバーグを、熱っしてある鉄板の上で自分好みに焼きながら食するスタイル。脂がジュウジュウと跳びはねるのを覚悟して食すると、肉の美味さが口中に広がってくる。肉がいいんだな、きっと。

注文は、ゴールデンプレートといって、生ハンバーグに牛スジ煮込みとチキン南蛮がついてくる。牛スジはまあまあだったが、チキン南蛮がすばらしく美味い。これだけでもOKといえる味。

福岡パルコの地価1階にあって、店の前は長蛇の列だったが、並ぶ価値は十分にあった。時間に余裕があって、脂の飛び跳ねを気にしない人向けだが、美味しいもの、特に肉好きの人にはお奨めできます。

ただし、デザートのアイスクリームはまったくコクがなくてダメダメなので、お代わりし放題につられてスイーツも愉しもうという人は、肉のみを愉しむつもりで行って見てくださいな。

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『日本人へ 国家と歴史篇』 塩野七生著

2018年09月15日 | 読書雑感
塩野七生ほど、"女史"という称号が似合う方はおられないと思う。凛々しく、厳しく、スッパリと物事を切っていきながら、温かい目線と愛情が文章の根底に感じられる。『日本人へ』と題されたエッセイ集は何冊かあるが、その中の『国家と歴史篇』を手にとってみた。

古代ローマ、中世イタリアなどの歴史モノを著わした方なので、悠然たる時の流れの中での現代日本の姿に対するコメントは容赦がないにも拘わらず、心地が良い。決して、Mではないつもりだが、厳しいコメントであるはずなのに、「言ってくれてありがとう」と心の底で言ってしまうのは、著者の心底にある温かさと愛情が見え隠れしているからなのだろう。

それにしても、文章は鋭い。切れ実の鋭い刃物のように縦横無尽に切って捨てる硬質で男性的な文章には無駄が無く、優れた議論を聞いているかのよう。物事を言い切る術、そして他の言葉でふんわりとした単語や用語を定義しなおす術に非常に長けておられる。説得力とは、こんなところに現るのだろうことが良く理解できた。

    ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

政治とは、感性に訴えて獲得した権力を理性に基づいて行使していくもの。
"感性"と"理性"という対比する単語を使いながら、"政治"の本質を彼女なりに切り取ってみた台詞がこれだが、「そうかも!」と唸ってしまう。

「夢」や「ゆとり」や「美しい」とかは、個人の性格や好みによるから同一ではない。このように客観的な基準を決めることが不可能は事柄は宗教家や詩人の分野のことであって、政治家や官僚が口をはさむことではない。政治家や官僚は、現実的で具体的な問題の解決に専念すべきであると思う。
これは、常々私が会社のビジョンや戦略目標が目に入るたびに思う感想と全く同じものだ。ビジョンや戦略目標が単なるスローガン、しかも誰もが反対できないような美辞麗句を並べただけで、具体的な姿が不明なキャッチコピー化したものが多すぎる。作った経営者自体が、心から自分の組織のビジョンや戦略目標の重要性を理解せずに、下の者が作って上げて来たものに対して評論批判する経営をしているから、誰もが否定できないが何を表しているのかが不明な美辞麗句のオンパレードになってしまうのだと思う。

優雅であることの意味がよくわかった。大胆で官能的であると同時に絶対に下品であってはならないのが、エレガントの必要不可欠な条件であることだ。言い換えれば、大胆と官能的と品位は、虚実皮膜の関係にあるということか。優雅と静かな緊張は、表裏一体にあるのかもしれない。
これが塩野七生女史の凄いところ。"優雅"を自分なりに定義しなおしている。ありふれた言葉をそのまま使うのではなく、自分の頭で考えて再定義することで、著者のモノの考え方や感じ方が理解できる。「ヴァレンティノのドレスは優雅」というよりも、このような再定義をする行為こそが、何よりも自分の考えや感じたことを伝える力があることが理解できた。塩野さん、ありがとう。


日本人は、ここの分野では優れているのである。だが、それらを統合してある種の化学反応を起こさせることで、ここの分野であげていた実績以上の実績に変貌させる才能では、昔から得意ではなかったように思える。

もしも外国人の誰かがこの日本の歴史を書くとしたら、ここの分野では才能ある人に恵まれながらそれらを全体として活かすことを知らなかった民族、と書くのではないだろうか。ほんとは、それこそが政治の役割なのだが。

似たような文章が二回出ていた。外国で長く暮らし、しかも古代と中世において大国であった国々の歴史を研究し、庶民に理解させるだけではなく、歴史の裏にある人間社会の真理に切り込んできた著者ならではの"日本批判"である。"批判"と書いたが、決して悪口ではなく、愛情の裏返しのコメントだ。私には、このコメントは現代日本の企業経営における無能さを著した的確な批判だと思ったね。経営者としてやるべきことをせずに、優秀な部下たちを鞭で叩くことが"経営"だと勘違いしている安楽に堕した日本の経営者(すべてとは言わない)そのものだよ。例えば、倒産寸前だったシャープが外資の門下に下った途端に、なぜ元気になるの?日産自動車もそうだった。これって日本の経営者の無能さを表している何よりの証拠じゃないだろうか? このことはエディー・ジョンズの著作を読んだ時にも感じた。

これら以外にも、今の私にササッたコメントがあった。

文化を共有しない外国との交渉は、相手側が思わず苦笑して、ヤラレタネ、と思ったときからスタートすべきなのである。理で対して行くのは、その後なのだ。

偏差値教育が大勢を見極める能力のない指導者を育てたのと同じに、点数至上主義は、スポーツの醍醐味を味わわせてくれる選手を、競技の場から排除していくようになるだろう。ポイント主義は単に勝者を決める手段であったはずである。だが、それのみが偏重されるようになると、手段の目的化になってしまう。
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スコット・フィッツジェラルド短篇

2018年09月01日 | 読書雑感
世に名高いフィツジェラルドの短篇、しかも村上春樹訳を読んでみた。『華麗なるギャツビー』で高名はわりに、この作家の良さが私は理解できていないために、これまた高名な村上春樹氏の解説付きで短篇に再トライすることで、何かが分かるのかなと思っての挑戦だった。

「天才ならでは文章の煌き」と評されるのだが、やられた!と思わせてくれる作家ではない、少なくとも私には。確かに、これはすごい!と思う表現や言い回しはあちらこちらにある。でも、作品に引きずりこまれるということはないのが残念。

1920年代の世相を反映しているのだろう。でも、その時代を直に経験していない私にとっては、へぇ、そうなんだったんだという程度。それでも、時代の雰囲気はよく伝わって来る。それがフィッツジェラルドの凄さなのだと言われれば、そうなのだろうと同意はする。しかしながら、私が一番に求めるものは、例えばロス・ト-マスのような登場人物がイキイキとし、こんな生き様は愉しそうだと読み手である私を魅了してくる物語。その基準に照らし合わせると、フィッツジェラルドの紡ぐ物語は、少々退屈。それが私とって、フィッツジェラルドをベストな作家と思えない理由なのだろう。

それでも、ところどころに これは! という目を開かせてくれる文章はある。

     ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

その集団は長じるにしたがって、女の子のドレスの丈が一インチ一インチと長さを増していくのと同じくらいゆっくりと、あるいは男の子のズボンの裾がある日すとんと足首まで降りるのと同じくらい明瞭に、硬く固まった仲間を形成していった。
ジェリービーンは突然、自分が日陰の葉っぱになったような気がした。
(ジェリービーン)

今の日本と違って、欧米には大人と子供の間に大きな線が引かれている、いや、いた(日本も「元服」という儀式がある頃はそうだったのだろうが)。その線を、ズボンの長さやドレスの丈で表現している力には脱帽せざるをえない。

今までは私の人生なんて、とぎれることのない面倒の総和に過ぎないのだもの。
封筒の外側には彼女の名前がインクで書かれており、内側には彼女の死が収められている。
旧石器時代があり、新石器時代があり、青銅器時代があり、そして長い年月のあとにカットグラス時代がやってきた。
(カットグラスの鉢)

この、旧石器時代云々という書き出しが凄すぎる。しかもカットグラスがこの小編において、主人公の女性の象徴になっているという小憎らしい構成の中で、カットグラスの時代などという表現が生み出せることが、天才的だと言わしめた力なのだろう。

この何週間というもの彼らはアメリカ風に食前のカクテルを飲み、フランス人のようにワインとブランデーを飲み、ドイツ人のように麦酒を飲み、イギリス人のようにウィスキーソーダを飲んでいた、そして彼らはもう二十代ではなかったから、おのとてつもない混合物は昨夜の過ちの記憶を一時的に隅に追いやるくらいの役しか果たさなかった。(結婚パーティー)

この「結婚パーティー」という小編には、村上春樹氏が「パリにおけるアメリカ人の最後のドンちゃん騒ぎの様子を描写するフィッツジェラルドの覚めた目と冴えわたる描写力には、やはり感嘆すべきものがある」という解説を書いていた。確かに、彼らのドンちゃん騒ぎやその時代にパリで暮らしていたアメリカ人、しかも上流階級の人々の生活ぶりが心に残ったのだが、改めて読み返してみると、パリのアメリカ人たちの行為を直接的に表現した部分はそうは多くないことに気付いた。それでも、読み終わった時に「パリにおけるアメリカ人の最後のドンちゃん騒ぎの様子」が記憶に残るような書きぶりをしているところ、雰囲気を上手く伝えられていることがフィッツジェラルドの文章の持つ魅力なのだろう。

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読んでいて思ったのは、やはりフィッツジェラルドは天才なのだと思う。特に、彼が生きた時代の雰囲気や息吹をこれ以上ないタッチで伝えてくれているのだから。先に、私にとってはフィッツジェラルドという作家の評価が低いように書いたが、それは私が小説に求めるものの基準によるものであって、この作家の天才性は否定しない。でも、天才性に依存しすぎたのではないかとも思う。読んでいて気になったのは、煌きを放つ文章があるかと思うと、状況をベタに説明する文章が並列していること。状況を説明する際には、もっと手管を弄して欲しい、例えば、登場人物どうしの会話の中に埋め込むとかして...これが上手いのが、ロス・トーマスやローレンス・ブロックなのだろう。だから、私とってはこの2人は大好きな作家なのだ。所詮はパルプ小説作家であったとしても。これが、私がフィッツジェラルドに心酔できない最大の原因なんだということに気付いた。

風俗やモラルは彼のいきているあいだにどんどん変わっていったそして彼はその変化を記録するべく自らの位置を設定した。変化は彼の眼前で繰り広げられていた。統計や新聞記事としてではなく、血肉を持つ人格として。(『スコット・フィッツジェラルド作品集のための序文』マルカム・カウリー著)
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