7月以降、記事やコメントを書いていない時もアクセス数が大きく減っていません。
読んで頂き有り難う御座います。
●誤解を生まないために
犀の角のように独り歩め:日蓮を読めない“日蓮”
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51635380.html
犀角独歩日記/「漢文は、ルビを振って、現代語にすべきだ」には異論がある - GREE
http://gree.jp/8028711/blog/entry/299304350
私がよく書いているのだけれど、
「日蓮遺文や法華経解説など、わかりやすく人に教えるべき。」
というのがある。その方法の一つとして現代語訳を読む、というのがある。
上記2つのリンクと私の意見は勉強するアプローチが違っています。
ブログ立ち上げ以降、自分自身が脱カルトしていく経緯を振り返って感じたり、当ブログで荒らしに来た学会員、内部アンチ系サイト(ここでは便宜上アンチという言葉をあえて使う。)はったり特急、想学サロン、創価学会シンパ系サイト、様々に見ていて感じるのだけれど、、
池田先生が素晴らしい、すごい
創価学会が素晴らしい、すごい
日蓮が素晴らしい、すごい
御本尊が素晴らしい、すごい
創価などの正宗系信徒会員にとって上記の「教団から教えられた結論」からどうしても抜け出せないみたい。。。。
日蓮系教学については富士門流信徒のBBSやLibraさんのHPなどを読めば教団から教えられた日蓮像と実際は異なる事がよく分かるのだけれど、ある程度は「教団から教えられた結論」を疑っていないと頭に入ってこないのでしょう。
私も過去ブログ立ち上げ前に、LibraさんのHPを読んでも頭に入ってこない状態だったので。
●誰に対してどんな説明で断るべきか?
○ほとんど教学を勉強していない人、基本的な事を理解して無い人について
婦人部のおばちゃん達など創価学会員でも最近の会員のようにほとんど教学を勉強していない人にとっては脱カルトするなら富士門流信徒のBBSやLibraさんのHPでも十分な内容だと私は思っています。
上記2つのリンクと私の意見は勉強するアプローチが違っていますが、私の意見はどちらかというと創価学会のオジチャンオバチャン向け、一般の人に向けて書いています。私は特に創価公明問題で特に地方政治、中央政治共に公明党に大きな問題を感じているのだけれど、公明党の集票の原動力は創価学会のオジチャンオバチャンなので。
それと、創価などの正宗系信徒会員と結婚したパートナー、友人、恋人など、仏教や日蓮遺文をよく知らない一般の人が教団のアプローチを断る必要があるかと思います。
教団のアプローチとは選挙や新聞啓蒙、折伏(布教のこと)、ご供養(教団へのお布施)などです。
大学内などで学生が断るにも、あまり深い議論をせずに最初の段階で
””創価などの正宗系信徒会員が教える日蓮””の問題点。
これを指摘してきっぱり断るべきでしょう。(他の問題あるカルト教団も同じかと。)
地域の男子部、壮年部などの地区部長、本部長でも日蓮系教学で富士門流信徒のBBSやLibraさんのHPなどを全く知らないのでしょう。
知らないから幹部としてやっていけるわけです。
知っていても理解できない認識、認知の心理的な問題(認知的不協和)があるかもしれませんが。
””創価などの正宗系信徒会員が教える日蓮””
””富士門信徒BBSやLibraさんが教える日蓮””
これらは全く異なっています。
昔から創価学会の嘘を知っていたなら、男子部幹部になる以前に創価学会に所属している事自体が異常ですから。MCされている証拠な訳です。
上記、greeのリンクで犀角独歩さん、FBIさんなどは私のアプローチや目的をご存じだと思いますから誤解は生まれないでしょう。
○補足
FBIさんと様々にわたって会話させて頂いたのだけど、
「富士門信徒BBSにおいて脱カルト(創価、顕正会、正宗をやめるのに)必要十分な核となる議論はほとんど終わっている。」(主旨)
「日蓮信仰をしたい末端の信徒会員にとって富士門流信徒BBSを読めば、本尊や布施などの仏教のありかた、日蓮がした唱題など、日蓮の教えと教団都合の教えの間に「基本的な点で」大きな差異が「多数ある」ことがわかる。よって創価、顕正会、正宗をやめるのに必要十分な核となる議論はほとんど終わっている。」(主旨)
但し
「戒体など、細かい議論についてはまだまだ議論する余地がある。」(主旨)
という意見に賛成です。
○ある程度教学を勉強した人、あるいは教学を用いて人を傷つける人。
創価学会本部などのある程度上の幹部、正宗僧侶、ある程度上の法華講幹部などになってくるとやっかいかと。
日蓮真筆遺文の原文の全てをそのまますらすら読めて理解できれば問題ないのでしょうけど、なかなかそうはいきません。
日蓮真筆遺文の全ての現代語訳を読んだとしても概要をつかむのも大変です。
ところが折衷案というわけではないけど、犀角独歩さんが日蓮遺文の写真と遺文中、”特筆すべき”点を書いてくれています。
犀の角のように独り歩め:日蓮を読めない“日蓮”
犀角独歩日記/「漢文は、ルビを振って、現代語にすべきだ」には異論がある - GREE
教団都合、池田氏都合、日顕氏都合、浅井氏都合な””創価などの正宗系信徒会員が教える日蓮””像と異なる事が見えてくるでしょう。
ですので上記2つのリンクの意見について私も賛成です。
(但し脱カルトな方向に進んでいる人が議論に参加できると思います。)
http://gree.jp/8028711/blog/entry/313287137
日蓮墨筆を読む(16) 小乗小佛要文①
これもブログに載るでしょうからその時に改めてコメントなど転載をお願いするつもり。(マダァ?(笑))
ネットでもリアルでも教学を用いて人を傷つける人がいます。
私だけでなく色々な人様、他人様に嘘を教えて平気なのが池田大作氏。
竹入氏、矢野氏の裁判の様に人をいやがる事をして平気。平然。
トラブルを解決するのが宗教。トラブルを起こすのはカルト。
宗教教団を名乗りながら裁判沙汰を起こす状況なんて、そもそも創価学会も正宗も異常。
矢野氏の手帳裁判なんかを見れば分かるとおり、池田氏やその取り巻きは人格障害の可能性が高いか、どうしようもない性格の人々ということかと。
以上。
--------------------------------
'09/12/31
今後、「富士門流信徒BBS」や「日蓮法華 掲示板」の議論が不要だとか、難解な議論が不要だとも私は考えていません。むしろ詳細な議論内容は
”正宗僧侶トップ、学会トップ、K会トップに突きつけるためにも必要”
でしょう。批判材料であってもなくても、議論が無いより有ったほうが良いに決まっています。
富士門流信徒BBSの今までの議論は正宗、創価、K会などの教えと日蓮の教えとの差異や批判が見つかる意味合いが大きかったと思います。「日蓮法華 掲示板」という枠が広がっただけでなく、今後もちゃんと”原典を読む、原典に当たる”ということなされるでしょう。ですから、
批判だけではなく一般の人にも含めた大勢の人に向けた宗教的な発見や情報発信や会話も当然あると期待します。
現代人が納得できる日蓮教学スレや信仰は役に立つか?などのスレが大きな意味を持つと私は考えます。
犀角独歩さん、ご指摘有り難う御座いました。
なおアップ時から今日まで下記の私の意見は変わっていません。
犀の角のように独り歩め:日蓮を読めない“日蓮”
犀角独歩日記/「漢文は、ルビを振って、現代語にすべきだ」には異論がある - GREE
ですので上記2つのリンクの意見について私も賛成です。
補足
犀の角のように独り歩め:日蓮墨筆を読む(16) 小乗小佛要文①
小乗小佛要文で独歩さんとのgreeコメントやり取りは転載をお願いする前に消えてしまいました。
greeで独歩さんに教わった事を簡単に書くと、創価など正宗の主張してきた五重相対、五時八教は成り立たず、一代五時図や一代五時鶏図は(日蓮の考え方ではなく)天台宗の思想であり、小乗小佛要文の思想が日蓮の考え方だそうです。
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誤字脱字修正 '100214
読んで頂き有り難う御座います。
●誤解を生まないために
犀の角のように独り歩め:日蓮を読めない“日蓮”
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51635380.html
犀角独歩日記/「漢文は、ルビを振って、現代語にすべきだ」には異論がある - GREE
http://gree.jp/8028711/blog/entry/299304350
私がよく書いているのだけれど、
「日蓮遺文や法華経解説など、わかりやすく人に教えるべき。」
というのがある。その方法の一つとして現代語訳を読む、というのがある。
上記2つのリンクと私の意見は勉強するアプローチが違っています。
ブログ立ち上げ以降、自分自身が脱カルトしていく経緯を振り返って感じたり、当ブログで荒らしに来た学会員、内部アンチ系サイト(ここでは便宜上アンチという言葉をあえて使う。)はったり特急、想学サロン、創価学会シンパ系サイト、様々に見ていて感じるのだけれど、、
池田先生が素晴らしい、すごい
創価学会が素晴らしい、すごい
日蓮が素晴らしい、すごい
御本尊が素晴らしい、すごい
創価などの正宗系信徒会員にとって上記の「教団から教えられた結論」からどうしても抜け出せないみたい。。。。
日蓮系教学については富士門流信徒のBBSやLibraさんのHPなどを読めば教団から教えられた日蓮像と実際は異なる事がよく分かるのだけれど、ある程度は「教団から教えられた結論」を疑っていないと頭に入ってこないのでしょう。
私も過去ブログ立ち上げ前に、LibraさんのHPを読んでも頭に入ってこない状態だったので。
●誰に対してどんな説明で断るべきか?
○ほとんど教学を勉強していない人、基本的な事を理解して無い人について
婦人部のおばちゃん達など創価学会員でも最近の会員のようにほとんど教学を勉強していない人にとっては脱カルトするなら富士門流信徒のBBSやLibraさんのHPでも十分な内容だと私は思っています。
上記2つのリンクと私の意見は勉強するアプローチが違っていますが、私の意見はどちらかというと創価学会のオジチャンオバチャン向け、一般の人に向けて書いています。私は特に創価公明問題で特に地方政治、中央政治共に公明党に大きな問題を感じているのだけれど、公明党の集票の原動力は創価学会のオジチャンオバチャンなので。
それと、創価などの正宗系信徒会員と結婚したパートナー、友人、恋人など、仏教や日蓮遺文をよく知らない一般の人が教団のアプローチを断る必要があるかと思います。
教団のアプローチとは選挙や新聞啓蒙、折伏(布教のこと)、ご供養(教団へのお布施)などです。
大学内などで学生が断るにも、あまり深い議論をせずに最初の段階で
””創価などの正宗系信徒会員が教える日蓮””の問題点。
これを指摘してきっぱり断るべきでしょう。(他の問題あるカルト教団も同じかと。)
地域の男子部、壮年部などの地区部長、本部長でも日蓮系教学で富士門流信徒のBBSやLibraさんのHPなどを全く知らないのでしょう。
知らないから幹部としてやっていけるわけです。
知っていても理解できない認識、認知の心理的な問題(認知的不協和)があるかもしれませんが。
””創価などの正宗系信徒会員が教える日蓮””
””富士門信徒BBSやLibraさんが教える日蓮””
これらは全く異なっています。
昔から創価学会の嘘を知っていたなら、男子部幹部になる以前に創価学会に所属している事自体が異常ですから。MCされている証拠な訳です。
上記、greeのリンクで犀角独歩さん、FBIさんなどは私のアプローチや目的をご存じだと思いますから誤解は生まれないでしょう。
○補足
FBIさんと様々にわたって会話させて頂いたのだけど、
「日蓮信仰をしたい末端の信徒会員にとって富士門流信徒BBSを読めば、本尊や布施などの仏教のありかた、日蓮がした唱題など、日蓮の教えと教団都合の教えの間に「基本的な点で」大きな差異が「多数ある」ことがわかる。よって創価、顕正会、正宗をやめるのに必要十分な核となる議論はほとんど終わっている。」(主旨)
但し
「戒体など、細かい議論についてはまだまだ議論する余地がある。」(主旨)
という意見に賛成です。
○ある程度教学を勉強した人、あるいは教学を用いて人を傷つける人。
創価学会本部などのある程度上の幹部、正宗僧侶、ある程度上の法華講幹部などになってくるとやっかいかと。
日蓮真筆遺文の原文の全てをそのまますらすら読めて理解できれば問題ないのでしょうけど、なかなかそうはいきません。
日蓮真筆遺文の全ての現代語訳を読んだとしても概要をつかむのも大変です。
ところが折衷案というわけではないけど、犀角独歩さんが日蓮遺文の写真と遺文中、”特筆すべき”点を書いてくれています。
犀の角のように独り歩め:日蓮を読めない“日蓮”
犀角独歩日記/「漢文は、ルビを振って、現代語にすべきだ」には異論がある - GREE
教団都合、池田氏都合、日顕氏都合、浅井氏都合な””創価などの正宗系信徒会員が教える日蓮””像と異なる事が見えてくるでしょう。
ですので上記2つのリンクの意見について私も賛成です。
(但し脱カルトな方向に進んでいる人が議論に参加できると思います。)
http://gree.jp/8028711/blog/entry/313287137
日蓮墨筆を読む(16) 小乗小佛要文①
これもブログに載るでしょうからその時に改めてコメントなど転載をお願いするつもり。(マダァ?(笑))
ネットでもリアルでも教学を用いて人を傷つける人がいます。
私だけでなく色々な人様、他人様に嘘を教えて平気なのが池田大作氏。
竹入氏、矢野氏の裁判の様に人をいやがる事をして平気。平然。
トラブルを解決するのが宗教。トラブルを起こすのはカルト。
宗教教団を名乗りながら裁判沙汰を起こす状況なんて、そもそも創価学会も正宗も異常。
矢野氏の手帳裁判なんかを見れば分かるとおり、池田氏やその取り巻きは人格障害の可能性が高いか、どうしようもない性格の人々ということかと。
以上。
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'09/12/31
今後、「富士門流信徒BBS」や「日蓮法華 掲示板」の議論が不要だとか、難解な議論が不要だとも私は考えていません。むしろ詳細な議論内容は
”正宗僧侶トップ、学会トップ、K会トップに突きつけるためにも必要”
でしょう。批判材料であってもなくても、議論が無いより有ったほうが良いに決まっています。
富士門流信徒BBSの今までの議論は正宗、創価、K会などの教えと日蓮の教えとの差異や批判が見つかる意味合いが大きかったと思います。「日蓮法華 掲示板」という枠が広がっただけでなく、今後もちゃんと”原典を読む、原典に当たる”ということなされるでしょう。ですから、
批判だけではなく一般の人にも含めた大勢の人に向けた宗教的な発見や情報発信や会話も当然あると期待します。
現代人が納得できる日蓮教学スレや信仰は役に立つか?などのスレが大きな意味を持つと私は考えます。
犀角独歩さん、ご指摘有り難う御座いました。
なおアップ時から今日まで下記の私の意見は変わっていません。
犀の角のように独り歩め:日蓮を読めない“日蓮”
犀角独歩日記/「漢文は、ルビを振って、現代語にすべきだ」には異論がある - GREE
ですので上記2つのリンクの意見について私も賛成です。
補足
犀の角のように独り歩め:日蓮墨筆を読む(16) 小乗小佛要文①
小乗小佛要文で独歩さんとのgreeコメントやり取りは転載をお願いする前に消えてしまいました。
greeで独歩さんに教わった事を簡単に書くと、創価など正宗の主張してきた五重相対、五時八教は成り立たず、一代五時図や一代五時鶏図は(日蓮の考え方ではなく)天台宗の思想であり、小乗小佛要文の思想が日蓮の考え方だそうです。
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誤字脱字修正 '100214
>正宗系信徒会員の心理には「私はうるし千ばいに蟹の足一つも入れていない。」「私は究極の仏法を知っている。」「私は絶対的な仏法を知っている。」という前提があります。
簡潔に書くと、例えば、ですが。。。。
「謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」あたりの遺文を
自分自身がどの様に受け入れてどの様に他者他人に与えているか?問題です。
信徒会員は誰もが 「私は日蓮を信じている」、とは言うわけですが、
では、どんな受け入れ方や信じ方をしているのでしょうか?
遺文の解釈として、「「たった一つでも」嘘や間違いは許されない。」という主旨です。
可謬な人間としてのあくまでも”未来”への心構えとしての指針や目標なのか?それとも”過去”だけを問う絶対的な判断基準なのか?これだけでも180度違います。
少なくとも
信徒会員当人が「「たった一つでも」嘘や間違いは許されない。」点を ”受け入れている”*A
のが問題です。
(そもそも日蓮とその遺文自体に問題があるわけですが。)
1.
「謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」
という遺文を根拠として他者他人を ”慈悲を前提に説得した” 信徒会員は
教団都合な嘘が 「たった一つでも」 わかった時点で、信徒会員を止めるべきでしょう。(*Aが理由)
他者他人を”罵倒、誹謗中傷した”不健全な教団を受け入れた当人が日蓮信仰をするかどうかはその人次第かと。
自分の中に矛盾があったことに気がつかずに、教団を渡り歩くカルトサーフィンしなければいいのですが。。。。
2.
「謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」
という遺文を根拠として他者他人を 「たった一度でも」”罵倒、誹謗中傷した” 信徒会員、あるいは
教団都合な嘘が 「たった一つでも」 わかった時点で、宗教自体を止めるべきでしょう。(*Aが理由)
他者他人を”罵倒、誹謗中傷した”不健全な教団を受け入れるだけでなく、
他者他人を”罵倒、誹謗中傷した”人を池田先生が偉大な師匠とか日顕氏や日如氏を御法主とか
不健全な人を受け入れ、自身もマネする当人は、”罵倒、誹謗中傷すること” に満足や生き甲斐を感じているのでしょう。
客観的には依存であり、”罵倒、誹謗中傷したい、見下したい” という欲求や満足があるのでしょう。
自分が上から目線を持てないと満足できないか人間関係を保てないわけです。
自分の中に矛盾が生まれ病気になっても私は責任持てません。
不健全を理解できないから病気になるのか、病気だから理解しようとしないのか、両方なのかはケースバイケースなのでしょう。
信じる経文や師匠、遺文などの対象そのものの問題ではなく、対象との信じ方やアプローチ、他者への与え方やアプローチが問題です。
こんにちは
お返事が遅くなりすいません。
1.敵味方、攻撃
>敵を作りまくってどうするのかなぁ、というのが私の印象でした。いろんな人を攻撃するのは辞めた方がいいと思いますよ。
これについては誤解があると思います。
「敵」というキーワードについては白黒二極論的な敵味方な思考や言動は私が嫌っている点です。
この点はブログに何度も書いてきました。
但し、学会員などに理解してもらう為に、私自身が白黒二極論的な説明を敢えてすることはあります。
また「攻撃」というキーワードについても創価の罵倒誹謗中傷をブログで何度も否定しています。
敵を作りまくって、というのが私と誰のことなのか書かれていませんが、いろんな人の一人は春田の蛙さんのことでしょうね。
春田の蛙さんの件については 「春田の蛙さんからの攻撃や非難を体験した人でないとわからない」 という点があると思います。春田の蛙さんが「何をしたか?*1」はここでは記載し切れませんので書きません。
春田の蛙さんが正宗系信徒会員と衝突するのは仕方ないかもしれませんが、正宗系教団や信徒会員への批判者や相談者と衝突するのは明らかに問題だと思います。つまり誰とでも衝突して誰とでも衝突したままでしょう。
衝突したまま和解の意思表示もないでしょう。
このあたりは某教団トップと良く良く似ていると思います。
他者と衝突などの失敗について何の後悔も反省の意思表示がない、和解の意思表示がないのは非常に疑問です。
正宗と創価の衝突で池田大作氏、彼自身、「トップである私の力不足で会員に負担や迷惑がかかって申し訳ない。指導者として必ず説得、あるいは和解します。」という意思表示が皆無ですね。悪いのは常に自分以外の他人、他者です。
悪いのは自分以外の他人、他者であれば説得できるはずですでしょう。
日顕氏およびとりまきも学会員を 「切り捨てて満足を覚える」 非常に不健全な人間達です。
もう一つ私の意思表示を補足すれば、ブログに何度か書いてきましたが
私は今でも疎遠になった人とは ちゃんと話をして誤解を解くなり何なりしたいと考えています。
和解を求める人に無謬を求めていませんし、私自身も無謬ではありませんしこれからも失敗するでしょう。
学会員時代であればともかく、私は自身、ブログや他人様のブログでしたコメントで(*1)非難中傷される覚えはありません。
(仕事や人間関係の失敗はしますけど。)
敵を作りまくって、というのが春田の蛙さんでない場合ですが、これは池田氏や日顕氏、そのとりまきは本ブログ上での批判対象ですのでご理解下さい。
2.「教学」というものに対する理解は、表層的・浅薄
>そううそさんの創価学会や宗教というものに対する見方、「教学」というものに対する理解は、表層的・浅薄で、創価学会員を辞めました、というレベルにとどまっている
おっしゃるとおりです。
私は退会者ですが、カウンセラーや医者ではありません。研究者でも学者でもありません。
素人でもあり、またサラリーマンなので日曜しか時間がないとか、頭悪い(笑)とかあるかと。アハハハ。ヽ(^o^;)ノ
それと驚かれるかもしれませんが、もうひとつは「表層的・浅薄で、創価学会員を辞めました、というレベル」というのは私のブログの目標の一つでもあるのです。
理由
2-1.目的と状況が違う。
私のブログのおおまかな目的は正宗系信徒会員の退会か未活動、あるいは距離を置く、ということです。
信徒会員の状況として、「そもそも思考停止している人に表層的・浅薄でない教学は理解できない。」そう思います。
教学の初歩や根本的なところを書いて、心理学的に結びつけることが出来ればOKだと考えています。
「友人や家族などの愛すべき、大切にするべき他者、他人に嘘や怒りや恐怖を与えたいのですか?」というのがテーマです。
更に言うと心理学的でもなく、素朴な感情、一言が大事かと。
「宗教のアウトプットは人である」(主旨)というのはブログ開設後に頂いた素人のコメントですが、非常に名言で説得に私も使っています。
私もそんな一言から思考開始となったのでしょう。
そんな素朴な感情、一言から思考停止からexit(脱出、脱層化)していくのでしょう。
私のブログはまずは exitのきっかけみたいなもの で有ればいいと考えています。
ですからLibraさんHPや富士門流BBS、日蓮法華BBSがなくなると非常に困ります。
ですので、ハバネロ/みかんさんにも御指導を頂きたいと思いますので今後とも宜しくお願いします。
(exit(脱出、脱層化)出来る対象については先日独歩さんから4つの学問をご教示頂きましたが、退会者の私としては不足していると考えています。*2)
2-2.本当に表層的・浅薄でないものをもとめていいのか?
学会員時代の私の教学は非常に表層的・浅薄だったでしょう。
富士門流BBSで対等に議論や会話できる犀角独歩さんやFBIさんみかんさん達から見て浅いと思うのは当然でしょう。
(私はせいぜい質問や御願いが出来る程度です。(笑)ヽ(^o^;)ノ)
しかし、私にはその学会や正宗教学に完璧や無謬などを感じる全能感みたいなもの(不健全)があったと思います。
それともう一つ、真筆遺文である・無いにかかわらず、他者に対して以下のようなことを言った人は特に心理学的にきをつけるべきでしょう。
「何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法(ほうぼう=正しい仏法に背くこと)あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(曽谷殿御返事・御書1040頁)」
正宗系信徒会員の心理には「私はうるし千ばいに蟹の足一つも入れていない。」「私は究極の仏法を知っている。」「私は絶対的な仏法を知っている。」という前提があります。
ほんのちょっとの間違いも許さない、ほんのちょっとの間違いも他者、他人を見下す理由にして罵倒や誹謗中傷する
というその人の心理的な不健全です。これの前後、表裏には
「日蓮仏法を信じる自分は完璧、無謬である」「自分は絶対である」という全能感みたいなもの(不健全)が有る可能性が高いです。
富士門流BBSで対等に議論や会話できる皆さんは大丈夫でしょうけれど、
完璧でいたい
絶対でいたい
全能でいたい
そんな不健全な欲望や欲求がある人全員に、退会後も日蓮仏法を窮め尽くしたい、、、そんな完璧や全能感的な欲求は非常に疑問です。
私は医者でもなく断言できませんし、あくまでケースバイケースであり、その人次第だと思いますが、不健全な教団に属しながら健全さを持ち得た人なんて1割も5分もいないのではないでしょうか?
教団トップに至っては日蓮仏法を窮め尽くすなんて、その資格もないでしょう。
ですから「表層的・浅薄で、創価学会員を辞めました、というレベル」というのは私のブログの目標の一つなのです。
一つであり、1ケースであって絶対でも最終でもありません。
念の為再度書きますが、exit(脱出、脱層化)する過程において、必ず富士門流BBS日蓮法華BBSは必要ですのでハバネロ/みかんさんにも御指導を頂きたいと思います。
記事に書いたとおり両方、というよりも様々なアプローチ*2を必要としますので宜しくお願いします。
以下については私も賛成です。
-------------------------------------------------------
なにがいいたいのかといえば、教学というのは思想史だ
(中略)
解釈がなされていることがあり、良いと思いません。
-------------------------------------------------------
今後とも宜しくお願いします。
聖書の世界では、注をつけないのが普通なのですが、それでは予備知識の無い人にはなにもわかりません。だから最近は、サンパウロ刊行のフランシスコ会訳、岩波訳(荒井献とその弟子たちの翻訳)、日本聖書協会の新共同訳のスタディバイブル(ただし注は英語のザ・ラーニング・バイブル・コンテンポラリー・イングリッシュ・バージョン(米聖書協会)からのただの翻訳)、作品社の田川建三訳などがこれをやっています。
同じような作業を、日蓮遺文についてやる必要があるだろうとは思います。春秋社版、「日蓮聖人全集」(全七巻)は、そういう試みの一つでしたが、不十分ですし翻訳者によって出来不出来が大きい。また立正の宗学科の先生が訳したのがほとんどなので、特定の教団の教学にたった解釈がなされていることがあり、良いと思いません。
思想の文献研究をする際には、かならず原文にあたらないといけない。漢文にレ点やおくりがな、句読点がついていても、あてにしてはならない。それは編集者がつけたものだから。白文で、読まないとほんとうはいけない。読み手に寄って解釈が変わってくるから。その白文も誤植や抜け落ち、文章の入れ替わりなどが必ずあります。
だから、真蹟や古写本がある文献はそれを見た方がいいです。わたしは古文書が読めないし、古文書の写真版は異様に高いので、そこまではできませんが、犀角独歩氏がやっている作業は極めて重要な意義があると思います。
たとえば、聖書研究をする場合、神学者は翻訳で研究したりするばあいもありますが、ナンセンスなんです。新約聖書学者はかならず、ギリシア語原典にあたります。ネストレ=アーラントの校訂版ギリシア語新約聖書第27版というものを使うのが普通です。複数の古写本を校訂し、その異同がすべてわかるようにしてあります。
おなじように、日蓮の遺文について論文を各場合は『昭和定本 日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺 全4巻)をつかうのが常識です。これは漢文は漢文のままです。写本によって記述が違う場合は、欄外にすべて注釈がついています。学会の御書で論文を書いても笑われます。昭和定本はつねに改訂を繰り返しています。それでも問題があるので、根本的に作り直すという話になっています。
その昭和定本ですら、編集に問題がある、だから真蹟が残っているものは、写真からよまないといけない、というのが独歩さんの今の作業です。これはとても重要な作業なんです。
敵を作りまくってどうするのかなぁ、というのが私の印象でした。いろんな人を攻撃するのは辞めた方がいいと思いますよ。
それと、大変失礼な言い方になりますが、そううそさんの創価学会や宗教というものに対する見方、「教学」というものに対する理解は、表層的・浅薄で、創価学会員を辞めました、というレベルにとどまっているように思いました。
なにがいいたいのかといえば、教学というのは思想史だ、ということです。日蓮がいったことと日興が言ったことは違う。日蓮、日興がいったことと、日蓮、日興がいったと現在理解されていることは違う。日興門流、たとえば大石寺の教学も時代によって変遷している。六十八代ですので、大雑把にいって六十八通りの教学がある。(もちろん一人の人間の中で思想は変化していくし、大石寺住職以外の大石寺本末の僧侶・在家も思想をもち教学についての文章をかくので、六十八通りなんかではききません)
で、日蓮の遺文(御書)を読むに際して、わたしは春秋社の日蓮聖人全集(全七巻)を主に使います。これは書き下しと現代語訳が対照されています。しかし現代語訳はあまりあてにしません。なぜなら、訳す人によって解釈ってのは違うからです。必ず違います。
うちには日蓮の御書だけで8種類ぐらいあります。あと本尊抄の解説書だけで10冊以上あります。
>「山椒島」さんがお気に入りです。
私もです。
2ちゃんでは、「山椒島」さんがお気に入りです。
よく存じませんが(^^;)
そううそさんはカルト問題の、始の一歩で躓いていないか?
2009年12月27日19:03
--------------------------------------------------------------------
> 「富士門信徒BBSにおいて脱カルト(創価、顕彰会、正宗をやめるのに)必要十分な核となる議論はほとんど終わっている。」(主旨)
これはさらにひどい誤解である。
わたしは脱カルトの日本におけるオピニオンリーダー達と、共にしてきたが、そうした規模から見るとき、富士門流信徒の掲示板もまるで不十分であり、さらに mixi GREE にいたっては、初学もままならない人々が、さもわかったようにしったかぶりをしている様には、呆れを通り越して、もはや、これ以上、同席、共に議論する気持ちすら完全に失せたほどである。
ここで、名前を挙げられている FBIさんも、このカルト理論に関しては、書かれている内容から判断するとき、かなり多くの勘違いを有している。
わたしから見れば、殊に、GREE 、次いで mixi の素人相談や、自称カウンセラーは、「必要十分な核となる議論」を根こそぎ破壊し、脱カルト理論の正しい判断を妨げていると言っても過言ではない。つまり、スタート地点から、何メートルも後ろに引き下げてしまっているという印象しかない。
そもそも「創価、顕彰会、正宗をやめること」と、脱カルトは何ら関係がない。グループをやめることが脱カルトであるという考え自体がまったく間違いである。
脱カルトとは、狭義の社会心理学的な見地なのであって、そこには教義も、グループも介在しない。あるのは他者からの自分への影響がどのようなものかという問題だけである。
そううそさんやFBIさんは、よく知るお二人だが、この近場にして、この有様だ。暗澹たる思いがする。
以下、そううそさんが異論有りといったわたしの日記
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そううそ | 自分のコメントを削除する
2009年12月31日 14:09
こんにちは。
犀角独歩さん
●1.「グループをやめること」と「脱カルトである」こと。
ちょっと誤解があるようです。
>そもそも「創価、顕彰会、正宗をやめること」と、脱カルトは何ら関係がない。
>グループをやめることが脱カルトであるという考え自体がまったく間違いである。
>脱カルトとは、狭義の社会心理学的な見地なのであって、そこには教義も、グループも介在しない
まったく同感なのですが????
はてさて何が問題なのでしょうか?
「グループをやめること」=「脱カルトである」
ではなく
「グループをやめること」≒「脱カルトである」
でしょう。ですから独歩さんの意見と賛成、肯定、です。
グループを止める事が出来れば、方法や過程の一つとしてbetterだと思います。
グループを止める事が出来ればより良い(better)、「より脱カルトしやすい」、そう思います。
実際に、私はLibraさんや想学サロンの運ちゃんさんとか、
退会して欲しいとは思いますが、しなくても彼らは「脱カルト」、宗教をやっていけるでしょう。
ここで完璧な完全な「脱カルト」かどうかは私は問うていません。
私がブログで「グループを止めた方がよい」という私自身の意思表示することは問題ないと思います。
また同時に、「宗教は問題点は0ではないかもしれないが、宗教をしたい人が宗教をしても良い」そう私は思います。
(宗教は個人でもグループでも出来るし、どちらでも良いと思いますがカルトは集団を頼みにするようですね。)
●2.そううそさんが異論有りといったわたしの日記??????????
>以下、そううそさんが異論有りといったわたしの日記
これは完全に誤解です。私は色々な説明手法が必要だと思っています。
書籍であれば
1.難解な詳細な書籍、
2.わかりやすい書籍、かんたんな書籍、
ということでしょう。私は難解な書籍、簡単な書籍「両方」必要だと思っています。
私は独歩さんの大御本尊解明の新しい書籍を心待ちにしているのですが?
私が独歩さんの書籍を100%理解できるかはまた別です。
また、独歩さんにはたくさん書いて欲しいと思っている一人です。
それで以前から独歩さんには色々とお願いしたり質問もしてますし、
これからも独歩さんやJSCPRを頼りにするしかないと思います。
そもそも私のブログは創価など正宗系信徒会員、特に末端の方向けです。
僧侶や学者、博識な方向けではありません。
富士門流信徒BBSも不要だと思っていません。
富士門流信徒BBSあれだけ、あんなにもたくさんの教団都合な「嘘や間違い」が明確に書かれているのですから、
退会するのが普通の感覚では?というのが私の意見です。
日蓮信仰は他でもできますから。
●結論
1.頼りにした事はあっても独歩さんに異論を唱えた記憶は全くありません。
(そもそも、そんなことなんて出来るわけないじゃん(笑)。。。。ヽ(^o^;)ノ)
1.「グループをやめなければ、絶対に!脱カルト出来ない。」と書いた覚えもありません。
あれば修正しますのでご指摘下さい。
宜しくお願いします。
そううそ
そううそ | 自分のコメントを削除する
2009年12月31日 15:05
>「富士門信徒BBSにおいて脱カルト(創価、顕彰会、正宗をやめるのに)必要十分な核となる議論はほとんど終わっている。」(主旨)
これならどうでしょうか?
「富士門信徒BBSにおいて、本尊や布施などの仏教のありかた、日蓮がした唱題など、日蓮の教えと教団都合の教えの間に「基本的な点で」大きな差異が「多数ある」ことがわかる。よって創価、顕彰会、正宗をやめるのに必要十分な核となる議論はほとんど終わっている。」(主旨)
またまた?もう何度目が数え切れませんが、衝突しています。
色々な人と2chやブログ等で他人と衝突しています。
○
またまた?衝突しています。
もう何度目が数え切れませんが、色々な人と2chやブログ等で他人と衝突しています。
>春田の蛙さんが誰かにかかわるとその誰かが影響を受けて脱カルトが遅れたり、創価っぽくなったりする気がします。
なお、想学サロンで春田の蛙さんとコメントをかわした方を創価っぽいとかカルトぽいとか私は思っていません。
問題は以前と何も変わらない春田の蛙さんにあると思います。
カルトの定義やアンチ、シンパ、バリの定義は別として学会に批判的な人と衝突する事例が多いのも私には疑問です。
どうせネットで衝突するなら、O野さんやO浦さん、O田さんと衝突すれば少なくとも私は何も言う必要はないのかも。
但し、医者やカウンセラーでもない限りバリさんな彼らと長々つきあえるのは、ある程度不健全な人でなければつきあえないのでは?との憶測が私にはあります。
日顕氏と池田氏を見ればわかるとおりお互いに不健全だから争っても裁判合戦してもなんとも疑問に思わないのでしょう。
絶対とか無謬とか永遠が欲しい人、過度、極端に求めて止まない不健全な人々
○
神、「だれか」から学びたい、「だれか」を親分のように忠義をつくしたい、絶対とか無謬とか永遠が欲しい人、過度、極端に求めて止まない不健全な人々
適度や柔軟なら学んでも忠義を尽くしても良いと思います。
学びや忠義は普通に世の中にありますね。
こんばんは。
>問題が起こらぬよう、「最初の選択の仕方」を全員同じように統一するのも、また不可能
>実は十人十色で違う
まったく同感です。
師弟といってもただの人間関係ですから、つき合い方、選択の仕方(アプローチ)が十人十色で違うのは当然だと思います。
○人つき合いも柔軟に。
さくらもちさんならご存じかと思いますが、FBIさんや犀角独歩さん問答迷人さんは非常に仏教に博識な方ですよね。
彼らだけで話が始まると私はさっぱりついていけませんが、彼らから私個人に「お前は分かってない」等々、叱責とか言われたことは一度もありません。
JSCPRの勉強会でも同じです。
話す内容も
「そううそに理解できる様に」
話して下さっています。上から目線もありません。
仮にFBIさん視点からして、私に対してと犀角独歩さんに対してで仏教研究において話す内容や付き合い方が違うのは当然かと。
話す内容や付き合い方が違うのは自然な形であればいいのでしょう。
私はケースバイケースとよく表現しています。
問答、つまり問う、答えるという形(形式)はありますが、
創価学会にありがちな「不健全な上下関係」や「不健全な教え方」もありません。
内容の嘘か真実かはまた別の話しです。
○良い例
ネット上で良い例としては犬のメメさんや華さんのブログが限りなく対等な雰囲気で参考になります。
他にも女性のブログでいくつかありますが、ここでは記載しません。
○悪い例
1.
悪い例としては、先日の私のブログコメントのパンドラの箱さんなんかが、問題でしょう。
パンドラの箱さんも相手の立場や考えかたを無視してあちこちのブログに同じ文章を貼り付けています。
他者への方法が同一文章を貼り付ける、この一つしか有りません。
他人を見ていないという意味で自己愛的、自己中心的でしょう。
パンドラの箱さんは一見、リーダーっぽい、指導者っぽいのです。
勧める方法や内容も同一ですから、創価っぽい、カルトっぽいわけです。
2.
私はもうずっと読んでいませんが、春田の蛙さんのBBSも悪い例でしょう。
実際、春田の蛙さんはしばらく前にも想学サロンで、またまた?もう何度目が数え切れませんが、衝突しています。
色々な人と2chやブログ等で他人と衝突しています。
春田の蛙さんが様々な他人とやりとりをして衝突という同じ結果になるのは、春田の蛙さんが立ち直っていない沢山ある証拠の内の一つでしょう。
他者へのアプローチ(方法)が同一なので喧嘩や言い争いになる。結果としても同一なわけです。この同一の過程を高い確率でとるようです。
「不健全な上下関係」や「不健全な教え方」も多数あると考えています。
創価学会と意見が異なれば、自分自身が正しいとかバリアンチとか絶対ではないでしょう。
方法やアプローチが創価そっくりだと私は考えています。
仮に私との過去の件を除外しても問題や迷惑は現在進行の形で多々あるので私個人としても非常に迷惑だと思います。
春田の蛙さんが誰かにかかわるとその誰かが影響を受けて脱カルトが遅れたり、創価っぽくなったりする気がします。
衝突はもう一度や二度ではありませんし。
ただ、私は「春田の蛙さんにも立ち直って欲しい」と思います。
他者をみないのは自分を見つめてない証拠でもある、と私は考えています。
立ち直ってから更に自分を見つめ、どうしても脱会説得がしたいならば、すればいいわけです。
なお衝突と書きましたが、喧嘩でも言い争いでも言葉自体はまったく問題ではありません。
春田の蛙さんが他者に何をしているか?何を与えているか?が問題だと思います。
必要以上な言葉で「仲良くしましょうよ」の様な発言も過去春田の蛙さんと仲が良かった人達が
今は良くないことからしても非常に疑問です。
○創価の場合
翻って池田氏とその弟子達は日蓮が師匠かあるいは「師弟不二」、池田氏絶対。池田氏が永遠の指導者です。
世間一般人のように、どんな他者でも時として「師」になりうる柔軟さがありません。
世間一般人のように、どんな宗教でも時として「教え」になりうる柔軟さがありません。
(時として、ですからいつも必ずとか絶対とかではありません。)
池田氏が永遠の指導者あるいは創価が理想や絶対であるため、矢野氏の手帖裁判のようなキチガイじみた裁判をワッショイワッショイして矢野氏を仏敵、悪人扱いです。
一般社会的視点からは変人かキチガイ扱い同然でも仕方ないでしょう。
世の中に受け入れられるはずもありません。
社会的に不適合だったりストレスからうつ病などになるのは当然でしょう。
創価学会のおかしさに気がつくと、地獄論罰論、宿業論を理由として更に大きな恐怖が自分の中に生まれざるを得ないでしょう。
ですから、本能的に恐怖から逃げる為に「創価学会のおかしさに気がつきたくない。」「無謬、絶対、永遠だと思いたい」のでしょう。
○まとめ。
1.本尊に祈り自己中心の願いを叶えるという密教的な呪い(まじない、のろい)の功徳(正しくは御利益)
2.地獄論罰論、宿業論
これらをどの程度信じているかがMCのポイントだと思います。
絶対、無謬、永遠、獄論罰論、宿業論が妄想である点をブログに書いているのです。
脱カルトとして、獄論罰論、宿業論などの解消が必要でしょうね。
話がここで元に戻りますが、絶対とか無謬とか永遠が欲しい人、過度、極端に求めて止まない不健全な人々が「いつでもどこでも」いるからやっかいです。
求めた先が、政治だったり、宗教というジャンルであったり、オウムだったり創価だったり、正宗だったり顕正会だったりするんでしょう。
長くてごめ~~~~ん。(^_^;A
>創価も時々、宗教的なもの(アメ)も教えるので、見分けがつかずMCされていくのでしょうね。
これは激しく同感です。
元々、人々は敬虔な信仰心を持っているんですよね。
ところが既成仏教は人々を満足させられない、・・・でも、適度に仏教を取り入れ生活に即効性のある教え(あめ)を提供する創価は、人々を「にわか仏教徒」に仕立て上げることに成功。
にわか仏教と言っても、庶民は真面目に必死に取り組むわけなので、心根は純粋で綺麗なものです。
それにしても創価学会が与える宗教的なもの(あめ)は、よく出来ていると思いますよ。
私も、昔は世界でも最先端の人道主義を掲げてるのは創価学会しかない・・なんて信じてたほどです。
それと、創価学会の人道主義なんてのは仏教から離脱してるようですが、こういうアレンジが創価学会の凄いところです。
誰が考えてるんだろうなぁ。
>宗教は本来、生産性のないサービス業でしょうから、自力だけでは無理でしょう。
「目に見えぬ生産性」を人々に提供してこそ成り立つサービス業かもしれませんね。
でも、日蓮などは元々庶民のための仏教ではないと聞きました。
これが事実なら、僧侶達は庶民から金をもらうために、人々に媚びてるように思います。
>ブッダを日蓮を池田大作を誰をetcを選択する/しないの問題ではなく、
>最初から選択の仕方(アプローチ)が問題となっているのでしょう。
そうした問題が起こらぬよう、「最初の選択の仕方」を全員同じように統一するのも、また不可能なように思います。
人間って、求めてるものは同じようでいて、実は十人十色で違うのだと思います。
「だれか」を神のように崇めたがる人、「だれか」から学びたいだけの人、「だれか」を親分のように忠義を尽くしたい人・・・などなど。
人間が「カリスマ」に弱いという事実も気になります。
そういう習性が神を造りだしたような気もしますし。
ブッダを日蓮を池田大作を誰をetcを選択する/しないの問題ではなく、
○
ブッダを日蓮を池田大作を誰をetcを選択する/しないの問題だけでなく
有無と考えています。
○
生むと考えています。
こんばんは。
おひさです。
>「日蓮遺文や法華経解説など、わかりやすく人に教えるべき。」
>これは創価学会で教わった思考だという話を聞きました。
創価学会の教える教学は日蓮正宗の教学にくらべると
難解さだけではないのは事実ですね。
>創価学会は今の時代の人の需要にあったような「思想」を提供しているなと思います。
>宗教の良し悪しは、人を救えるか否かにあると今も思います。(これも創価的発想でしょうが否定しません)
私自身は創価学会の教学の教え方にはアメとムチ、功徳と罰論地獄論、賞賛と見下し
これらがセットになり、心理学的な操作や依存の悪しき効果を有無と考えています。
アメ、功徳、賞賛
ムチ、罰論地獄論、見下し
これらは単独ではそれぞれについて記事を書いてきましたが、
「どの様に両方与え、どの様に両方説明し、どの様に両方を説得していくか?」
という点については自己愛も部分的に関与した説明はかけていないと思います。(後述*1)
>創価だからと言って、悪くないものもあります。
同感です。
創価も時々、宗教的なもの(アメ)も教えるので、見分けがつかずMCされていくのでしょうね。
>同感です。
有り難うございます。
>敷居の高い宗教は、一切供養などで庶民の施しを受けずに自力で生活して欲しいものです。
宗教は本来、生産性のないサービス業でしょうから、自力だけでは無理でしょう。
(*1)
Libraさんのように日蓮にも罰論など問題点がある、等々サクッと言えないあたりが
日蓮宗だけに限らず各宗派のお坊さんを見ていると、バランスを失った言動に陥るのだと思います。
結果として問題点に気がつかず(問題点を言えない)潜在的な引け目から
(問題点を見つけにくい)教学などにのめり込む。。等々、そんな印象を受けます。
Libraさんのように日蓮にも問題点がある、と言える自分自身であって、日蓮を選択する。あるいは
禅宗なり、念仏なり、過去の律宗なりちゃんと現代人から見てデメリットメリットを両方理解する、
日蓮も現代人から見てデメリットメリットを両方理解する必要があると思います。
当然、ブッダも日蓮も空海も親鸞も人間なわけですから、絶対、宇宙生命などではありません。
宗教する人が最終的に特定の誰か一人を師匠とする必要があるのでしょう。
(私はこの時点で現代人として問題があると思います。)
ブッダも日蓮も空海も親鸞、誰でも師匠にしてもOKだと思いますが、
無謬だとか宇宙生命だとかの永遠の指導者など絶対な師匠とするか
人間としての誤り有ってもOKな師匠とするか?
同じ師匠の選択でも全く結果が異なります。
ブッダを日蓮を池田大作を誰をetcを選択する/しないの問題ではなく、
最初から選択の仕方(アプローチ)が問題となっているのでしょう。
ではでは
そううそ
「日蓮遺文や法華経解説など、わかりやすく人に教えるべき。」
これは創価学会で教わった思考だという話を聞きました。
それはそう受け止めて、創価学会は今の時代の人の需要にあったような「思想」を提供しているなと思います。
さすがは宗教ビジネス。
なので、創価だからと言って、悪くないものもあります。
そういう意味でも、そううそさんの「日蓮遺文や法華経解説など、わかりやすく人に教えるべき。」には同感です。
宗教の良し悪しは、人を救えるか否かにあると今も思います。(これも創価的発想でしょうが否定しません)
そう考えると、庶民から離れた難解な教義で体系になってる諸々の宗教は、宗教研究家の興味の対象物には最適でしょうが、毎日を生きてる庶民には不必要でしょう。
敷居の高い宗教は、一切供養などで庶民の施しを受けずに自力で生活して欲しいものです。
上記の2つのリンクをメモ。
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/reisinkou.html
http://www.mypress.jp/v2_writers/yuigahama/story/?story_id=1699649
自分が完璧とか無謬とか絶対なら誤解を「0」に出来るわけです。
(仏教学の理解はまた別)
そうではなくて
誤解を「0」には出来ない(かもしれない)
だけど
少なくすることは出来る。
あるいは
少なくする努力をするのが大切かと。
そういうわけで 度々
「誤解を少なくする為に」
って記事や小見出しをたくさんかいているんですけどね。
マトモな宗教って人間関係や世の中のトラブルを少なくする努力をする思想、哲学だと思うけど。
カルトは池田氏のように矢野氏竹入氏の裁判起こしてトラブルを作る。
池田氏彼自身が「悪」だと思われないように、誰かを「悪」としてトラブルに対処するエネルギーで教団の拡大を図ろうとする。
>私のブログを全部読んでも私という人間の全てを理解したことにはならない。
>あたりまえなんだけど。
だから、創価のオジチャンオバチャンのカルト信仰を否定しますが、カルト信仰以外の部分や全否定しているわけではありません。
全否定についての記事は比較的、最近の記事に多いなずなんだが。。。まぁいいか。
01番記事にも反論するなら全部読んで下さい、というルールがあるけどそれはちょっとおいといて別の話。
荒らしに来た学会員とかが特徴的だったけど、意見交換する際に意見だけでなく相手をよく知ろうとしないこと。
私のブログを全部読んでも私という人間の全てを理解したことにはならない。
あたりまえなんだけど。
私が特に問題を感じた人々というのは、部分的な問題点の理解から揚げ足取りをして全てを教団都合、自分都合で悪とかで評価してしまう。
なので私自身が気をつけているのだけれど、
特に教えを請いたいとか学びたい人がいればネットのやりとりだけでなく、TELとか直に面会したり、例えば会って宗教学を教えてもらう時でも、宗教学を知る、というだけでなく、その人の性格や人生観、全体像を知ろうと考えています。
自分のコメントに補足しますが創価で言えば池田大作氏とか取り巻きは失礼とか失礼でないとかの問題ではないでしょう。常識として人として度を超えていると思いますよ。
正宗なら日顕氏日如氏などでしょう。
宗教教団が理由で一家離散だの自殺だの夫婦恋人が破局だの、色々知っている私にはとても創価などを肯定できません。
こんばんは。
>目上の人対してオジチャン オバチャンは失礼だと感じました。
仕方ないでしょう。
>全て理解されているように書かれてありますが、
???
何処の事ですしょうか?
引用して意見を言って下さい。
必要があれば書き換えますよ。(後述*1)
>信仰は人それぞれ。考え方、受け止め方も違うのでは?
そりゃそうでしょう。
ですから、創価の「オジチャン オバチャン」に対してもあなたと私で、
それぞれ、考え方、受け止め方も違い、「オジチャン オバチャン」に対して危険認識も違うのです。
過去記事過去コメントを良く読んで頂きたいのですが、健全な信仰と不健全な信仰があります。
学会員(正宗)の中にもマトモに信仰している人は極々少数ですが、いるようです。
マトモで無い人がほとんどなので、こうして問題視しているのですよ。
>全て理解されているように書かれてありますが、
>人を批判出来るほど完璧な人などいるのでしょうか?
それはそっくりそのまま池田大作氏や学会本部(正宗、顕彰会)に言って下さい。
私は自分を無謬だとか完璧だとか言っていません。
(*1)
「心理学や仏教学でも素人であり、わからないこと、知らないことはたくさんある。」そう度々書いています。
「私自身が納得できる、脱カルトするのに必要十分なMCされていない情報を得た。」そう度々書いています。
また「宗教者の中にも良き人がいることや良き思想があること。」を認めています。」そう度々書いています。
私のコメントにちゃんとお返事頂けます?
また、全て理解されているように書かれてありますが、信仰は人それぞれ。考え方、受け止め方も違うのでは?
人を批判出来るほど完璧な人などいるのでしょうか?