数日前に都内に引っ越して来たのだけれど、ようやく部屋が少し片付いて来た。来週までには引っ越しも完了するかな。これから2018年も本格始動だ!
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 22:56
@scof75satsuki こんにちは。ベルリン芸術大学にてヨーゼフ・ボイスに関する博士論文を書いて日本に帰国したものです。実は今、都内で歯医者さんを探していて、是非この歯医者さんに行ってみたいと思ったのですが、もしも都内の歯医… twitter.com/i/web/status/9…
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 22:57
@yasuhirochiba ありがとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします!
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:03
@yasuhirochiba はい、ぜひ!
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:09
Google Mapでは台北のことを臺北と表記するけれど、この台湾の臺の字が邪馬壹国(邪馬台国)の壹(いち)の字に似ていることが気になった。魏志倭人伝の書かれた魏の位置から捉えた場合、邪馬台国が台湾にあった可能性というのは、考えられないだろうか?
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:11
ポルトガルのファドから感じられる郷愁の感覚は、奄美のシマ唄の「なてぃかしゃや」の感覚に似たものがあるけれど、これはレコンキスタの結果、故郷を失ってしまったマラーノ達の悲しい歴史とも無関係ではないだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:13
レコンキスタの結果、キリスト教への改宗を迫られたバスク地方のユダヤ人の背景を持つザビエルが、プロテスタントに抵抗する反宗教改革の結果イエズス会を立ち上げて、アジア人をキリスト教に改宗させることに躍起になってしまったことは、私にはハラスメントの連鎖に思えてしまう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:18
ザビエルはトマスがインドで布教していたことを意識していて、日本での布教後にインドで息絶えたことを考えると、彼は自らの中にある東方性を探る中でキリスト教とトマスに出会い、そこに自らの存在を重ね合わせたのではないかと思えて来る。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:20
きっと孤独の中からしか、本来的な意味でユニヴァーサルなものは生まれないと思う。大衆的なものとは、決して特殊を通じてユニヴァーサルになったものではなく、特殊性を無視したローカルなコンテクストを全面に押し出すことで、究極的な他者の想定を欠いた、射程の狭いものになっている様に思われる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:24
部分から全体を眺めること。これこそ新たなゲシュタルトを導く不完全帰納法、すなわち学問の使命であり、パースのアブダクションに他ならない。ただ、これは大多数の人にはなかなか理解されないだろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:25
公理体系から思想を開始している人は、その外部にあるものを提示された時、自分の想定している枠組みが狭いことで捉えきれていないということに気付けない。そのことに私個人が本人よりも先に気付いてしまった時、その気付かない人にどう思考を促そうかどうか、いつも随分と悩んでしまう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:29
マイケル・ポランニーの「知は生を更新し、知を更新する」という言葉は、不完全帰納法の試みから新たなゲシュタルトを見つけて公理体系の枠を広げて行くという姿勢を指したものだが、これこそ芸術と純粋科学の役割だろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:30
暗黙知とは公理化できない帰納法的なもの、すなわち経験を指すが、あたかも顕在意識と無意識の様に、見え無いものの方が比重が圧倒的に大きい。これは公理体系を成す帰納法の世界の広がりを強調したものでもあり、フランス式庭園に対するイギリス庭園や、バークのピクチャレスクの思想と共鳴している。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:34
@sunaga_322 そうかもしれませんね。引き続き、考えてみたい所です。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:34
そもそも指示語によって指されるオブジェクトには、言葉の連想性が含まれていて、そこには身体性が含まれる。それを最大限にまで拡大するのがメタファーで、言葉の解釈を個々に委ねることで、その意味が最大限にまで広がる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:36
@miki8sato ちょっと思い出せませんが、またご一緒できる日を楽しみにしています!
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:37
言葉で表現できるものとは、謂わば回収されたもので、公理化されたもの。しかしその公理化されたものの根底を成す帰納法には、言語から連想される人間の身体性や、人類を生んだ今までの地球の歴史の全てが連続的に含まれる。これがアリストテレスやホフスタッターの謂う所の魂だろう。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:38
フッサールの正統な後継者はメルロ・ポンティとマイケル・ポランニーであって、その最悪の継承者がハイデガーだろう。デカルト、ハイデガー=部分、龍樹、スピノザ、パース、マイケル・ポランニー、フッサール、ヤスパース、チョムスキー=全体といった所か。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:39
マイケル・ポランニーやドラッガーを否定してしまう人は、演繹法から帰納法を捉えようとする愚を犯している。その逆で、帰納法からしか演繹法は導き得ず、それは「わたし」というフィクションの存在の想定から始まる理知主義はロマン主義に包括されるということになる。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:40
共感という言葉以上に重要なのは、「わたし」とは一つの世界の表れに他ならないと気付くことではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:41
他者性という言葉以上に重要なのは、わたしを取り巻く環境から他者の認識を可能とする自己が生まれていることに気付き、その環境と私をいかに一致するかだと思う。それができない人が、大文字の他者性という言葉を使って(レヴィナス研究者?)、自己と他者の線引きをしてしまうのかもしれない。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:42
マイケル・ポランニーの暗黙知はルナンのネーション内合意に似ていて、公理化できないものである。この公理化できないコモンローや良識、ネーション内合意にいち早く気付いたのが、アイルランド人のバークではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:45
すると「バークを殺す」を書いた植木枝盛はフランス革命の申し子で、それに対して経験主義からの緩やかな知を説いたのが、明治天皇の名の下に発行されるであろう欽定憲法(明治憲法)によって定められる民権を「恩賜の民権」と呼んだ中江兆民ではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年1月11日 - 23:46