功徳の意味。
●功徳はあるか?という言い方
創価学会では 功徳「がある」 という言い方をよくします。
これがすり替えや嘘やだましの始まりだと思います。
私もブログ立ち上げ時に 功徳「はあるか?」 という「ある/ない」を問うタイトルになっています。
学会に教えられた通りに 功徳「がある」、「功徳を得られる」、御本尊から「功徳を与えられる、頂ける」 という意味で書いているのでブログ立ち上げ当初は理解していなかったわけです。
学会の教義は日蓮曼陀羅本尊に祈る事で功徳「がある」(必ず願いが叶う、etc)というものです。
宗門問題以前は日蓮正宗大石寺にある大御本尊、あるいは正宗下付本尊に祈る事でした。
宗門問題以降は学会下付の本尊に祈る事でも必ず功徳「がある」というものです。
学会ではある日突然、個人の自発的な理由ではなく(信徒を新規獲得、および維持する必要があって)教団都合な理由で日顕氏の本尊は否定されて私は「本尊お取り替え」をある程度MCされ、悩みながらも取り替え、そしてまた悩みました。
Libraさんに「釈尊はまじない信仰を否定」という事を指摘して頂きました。ここまでは過去記事の通りです。
Libraさんのサイトを読んでも現代の創価と原始仏教が正反対な事が分かりますが、ネットなどで原始仏教の勉強をはじめると 「功徳の意味」 が違う事にさらに気がつかされました。
●実は功徳「を積む」という言い方
本来は功徳「を積む」という言い方がされています。
yahooやgoogleで「功徳とは」「功徳」「功徳を積む」で検索するか下記のリンクを見て下さい。
【39】功徳とは何か
yahooやgoogleで「針 功徳 積む どなたか」で検索してみて下さい。下記のリンクが見つかります。
我愛福徳
仏さまのこばなし
アヌルダの為に行動する事でブッダは功徳「を積んでいる」わけです。
友岡雅弥氏の書籍にはブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、糞尿まみれの病人に「施し」をしています。
'08.04.14 修正追記
/////////////////////////////////////
布施は僧侶に対する金品のもてなしですが、本来は貧しき人、身より頼りの無い人に、施しをする事です。しかも、その結果としての果報を期待して行ってはなりません。あくまで困窮する人の為に行うべきものなのです。
友岡雅弥 著 ブッダは歩むブッダは語る(P84)
貧しき人への施しですが、仏典ではしばしば「布施」という言葉で、仏法者が行うべき修行として現れてきます。(中略)
当時、最大の罪であり、最大に軽蔑すべきは「貪欲」だったのです。
友岡雅弥 著 ブッダは歩むブッダは語る(P134)
/////////////////////////////////////
過去記事にも書いてきたとおり、どの事例もケースバイケースにブッダは対処しています。もう一つ着眼点があります。
それはブッダと会話しているその人の望むことを「施し」(ほどこし)て功徳「を積んでいる」点です。
アングリマーラーは「心が動いているぞ?」と言われる事は望んでいませんが、本心では人殺しを望んではいなかった、ということでしょうか?現代であれば「心が動揺しているね?」と優しく言われる事なのでしょうかね?
原始仏教において
”アヌルダが望む”行動をする事でブッダは功徳「を積んでいる」。
会話しているその人の”望む”ことをケースバイケースに「施し」てブッダは功徳「を積んでいる」。
現代のカルト教団において
まず、正宗系教団は罰論、功徳論でコントロールを行います。
正宗系は”教団トップが望む”行動を信徒にさせる事でお金や権力など「得をする」のは教団トップです。
信徒は体験談から「幸福になった」とはいいますが、教団都合の本尊が直接の理由ではないでしょう。
ケースバイケースに対処せず、常に必ず”方法は同じ”題目と本尊、教団へのお布施、(公明への奉仕)なわけですね。
しかも往々にして正宗系教団は人への嫌がらせが多い多い。
いつも御本尊というモノへの祈り一辺倒(あたりまえですが呪いでもなく)ではなく
人の具体的なケースバイケースな言葉や言動が大事、ということでしょうか?
先に書いた引用記事、法華経には「祈」という文字はない、と矛盾がありません。具体的な行動(言動)が大事、というわけですね。
学会の会合に来てもらう事や聖教新聞啓蒙でも折伏や布教の方法として駄目という事はないのでしょうが、「人の具体的なケースバイケースな言葉や行動、つまり言動が大事」であれば「いつも」自分で具体的方法を考える必要が出てきますから思考停止には至りにくいわけです。
また当然の結果として謙虚にもなれます。
●功徳「がある」、功徳「を積む」でなぜ言い方が違うのか?
人間革命にもあるとおり罰論で ”過去世からの宿業や罰が命の中から「出る」” あるいは御本尊や宇宙生命、日蓮生命から罰が出る、あるいは罰を加える、与える、というものです。
だから日蓮正宗系の教団にとって功徳が「ある/ない」という言い方をしないとまずい面があるんでしょうね。創価に功徳がある、正宗には功徳がない、その逆も又しかり。etcetc功徳が「ある/ない」と教えられた信徒は白黒2極論におちいる。。。。。
だから日蓮正宗系の教団が功徳「を積む」功徳「を積みましょう」とか言い出すと、功徳が「がある/ない」よりもやや分かりにくくて「功徳を積む」って ”どういう意味ですか?、どうして「積む」なんですか?”という質問に繋がりやすいです。また、原始仏教の説明をしないといけない可能性も出てきます。過去、とあるカウンセラーの方にご指摘頂いた様にカルト教団の言葉や説明を鵜呑みにするのではなく「原典を調べる、原典にあたる」必要がある かと。原始仏教と日蓮仏教は矛盾点がありますから日蓮だけを見ていて欲しい教団にとって原始仏教の内容は非常に都合が悪いと想像します。
教団都合の○○すると功徳「がある」
教団都合の○○しないと罰「がある」
罰を積むという言い方をしない点でもピンと来る人はいるでしょうか?
日蓮は法華経を説明する事で原始仏教に原点回帰し、人や世の中に良い事(功徳)を得させようとしたわけです。
創価は原始仏教を説明しない事で自分達教団トップだけに良い事(功徳)を得させようとしたわけです。
上記の2行はあえて「積む」ではなく「得させる」としました。
誰に功徳がある、与える、得られるのか?ということです。
○誰が誰に与えるのか?
もう一つ。
功徳「がある」という言い方は信者にとってメリットがあり、また宗教教団にとって信者獲得にもメリットです。
功徳「を積む」という言い方は信者が自分で行動して人のために尽くす事ですから他者にメリットがあり、信者獲得にもメリットが少ないかもしれません。
僧侶が功徳「を積みましょう」というと、おまえはどうなんだ?とツッコミが入りそうですしね。(笑)
なお、私は自分でする自分のために功徳を積むという事を否定しません。
しかし、学会員が池田先生に尽くせ!とか、師匠のために!というのは今にしてみれば滑稽ですね。
一体全体、池田氏は誰の為に具体的に行動して尽くしているのでしょうかね?
ここからはある方の受け売りなのですが、、、、、
☆「布施」という事自体もブッダがそうであったように僧侶の修行の一つであったようですね。
☆必要最低限の食事を布施として受け取っても元々は僧侶が他者へ施すのだそうです。
それがいつの間にかブッダも日蓮も必要最低限の食事だったのが、現代では年間、何兆?何千億のお金や時間、無報酬労働の寄付になっています。
信徒が僧侶に施すのがお布「施」であり、これが当然で逆は無いという状態です。
布施については勉強不足で原典などを書けていません。そこで☆印の2行の布施について、
「どなたか布施について、宗教教団都合の出来るだけ薄い良き本やネットの記事をご存じありませんか?さらに功徳を積もうという方はおられませんか?」
と書いてみる。(笑)ヽ(^o^;)ノ
「功徳の意味」 が違う事にはだいぶ前から気がついていましたが、今回の記事はある方の法華経についてのご見解に触発されて書きました。
布施にも言及されていて、そのまま引用転載をお願いした方が法華経の勉強にもなり一番良かったかもしれませんが。。。。。。
Libraさんのサイトや友岡氏の書籍を読めば原始仏教において誰が誰に、誰が誰のために、誰が何のために、、、そしてどの様に施しているか?尽くしているか?は理解できる事なんですけどね。
過去記事とだいぶ重複しますが、功徳、施す、布施、という単語の視点記事はなかったと思うので書きました。
みなさんにも「積むという言葉の原典を調べる、原典にあたる」必要を感じて頂きたかったということです。
日蓮本尊、唱題、法華経の勤行による修行方法を全否定する記事ではない事もお断りしておきます。
補足として本記事だけでなく他にもいくつか理由があるのですが、「仏法は厳しくない」「仏法は勝負ではない」という事にも一貫性があると思います。
創価のいう事は間違っているし人によっては経典などの原意をよく知りながらその事は伏せMCする悪意があるという事です。
2018年3月6日 追記
----------<ここから>----------
möbius-rebelliusさんのツイート: "ちなみに、「功徳」の原語は、主に「guṇa」で、人徳。時に、puṇyaで、「善き行い」、稀にanuśaṃsaで、「人助け」です。"
上のリンクと私の意見は少し異なるようです。
「功徳」の原語は、guṇa、puṇya、anuśaṃsaであるようです。これは私も同じです。
誤訳については以下のように考えています。
guṇa(グナ)はサンスクリットで、優れた性質、価値ある特質
puṇya(プニヤpuya)は福、善、福徳
anuśaṃsa(アヌシャンサanuasa)利点、利益
他者救済をする原始及び大乗仏教では、「功徳」は次の通り。
他者が望む行いを宗教者が自己犠牲し救済する。結果として客観的に見て、その行いは善き行いとされる、と捉えることが可能です。
----------<ここまで>----------
以上。
'08.04.14 修正追記
> 友岡雅弥氏の書籍には「布施」(ふせ:創価学会で言うところのご供養。)や「功徳」の単語の説明はされていなかったと思いますが、ブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、
↓
友岡雅弥氏の書籍にはブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、
2018年3月6日 追記
●功徳はあるか?という言い方
創価学会では 功徳「がある」 という言い方をよくします。
これがすり替えや嘘やだましの始まりだと思います。
私もブログ立ち上げ時に 功徳「はあるか?」 という「ある/ない」を問うタイトルになっています。
学会に教えられた通りに 功徳「がある」、「功徳を得られる」、御本尊から「功徳を与えられる、頂ける」 という意味で書いているのでブログ立ち上げ当初は理解していなかったわけです。
学会の教義は日蓮曼陀羅本尊に祈る事で功徳「がある」(必ず願いが叶う、etc)というものです。
宗門問題以前は日蓮正宗大石寺にある大御本尊、あるいは正宗下付本尊に祈る事でした。
宗門問題以降は学会下付の本尊に祈る事でも必ず功徳「がある」というものです。
学会ではある日突然、個人の自発的な理由ではなく(信徒を新規獲得、および維持する必要があって)教団都合な理由で日顕氏の本尊は否定されて私は「本尊お取り替え」をある程度MCされ、悩みながらも取り替え、そしてまた悩みました。
Libraさんに「釈尊はまじない信仰を否定」という事を指摘して頂きました。ここまでは過去記事の通りです。
Libraさんのサイトを読んでも現代の創価と原始仏教が正反対な事が分かりますが、ネットなどで原始仏教の勉強をはじめると 「功徳の意味」 が違う事にさらに気がつかされました。
●実は功徳「を積む」という言い方
本来は功徳「を積む」という言い方がされています。
yahooやgoogleで「功徳とは」「功徳」「功徳を積む」で検索するか下記のリンクを見て下さい。
【39】功徳とは何か
yahooやgoogleで「針 功徳 積む どなたか」で検索してみて下さい。下記のリンクが見つかります。
我愛福徳
仏さまのこばなし
アヌルダの為に行動する事でブッダは功徳「を積んでいる」わけです。
友岡雅弥氏の書籍にはブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、糞尿まみれの病人に「施し」をしています。
'08.04.14 修正追記
/////////////////////////////////////
布施は僧侶に対する金品のもてなしですが、本来は貧しき人、身より頼りの無い人に、施しをする事です。しかも、その結果としての果報を期待して行ってはなりません。あくまで困窮する人の為に行うべきものなのです。
友岡雅弥 著 ブッダは歩むブッダは語る(P84)
貧しき人への施しですが、仏典ではしばしば「布施」という言葉で、仏法者が行うべき修行として現れてきます。(中略)
当時、最大の罪であり、最大に軽蔑すべきは「貪欲」だったのです。
友岡雅弥 著 ブッダは歩むブッダは語る(P134)
/////////////////////////////////////
過去記事にも書いてきたとおり、どの事例もケースバイケースにブッダは対処しています。もう一つ着眼点があります。
それはブッダと会話しているその人の望むことを「施し」(ほどこし)て功徳「を積んでいる」点です。
アングリマーラーは「心が動いているぞ?」と言われる事は望んでいませんが、本心では人殺しを望んではいなかった、ということでしょうか?現代であれば「心が動揺しているね?」と優しく言われる事なのでしょうかね?
原始仏教において
”アヌルダが望む”行動をする事でブッダは功徳「を積んでいる」。
会話しているその人の”望む”ことをケースバイケースに「施し」てブッダは功徳「を積んでいる」。
現代のカルト教団において
まず、正宗系教団は罰論、功徳論でコントロールを行います。
正宗系は”教団トップが望む”行動を信徒にさせる事でお金や権力など「得をする」のは教団トップです。
信徒は体験談から「幸福になった」とはいいますが、教団都合の本尊が直接の理由ではないでしょう。
ケースバイケースに対処せず、常に必ず”方法は同じ”題目と本尊、教団へのお布施、(公明への奉仕)なわけですね。
しかも往々にして正宗系教団は人への嫌がらせが多い多い。
いつも御本尊というモノへの祈り一辺倒(あたりまえですが呪いでもなく)ではなく
人の具体的なケースバイケースな言葉や言動が大事、ということでしょうか?
先に書いた引用記事、法華経には「祈」という文字はない、と矛盾がありません。具体的な行動(言動)が大事、というわけですね。
学会の会合に来てもらう事や聖教新聞啓蒙でも折伏や布教の方法として駄目という事はないのでしょうが、「人の具体的なケースバイケースな言葉や行動、つまり言動が大事」であれば「いつも」自分で具体的方法を考える必要が出てきますから思考停止には至りにくいわけです。
また当然の結果として謙虚にもなれます。
●功徳「がある」、功徳「を積む」でなぜ言い方が違うのか?
人間革命にもあるとおり罰論で ”過去世からの宿業や罰が命の中から「出る」” あるいは御本尊や宇宙生命、日蓮生命から罰が出る、あるいは罰を加える、与える、というものです。
だから日蓮正宗系の教団にとって功徳が「ある/ない」という言い方をしないとまずい面があるんでしょうね。創価に功徳がある、正宗には功徳がない、その逆も又しかり。etcetc功徳が「ある/ない」と教えられた信徒は白黒2極論におちいる。。。。。
だから日蓮正宗系の教団が功徳「を積む」功徳「を積みましょう」とか言い出すと、功徳が「がある/ない」よりもやや分かりにくくて「功徳を積む」って ”どういう意味ですか?、どうして「積む」なんですか?”という質問に繋がりやすいです。また、原始仏教の説明をしないといけない可能性も出てきます。過去、とあるカウンセラーの方にご指摘頂いた様にカルト教団の言葉や説明を鵜呑みにするのではなく「原典を調べる、原典にあたる」必要がある かと。原始仏教と日蓮仏教は矛盾点がありますから日蓮だけを見ていて欲しい教団にとって原始仏教の内容は非常に都合が悪いと想像します。
教団都合の○○すると功徳「がある」
教団都合の○○しないと罰「がある」
罰を積むという言い方をしない点でもピンと来る人はいるでしょうか?
日蓮は法華経を説明する事で原始仏教に原点回帰し、人や世の中に良い事(功徳)を得させようとしたわけです。
創価は原始仏教を説明しない事で自分達教団トップだけに良い事(功徳)を得させようとしたわけです。
上記の2行はあえて「積む」ではなく「得させる」としました。
誰に功徳がある、与える、得られるのか?ということです。
○誰が誰に与えるのか?
もう一つ。
功徳「がある」という言い方は信者にとってメリットがあり、また宗教教団にとって信者獲得にもメリットです。
功徳「を積む」という言い方は信者が自分で行動して人のために尽くす事ですから他者にメリットがあり、信者獲得にもメリットが少ないかもしれません。
僧侶が功徳「を積みましょう」というと、おまえはどうなんだ?とツッコミが入りそうですしね。(笑)
なお、私は自分でする自分のために功徳を積むという事を否定しません。
しかし、学会員が池田先生に尽くせ!とか、師匠のために!というのは今にしてみれば滑稽ですね。
一体全体、池田氏は誰の為に具体的に行動して尽くしているのでしょうかね?
ここからはある方の受け売りなのですが、、、、、
☆「布施」という事自体もブッダがそうであったように僧侶の修行の一つであったようですね。
☆必要最低限の食事を布施として受け取っても元々は僧侶が他者へ施すのだそうです。
それがいつの間にかブッダも日蓮も必要最低限の食事だったのが、現代では年間、何兆?何千億のお金や時間、無報酬労働の寄付になっています。
信徒が僧侶に施すのがお布「施」であり、これが当然で逆は無いという状態です。
布施については勉強不足で原典などを書けていません。そこで☆印の2行の布施について、
「どなたか布施について、宗教教団都合の出来るだけ薄い良き本やネットの記事をご存じありませんか?さらに功徳を積もうという方はおられませんか?」
と書いてみる。(笑)ヽ(^o^;)ノ
「功徳の意味」 が違う事にはだいぶ前から気がついていましたが、今回の記事はある方の法華経についてのご見解に触発されて書きました。
布施にも言及されていて、そのまま引用転載をお願いした方が法華経の勉強にもなり一番良かったかもしれませんが。。。。。。
Libraさんのサイトや友岡氏の書籍を読めば原始仏教において誰が誰に、誰が誰のために、誰が何のために、、、そしてどの様に施しているか?尽くしているか?は理解できる事なんですけどね。
過去記事とだいぶ重複しますが、功徳、施す、布施、という単語の視点記事はなかったと思うので書きました。
みなさんにも「積むという言葉の原典を調べる、原典にあたる」必要を感じて頂きたかったということです。
日蓮本尊、唱題、法華経の勤行による修行方法を全否定する記事ではない事もお断りしておきます。
補足として本記事だけでなく他にもいくつか理由があるのですが、「仏法は厳しくない」「仏法は勝負ではない」という事にも一貫性があると思います。
創価のいう事は間違っているし人によっては経典などの原意をよく知りながらその事は伏せMCする悪意があるという事です。
2018年3月6日 追記
----------<ここから>----------
möbius-rebelliusさんのツイート: "ちなみに、「功徳」の原語は、主に「guṇa」で、人徳。時に、puṇyaで、「善き行い」、稀にanuśaṃsaで、「人助け」です。"
上のリンクと私の意見は少し異なるようです。
「功徳」の原語は、guṇa、puṇya、anuśaṃsaであるようです。これは私も同じです。
誤訳については以下のように考えています。
guṇa(グナ)はサンスクリットで、優れた性質、価値ある特質
puṇya(プニヤpuya)は福、善、福徳
anuśaṃsa(アヌシャンサanuasa)利点、利益
他者救済をする原始及び大乗仏教では、「功徳」は次の通り。
他者が望む行いを宗教者が自己犠牲し救済する。結果として客観的に見て、その行いは善き行いとされる、と捉えることが可能です。
----------<ここまで>----------
以上。
'08.04.14 修正追記
> 友岡雅弥氏の書籍には
↓
友岡雅弥氏の書籍にはブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、
2018年3月6日 追記
「童子戯 若艸木及筆 或以指爪甲 而画作仏像 如是諸人等 漸漸積功徳 具足大悲心 皆已成仏道」(童子の戯に 若しは艸木及び筆 或は指の爪甲を以て 画いて仏像を作せる 是の如き諸人等 漸漸に功徳を積み 大悲心を具足して 皆已に仏道を成ず)
また「功徳」の用法は『妙法蓮華経』では90ほどで、なかなか多様です。
日蓮門下一般で、功徳の意味は『提婆達多品』に根拠を置くようです。
「智積菩薩言 我見釈迦如来 於無量劫 難行苦行 積功累徳 求菩薩道 未曾止息」(智積菩薩の言わく 我釈迦如来を見たてまつれば 無量劫に於て難行苦行し功を積み徳を累ねて 菩薩の道を求むること未だ曾て止息したまわず)
「積功徳」と「積功累徳」に通用があれば、羅什は前者を後者の略した形で訳に充てたのかもしれません。
「功徳がある」という言い方は「功を積み徳を累ねるがある」という言い方をしていることになりますから、不適切ということになるでしょう。
創価学会等の「功徳」の用法は、概ね「利益(りやく)」の誤用であると思えます。
中国拳法に「功夫」ってありますよね。
興味深いのは、その意味するところが
【努力の量や鍛錬の成果、または大きな努力で得られた成果そのものを指す。日本で言う工夫という意味合いも含まれる】
だそうなんです。
今調べたんですが、多分大乗仏教(禅系?)から由来してるっぽいです??
功徳というのも、やっぱり修行の成果、みたいなのが本義じゃないかな、と思います。
修行ってのは禅定や規律正しい生活、勤勉による迷い・煩悩等の消滅・・(折伏とかじゃないよ~んw)
それを修行僧は「法施」として在家者に施し、在家者はそれに対し「布施」を行うのだと思います。
でもまじめに修行してない、尊敬に値しない判断されたバラモンには布施しなかったみたいですね。
犀角独歩さんの仰るとおり、
>創価学会等の「功徳」の用法は、概ね「利益(りやく)」の誤用
間違いないですね。
自分たちは「おすがり信仰ではない、棚ぼたはない」とか自慢してるくせにやってることは真逆(笑)
結局何もしなくても果を得られるような、不可思議な力に頼った利益・信仰に重点が置かれてる。
>信徒は体験談から「幸福になった」とはいいますが、
>正宗系は教団トップが望む行動を信徒にさせる事でお金や権力など「得をする」のは教団トップです
これって「他化 自在天」ぢゃないの??
なんて、思うがままに書いてみました。。
大地をささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。
私は祈祷に関する本を読みました。日蓮のこの言葉は、日蓮本人の、祈祷に関する並々ならぬ自信を、述べたものだということだそうです。
行者というのは僧ですので、この文を一般信徒に当てはめるのはどうかな、と思っていました。やはり法華経の行者=日蓮ということだと思います。
日蓮は実際に各種の祈祷を行っています。病気平癒・安産祈願・雨乞いなど、御書によく出てきます。そして祈りは叶ったようです。
日蓮は、延暦寺での修行後、近畿地方への遊学時代に、修験道や密教の各種相伝を受けたと言われています。それらを法華経のもとに、応用し体系化しました。その根本は「祈祷抄」にまとめられています。
日蓮は、祈祷師などの、プロによる祈祷に頼らなくとも、アマチュア(一般信徒)が唱題によって、祈りを叶えられると説きました。
しかし現実問題としてアマチュアは、神仏と一体になるような境地には到達できず、祈りも叶うことがなかったようです。日蓮と同じ法華経原理主義には、なれませんでした。そのため、従来と同じく祈祷のプロに祈ってもらう習慣が、日蓮滅後、ずっと続きました。
日蓮系教団は、もともと強烈な布教を旨としていましたが、代々の権力者から厳しい弾圧を受けました。それで次第に布教を断念せざるを得なくなりました。その代わりに、祈祷仏教へ傾斜していったようです。江戸時代には、完全に祈祷が中心となりました。
大石寺が江戸時代にどうだったかは、よくわかりません。
法華僧は、山ごもりをして命がけの修行をしました。日蓮宗では、有名な祈祷僧を輩出したきたようです。
祈祷僧によるパワーがどのようなものか、私には知る術がありません。しかし、毎日の生活に追われる一般信徒と、壮絶な修行を体験した祈祷僧とでは、レベルが違うような気がします。
日々の暮らしで精一杯の一般信徒に、祈りによる奇跡を起こさせようというのは、過酷過ぎる期待だったのでしょう。
こんばんは。
>法華経は羅什の『妙法蓮華経』に「功徳を積む」という表現
法華経にもあったんですね。
ネットでアヌルダの経典名を捜すとアヌルダは十大弟子の1人で維摩経に書かれているようですね。
十大弟子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BC%9F%E5%AD%90
このwikiがどの程度正しいのかよく分かりませんが、いつかネットや図書館で維摩経を探してみようと思います。
>創価学会等の「功徳」の用法は、概ね「利益(りやく)」の誤用であると思えます。
学会にはあまり功徳もなければ利益もないと私は感じます。
こんばんは。
>中国拳法に「功夫」ってありますよね。
>興味深いのは、その意味する
実は私も「功夫」という単語を思い浮かべて、「攻」とは自分で能動的に行動したり訓練する事ではないか?
と考えていました。
>これって「他化 自在天」ぢゃないの??
え”!?「天」ですか?
その漢字はもったいなくて大商人には「店」が似合うのではないでしょうか?(笑)
嘘と怒りを恐怖を売っています。
洒落になりませんね。(^_^;A
こんばんは
>日蓮はアマチュア(一般信徒)が唱題によって、祈りを叶えられる
>現実問題としてアマチュアは、神仏と一体になるような境地には到達できず
マターリさんは既にご存じかと思いますが、富士門流BBSには鎌倉時代の唱題の仕方は今と違っていたのでは?というコメントがありましたね。その前提に立った上で一般信徒がある境地に到達できたのが出来なかったのかは興味がわく所ですね。
あえて、脱線。
大野晋師の研究で、昔の日本語のハ(h)行ははパ(p)であったということです。また、学者の名前は失念しましたが、『源氏物語』の研究だったと記憶しますが、たとえば、てふ(蝶)、けふ(今日)は、そのまま、てふ、けふと読んでいたといいます。
となると、「めうほうれんくゑきやう」はMeu-poh-ren-kuwe-kiyau というのが当時の発声だったということになります。ちなみに法華は「ほくゑ」と書いていますから、Pokuwe となり、また、唱題数は1編から多くて10編で、一息で一題を言い切っていたか・いないかほどの長音たっだようですね。
また、現代の日本語では、わかっているだけでもワ行の音は既に失われており、鎌倉時代は、いまより、ずっと、母音・子音ともに、音が多かったわけです。
となると、日蓮と同じようには、唱題はおろか、読経、御書読みに至るまで、ほぼ絶望ということになりますね。
読み「めうほうれんくゑきやう」については、富士門流BBSの過去ログで拝見しました。
発音は、Meu-poh-ren-kuwe-kiyau とのことですが、pohは、[ホー]ではなく[ポー]で宜しいのでしょうか?パピプペポのポでしょうか?
また、唱題数は1編から多くて10編ということで驚きました。昔は、長時間の唱題がなかったのですね。
こんばんは
法華経の漢訳引用や解説だけでなく、鎌倉時代の唱題の解説までして頂き、有り難うございます。
現代でも唱題にはプラシーボ効果やヨガ効果が指摘されますが、善し悪しは別にして違った効果があったのかもしれませんね。
天台宗などでも学会と同じく「なむみょうほうれんげきょう」なのでしょうか?何も調べないず想像だけで書きますが、日本には日蓮当時の唱題方法をしているところは皆無なのでは?と思います。
今後、復活するのかどうかがポイントになるかもしれませんね。
こんばんは。
日本で にほん にっぽん と2つの読み。
仏法は ぶっぽう ですね。ぶほう とは言いませんね。