今日は一つ大発見があった。興奮した。
友人にインド人の仲間たちと一緒に食事をするから来ないか、と誘われ、行ってみた。インドのアッサム州のエコロジー観光を推奨する人達のグループで、いろんな会話に花が咲いた。友人がその中でも一際お偉方っぽい方を紹介してくれたので、私は調子にのってヒンディーで「メーラ・ナーム・シンヤ・ヘイ」と挨拶したのだが、伝わらなかった。すると、近くにいたインド人女性の方が、アッサムの人は通常ヒンディーは話さないのです、と教えてくれた。確か、マナ・ネーム・シンヤとか、アッサム語だとそんな感じになるらしい。インド・ヨーロッパ語というだけあって、ドイツ語や英語に大変似ている。
私は、サンスクリットに興味がある、という話をすると、そのインド人女性の方が丁寧にいろいろ言語と古典文学の歴史について話を聞かせてくれ、大変勉強になった。そんな中、私の名前シンヤは空(クウ、コン)を意味するシューニャと似ている、とヒンズー教の勉強をした姉に聞かされた、という話をして、シューニャはemptiness, nothingness,そしてbeginning of the circleという意味があるそうですね、しかし、私には、このbeginning of the circleという考え方が、なぜシューニャなのか分からないのです、と言った所、この女性は、そうです、すなわちゼロ、nothingess、beginning of the circleです、といって、何気なく親指と人差し指で輪を作った。
その瞬間、私の頭の中で全てが繋がった。そうか、このシーニュのbeginning of the circleという考えがゼロの根底にあり、beginning of the circleをビジュアル化したもの、すなわちbeginning of the circleがendした、サークル、すなわち0という記号だ、ということが一瞬にして頭をかけめぐった。
その後、この女性に0という数字の形は、このbeginning of the circleという意味が視覚化したものなのですか、と聞いた所、分からない、と答えられた。私の旦那はそういう話に詳しいから、と言って科学に詳しいという旦那さんを連れてきてくれたのだが、彼に聞いてみた所、そうです、0とは円環が閉じた部分という意味で、シーニャが視覚化したものです、と説明してくれた。
また、この指を輪にしたもので0を形作った、という状況がヒントを与えてくれた。なぜなら、10進法そのものが人間の指の和にコントロールされている、という身体のイデアの問題について考えていたので、すぐひらめいたのだ。
全ての空間において、線が発生した場合、その線は最終的にはその線自身と交わり、円となる。点は論理的に存在し得ず、点はどちらかと言うと0に近いものかもしれない。
ゼロとは、すなわち、その円環の発生と同時に、終着であり、それが0という形となっているのである。そこまで考えると、この考えがクザーヌスのcoincidentia oppositorum、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一と似ている、と考えられる。特にcoincidentia oppositorumは、co-incidenta opposito-rumと解体して考えると、そのまま当てはまる。全ては発生そのものに関係しているのだろうか。
さらに、ソシュールがサンスクリットのシューニャまで遡って拝借したシーニュ(記号、音現)とは、恣意的という意味である。すなわち、この線はどの方向に向かっても良く、その線は最終的には0を形作る輪となり、もはや線ではなくなるのである。また、ここまで書くと、以前書いたように、この空の思想は不一不二の思想に非常に繋がって来ている。そして、この不一不二の思想が、キリスト教的思想とかなり異なる根幹なのかもしれない。
ベルリンにて江沢健之助さんとチャールズ・サンダーズ・パースについての議論をした余韻さめやらぬ中での発見に、感動した。パースの言うように、アブダクションの実践あるのみ!
その語、そのインド人の女性に、あなたの名前がシンヤ、シーニャだとしたら、それを指摘してくれたあなたの姉の名前は何?と聞かれた。幸恵(さちえ)だ、と答えると、ではその方は、サーチェ、すなわち真実です、と言ってくれた。空と真実、私たち兄弟は、世の中の矛盾を解くにはピッタリの名前なのかもしれない。
(追伸:ヨーロッパでは、小数点以下を書き示す際にドットの代わりにカンマを使う為、アメリカ人との間で混乱を招きやすいが、ここにも何かヒントが隠されている気がする。なにか思いついた人がいたら、教えて下さい)
友人にインド人の仲間たちと一緒に食事をするから来ないか、と誘われ、行ってみた。インドのアッサム州のエコロジー観光を推奨する人達のグループで、いろんな会話に花が咲いた。友人がその中でも一際お偉方っぽい方を紹介してくれたので、私は調子にのってヒンディーで「メーラ・ナーム・シンヤ・ヘイ」と挨拶したのだが、伝わらなかった。すると、近くにいたインド人女性の方が、アッサムの人は通常ヒンディーは話さないのです、と教えてくれた。確か、マナ・ネーム・シンヤとか、アッサム語だとそんな感じになるらしい。インド・ヨーロッパ語というだけあって、ドイツ語や英語に大変似ている。
私は、サンスクリットに興味がある、という話をすると、そのインド人女性の方が丁寧にいろいろ言語と古典文学の歴史について話を聞かせてくれ、大変勉強になった。そんな中、私の名前シンヤは空(クウ、コン)を意味するシューニャと似ている、とヒンズー教の勉強をした姉に聞かされた、という話をして、シューニャはemptiness, nothingness,そしてbeginning of the circleという意味があるそうですね、しかし、私には、このbeginning of the circleという考え方が、なぜシューニャなのか分からないのです、と言った所、この女性は、そうです、すなわちゼロ、nothingess、beginning of the circleです、といって、何気なく親指と人差し指で輪を作った。
その瞬間、私の頭の中で全てが繋がった。そうか、このシーニュのbeginning of the circleという考えがゼロの根底にあり、beginning of the circleをビジュアル化したもの、すなわちbeginning of the circleがendした、サークル、すなわち0という記号だ、ということが一瞬にして頭をかけめぐった。
その後、この女性に0という数字の形は、このbeginning of the circleという意味が視覚化したものなのですか、と聞いた所、分からない、と答えられた。私の旦那はそういう話に詳しいから、と言って科学に詳しいという旦那さんを連れてきてくれたのだが、彼に聞いてみた所、そうです、0とは円環が閉じた部分という意味で、シーニャが視覚化したものです、と説明してくれた。
また、この指を輪にしたもので0を形作った、という状況がヒントを与えてくれた。なぜなら、10進法そのものが人間の指の和にコントロールされている、という身体のイデアの問題について考えていたので、すぐひらめいたのだ。
全ての空間において、線が発生した場合、その線は最終的にはその線自身と交わり、円となる。点は論理的に存在し得ず、点はどちらかと言うと0に近いものかもしれない。
ゼロとは、すなわち、その円環の発生と同時に、終着であり、それが0という形となっているのである。そこまで考えると、この考えがクザーヌスのcoincidentia oppositorum、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一と似ている、と考えられる。特にcoincidentia oppositorumは、co-incidenta opposito-rumと解体して考えると、そのまま当てはまる。全ては発生そのものに関係しているのだろうか。
さらに、ソシュールがサンスクリットのシューニャまで遡って拝借したシーニュ(記号、音現)とは、恣意的という意味である。すなわち、この線はどの方向に向かっても良く、その線は最終的には0を形作る輪となり、もはや線ではなくなるのである。また、ここまで書くと、以前書いたように、この空の思想は不一不二の思想に非常に繋がって来ている。そして、この不一不二の思想が、キリスト教的思想とかなり異なる根幹なのかもしれない。
ベルリンにて江沢健之助さんとチャールズ・サンダーズ・パースについての議論をした余韻さめやらぬ中での発見に、感動した。パースの言うように、アブダクションの実践あるのみ!
その語、そのインド人の女性に、あなたの名前がシンヤ、シーニャだとしたら、それを指摘してくれたあなたの姉の名前は何?と聞かれた。幸恵(さちえ)だ、と答えると、ではその方は、サーチェ、すなわち真実です、と言ってくれた。空と真実、私たち兄弟は、世の中の矛盾を解くにはピッタリの名前なのかもしれない。
(追伸:ヨーロッパでは、小数点以下を書き示す際にドットの代わりにカンマを使う為、アメリカ人との間で混乱を招きやすいが、ここにも何かヒントが隠されている気がする。なにか思いついた人がいたら、教えて下さい)