子供の頃から明石家さんまさんの番組を見ていて感じたのは、彼はテレビの前で番組を見ている視聴者の気持ちを常に考慮して番組作りをしてくれているということ。その傾向を一番強く持っている若手のテレビ人が、マツコ・デラックスさんだと思う。二人とも想像力に溢れた、とても優しい人なのだろう。
笑点の新メンバーや司会、ナイツがやったら相当面白いものになったと思うし、俺も見たいと思うんだけれどなぁ。
つい先日もエラスムスがきっかけで国際結婚に至ったカップルから話を聞く機会があった。アジアでも同様のプログラムで交流を深めることは可能だと思う。
欧州における反EUと右傾化は何を意味するのか(小野昌弘) - Y!ニュース bylines.news.yahoo.co.jp/onomasahiro/20…
ベルリン近郊にあるDDR時代の小説家Peter Hacksの別荘を友人が貸し切って誕生日パーティをやったのだけれど、その庭にプリアーポスの像が立っていて驚いた。こんなのを自宅に置いてしまう所が、小説家たる所以か(笑) pic.twitter.com/FdwOxEkw0p
ユングが分析した男性器を持つヘルメス像は、庭園と豊穣の守護神プリアーポスと同根のものだろう。そう考えると、何故両性具有のヘルマプロディートスがヘルメスから生まれる必要があったのかを理解し易くなる。
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スイス出身のジャズミュージシャンの方に、セロニアス・モンクに似たミュージシャンって誰がいる?と質問したら、ミッシャ・メンゲルベルクをお勧めされた。確かに彼の弾くピアノはモンクにとても良く似ていて心地良い。
Who's Bridge
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<トランプ氏>日本に核容認「言っていない」 軌道修正図る(毎日新聞) - Yahoo!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160528-… #Yahooニュース
平等院鳳凰堂に行った時、附属する博物館職員の方に「鳳凰に雌雄はあるのですか?」と尋ねると、「実在しない生き物なので雌雄はありません」と答えられて見事だと思ったのだけれど、中国だと鳳凰とは、鳳(雄)と凰(雌)のつがいで陰陽を表すという。また麒麟も麒(雄)と麟(雌)のつがいらしい。
五行説以前から存在していた鳳凰が五行に取り込まれると、四神の一つとして南と火を司る聖獣・朱雀と呼ばれる様になり、単独では鳳凰と呼ばれる様になった。中国の天文学、二十八宿のうち、南方の星、井、鬼、柳、星、?、翼、?が朱雀に相当する。
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気のせいかもしれないけれど、ベトナム語やタイ語などの東南アジアの言葉は、日本語の音に比べると「タチツテト」の音が強い印象がある。日本に来ると、この音が「さしすせそ」になる気がするんだけれど、ベトナム語やタイ語のできる人、どうでしょう?
孔子の言う中庸とアリストテレスの言う中庸(メソテース, Golden Mean)はほとんど同じ意味だと思うけれど、これら中庸とヘーゲルの止揚(Aufheben)の違いは、そこに運動というダイナミズムを認めるかどうかの違いではないか。
もしも民主主義以外の方法で中庸を取る方法を見つけられるのであれば、それは民主主義における決定システム、中位投票者理論と何ら変わらないのではないか。つまり決定システムという手段である民主主義自体を目標にするのではなくて、全体を治める中庸を取る方法を見つけることが重要ではないか。
プラトンが神話を排除したのは、神話の構造それ自体がアナロジーすなわち類似の思想(アナログ、一元論)であって、相違の思想であるイデア(デジタル、二元論)と相性が悪いと考えたからではないか?
古代ギリシャのアイスキュロスは、鉄器をスキタイ産と名付けている。これはタタールに起源を持つと考えられる出雲のたたら製鉄とパラレルの関係にあるのではないか?
研究すればするほど、ヨーゼフ・ボイスが宮沢賢治と三島由紀夫にどんどん被って来る。ボイスは極右と極左の融合からエコロジーと緑の党創建に向かったが、これは宮沢賢治と国柱会の関係に、またボイスが1967年に作ったドイツ学生党と、三島が1968年に作った盾の会も、とても良く似ている。
ヘーゲルの『歴史哲学講義』で、「ゲルマン民族はありのままの全体を受け入れる感覚を持っていて、それは情緒と名付けることができます。」と書いているのがとても興味深かった。この時に暗黙の了解としてゲルマン民族と比較されているのは、ラテン民族だと考えられる。
ヘーゲルの指摘する「ラテン国民は魂の奥の奥、精神の意識のうちに分裂を抱えこんでいる。ラテン国民はラテンの血とゲルマンの血の混合からなりたっていて、かれらの内部にはいつも異質なものが蟠っている」から、信頼の代わりに過酷な従属と服従の原理が支配するローマ帝国が生まれたのだろう。
「ローマ人の場合は全てが神秘的で二重のものとして表される。つまりローマ人は対象のうちにまず対象そのものを見て、次にその中に隠されているものを見る。ローマの歴史はこの二重像を抜け出すことができない。」「ローマ人は常に秘密と関わりを持つ」 ー ヘーゲル
ヘーゲルによると、ゲルマンの父系社会に比べて母系と言えるラテン社会の特徴は、ペルシャの様な血縁的な家父長制ではなく、土着性から離れた国家として強制的に作り上げたことにある。
ローマ創建者の兄ロムルスと弟レムスは狼によって育てられ、最後に兄が弟を殺す。家族の愛を知らずに育った略奪者から始まったローマは、自然な共同感情のない粗野な暴力をもって始まり、そこから生まれた家族関係に対して利己的な過酷さを強要する結果が、ローマの慣習と法律の基本的内容となった。
そう考えて行くと、ネイティブアメリカンの虐殺から始まったアメリカ合州国と、弟殺しから始まったローマ帝国の成立は、とても良く似ている。またイタリアは結婚の手続きが大変だと聞いたことがあるけれど、これはおそらくローマ帝国時代の習慣の名残だろう。
ベトナム人の名前「Thuy(トゥイ)」の漢字は「水」。「Thu(トゥ)」は「秋」、「Thi(ティ)」は「氏」、「Th?c(トゥっk)」が「淑」。ベトナム人に名前の漢字を聞いた時、お互い馴染みの音を中国語にあてたか…と推測しました。 twitter.com/curatorshinya/…
サミットで国家神道の中心「伊勢神宮」訪問はなぜだ? 安倍首相が改憲と戦前回帰を目論みゴリ押し lite-ra.com/2016/05/post-2… @litera_webさんから
東松照明写真展『光源の島』@ 新宿ニコンサロン 5/30(月)まで(最終日15時まで)
デジタル写真へ移行する以前の東松の光と色のヴィジョンを直接伺い知ることのできる写真群が展示されています。会期が短いですのでお見逃しなく! pic.twitter.com/UsfmVFKkGi
英語で床屋を意味するbarberはラテン語の髭(英語:beard)に由来すけれど、この髭という言葉は、ギリシャ人がBarbaroiと呼んだ、ギリシャ人から見て髭(barba)もじゃだったた外国人たちと語源を共有するものと考えられる。
ロシア人のバルバラという友人と話していて気づいたのだけれど、バルバラやバーバラという名前もbarbaroiに由来していて、古代世界ではエキゾチックな女性名が好まれたことから、4世紀のローマ世界にいた殉教者Saint Barbaraからその名が広がって行った様だ。
7月にワタリウム美術館で開催予定のナムジュン・パイク展の準備に向けて、6月半ばから7月末まで日本に一時帰国します。もしもユーラシア関連のレクチャーをさせて頂ける機会があれば全国どこでも(大阪周辺歓迎!)伺いますので、info@shinyawatanabe.netまでご連絡下さい!
女性の願いごとを一つかなえてくれることで有名な神社に行った時にも遠慮し、映画の中でこう言った。「かなうための人生じゃないから」
特集ワイド:死にゆく姿、みっともなくても見せる 宝島社の広告で話題、樹木希林さんの死生観 - 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20160…
中庸(Golden Mean)とは、反対対立しているものとの間に地平を生むことだろう。言い換えると、その対立を生んでいる極を取り除いて一つにすることであって、単純に中を取ることとは少し異なるだろう。
日曜日5/29にシンポ「住民投票のこれまでとこれから-小平住民投票市民アンケートからみえるもの」開催です。これは早稲田社会科学研究科の福地健治さんが論文として発表された小平住民投票を巡るアンケート調査結果を出発点に議論するシンポです
goo.gl/M7VK9O
「道路計画に住民の意思を反映させてほしい」という運動に対する市長、市役所、市議会の反応は政治学科出身の私でも唖然とするほど酷いものでした。自分は何も分かっていなかったと心の底から反省しました。住民運動に参加しながら、政治について考えてきた事の全てを最初からやり直すことになりました
とにかく政治・行政・政策を巡る通念を変えなければダメです。もちろんそれにはものすごく時間がかかるでしょう。時間がかかるのだから、時間をかけないといけない。そして形に残していくことも大切と考えます。本を書いたのはそのためです。
5月29日日曜日(1時半~)のシンポ会場、津田公民館ホールですが、吉澤和芳さんが作って下さったグーグルマップ載せます。
鷹の台から行くのがいいみたいですね。これは玉川上水沿いのとても気持ちのいい散歩道です。 pic.twitter.com/5GuTcbBYzo
沖縄で繰り返される悲劇。。。なのにこの国は。。。→首相、地位協定改定に消極的 reut.rs/20qsGPW @Reuters_co_jpより
高校時代の親友が、バンドBRAHMANのボーカルTOSHI-LOWと私が少し似ていると言ってビデオのリンクを送ってくれたのだけれど、確かに顔の感じが「少し」似ていると感じた。
BRAHMAN 「露命」MV
youtube.com/watch?v=6-Y6NQ…
G7サミット、有意義だとは思うが、ロシアや中国が参加していたら、より実質的な意義があったように思う。「G7」は世界の中での民主主義、自由主義陣営ということなのだろうが、その存在感が(残念ながら)低下している。いろいろな工夫をしないと、埋没する気がする。
デカルトが心身二元論に陥ったのは、信じることを抜きに考えることしか扱わなかったことで、五感と末那識という身体と自己の領域しか扱えなかったからではないか。考えることの底辺を成すのは心身を超えた魂の領域で、これを扱うことが信じること(=理解すること)の意味を考えることではないか。
カルマとは、連鎖や連続性を中心として世界を捉えた時に、主体に代わるものとして立ち現れるものだろう。だからこそ、カルマを背負った魂が肉体に宿ることで、それを今世で浄化する、という個体を超越した連続性としてのメタ主体として成立し得る。
ものごとを理解するということは、究極的には信じるというメカニズムと同じだ。なぜなら、ものごとの理解は公理体系だけでは不十分で、それを成り立たせているものを直感的に「理解する」(=信じる)ことで、初めて理解が可能になるから。
私は、私が幸せだと思う瞬間は何だろう?と真剣に考えて、幸せを感じる瞬間をつぶさに観察して来たのだけれど、その中で一番幸せ(嬉しい)だと感じたのは、学生にものを教えていて、なかなか理解してもらえなかった時、相手がフっと「あっ!理解できた!」という顔をした瞬間だった。
閃きの瞬間って、身体のみならず、いろんなものが繋がることで生まれるのだと思う。それらが繋がった時に、あたかも光のように、閃きが自らの中を駆け抜けるのだろう。
もしも超越論的なものがあるとしたら、それは公理による演繹と、経験による帰納を超えたものだから、個体を超えたものということになる。すると、もしも超越論的なものがあるのだとしたら、それを魂の領域と呼んでも差し支え無いのではないか。
閃きの瞬間って身体のみならず色んなものが繋がる事で生まれるのだと思う繋がった時あたかも光のように閃きが自の中を駆抜けるのだろう @curatorshinya 渡辺真也さん nikkeibp.co.jp/article/nba/20… 池谷裕二さん pic.twitter.com/leZYL4z3ED
錦織圭が戦う「アジア人への偏見」という見えない敵(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=2016… #Yahooニュース
人に「謝罪させる」って変な言葉だと思う。謝罪は、自分が悪かったと思うことを他者に自発的に伝える行為であって、誰かが他者に謝罪「させた」としても、それでは本来的な意味での謝罪にはならないだろうし、かえって両者の間に禍根を残すだけだろう。
アメリカが広島への原爆投下について「謝罪」が困難な理由の一つに、アメリカの訴訟社会という背景があると思う。つまり謝罪して自らの罪を認めることで、それに対する対価を求められるのではないか、という不安が、アメリカ人の国民的コンセンサスとして、どこかにあるのだと思う。
私の大好きなエドワード・ヤン監督の映画『ヤンヤン 夏の思い出』を見返していたら、いろいろと発見があった。時空を超えてパラレルに進行する生と死を描く豊穣な世界観が素晴らしく、そこに手塚治虫の影響が感じられた。またこの映画に登場する小さな奇跡は、きっとトリアーに影響を与えたと思う。
この映画の原題『Yi Yi A One and a Two』は、『一つと一つで二つ』くらいの意味で、テーマは身近な他者をめぐるめく世界だと思う。1と1ではなく、1と1が一つになって2になることの重要性を表現したものだと私は理解した。
主人公の父NJは若い頃、恋人だった音楽家の女性を、生活の不安から振ってしまう。しかしその女性が突然現れ、よりを戻したいと迫って来る。エドワード・ヤンの映画は音楽のセンスと使い方が素晴らしいのだけれど、このサントラは、音楽家であるヤンの妻が作曲したものだと知って、妙に合点が行った。
日台合作映画『ヤンヤン 夏の思い出』には日本人スタッフが多く関わっているのだけれど、その中でも特に、初めて見た時からとても印象的だった、ホテルオークラでのイッセイ尾形の演技が冴えていた。でも、もうあのホテルは映画の中にしか存在しないのかと思うと、とても残念な気分だ。
優れた作品って、その全てがどこかしら作家の自画像になっているのだと思う。
模倣犯のことを英語でコピーキャットと呼ぶけれど、コピーにはキャットの語感が、さらにキャットには犯罪の語感が含まれている印象がある。クリス・マルケルが死んだら新しいものに取り替えて飼い続けたエジプト猫ギヨームもそうだけれど、なぜ犬に比べると猫はコピーという形容詞がしっくり来るのか?
米国防長官「日本の司法で裁きを」 中谷防衛相に伝達 | 沖縄タイムス+プラス okinawatimes.co.jp/article.php?id… @theokinawatimesさんから
焔肩仏。肩から炎を吹き出す仏像。ヘレニズムの仏像の特徴。ゾロアスター教の影響。 pic.twitter.com/UkgQp7E83v
私はひとりで坐っているのが好きなのです。つまり、そういうひとりでいる瞬間を、できるだけ豊かにするために、ほうぼうを歩き回るのです。歩いて回るのは、つまりはもとへ戻って、またそこにゆっくり坐るためなのです。
『トレインスポッティング』続編、予告編が解禁 2017年1月本国で公開へ(クランクイン!) - Yahoo!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160522-… #Yahooニュース
沖縄の米軍女性殺害事件で本土マスコミが安倍官邸に異常な忖度! 読売は「米軍属」の事実を一切報道せず lite-ra.com/2016/05/post-2… @litera_webさんから
Darum gehen so viele Hollywood-Stars zu Netflix to.welt.de/3AlaKlu pic.twitter.com/2jddsIFDnR
合わせ鏡が危険だとされるのは、普段から主体だと思い込んでいる自分の視点の位置が移ることで、ゲシュタルト崩壊が起こりやすくなるからか。特に2の倍数だと反射の反射で向きが正位置になるので、観察している自己の立脚点が、自分の身体の位置か、鏡の位置なのかが分からなくなる恐れがある。
つまり合わせ鏡による無限の反復の中では、通常の主体というフィクションから観察する世界の立脚点が崩れてしまう。つまり鏡像にフォーカスすると、鏡の位置とそこに光として映り込む物の距離が2倍になり、フッサールの言う所の「動かない」はずの「地球」(=人間)が動いてしまう、と言えるだろう。
合わせ鏡の中にある鏡像にフォーカスすると、それを観察する自分の立ち位置がずれてしまう様な体験を逆に利用したのが、2つの図を寄り目で見ることで重ね合わせ、平面を立体的に見せようとする飛び出す絵本の仕組みではないか。
よく他者を自らを映し出す鏡に例えることがあるけれど、合わせ鏡においては、そこに精神を生み出す肉体が存在していない。意味の生まれる場所は主客の間に生まれる重なり合う場所だけれど、精神を持たない鏡が映し出すのは、思考の無い光だけの世界だ。道元の言う『古鏡』とは、こういうことだと思う。
人は目の網膜に反転して映ったものを脳で処理して生活している。すると人間の認識も網膜という鏡に映った虚像の様なものだと言える。人間が観測しているのは「もの自体」の虚像だとすると、フッサールの言う「超越論的な意識の構成」はいかにして可能になっているのだろうか?
鏡に映った像は実像の虚像なのか、それとも鏡に映った像は虚像で、それを認識する私の意識があくまでも実像であり、その実像が虚像と量子的に一致することで、世界は成立しているのか?
私は子供の頃、母の化粧台にある三面鏡で遊ぶのが好きだった。そこに移る自分の顔を沢山反射させようとより角度をつけると、光が入らず暗くなり、見えなくなってしまった。また大学生の時一度だけドッペルゲンガーを体験したことがあるけれど、それも鏡を覗き込んでいる自分の背中を見たのだった。
自己を主体として、自己へと再帰するものが意識(Geist=Mind)であり、自己を主体とせず、自己を通過してどこか遠くへ帰って行くものが魂(Seele=Soul)と言えるのではないか?すると意識は肉体から離れることができないけれど、魂は肉体から離れることができる。
ナーガールジュナの『中論』は、アリストテレスの中庸が、その教え子であるアレキサンダー大王の東方遠征によりヘレニズム文化として北方インドに齎され、それが現象学として発達する中で、恣意的なものの重なり合いが存在を生むという縁起の思想として大成したものだろう。
中庸とは、謂わば重なり合いが一番大きい場所ということになるだろう。この重なり合いが神道の言う真(ま)で、それがデカルト空間に回収された結果、日本近代に生まれたのが空間、いわゆる間(ま)だ。すると古来の「ま」は、虚数を含むデカルト空間以上の高次元を扱う形而上(空)間だったと言える。
南インドに生まれたナーガールジュナの『中論』がアレキサンドリアへと逆輸入されることで生まれたのが、プロティノスの『エネアデス』に代表されるネオプラトニズムだろう。だからこそプロティノスは、南インドに住んでいたナーガールジュナに会うべくローマ軍のペルシャ遠征に加わったのだろう。
ヤスパースの言う実存的「交わり」とは、量子の重ね合わせと同じ意味だろう。つまり他者との交わりの中で初めて意味が共有され、そこから存在が可能となる。これがナーガールジュナの言う空と縁起の哲学とも一致する。
つまり恣意的なものが意味する所の重ね合わせが100%一致しない限りは、存在の規定のずれから観測の違いが生まれ、M理論の様な状態を招くのだろう。この一致への試みは公理ではなく、直感的類推によるトライ&エラー、すなわちアブダクションしか存在しないのではないか。