Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

HP一気に更新、そしてオラファー・エリアソン展+木幡様

2005-12-25 19:53:33 | Weblog
最近原美術館でオラファー・エリアソンの展示を見てきたのだけれど、とにかくよかった。あれくらい高いレベルの展示を日本で見れる機会は少ないと思うので、見ていない人は要チェック!

今日はお世話になった芸大の木幡和枝様にご挨拶してきた。木幡さんといろいろと芸術談義をしたのだが、日本でこれだけ幅広く世界に開いている人はなかなかいないと思う。話はデレク・ベイリーからアニー・リーボビッツ、横浜トリエンナーレからローズリーのパフォーマそして沖縄まで、いろいろ話せた。私も近況が報告できてよかった。

その際、木幡さんは、昔の日本人が持っていた、失われつつある日本人の格(というか迫力または怖さ)について話してくれた。それが、今の人にはなかなか感じられない、という話を伺う。私も同感。そしてその怖さと、芸術の力のもつ怖さの様なものが一致しているのではないか、そんな話をした。

それと、ホームページを一気に更新した。マリーナ・アブラモビッチ展評「Seven Easy Pieces」@グッゲンハイム美術館まだ見ぬ他者を探して (12/15/05) や勝間陵賀くんの「パパがくれた招待状」完全公開、そして勝間陵賀アクションペインティング @ PS1をアップ。たまっていた分がやっとアップできたという感じ。どれも力作だと思うので、ぜひご覧になって下さい。

ジェネレーション・タイムズと中ザワさん

2005-12-23 01:22:13 | Weblog
今日のお昼は表参道のレストランで雑誌「ジェネレーション・タイムス」の伊藤さんと話し込む。伊藤さんはこの雑誌で正義感あふれる記事を展開しているのだが、その雑誌の特集記事についてお話する。その延長線上で発展途上国の問題や、憲法改正に関する談義などで話が弾む。非常に濃密な時間だった。

夜はNY時代の友人、アーティストの中ザワヒデキさん、写真家の谷邊さんと久しぶりに新宿で合流、話し込む。日本で中ザワさんと谷邊さんほどアートに対して真面目に思考している人も少ないのではないか、と思うほど硬派な美術談義で話が弾む。中国の印の時代の彫刻から、熊谷守一、横トリから杉本博司まで話が弾む。同時にネーションの問題や愛国心、憲法や20世紀の抱えたモダニズム問題まで、幅広く話せた。こういった話ができる友人に出会えたのは、やはりNYにいたからだろう。私は幸運だと思う。

不思議な偶然

2005-12-21 19:15:43 | Weblog
今日はnotosとatakをやっている梅沢さやかさんと昼食。音楽や社会の話などから、ATAKの主催で先日高橋悠治さんと茂木健一郎さんの対談「他者の痛みを感じられるか?」がICCにて開かれたのだが、その際の対談のことについて話が弾んだ。

茂木さんの議論は非常に構築的で明快なのだが、悠治さんの議論の展開は非常に反構築的で、意地悪とも理解されかねない問題であった。茂木さんが「私が理解する限りでは、」と切り出すと、「私が理解するとはどういうことですか?そもそも理解は可能ですか?また理解した自己は現在における自己とは時間的にずれているのでは?」という根源的な問いへと還元してしまう。また茂木さんが記憶について述べ、それをハードディクとメモリという言葉に置き換えて考えようとすると、コンピューター用語への置き換えを容赦なく批判していた。

コンピューターでは例えばメインのハードディスクと子機のハードディスクをマスターとスレイブと呼んでいるが、これは亡霊のようにヨーロッパの思想を包んでいる発想であると言えよう。そもそもラテン語的発想が個人所有、すなわち奴隷制の発生と密接に関わっている。またデカルトのコギトはラテン語(言い換えれば一神教)的発想であるが、それがそもそも主体が理解が可能であるという構造の骨格となっているだろう。悠治さんの「そもそも理解は可能か?」という問いはこういった点での質問なのだが、このインテリジェンスはクセナキスに師事していた60年代、その後のNY、さらにはアジアでの武者修行、そして一貫しているヨーロッパ近代批判の中で得たものなのだろう。

悠治さんの質問は面白いものだが、そういう質問をされると私も含め、困ってしまうだろう。と同時に、こういったインテリジェンスは理解され難い状況が現在の記号化した世の中にあるのだろう。そう、悠治さんは0と1の羅列の様な記号化した世の中(つまり理解できる((0))出来ない((1))に一石を投じたいのだと思う。

そんな話をしてから、森美術館で杉本博司を見て、六本木の喫茶店に向かうと、NYU時代の同級生のメリッサがコーヒーを飲んでいた。なんとも偶然なので話し込む。メリッサも自らのジュエリー作品のパブリシティを得ようと、必死なのだそう。そんな話が弾む、不思議な日だった。

ゼロ次元の加藤さん

2005-12-20 21:42:29 | Weblog
ゼロ次元の加藤さんと会う。今回は展示とは全く関係なく話をしに行ったので、非常にフランクな会話となった。私も加藤さんも芸術と社会の係わり合いをテーマとしている点で非常に似ており、そんな話をずっとしていた。

加藤さんに、私は社会的文脈の中に芸術を位置づけるのは得意だが、絵画などの芸術作品そのものの象徴的意味をくむのが苦手なのでは、と指摘され、それの克服方法として夢を日記として書き付け、それを解釈することを提案された。加藤さんはユングの思想に精通しているのだが、無意識から生成される夢は、夢を見る人のオリジナル・ストーリーであり、その無意識から出てくるシンボル的要素の意味解釈をする事が、絵画的な象徴的意味を理解する為の良いトレーニングになるのでは、との提案であった。その後、一緒にEric Fischelの画集を見ながら、絵画の中における象徴的意味について語り合った。

また、浅利篤、渋沢訳のバタイユ、丸山圭三郎の本を読むことを薦められる。早速、amazonにて購入してみた。何とかして読む時間を作ろう。

それにしても加藤さんは凄い人だ。これだけの格と知性を持ったアーティストが日本にどれだけいるのだろうと思う。

拝啓 池田孔介様 4

2005-12-19 16:59:51 | Weblog
池田様、皆様

> >”たとえば他者性に関する認識を広く伝えたいのであれば、他にもっと「効率
的」
> >な事があるのではないかと思うのですが。”
> >との事ですが、私は美術はもっとも有効な手段の一つだと思うのですが、何か他
にどんな手段がありま>すでしょうか?ご意見を伺わせて頂けますでしょうか?
>
>ストレートに政治に関われば良いのではないか、というだけことです。「政治的」
な美術をするよりはよほど「効率的」ではないでしょうか。

それでは、もう一度伺います。池田様のドゥボール評価と赤瀬川氏に関する評価につ
いてお聞かせ下さい。そして彼らの活動が美術の可能性を広げたのか、それとも広げ
ていないのか、さらにそれが効率的であったか(又は「効率的」であったか)お聞か
せ下さい。

>そもそも私がここで言おうとしたのは括弧付きの「効率性」の問題でした。しかし
渡辺さんは美術は「有効な手段」であると括弧なしに書かれており、おそらくはアイ
ロニー抜きにそのように考えられているのでしょう。改めて言えば、私には美術作品
を用いて他者に対する認識、あるいは政治的メッセージを発することがさほど「効率
的」だとは思えません。むしろそのような「効率性」を基礎とした議論には回収し得
ない可能性が確かに美術には存在し、名指し得ないそれをあえて示すならば「作品を
観る者の認識の深度にとっての相対物」となりうるものだと考えます。

括弧の議論を見た限りでは、池田さんは80年代以降の日本が抱えた悪しきポストモダ
ンの病理をひきずっている様に思えます。私は括弧を付けて語っても、最後には全て
括弧を外すべく努力しています。それが行動するということであり、可能性です。池
田さんは括弧にくくるのは得意かもしれませんが、私は括弧を外していくのが得意な
のです。括弧にもくくらずにどう外すのか、と突っ込まれるかもしれませんが。

>美術作品を用いて他者に対する認識、あるいは政治的メッセージを発することがさ
ほど「効率的」だとは思えません。
との事ですが、

ゴヤは?ドフトエフスキーは?三島は?ドゥボールは?ジョン・レノンは?ヒルシュ
ホーンは?ボブ・マーリ-は?ベートーベンは?ヘミングウェイは?彼らは芸術の力
で世界を変えてきたでしょう。彼らの芸術作品は「効率的」ではなく、「作品を観る
者の認識の深度にとっての相対物」が存在して、それが世界を変えてきたのかもしれ
ませんが。私は、少しでも世界を変えていきたいと思ってやっています。

>さらに言えば、そのような認識の深度は上滑りする饒舌な解釈の量によって計りう
るではなく、むしろ解釈・意味作用から逃れ去る亀裂を作品に見いだす所でこそ成さ
れる。作品が意味に留まり続けるのであれば、そもそも作品など作る必要がない、単
にその意味を述べれば良いだけでしょう。今展のレヴューでは、そのような意味によ
る囚われから逃れてゆく力動性を赤瀬川氏の作品に見いだしたつもりです。

池田さんの指摘は分かりました。丁寧に説明して下さり、有難く思います。展示会場
にいらして下さった飯村隆彦様が「赤瀬川の作品以外は何なんだ」とおっしゃられま
したが、飯村様の指摘も池田さんの指摘と近かったのかもしれない、と思います。

> >映画は難解な場合が多いですからね。池田様が指摘したソンタグの反解釈の文脈
で捕
> >らえると、ソンタグは反解釈の中でロブ・グリエの小説を評価していましたが、
確か
> >ロブ・グリエはどこかで、「去年マリエンバードで」は100の解釈が可能だ、

> >言っていたのを読んだ記憶があります。そう考えると、その細部も解釈の可能性
であ
> >り、「反解釈」はあくまで言葉のあや、すなわち池田様のルームメートの様なベ
タな
> >解釈ではなく、もっとメタな解釈を細部で行え、という事だったのかもしれませ
ん。
>
>このような言い方は単に間違っているか、さもなくばあまりにも単純化されており
受け入れられません。私はソンタグが精密な言葉を用いて議論を展開した理論家だと
は必ずしも思いませんが、それを考慮してもここでの言葉の引き方は誠実性を欠いて
います。ソンタグがロブ・グリエを評価したこととロブ・グリエがそのような言葉を
述べたことを短絡的に繋いで「反解釈」は言葉のあやだとは、あまりにも暴力的だと
言わざるを得ない。おそらくここにおける問題は以下のような文面にも現れているよ
うに思えます。
>
> >そういう反論が出ることを予想していれば、徹底的にセイラの作品を擁護するべ
きで
> >した。池田氏の取りこぼしている細部(それは非常に「解釈」的かもしれません
> >が)、たとえば作品中に表れる、ボスニア語に訳されたニーチェの「エッケ・ホ
モ」
> >をどう読むのか、そういった点を述べるべきだったのかもしれません。
>
> >京都にて制作した5つのポストカードのうち、一つだけセイラのアイデンティ
ティ問
> >題をテーマとする旧作が登場したのものがあり、それがニーチェの「エッケ・ホ
モ」
> >のボスニア母語版の中にマンガ本を隠して読んでいる作品です。(ちなみにこの
マン
> >ガ本は、私がコンビニで少女マンガを買ってきて、それを二人で切り張りして作
りま
> >した)
> >http://spikyart.org/anotherexpo/sejla-sanj.htm
>
> >歴史上、ローマ帝国の属州としてエルサレムに派遣されていたイエス擁護派のポ

> >ティウス・ピラトゥスが、キリストに向かって「彼に死を」とは言えず、「この
人を
> >見よ」と言い放った訳ですが、その「解釈」もさまざまです。セイラは20世紀に
て唯
> >一包囲攻撃を受けた都市サラエボの出身ですが、この都市がセルビア軍(すなわ
ち東
> >方正教会教徒)に包囲攻撃を受けた理由は、19世紀におけるサラエボの支配者層
がト
> >ルコ人すなわち後のボスニアン・ムスリムであった事に尽きます。その為宗教上
の分
> >断が生んだナショナリズム戦争の際に、セルビア人がボスニア人ムスリム地域、
すな
> >わちサラエボ都市部を包囲するという状況が生まれた訳です。この状況は、少な
から
> >ずローマ帝国の属州としてエルサレムに派遣されていたイエス擁護派のピラトゥ
スの
> >状況と重なるでしょう。すなわち、一神教世界における分断の無理性です。私は
ネー
> >ション・ステート批判をこの展示にて行ったのですが、ネーションの分断そのも
のが
> >一神教世界の産物である事をここで示したかったのです。
>
> >またセイラの滞在場所に私がサラエボを選んだのは、京都とサラエボが歴史都
市、宗
> >教都市、さらには盆地構造と鴨川とミリァツカ川の地理関係が似ているという点
から
> >でした。
>
> >さらにセイラが芸者をテーマに選んだ理由は、セイラは当初芸者が売春行為を働
いて
> >いる人達だと勘違いしており、それが彼女がボスニア人として海外に出た際、頻
繁に
> >彼女自身が現地の人から受けるステロタイプイメージだった事から、アイデン
ディ
> >ティのクロスオーバーという点で、この作品の中でセイラ自身が芸者になって現

> >た、という経緯があります。観光という大衆消費活動の中で生産されるプロダク
トと
> >いう点、さらに絵葉書という、郵便という第三者的他者の介入といった点から
も、作
> >品評価をするべく訴えるべきだったと今になって思います。
>
>私にはこのような長々とした「解説」がすべて、上滑りした言葉にしかなっていな
いように感じられます。渡辺さんは「メタな解釈を細部で」行われているつもりなの
かもしれませんが、メタでもなんでもなく(しかしそれをベタだという語の使用も恥
ずかしい)、意味の水準で数多くの言葉を発しているに過ぎない。もしもこのような
意味の水準に対するメタレヴェルがあるとすれば、先に指摘したような意味作用から
逃れ去るような点、意味作用の亀裂にこそあるのでしょう。無論、このような亀裂も
またメタレヴェルに留まる訳ではない、意味作用から逃れ去る瞬間的な運動性がある
のみです。


メタレヴェルにすら留まらない芸術の可能性には興味があります。池田さんはどの
アーティストのどの作品に、そういった力を感じましたか?また、池田さんの作品に
はその力が入っているのか、興味の湧く所です。

最近、池田さんがマリーナ・アブラモビッチのグッゲンハイム美術館でのパフォーマ
ンス「Seven Easy Pieces」に関する批評文を書いたと伺ったのですが、私も先日、
その展評を書き上げました。今までのやりとりからお互いの美術に対する姿勢、考え
方の違いなどが分かったかと思うのですが、そこで、どうです?文章を同日に公開し
てお互いのHPをリンクしませんか?このmlに参加している人達も含め、私たちのアブ
ラモビッチ作品に対する「解釈」や「反解釈」が楽しめると思いますが、いかがで
しょうか?ご意見をお聞かせ下さい。それでは、また。


渡辺真也

拝啓 池田孔介様 via 富井玲子 様

2005-12-16 19:12:57 | Weblog
富井玲子 様

こんにちは、渡辺真也です。大変暖かいメッセージ、ありがとうございます。

>NYの富井です。
>理解が困難な場で、理解を作っていくことは私の仕事でもあるので、少し書かせて
ください。
>
>たとえば、寿司です。というかSushiです。
>私がアメリカに来たのは20年以上前ですが、その頃と今の寿司の普及度を比べると
雲泥の差があります。
>
>NYはSushi先進地域ですが、簡単にランチに非アジア系のデリで寿司を買えたり、
ホールフーズなどの高級スーパーでSushiをパックで売るのみならず、それこそカウ
ンターで食べさせたりするのは、隔世の感があります。
>(これは、コロンバスサークルのホールフーズ)
>あるいは、Sushiを出すレストランの経営や職人が日本人でないところも格段に多く
なった。Sushiに需要があるから、アジア系が積極的にSushiを売り物にする。
>
>むろんのこと、ローカルのハイブリッド商品で各種の巻物があり、私もカリフォル
ニア巻き(アボガド、きゅうり、かにかま)は好きですし、スパイダーロール(ソフ
トシェルクラブのてんぷらをまいたもの)は逸品と思う。

カリフォルニアロールはカリフォルニアの日系人がアメリカ人にスシを食べてもらお
うとの思いから、アメリカ人の気味悪がっていた海苔を内側に巻いて、そして食べや
すくしたという歴史があります。この歴史は非常に素敵なものだと思いますが、私は
そういった歴史を抜きにしても、カリフォルニアロールが単純に好きでして、もう完
全に寿司だと思って食べています。伝統も捏造だなぁ、と思いつつほおばっているの
ですが、マイアミで出てきたクリーム入りツナはさすがに許せなかったです(笑)

>ここまでくると、生の魚を食べないといわれていたアメリカ人が、洗練の証として
SushiやTempuraでない日本食まで食べるようになる。

本当にそうですね。エダマーミもちょっとしたオシャレな料理みたいになっています
し、アメリカのエリートは日本の食文化を理解することが文化エリートである様な現
象が確かに起こっていると感じます。

>もっとも、だからと言って、日本人が日本でピンからキリまである種々多様な日本
料理を味わうように、グルメのアメリカ人が理解して食べているか、はまた別の問題
ですが、要は、異文化理解に限らず、理解の困難なことを理解してもらうための戦
略、ということでしょうか。
>
>すこしづつ、分かるところを増やしていく、
>また、分かりやすいところからはじめていく。
>あるいは、何が理解の妨げになるのかをこちらが理解して、
>分かるようにもっていく。
>効率は、はっきり言うとそんなにはよくないです。
>
>私の経験で言うと、ハイレッドと赤瀬川は、表面的にはアメリカ人もとても面白が
ります。
>お掃除イベントなんか、本当にフルクサスの昔から大好きです。千円札事件も受け
ます。
>でも、それは入り口です。できればもう一歩突っ込んで、その背景にある日本の状
況まで分かってもらえなければ、本当にはお掃除や千円札の意味は分からないだろ
う。
>
>放置していても分かるようにはならないので、私はそれを理解してもらえるように
することを仕事にしてきました。

その点で富井様はまさにパイオニアと言えるでしょう。さまざまな気苦労があったこ
とと思います。

>その点では正直言うと、渡辺君がAnother Expoで赤瀬川の万博跡地の作品を出した
のは、アイディアはいいけれど、本当はアメリカ人によくポイントが分からなかった
のでは、
>と危惧しました。(私は、彼の企画案の段階から見ていました)。アメリカ人の
Expoの感覚(1939年および1964年のNY万博がそれ)と日本の70年万博の感覚は、まっ
たく違いますから。

私はNYでの展示会場の作品解説を頼まれた際、第一に赤瀬川氏の作品の説明から始め
ました。なぜなら、あまりにもテーマが難解と思えたからです。なかなか皆さん話を
最後まで聞いてくれなかった、という印象が正直ありますが、それでも頑張って一歩
歩みを進めていくのが、現代の歴史家、そしてキュレーターに残された可能性とは言
えないでしょうか?

>私の仕事は作家が作品を作ってくれた、その時点から言わば作品を引き取って始ま
ります。
>
>渡辺君もどこかから始めなければ始まらないので、Another Expoで対話する始まり
をつくったのだと、その点は評価しています。
>
>池田さんのルームメートも、対話のきっかけが映画を一緒に見ることで始まったと
思います。
>
>共通の話題がなければ、先に進みませんから。
>
>もし、ルームメートが「念仏を唱え続けるたけしを、その後ろ付きのみ捉えるキャ
メラ、必要以上の長回しで撮られた、病院より引きずり出されるイギリス兵を捉えた
シーンの持続性を見ないとすれば」、むしろ、私なら、それを話題にして、それを見
直してもらえる、さらに考えてもらえるようにすることを狙います。

非常に構築的な考えだと思います。同感です。

>ルームメートは、自分の分かるところから会話を始めているのでしょうから、それ
はそれとして、分かっていないところを指摘してもう一度(次の機会にでも)見ても
らう。
>(映画は細部が多いので、よい映画は何べんも見ないと、デテールが見えないとい
うのは、私の目がザルだからだけではないでしょう、笑)

映画は難解な場合が多いですからね。池田様が指摘したソンタグの反解釈の文脈で捕
らえると、ソンタグは反解釈の中でロブ・グリエの小説を評価していましたが、確か
ロブ・グリエはどこかで、「去年マリエンバードで」は100の解釈が可能だ、と
言っていたのを読んだ記憶があります。そう考えると、その細部も解釈の可能性であ
り、「反解釈」はあくまで言葉のあや、すなわち池田様のルームメートの様なベタな
解釈ではなく、もっとメタな解釈を細部で行え、という事だったのかもしれません。


>映画にしても、美術にしても、
>イメージが見えるように提示されているからといって、
>誰もがきちんと見れるわけではなく、
>見れるように訓練教育しなければ
>見えてこない部分も多いように思います。

よく言われることですが、「ジャズの聴き方」という話にも似てきますね。私はジャ
ズの聴き方について話すやつはクソクラエくらいに思っているのですが、でも正直、
聴き方はあると思います。例えばスコット・ラファロのベースとビル・エバンスのピ
アノの絡みはジャズを聴いてこないと分からないと思いますが、それを説明的にして
しまうと薀蓄のように聞こえてしまい訓練に繋がらないというジレンマがあるかと思
います。難しい所です。

>というか、私は性善説ですので
>(つまり、分からない、見えないのは必ずしも、
>分からない人の罪ではない)
>訓練・説明すれば、いつかは見えるようになると
>信じて仕事をしています。

富井様、貴重なご意見、ありがとうございました。

渡辺真也

拝啓 池田孔介さま 3

2005-12-16 19:11:36 | Weblog
池田様、そして皆様

渡辺真也in東京です。ただ今一時帰国中です。帰国後さっそくとんこつラーメンを
がっついてしまいました。日本はご飯がおいしくて、いいですね。

早速ですが、お返事ありがとうございます。

>渡辺さま、皆様、
>
>私が書いた”another expo"展に関する批評に対して渡辺さんが反論された点につ
いて。端的に要約すると以下のような形になるでしょうか。
>
> >展示場所はニューヨークであり、ある種「解釈可能」な作品を持ってこないと、
あまりにも理解が困難>だと思えたからです。
>
> >池田氏は気をつかってセイラの母国語をセルボ・クロアチア語ではなく「母語」
と表
> >記してくれていますが、これはセルビアとクロアチアという地理的中間地点に置
かれ
> >た為に母国語さえ持てない民の悲劇と言えるでしょう。これも非常に「解釈」的
です
> >が、その解釈さえもままならない苦しい状況があり、それが現在の世界情勢を決
定し
> >ているのではないでしょうか?
>
>つまり、解釈可能な作品を持ってこなければ他者に対する理解が困難であるような
状況がニューヨークにあり、そのような状況を受け入れつつ何かを伝えるために解釈
可能な作品を選ぶのだ、と。これは、限定された範囲内で、ある限定された効果を生
み出すために有効な態度であり、非常に明快であることを認めます。と同時に、この
ような「限定性」を基礎とした「有効性」を考慮に入れるとすれば、美術の展覧会と
いう形で何かを伝える事がどれほど「効率的」であるのか疑わざるを得ません。たと
えば他者性に関する認識を広く伝えたいのであれば、他にもっと「効率的」な事があ
るのではないかと思うのですが。
>
>逆に言えば、美術作品を扱う限りにおいて可能性は別のところにあるのではないか
という事です。

美術作品を扱う限りにおいて、可能性は別の所にあるとのご指摘、ありがとうござい
ます。池田さんのおっしゃる通りです。私の様に政治がかった意図を持った展示は、
アートの可能性そのものを潰しかねない、という事は私も十分承知で活動しており、
その辺りは注意しております。

しかし同時に、アートはいろいろな分野に開かれていて良いものだと私は考えており
ます。科学領域に関心がある人がメディア/テクノロジー系のアートをやるのは、と
ても良いことだと思います。私の場合はそれがたまたま社会性/政治性を持ったもの
であっただけです。まあ、私の最大のメッセージは「戦争はいやだ」ということ、そ
して究極的には他者とは何か、というものでした。

池田様への一番最初のメールにて、ドゥボール評価と赤瀬川氏に関する評価について
伺ったのは、池田さんが彼らの活動をどの様に評価しているのか、そして彼らの活動
が美術の可能性を広げたのか、それとも広げていないのか、疑問に思ったからです。


また、
”>たとえば他者性に関する認識を広く伝えたいのであれば、他にもっと「効率的」
な事があるのではないかと思うのですが。”
との事ですが、私は美術はもっとも有効な手段の一つだと思うのですが、何か他にど
んな手段がありますでしょうか?ご意見を伺わせて頂けますでしょうか?


> >またセイラのポストカードについての作品ですが、準備期間が1ヶ月、来日から制

> >(企画、撮影、デザイン、プリント)まで2週間というスケジュールの下作られた

> >とも考慮して頂けたらと思います。
>そのような考慮をすることが、作品と向かい合う誠実な姿勢と言えるのでしょう
か。さらにいえばこのようなエクスキューズを述べる事によって、逆説的に、作品が
優れたものではないと渡辺さん自身が認めてしまっていることになるのではないかと
危惧するのですが。

そういう反論が出ることを予想していれば、徹底的にセイラの作品を擁護するべきで
した。池田氏の取りこぼしている細部(それは非常に「解釈」的かもしれません
が)、たとえば作品中に表れる、ボスニア語に訳されたニーチェの「エッケ・ホモ」
をどう読むのか、そういった点を述べるべきだったのかもしれません。

京都にて制作した5つのポストカードのうち、一つだけセイラのアイデンティティ問
題をテーマとする旧作が登場したのものがあり、それがニーチェの「エッケ・ホモ」
のボスニア母語版の中にマンガ本を隠して読んでいる作品です。(ちなみにこのマン
ガ本は、私がコンビニで少女マンガを買ってきて、それを二人で切り張りして作りま
した)
http://spikyart.org/anotherexpo/sejla-sanj.htm

歴史上、ローマ帝国の属州としてエルサレムに派遣されていたイエス擁護派のポン
ティウス・ピラトゥスが、キリストに向かって「彼に死を」とは言えず、「この人を
見よ」と言い放った訳ですが、その「解釈」もさまざまです。セイラは20世紀にて唯
一包囲攻撃を受けた都市サラエボの出身ですが、この都市がセルビア軍(すなわち東
方正教会教徒)に包囲攻撃を受けた理由は、19世紀におけるサラエボの支配者層がト
ルコ人すなわち後のボスニアン・ムスリムであった事に尽きます。その為宗教上の分
断が生んだナショナリズム戦争の際に、セルビア人がボスニア人ムスリム地域、すな
わちサラエボ都市部を包囲するという状況が生まれた訳です。この状況は、少なから
ずローマ帝国の属州としてエルサレムに派遣されていたイエス擁護派のピラトゥスの
状況と重なるでしょう。すなわち、一神教世界における分断の無理性です。私はネー
ション・ステート批判をこの展示にて行ったのですが、ネーションの分断そのものが
一神教世界の産物である事をここで示したかったのです。

またセイラの滞在場所に私がサラエボを選んだのは、京都とサラエボが歴史都市、宗
教都市、さらには盆地構造と鴨川とミリァツカ川の地理関係が似ているという点から
でした。

さらにセイラが芸者をテーマに選んだ理由は、セイラは当初芸者が売春行為を働いて
いる人達だと勘違いしており、それが彼女がボスニア人として海外に出た際、頻繁に
彼女自身が現地の人から受けるステロタイプイメージだった事から、アイデンディ
ティのクロスオーバーという点で、この作品の中でセイラ自身が芸者になって現れ
た、という経緯があります。観光という大衆消費活動の中で生産されるプロダクトと
いう点、さらに絵葉書という、郵便という第三者的他者の介入といった点からも、作
品評価をするべく訴えるべきだったと今になって思います。

> >池田氏はアーティストですが、行ったことのない国であるテーマの下、それに対
する
> >作品を1ヶ月で作れるでしょうか?
>一般論で申し訳ないですが、誰でも、どこにいようとも、どんなテーマであろうと
も、単に現代美術っぽい作品であれば20分で作れます。しかしそのようなものを
作っても時間の無駄なのですが。

時間の無駄、と言われてしまったのはとても心外です。しかし次回、私がアーティス
トと一緒に作品を制作する時がありましたら、さらにクオリティの高いものを作るべ
く精進したいと思います。

>P.S.
>今日はハーヴァードに「戦場のメリークリスマス」を観に行きました。イギリス文
学を研究しているルームメイトも行きたいというので僕は「イギリス文学をやってい
るアメリカ人と一緒に観に行くような映画じゃない」と言ったのですが、それでも来
たがったので一緒に行くことに。見終えた後、その彼と日本的形式主義の現れや、そ
れを理解し得ない欧米的合理主義との関係など、言ってみれば「他者」論に近い事を
話していました。とはいえ、このような分析は映画を見ながら誰しもが「考える」事
にすぎません、実際に僕もそのような事を「考え」てしまいます。しかしそのことに
よって取り逃がしてしまうスクリーン上の映像それ自体がどれほど多い事でしょう
か。念仏を唱え続けるたけしを、その後ろ付きのみ捉えるキャメラ、必要以上の長回
しで撮られた、病院より引きずり出されるイギリス兵を捉えたシーンの持続性を見な
いとすれば、それはこの映画を見ていないにも等しい、単に脚本を読めば良いだけの
事です。


池田さんの論点は以上の文章にて今までより少し分かってきた気がします。私のその
点に関しては同感です。神は細部に宿るとするのであれば、その神が戦メリに宿って
いるかどうかは疑問ですが。大島作品の中で比較するのであれば、青春残酷物語など
の方が見るべき点は多いかもしれません。

渡辺真也

拝啓 池田孔介様2

2005-12-14 07:12:34 | Weblog
池田さん、お返事ありがとうございます。私の方は昨日の深夜2時にようやくマイア
ミからNYに到着しました。作品を積んだ24フィートのトラックを2人で運転してNY
まで帰ってきたのですが、20時間以上の長旅になりました。さすがに疲れました
(笑)道中のジョージアやバージニアでは、田舎すぎてインターネットすら繋げな
かった為、返信が遅れてしまった事をお詫び申し上げます。

>何かを述べる前に渡辺さんの文章の中でクリアにしておきたい箇所が少し。

一点目、
>>ネーション・ステートという概念を持ってきた
>>時点で十分「解釈」的な展示になった(なってしまった?)と思うのですが、しか
>>し、その解釈さえもままならない状況が現にあるのではないでしょうか?
>「その解釈さえもままならない状況」とはどのような状況の事を指して言われてい
るので
>しょうか。

ネーション・ステートがどういう歴史を持っていて、現在の世界にどういう影響を与
えているかという現状すら理解されていない状況があるのではないでしょうか?つま
り、例えるのであれば多くのアメリカ人や日本人などがアメリカ人であること、日本
人であることに疑いを持っていないのではないでしょうか?国民国家の概念そのもの
が近代の産物であること、そしてネーションそのものが捏造であるということの「解
釈さえもままならない」状況があるのではないでしょうか?ネーションという象徴の
領域が資本と共に肥大化したことによって世界が変革してしまったのではないか、私
にはそんな風に思えます。

>もう一つ、
>>表現はディスクールを超えたところにあるでしょ
>>うが、表現の落とし所が、メタレベルで製作者と鑑賞者の間で存在するでしょう。

>>して、理解されていると仮定すれば、それはディスクールに回収されかねません。

>>こで到達しえないと感じつつも沈黙しないのがヴィトゲンシュタインのような批評

>>になるのでしょう。

の「到達しえないと感じつつ」というのは「何に」到達し得ないと(ウィトゲンシュ
タインが考えていると)渡辺さんは考えているのですか?

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例えばダイアローグが成立するのは、お互いの人間の間にて言葉の持つ意味がある程
度一致してからです。それと同様に、芸術表現も、ある程度のメタレベルでの一致が
ある上で成り立つのではないでしょうか?それはなかなか言語化しにくいものかと思
われます。

表現は語りえぬものである、と仮定した上で「語る」、というのが批評家の姿勢では
ないでしょうか。究極的には語りえない、究極的には共有できない、つまり”他者と
の間で完全な合意には「到達しえない」”と仮定した上で、ウィトゲンシュタインは
思考し、発言してきたのではないでしょうか?これはまさに他者論の領域に入ってく
るでしょう。

池田さんの返信、お待ちしております。それでは、失礼します。

P.S.
マイアミ・バーゼルの期間中は仕事の追われていて、結局バーゼルすら見れませんで
したが、あまりの規模の大きさに驚きました。来客者の半数以上が海外からとNYから
のお客さんだったのが印象的でした。

渡辺真也

拝啓 池田孔介 様

2005-12-06 16:09:39 | Weblog
こんにちは、渡辺真也 in マイアミです。ご丁寧な批評文
http://www2a.biglobe.ne.jp/%7Eyamaiku/honhon/lrr0516.htm
、ありがとうございます。キュレーターにとって、批評を頂くことは大変な喜びであります。

それでは早速ですが、池田氏の批判に対する反論を以下に述べます。

私はこの展示において、国民国家批判の延長線上で万博批判、さらには2つの大戦を引き起こしたヨーロッパ・モダニズム批判をするべく、あえて正攻法で勝負しました。また展示場所はニューヨーク
http://spikyart.org/anotherexpo/openingnyj.htm
であり、ある種「解釈可能」な作品を持ってこないと、あまりにも理解が困難だと思えたからです。私の展示は非常に「解釈」的であり、それは美術の良さそのものをつぶしてしまっているかもしれません。ネーション・ステートという概念を持ってきた時点で十分「解釈」的な展示になった(なってしまった?)と思うのですが、しかし、その解釈さえもままならない状況が現にあるのではないでしょうか?

池田氏は気をつかってセイラの母国語をセルボ・クロアチア語ではなく「母語」と表記してくれていますが、これはセルビアとクロアチアという地理的中間地点に置かれた為に母国語さえ持てない民の悲劇と言えるでしょう。これも非常に「解釈」的ですが、その解釈さえもままならない苦しい状況があり、それが現在の世界情勢を決定しているのではないでしょうか?(個人的には日本国内でも、阿部和重批判はその文脈でなされなくてはいけないと私は考えている)

また池田氏は「サラエヴォにおいて不運な歴史を目の当たりにしたマイノリティとしての彼女」と本文にて書いていますが、ボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてサラエボにおいて、ボスニアン・ムスリムの彼女はマジョリティに属します。
http://spikyart.org/nationstate/introductionj.htm
まあ、ユーゴスラビアという文脈で捉えればボスニアン・ムスリムは過半数に満たないマイノリティではありますが、それを言い始めると多数派のセルビア人も過半数に満たない人達です。まあこの言論そのものが非常に「近代」的な分断的考え方ですが、Beyond the Nation-Stateというテーマを持ってきた際、その文脈を考慮する必要があったのです。

そこで、池田氏の文章を「サラエヴォにおいて不運な歴史を目の当たりにした当事者としての彼女」と言い換えてみましょう。十分、「当事者」という、どうしても到達できない他者が経ち現れます。そこにおける想像は永遠に到達不可能であると同時に、可能性のあるものではないでしょうか。母国語ではなく「母語」しか持てないものが発する「夢」を考える事、それは十分他者論として成立するのではないかと私は考えます(それは池田氏にとって、セイラがサラエボ出身ということ以上に面白いものではないかもしれませんが)さらに私はプラットフォームという場を用い、ニューヨーク、沖縄、東京、京都、名古屋、北九州にて他者との溝を埋めるべく、対話を重ねてきたのです。
http://spikyart.org/anotherexpo/platformnyj.htm

芸術作品に対する「解釈」「内容」とキュレーションの「解釈」「内容」とでは異なるのかもしれません。別々に問いを立てることが必要なのかもしれませんね。つまり良い「内容」を持つ作品を集めて「解釈」が可能な展示を立てることがキュレーターの仕事なのでしょうが、ここでのキュレーターとしての私は「解釈」可能な作品ばかりを集めてしまったのかもしれません。その点は反省します。

と同時に、池田氏の赤瀬川評価は、「解釈」に陥っていないかどうか、疑問が残ります。例えば、池田氏の述べている”そのコピペは永遠とも思えるような反復性を獲得することとなるだろう、「以上、安保改定のたびに行う。」という宣言によって(*3)。”において注釈を付ける必要が出て来る様に、作品が十分解釈的ではないかと言えないでしょうか?この作品をアメリカ人に「説明」して、「理解」してもらうのがどれだけ大変だったのかを考えると、それはある種の同意における「解釈」ではないかと私には思えるのです。

またそもそも反解釈が方法さえ違えども、解釈の一種とも言えます。脳科学者の茂木健一郎さんがクオリアという言葉を使って説明しようとしているものも、一種の解釈、さらには文脈批判なのだが、果たして究極的に文脈批判は可能だろうか?記号化しない言語を探すのが詩人の仕事であれば、解釈されない「内容」で勝負するのがアーティストだと言えるでしょう。表現はディスクールを超えたところにあるでしょうが、表現の落とし所が、メタレベルで製作者と鑑賞者の間で存在するでしょう。そして、理解されていると仮定すれば、それはディスクールに回収されかねません。そこで到達しえないと感じつつも沈黙しないのがヴィトゲンシュタインのような批評家になるのでしょう。そして、その答えのない議論を進めたのがフーコーとデリダだったのではないでしょうか?それは位相さえ違えども、世界としては繋がっていると思います。

しかし、私の活動は果たして美術でやることか、と言われてしまえば困りますが、私は国民国家批判や、それを超克することは文化やスポーツ、アカデミズム等しかやれないと思っています。(ちなみに池田氏のドゥボール評価はどうなのでしょう?赤瀬川氏の活動は?)とは言え、形式と内容に関する指摘は概ね私も同意する所がある。反省します。

私は経済学を修めてから美術の領域に入ってきたのですが、その為か内容が「解釈」によってしまう部分があります。まさにソンタグが「反解釈」においてゆるやかなマルクス批判をしている点は注目するべき点です。と同時に、その延長線上にてソンタグが「反解釈」の名の下にレニ・リーフェンシュタールを「解釈」せずに「形式」に重きを置いて判断できたとは思えません。究極的に「形式」に重きを置くのであれば、かなり無垢で危険な芸術となるでしょう(いや、芸術とはそもそもそういうものなのかもしれないが、それを正面きってできる人はそういないだろう。ジジェクがレニを評価しているのは特筆に値する。)最終的にはバランスの問題になってきますね。(ちなみにソンタグがジャック・スミスのFlaming Creaturesにおけるレイプシーンを批評した際に、全く無意味なレイプシーンであることが素晴らしい、と評価したのは私はすごいと思っています。それをPCを用いて批判するのは全く的外れでしょう)

またセイラのポストカードについての作品ですが、準備期間が1ヶ月、来日から制作(企画、撮影、デザイン、プリント)まで2週間というスケジュールの下作られたことも考慮して頂けたらと思います。
http://spikyart.org/anotherexpo/sejla-sanj.htm
池田氏はアーティストですが、行ったことのない国であるテーマの下、それに対する作品を1ヶ月で作れるでしょうか?

非常に解釈的な反論(それは美術という領域において無効ともなりえる)となってしまいましたが、池田氏のコメントを求めます。

PS:展示制作中、アーティストが一つの大きなテーマ(この展示においては国民国家)の下一致団結して何か大きなことをやる、という時代ではないのかもしれない、そんな考えが何度も頭をよぎりました。そういった展示が最近あったでしょうか?ご存知でしたら教えて下さい。

渡辺真也