Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

大発見!ゼロはどこから来たか

2007-06-30 15:09:39 | Weblog
今日は一つ大発見があった。興奮した。

友人にインド人の仲間たちと一緒に食事をするから来ないか、と誘われ、行ってみた。インドのアッサム州のエコロジー観光を推奨する人達のグループで、いろんな会話に花が咲いた。友人がその中でも一際お偉方っぽい方を紹介してくれたので、私は調子にのってヒンディーで「メーラ・ナーム・シンヤ・ヘイ」と挨拶したのだが、伝わらなかった。すると、近くにいたインド人女性の方が、アッサムの人は通常ヒンディーは話さないのです、と教えてくれた。確か、マナ・ネーム・シンヤとか、アッサム語だとそんな感じになるらしい。インド・ヨーロッパ語というだけあって、ドイツ語や英語に大変似ている。

私は、サンスクリットに興味がある、という話をすると、そのインド人女性の方が丁寧にいろいろ言語と古典文学の歴史について話を聞かせてくれ、大変勉強になった。そんな中、私の名前シンヤは空(クウ、コン)を意味するシューニャと似ている、とヒンズー教の勉強をした姉に聞かされた、という話をして、シューニャはemptiness, nothingness,そしてbeginning of the circleという意味があるそうですね、しかし、私には、このbeginning of the circleという考え方が、なぜシューニャなのか分からないのです、と言った所、この女性は、そうです、すなわちゼロ、nothingess、beginning of the circleです、といって、何気なく親指と人差し指で輪を作った。

その瞬間、私の頭の中で全てが繋がった。そうか、このシーニュのbeginning of the circleという考えがゼロの根底にあり、beginning of the circleをビジュアル化したもの、すなわちbeginning of the circleがendした、サークル、すなわち0という記号だ、ということが一瞬にして頭をかけめぐった。

その後、この女性に0という数字の形は、このbeginning of the circleという意味が視覚化したものなのですか、と聞いた所、分からない、と答えられた。私の旦那はそういう話に詳しいから、と言って科学に詳しいという旦那さんを連れてきてくれたのだが、彼に聞いてみた所、そうです、0とは円環が閉じた部分という意味で、シーニャが視覚化したものです、と説明してくれた。

また、この指を輪にしたもので0を形作った、という状況がヒントを与えてくれた。なぜなら、10進法そのものが人間の指の和にコントロールされている、という身体のイデアの問題について考えていたので、すぐひらめいたのだ。

全ての空間において、線が発生した場合、その線は最終的にはその線自身と交わり、円となる。点は論理的に存在し得ず、点はどちらかと言うと0に近いものかもしれない。

ゼロとは、すなわち、その円環の発生と同時に、終着であり、それが0という形となっているのである。そこまで考えると、この考えがクザーヌスのcoincidentia oppositorum、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一と似ている、と考えられる。特にcoincidentia oppositorumは、co-incidenta opposito-rumと解体して考えると、そのまま当てはまる。全ては発生そのものに関係しているのだろうか。

さらに、ソシュールがサンスクリットのシューニャまで遡って拝借したシーニュ(記号、音現)とは、恣意的という意味である。すなわち、この線はどの方向に向かっても良く、その線は最終的には0を形作る輪となり、もはや線ではなくなるのである。また、ここまで書くと、以前書いたように、この空の思想は不一不二の思想に非常に繋がって来ている。そして、この不一不二の思想が、キリスト教的思想とかなり異なる根幹なのかもしれない。

ベルリンにて江沢健之助さんとチャールズ・サンダーズ・パースについての議論をした余韻さめやらぬ中での発見に、感動した。パースの言うように、アブダクションの実践あるのみ!

その語、そのインド人の女性に、あなたの名前がシンヤ、シーニャだとしたら、それを指摘してくれたあなたの姉の名前は何?と聞かれた。幸恵(さちえ)だ、と答えると、ではその方は、サーチェ、すなわち真実です、と言ってくれた。空と真実、私たち兄弟は、世の中の矛盾を解くにはピッタリの名前なのかもしれない。

(追伸:ヨーロッパでは、小数点以下を書き示す際にドットの代わりにカンマを使う為、アメリカ人との間で混乱を招きやすいが、ここにも何かヒントが隠されている気がする。なにか思いついた人がいたら、教えて下さい)

私がアメリカに残ろうと思った理由

2007-06-29 10:05:25 | Weblog
ヨーロッパからNYに帰ってきてから、どうしてもヨーロッパとアメリカを比較してばかりいる。それ自体はとても健全なことだと思う。しかし最近、友人に誘われてミートパッキング・ディストリクトのホテルにあるルーフバーに行き、そこから街を見ていたら、NYがとても嫌に思えてきた。そこから見えるコンドミニアム群、そしてそこに溜まっているヤッピーに我慢がならなかった。ベルリンには、コンドもなければヤッピーもいない、その代わりに資本もない、と比較してばかりいる。

私がアメリカに留まった理由はいくつかあるが、アートマーケットがあること、アート系の仕事が得やすいこと、そしてもうちょっとNYで勉強したいと思った等多くの理由があるが、そんな中で最大の理由は、お世話になったアメリカ人そしてアメリカにお礼がしたい、ということだった。

私はアメリカで教育を受けたし、私の活動はそこから来る点が圧倒的に多い。私は三浦カズは完全にブラジルの才能だと思うが、私にもしも才能があるとしたら、それは日本的なものではなく、アメリカ的なものだと思う。それを生んでくれた地に返礼したいのだ。

例えば、私は19歳の時に初めてアメリカに来た際、ペンシルバニアのヒッピー家族の家にホームステイをしながら英語を勉強したが、私はここで無償の愛を受けたと思っている。本当にオープンな家庭で、息子同然の扱いを受けて育ててくれた。

家に着くと、If you want to smoke, you smoke. But don't do it too much.と言って笑う全身毛むくじゃらのホスト・ファザーのレアードを見て、この人は本当に素敵な人だと思った。こんな親父は日本にはまずいないだろう、と思った記憶がある。レアードとは本当に仲が良く、夜も毎晩のようにいろいろお話をした。神道のこと、ギブミー・チョコレートのこと、旅のこと、人生のことなど、本当にいろいろだ。日本の戦後の話になった際、私がギブミー・チョコレートの歴史を話そうとしたのが、その際レアードがI will give you chocolate.と言ってキスチョコを山盛りにしたお皿を持ってきたことが、忘れられない。

オーディオマニアで、一緒にビル・エバンスの音楽を聞いて、それだけで場が持った。怒るときには徹底的に怒られたし、褒めるときには徹底的に褒められたし(ここが重要!非常にアメリカ的だと思う)、もう、これは愛としか言い様のない無償の愛を受け、素敵な日々を過ごした。ホストブラザーのグラントとも本当に兄弟のように過ごしたし、本当にお世話になった。

日本に帰る為、ニューヨークに向けて出発する日に、不在のレアードの奥さんのジュディから、アングルの「クリスティーナの世界」のイメージが描かれたメッセージカードをもらった。その中には、レアードからのメッセージが書かれていた。「シンヤの為に画集をプレゼントしようと思ったのだけれど、こんな田舎ではあたなにぴったりの画集が探せなかった。だから、ニューヨークに着いたら、MoMAであなたの一番好きな画集を買いなさい」という言葉と共に、20ドル冊が2枚テープで張られていた。私はそれを見た時、本当に嬉しくて涙がとまらなかった記憶がある。

そして、私はNYにてキュレーターになった。そんなお世話になったアメリカに、恩返しがしたい、とずっと思い続けてきた、ということが、ふとしたきっかけで思い出された。しかし、アメリカの現実を見ると、どうなってしまうんだろう、とやるせない思いになってしまう。この国の歴史の蓄積をまざまざと見せつけられ、私はもがき、苦しんでいる。

異常な円安から見る世界経済と憲法第九条

2007-06-25 14:42:20 | Weblog
つい先週まで私が滞在していたスイスのバーゼルから、円安が異常だ、という指摘が出ている。私もそう思う。日本の円の、そして日本経済のファンダメンタルは、ユーロと比べて遜色ない。問題は、ニクソン・ショック以降の兌換のなくなってしまったファンダメンタルの存在しない古い基軸通貨であるドルの価値の問題で、それにべったりと寄り添っている日本の政治経済の体質が問題なのだ。このままでは、日本は沈没してしまうのではないか、と思うほどだ。

以下に貼り付けた記事にあるLTCMの破綻は、突然なされたルーブル切り下げと関係していたが、このルーブル切り下げをLTCM初めとする各ヘッジファンドが予想できなかったことの背景には、西ヨーロッパとロシアとの確執が感じられる。つまり、このルーブル切り下げの決定を行ったのは、非西欧・反西欧の政治家たちであり、彼らのルーツはロシア、すなわちスラブである、ということだ。

ウクライナのオレンジ革命は、ルーブル切り下げによって損をしたのと同じ、西側の資本家によって引き起こされているが、彼らの最大の目当てはNATO軍の拡大、ユーロの拡大、そして西側へのエネルギー資源の確保である。しかし、今のウクライナを見る限りでは、あの工作はとても上手く行ったとは思えない。

逆に、現在の日本の円安は明らかにアメリカ経済を延命する為の工作の様に思えるのだが、どうだろう。

日銀の公定歩合の引き上げを先延ばしすることに対して日本国内からも反発が出ているが、これはもしかしたら壮大なインサイダー取引なのではないか、と思ってしまう。公定歩合の引き上げの先延ばしに対して、アメリカからの圧力が、見え隠れするのだ。

円キャリートレードがこれだけ公に認識されている今、日本国民全員がこの事態に対して、怒らなくてはならないと思う。お前ら、勝手に人様の国で金を借りて、それを勝手に使うんじゃないよ、って具合に。この日本のお金が、アメリカの株式の買い支え、そして大量の円からドルへの変換によって、異常なまでの円安になっている。この円安は、言わばアメリカ経済のファンダメンタルの弱さの現われそのものではないか。

そして、日本はドル建てでエネルギー資源を購入し続ける場合、日本はアメリカと運命共同体となるが、このまま円安のまま続いていくと、日本国民全員が不利益をこうむることになると思う。しかし日本の輸出を基調とする大企業たちにとって、この円安は望ましいことだから、円安是正の圧力もかからない。これでは、全てが魔のサイクルに入ってしまう。

さらに、シティバンク銀行の日興コーディアル証券の買収、そして三角合併の合法化により、外資系のファンドによって日本企業が買われる可能性が極端に高まった。資本の論理が徹底しているアメリカと日本の株式市場をパラレルして売買するのは、あまりにも危険だ。なぜなら株式の評価の基準そのものが異なっているからだ。江戸時代の日本にける金と銀の兌換率が異なっていることから、日本国内の金が海外に流出してしまった史実を思います。この円安の延長線上で買収が発生すると、本当に危険だ。そして、日本の政府機関や経済関係者はそれを理解しておきながら、黙認している。なぜなら、そういった発言は危険視されるからだ。これでは、全員が、インサイダーだ。日本国民も、被害者でありながら、傍観する、権力の側に立つことによって保身する、という情けないインサイダーとなってしまっている。

日本国憲法第九条を改正しようと圧力をかけてくる人達は、基本的に軍産複合体やアジアの不安定化によって利益を得るリアリストであると考えられるが、基本的にこういった諸事情で多くの政治的決定がなされていると思う。私も含め、国民一人一人が現実を見極める力をつけるべきだと思う。


 [バーゼル(スイス) 24日 ロイター] 国際決済銀行(BIS)は24日発表した年次報告で、最近の円安は「異常」だとし、円をショートにしている投資家は1998年の円の急騰を思い出すべきだと警告した。
 報告は「最近の円安は明らかに異常だ。根本的な問題は、円が大幅な上昇を許されないと一部の投資家が確信していることだ」とし、「円が対米ドルで2日間に10%超上昇し、キャリートレードを行っていた投資家が多額の損失を出した1998年秋を思い出すべきだ」と警告。
 キャリートレードは1990年代にも活発に行われていたが、98年のロシア財政危機とヘッジファンドのロング・ターム・キャピタル・マネジメントの経営破たんをきっかけに大規模な巻き戻しが起き、円が急伸した。

ドイツでの日々

2007-06-23 06:07:27 | Weblog
カールスルーヘからレンタカーを借りて、カッセルへと向かう。

今回、私は初めてヨーロッパで運転し、そしてアウトバーンを走ったのだが、その性能の良さに驚いた。車はたまたまカーナビが付いている車がなかった関係でBMWにフリーアップグレードしてくれたのだが、この車も凄い。アウトバーンでアクセルをベタ踏みしなくても時速220kmも出た。また、道路が本当に良く、車も安全運転を心掛けている人が多いので、時速200km出しても怖いと思わない。これは凄いなぁ、と思った。このスピードで走れば、カールスルーヘからカッセルなんてすぐである。

そもそもアウトバーンはナチの時代、軍事用飛行機が発着できるように設計されたことからナチの遺産とも言われているが、この遺産はドイツの経済発展にとてつもなく影響を与えたことと思う。最近、F1レースで日本車が勝てない、という話を聞くのだが、もしかしたら国民レベルで高速を体験していないのが理由なのかな、と思った。

カッセルでは、もちろんドクメンタ展を見るのが目的。5年前の前回、大学を卒業したばかりの私は展示を見て、キュレーターになりたい、という気持ちを強く持ったのである。

しかし今回のドクメンタ、正直、ガックリ来た。展示のテーマ、選ばれたアーティストとその作品、空間のデザイン、どれをとっても二流品だった。新聞に掲載されたレビューも散々なものが多かったようだが、それもうなづける。

展示カタログに書かれたキュレーターのステートメントも言い訳がましいものだったし、アーティストとその作品もなぜ?と思われるセレクションだった。ドクメンタがいわゆるマーケットからある程度距離を取って展示を作っているのは関心に値するが、アートの現状から距離を置きすぎてしまっては元も子もない。また、展示デザインがとにかく下手だ、という印象を受けた。これではドイツ美術全体の印象を悪くしかねない、と心配してしまいそうな、大変残念な展示だった。

その中でも、もちろんいくつか良い作品はあった。特に印象的だったのは、田中敦子の作品群である。田中敦子のピンクのタープの作品はぜひもっと世界に紹介してもらいたい、と思っていたので、ある意味ドクメンタのメイン作品として展示が実現したのは嬉しい。また、マーサ・ロスラーの作品群も良かったと思う。

今回のドクメンタの展示を見て、前回のドクメンタを担当したオクゥイ・エンヴェゾーがどれだけ優秀かが分かった。テーマや空間のデザイン、アーティストの選び方も絶妙だったと思う。オクゥイさんも会場に来ていて、去年のバーゼル以来だったので、挨拶してくる。アトミック・サンシャイン展についてもちゃんと話してきました。

またカッセルは田舎ということもあってか、意外と英語が話せない人が多く、ドイツ語の練習にはぴったりだった。さらに、ドクメンタの会場では、市原賢太郎さん、Peng Yu、Lin Yilin、恩田奈央さんらと多くの方と会って、いろいろ意見交換ができたのが良かった。

カッセルの後は建築展を見にミュンスターへと向かう。たまたまホテルが一緒だったアートフェア東京の辛美沙さんと、アーカスにてレシデンスをしていたアーティストのダグラスもミュンスターに一緒に行く予定だったので、車にて向かう。時間がなかったので、全ての彫刻をゆっくり回れなかったのが残念だが、要所は押さえて効率よく回れたと思う。とても魅力的な街、そして展示だったと思う。

ミュンスターの彫刻展は10年おきに行われるかなり大掛かりな屋外展示なのだが、その作品一つ一つが風景と一致しており、とても好感が持てた。特に良かったのは、マイク・ケリーのPetting Zooという作品で、彼は駅前の空き地全てを動物園に改装しており、観客が動物と触れ合う公園のようなものを作っていたのだ。ここまでやるか!というくらい大掛かりで、そしてクレイジーな作品で好感が持てた。

ミュンスター彫刻展のベストの楽しみ方は、この小さな町に2泊ほどして、自転車を借りて、一つ一つの彫刻全てを見て回ることだと思う。とても可愛らしいドイツの田舎町、そして森や芝生の上を自転車で走り抜けていったら、きっと気持ちが良いだろうと思う。

ミュンスターから今度は、ベルリンに向かう。ベルリンではもう一つの万博で一緒に活動したセイラ・カメリッチのアパートに泊まらせてもらう。アーティスト・イン・レシデンスの関係でベルリンに大変広く、そして綺麗なスペースを持っているのだ。セイラのアパートでいろいろ話をしていたら、道の前をジプシーのミュージシャン達が通り過ぎて行く。すると、近所のアパートに住んでいる人達が、ミュージシャンたちに向かって小銭を投げる。なんだか、ベルリンの部屋でセイラと一緒にいる時にジプシーの音楽が聞こえてくると、急に空間がサラエボに思えてきて、面白かった。

夜はミッテ周辺のレストランで食事。ひょんなことから、たまたま隣に座っていたドイツ人と会話が始まったのだが、その人達が坂茂さんの下で働いていた建築家ということが分かり、話が盛り上がる。かなり意気投合し、ここまでドライブしてきた、と言うと、じゃあ、私たちがナビをするからベルリンの建築めぐりをしよう、ということになり、夜のベルリンをドライブして回る。

ベルリンは本当に美しい町だと思う。私は心底この町が好きだ。ヨーロッパの歴史の集約が感じられる。ミッテのタハレス周辺がたった数年で大変ヒップな地域に大変身していて、驚いた。そして東側に回って旧共産系の建物の周りにくると、何だかドキドキする。そこを抜けて、路地の裏、運河に浮かんだ艀の上で、のんびりとカクテルを飲んで夜を過ごした。

次の日のお昼は、コータ・エザワさんの父に当たる言語学者の江沢健之助さんに会ってくる。さすが、思っていた通り豪快かつ、とてつもない方で、とにかく凄い話になった。話はいきなり記号論から世界史、国際政経など広範に及び、驚く。また、健之助さんが黒川紀章さんをドイツに紹介した人、ということを聞き、とても驚く。しかし、あまり時間がなく、十分な質問ができなかったのが残念。シーニュの問題、カントと9条についてもっと伺いたかっただけに、本当に残念だ。

その後、ミーティングの予定があり、ハンブルガー・バーンホフ美術館に向かい、キュレーターの方とお話する。生産的なお話ができて、良かった。

すごい偶然で、NYにてギャラリーで一緒に仕事をしていたレイチェルと美術館でバッタリ会い、そのままミッテまで一緒する。レイチェルはアメリカ人だがベルリンに長いこと住んでいたので、いろいろギャラリーやミュ-ジアムなどに関しても詳しく、大変助かった。一緒にハウプト・バーンホフ周辺を歩いて、私がどうしても購入したかったビルケンシュトックのサンダルを購入する。嬉しい。

レイチェルとお別れした後、夕方からホームレス・ミュージアムのフィリップに紹介してもらったアーティストのダーク・シュウィーガーと会って、情報交換。ダークは日本に住んでいたこともあって、9条についての造詣が深い。ドイツのNATO軍との関わりやグリーンパーティなどの関係について、いろいろと議論する。かなり深い議論になった為、喫茶店での3時間があっという間に過ぎていった。

その後アトミック・サンシャイン展に参加する予定のコータ・エザワさんのスタジオに伺い、新作「去年マリエンバードで」とパメラ・アンダーソンとトミー・リーをテーマとした作品を見せてもらう。このパメラ・アンダーソンの作品はバルセロナのループ・アートフェアで大賞を取ったらしい。いろいろ話をしたのだが、とにかく楽しかった。

コータさんと食事しながら聞いていて面白かったのは、デヴィッド・ツヴィルナーの祖父が言語学者で、そのアシスタントが健之助さんであり、コータさんのドイツ語の先生が健之助さんの教え子のドイツ人だ、という話を聞く。なんだか、すごい歴史の因果を感じてしまう。

次の日は、ベルリンにレシデンシーで滞在中の照屋勇賢さんと一緒に、ポツダム市にあるサンスーシ宮殿に行ってくる。ここも美しく、出るのはため息ばかり。ここのお土産屋さんでグミ菓子のHariboを楽しそうに掬う勇賢さんを激写!その後、勇賢さんの友人のエリさんとアンディとご一緒する。いろいろとベルリンのアート事情や生活事情を伺う。夜にはアンディが東ベルリンにある素敵なバーをいくつか紹介してくれて、勇賢さんと3人ではしごする。とにかく楽しかった。

最終日は、セイラと一緒にブランチを食べて、その後セイラがアーティスト・イン・レシデンスをしているDAADに伺う。ディレクターさんや関係者の方々と挨拶ができて良かった。その後、Unitednationsprazaに行ってマーサ・ロスラー・ライブラリーを見てから空港に向かう。

帰りにジーゲスゾイレの隣を車で走って空港まで行く途中、その美しさに感極まってしまった。私はベルリンが、そして、ドイツが本当に好きだ、と思った。またすぐここに帰って来たい。

バーゼル日記

2007-06-17 04:52:28 | Weblog
バーゼルでは、イヴォンヌとライフというアーティスト・カップルの家に泊めさせて貰った。けっこう古いスイス風の建物で、トイレとバスはこの建物に住む全ての人達で共同で使う形になっている。バーゼルの古い家屋は、地下室にお風呂場があるのが通常らしいのだが、苔の臭いのする、お化けが出てきそうな階段を地下まで下りていくと、洞穴の様なトイレやバスがひっそりと佇んでいた。(写真はその様子)トルコのカッパドキアにあるカタコンベを思い出した。

また、ヴェニスから9時間電車に乗ってバーゼルまで移動したのだが、そこに来る間に見たスイスの田舎の風景が日本のそれと似ていて、とても興味深かった。建物の雰囲気も、とても似ているのである。日本の場合、戦後のいわゆる文化住宅はアメリカのプロトタイプ的な住宅デザインの影響下に作られていった歴史があるが、スイスの住宅も、おそらくは戦後日本の文化住宅とほぼ同質の制度下に作られたものなのだろう。スイスも日本と似て戦前は貧しい国だったのだが、戦後急速に経済発展したという類似点が、都市の景観を似たものにしているのではないか、と思った。

初日はメッセにあるメインフェアを見て回る。今回は私はブーズでの仕事がないので、のんびりと鑑賞できた。

スイスにあるGalerie Tschudiというギャラリーが展示していたウェールズ出身のアーティスト、Bethan Huwsの作品がよかった。"On on Kawara"というビルボードや、ネオンで出来たデュシャンのビン立ての作品など、かなりコンセプチュアルなものが多いのだが、とにかくヴィジュアル的にも洗練されていて、上手い、という印象を受けた。

また、同じくTshudiギャラリーが展示していた、Niele Toroniというスイス人(イタリア生まれらしい)アーティストのミニマル・ペインティングが素晴らしかった。ちょっとリー・ウーファンを思わせる、シンプルかつミニマルなペインティングなのだが、カラフルな色彩が心地良かった。

また珍しい所では、クロード・カフンのヴィンテージの写真が2点出ていた所。とても貴重なものだと思う。作品のイメージは彼女自身のポートレートではないので、少し印象は弱いが、とてもよかった。また私の好きなブロータスや、ブラッサイの作品群が見れたのもよかった。この背中が女性の半身になっている作品なんて、本当にしびれる。こういう珍しいものを見ると、アートフェアも捨てたものではないな、と思う。とにかく、7時間みっちり作品を見て来ました。

また今回のバーゼルでは、何人か会うべく人に会って展示企画のお話ができたのが良かったと思う。特にアジアとヨーロッパの人達とネットワーキングができたのが大きい。(ちゃんと仕事してます!)

初日の夜は、は白石コンテンポラリーアートの白石さんや、Shugo Artsの周吾さんらと一緒に晩御飯を食べる。特に白石さんと一緒にゆっくりお話したのは初めてだったのだが、とても豪快な方で、大変楽しかった。また、いろいろと日本の現代美術の移り変わりなどに関しても、大変興味深いお話が聞けて、とても面白かった。

二日目は、サテライトフェアに当たる、ヴォルタとリステに向かう。ヴォルタは私が去年ブースを担当していたこともあり、大変居心地が良かった。しかし、ボルタではまだ体力が続いて大丈夫だったのが、リステを回っているときには、もう作品を見すぎて、アート中毒状態になってしまい、キツカッタ。ここ数日で、作品を少なくても5000点は見たと思う。感想については勘弁して下さい。

夜は部屋を借りるなどしてお世話になったイヴォンヌとライフと一緒に、スイスの伝統料理を食べに行ってくる。このレストランの雰囲気(アニミズム満点!)や食事など、本当に素晴らしく、スイスを満喫できた。その後、3人でライン川のほとりに座ってタバコをふかしながら、アートのこと、将来のこと、世界のことなど、いろいろな話をした。こういう仲間が世界中にいることは、私にとって大変な資産だなぁ、とつくづく思った。

朝、バーゼルに着いたばかりのチューリヒからやってきたパメラとトバイアスと朝食を食べながら、いろいろと情報交換をする。その後、私はカールスルーヘに向かい、レンタカーをピックアップし、カールスル-ヘにあるメディア・アートセンターであるZKMへと向かう。たまたまカールスル-ヘの駅で会った三潴さんが、ぜひ行ってみた方が良い、ということで行ってみたのだ。とても手の込んだ展示で、またまたお腹一杯。この日の朝食は、たまたまZKMで一緒になったトーマス・エルベンとインドのアーティストらとご一緒する。本当に、いろんな所でいろんな人に会うものだ。

ヴェニス・ビエンナーレ雑感

2007-06-13 17:32:58 | Weblog
初めてのヴェニス、そして初めてのビエンナーレなので、コメントが難しいが、雑感を書いてみたい。

ヴェニスでは、やはり多くの人と会ったのだが、特にクロアチアのプーラから、友人のヴァーニャが来てくれたのは嬉しかった。ヴァーニャは大学にて日本語を専攻したかったそうなのだが、クロアチアにて日本語を教える大学が無かった関係で、ヴェニスの大学に来たそう。

ヴァーニャは元ベネチアっ子だけあって、地元のことをよく知っている。歩いているだけでいろんな知り合いに会って立ち話が始まるのは、面白い。スプリッツェというカンパリと白ワインの炭酸カクテルを飲みながら街を歩いたり、広場でのんびりしていると、なんとなくヴェニスが見えてくる。トーマス・マンのヴェニスに死す、やカッチャーリのアーキペラゴ、さらにソフィ・カルのベニスをテーマにした作品群は、この街を歩き回ることで抜群に深まった気がする。

ヴェニスは京都やボストンと似ていて大学都市でもあり、多くの学生が住んでいる。私も地元で建築をやっている学生たちと仲良くなって一緒にご飯を食べたりしたのだが、ツーリストばかりの場所ではなく、彼らが行き着けで行くピザ屋やバーなどで食事ができたのが良かった。ヴェニスはどこに行ってもツーリスト・プライスでやたらと高いのだが、こういった学生が行くような所ではピザが1スライス1ユーロ、ハイネケンのドラフトが1杯2ユーロで飲めた。

それにしても、ヴェニスがこんなに大きな都市だとは思わなかった。そんなこともあって、移動に時間がかかる。ヴェニス市内で車に乗ることは違法であり、全ての移動はボートにて行う。さらに街が戦略上の理由から城砦として、あたかも迷路のように作られており、まっすぐ歩けない。これでは、移動に時間がかかる訳だ。そんなこともあって、ヴェニスでは一日に多くのことをするのは無理だ、と学生の人たちに教えてもらったのだが、その意味がよく分かった。

友人のキュレーターのビルタと一緒に街を見て回った際、ビルタの友人であるステファニーさんのベビーカーを運ぶのを手伝ったのだが、とにかく道がまっすぐではないし、階段だらけで移動が大変だった。ここで子育てしている女性たちは、どうやって移動しているんだろう、と心配になってしまう。ベビーカーは使わないのかもしれない。

また、配達人が思い荷物を運ぶ際は、階段の所まで来て、ヴェニス語(?)で階段の下で「配達人です、近所の皆さん、手伝ってください」ということを叫ぶらしい。そうすると、近所の人が数人出てきて、カートが階段を乗り越えるのを手伝うと言う。このヴェニス語というのがポイントで、この配達人は地元の人達以外には一切声をかけないらしい。そして、地元の人はあたり前の様に配達人を手伝う、といったコミュニティ意識が未だに存在していることを誇りに思っていると言う。

ヴェニスは、京都と似ていてヴェニス・ナショナリズムの様なものが大変強いらしく、京都に住んでいたヴァーニャによると、それは京都ナショナリズムよりも強いらしい。よく反グローバル化のデモみたいなものでイタリアの左派労働者がデモをやっているシーンを見るが、ヴェニスの町を見てみると、どうしてそういう傾向が生まれるのか、よく分かる。車や近代的手段というのをあえて選ばないことを貫いている人達にしてみれば、グローバル化が進んで街が変わっていくのは、耐えられないことなのだろう。しかし、そういった街に私のような外国人ツーリストが集まってしまうのは、ある種皮肉ではあるが。

ヴェニスに移民も多いらしく、お店をやっている中国人もよく見かけた。ちなみにヴェニス名物のマスクを売っているお店は、アルゼンチン人が多いらしい。ヴェニスでの成功を夢見て、アルゼンチンからやって来るらしい。しかも彼らはよくトレーニングされていて、マスク制作が上手らしい。日本に来ているモンゴル出身の相撲取りと、何だか似ている。

さて、本題のビエンナーレ。私は2日しかヴェニスにいなかったのだが、積極的に展示を見て回る。初日は、Giardiniにあるパビリオン館を見て回る。

一番大きなイタリア・パヴィリオンでは、多くの非イタリア人の作品を展示しており、非常に興味深かった。この外国人を自国のパビリオンで展示する、という傾向はどうやら97年のジェルマーノ・チェラント以降の傾向みたいなのだが、これは大変良いことだと思う。特にドイツ、日本、イタリアというファシズムを経験してしまった国家に関しては、ネーションに対して批判的であらざるを得ず、それが少なからず影響しているのだろうか、などと勘ぐってしまう。このイタリア館では、スペースを贅沢に使って、ジグマール・ポルケとリヒターの新作展示をしているのが素晴らしかった。そして、この2人の芸術家としての創作への意欲には、本当に驚かされる。しかし同時に、若手のアーティストと巨匠アーティストとの間が埋まっていないのではないか、という印象も受けた。(写真はポルケの新作の前で)

また展示に関して、一番気合が入っているなぁ、と思ったのは、フランス館のソフィ・カル。シャネルがスポンサーしていることもあって、すごい金がかかっていた。何よりも、空間デザインが素晴らしい。久しぶりに本当に凄い、と思う展示デザインに出会った。おそらく、この展示はキュレーター、空間デザイナーとアーティストが、相当時間をかけて作ったものだと思う。本当に勉強になった。また、ソフィ・カルのダブル・スクリーンの新作ビデオがなかなかよかった。

アメリカ館のフェリックス・ゴンザレス・トレスも良かった。っていうか、彼もキューバ人で、しかも無くなったアーティストなのに、どうして?という気持ちもあったが、とにかく良い展示だったので良しでしょう。

オーストリア館の建物は、本当に美しい。ゼゼッションにおける、あの退廃的かつゴシックな美しさを持つ芸術というのは、もう完全にオーストリアの専売特許だと思う。

逆に、私が一番見ていてキツカッタのが、イングランド館のトレイシー・エミン。私は彼女の作品がどうしても苦手なのだ。スペイン館の写真とビデオ展示も、ちょっと作品のレベルが国際展に追いついていない印象を受けた。また、セルビア館もガックリ来るものだった。セルビア、俺はお前の理解者なのに、どうしてこんな時代錯誤な展示をするんだい、そんな印象が残った。また、ルーマニア館が低予算ながら、面白い展示を作っていたのが印象的だった。

二日目はアルセナーレの会場に向かう。今回のキュレーターは、ニューヨーク大学のロバート・ストール。

展示コンセプトはちゃんとまだカタログを読んでいないのでよく分からないが、結構政治的な作品が多い、という印象を受けた。しかも、メタファーを使って政治を扱っているのではなく、直喩として扱っている印象を受けた。ブルガリア出身の、拳銃のインスタレーションの作品などが良い例だと思う。また、アフリカ出身のアーティストが多く、やはりアフリカ出身のアーティストが多かった前回のドクメンタに比べると、クオリティの高い作品が多い印象を受けた。

また個々の中では、フランシス・アイリスの作品とY.Z. Kamiというイランのポートレートを扱ったアーティストの作品が個人的に大変良かったと思う。また、ヴァリー・エクスポートの、のどちんこを撮影した作品が強烈で、あれは一度見たら忘れられない、トラウマになりそうなビデオだった。パフォーマンスと身体を突き詰めて考えていったアーティストがああいった表現に向かうのは、とても興味深い。

また、アルセナーレの外にも多くのパビリオンがあり、できる限り多く回ったのだが、エストニアのパビリオンは、とにかく素晴らしかった。何よりもコンセプトがまとまっており、シンプルかつ美しい展示となっていた。一人優れたアーティストがいるだけで、これだけ国のイメージが良くなるというのは、ベニス・ヴィエンナーレの影響力を考えざるを得ない。

キュレーターの友人ビルタが手伝っているアイスランド・パビリオンではこんな事があったらしい。アイスランドはエルフ等、アイスランドの精霊を扱った展示をしていたのだが、その中でインスタレーションの一部として本物の羊を展示していたそう。しかし、オープニング等のストレスからか、この羊が死んでしまったそうなのだ。この展示のオープニングの為にアイスランドから訪れていた祈祷士がこの羊の霊を成仏させようと、何度かエルフの口寄せによって死んだ羊の説得を試みたのだが、羊の霊は怒ったままで、成仏の気配を見せない。そこで、アイスランド・パビリオンの展示における水桶の水をずっと流しっぱなしにして、清める、という方法を取っているらしい。そんな訳で、パビリオン内は水浸しだったのだ。また、この祈祷士は、帰国の日を延期して、羊の霊をなだめることになったそう。こんな話が出てくるのも、いかにもアイスランドらしい。

今日からバーゼルだ。

ブンディスへのインタビューとハロルド・ゼーマンの武勇伝

2007-06-07 10:25:07 | Weblog
昨日はニューヨークのアーティスト・イン・レシデンス・プログラムの草分けとして知られるSOHOのロケーション・ワンにてアーティストのBundith Phunsombatlertのインタビューを担当してくる。その様子は近日中にロケーション・ワンのホームページにアップされる予定だ。

ブンディスはタイのバンコク出身のアーティストなのだが、インタビューの準備として大量のメールをやりとりしてきたのだが、このプロセスを通じて多くの点が見えてきたのがとても有意義だった。特にタイム・フレームに関する考え方をお互い共有できたのが良かった。

タイ語は言語構造の中に過去・未来の時勢が存在せず、基本的に全てのやりとりを現在形にて行う。すなわち、 I went yesterday, I go now, I will go tomorrowといった時勢が存在せず、I go yesterday, I go today, I go tomorrowとしかならないのである。私は言語が日常生活や外部に与える影響にとても興味があるのだが、タイに行った際に現地の人達とやりとりをした際に、時間の感覚が現在の延長線上にある、といった考え方に強い印象を受けた記憶がある。

ブンディスは最新作「English Lessons」という、白黒の画像を映し出すモニターを、テキストブックに見立てた本型のインスタレーションに組み込んだ作品を発表した。このモニターには英語を教える先生である黒人女性と、学生である、アジア・アフリカ・ヨーロッパの女性が映し出される。ブンディスは、モニターに映し出された1秒間に何コマも映し出されるイメージを、本に埋め込むことによって、何千何万というレイヤーとして視聴者に認識させることに成功した。

このブンディスの作品を語る際にどうしても必要なのは、「優しさ」である。英語を話す先生と、日常の出来事を英作文として発表する学生たち、そこに注がれたまなざしが、本当に暖かい。この優しさを「アジア的」と形容することに少し抵抗は感じられるが、センセーショナルな作品が多いアメリカの作品群において、圧倒的に「優しい」のであった。いつかまとまった文章を書いてみても良いかなぁ、なんて漠然と思う。


その後、アッパー・イースト・サイドのギャラリーで開かれた友人の双子のペインター、マーカスとレトの展示のオープニングに伺い、その後、イースト・ビレッジの彼らのアーティスト・イン・レシデンスのスタジオで飲み会になる。私はすっかりここの常連になっていて、この日は仲良しのリンダさんとサクラさん(俺が勝手にサクラさんと呼んでいる、髪を赤く染めた初老のスイス人アーティストがいるのです)とかなり話し込んだ。

リンダさんもサクラさんもハロルド・ゼーマンの親友で、特にリンダさんはゼーマンと同じ高校に通っていたらしく、当時の様子をいろいろ聞かせて頂いた。ゼーマンが人間的にとても素晴らしい人だった、という話は多くの方から聞いていたのだが、ゼーマンと付き合いのあった人から直接聞くととても興味深い。

リンダさんは高校でゼーマンの2歳下だったのだが、大変仲が良く、クラスメートや仲間たちはよくゼーマンの家に遊びに行ったそう。ゼーマンは高校生の時から展示を作っていて、実家である床屋をあたかもキャバレー・ヴォルテールの様に改造し、「ダダはダダでダダだ」というダダの作品展示をやっていたそう。床屋さんの革張りの椅子が重厚でかっこ良かった、と言っていた。

リンダさんは62年から女優としてNYにやって来たのだが、ゼーマンも同時期にNYへとやって来たそう。ゼーマンがNYで逮捕された!というニュースを聞いて際リンダさんは大変驚いたらしいのだが、その理由が「このクリスマス・ツリーは街を汚している」といってNYのショーウィンドーのツリーを破壊したかどで逮捕された、というのがゼーマンらしい。その際にリンダさんが警察に出向いて釈放を求めたそうなのだが、建物のそばで皆で「ゼーマン・ゼーマン・あなたはNYで何しているの~」と演劇仲間と一緒に歌ってから出向くと、ゼーマンは満面の笑みを浮かべて喜んでくれたそう。なんとも素敵な話ではないか。

その後、リンダさんが「最近のアートはヨーゼフ・ボイスのフォロアーばかりで詰まらない」と言ったのがきっかけで、いつも通りの大芸術論争が始まる。でも、こういった雰囲気があるのは、NYの外国人コミュニティの良い所だなぁ、と思う。