つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

「宿題もタブレット」朝日新聞の記事を読んで

2011年12月08日 | 子育て

フューチャースクール推進授業

いろいろ話を耳にしていたが、12月8日朝日新聞が一面トップでとりあげている。

どうなんだろう、こういう「道具」に特化した教育って……。

「教育」って、本当にこのやり方でよかったんだとわかるまでに時間がかかると思っている。
今、教えていることって、今日明日分かることではなく、来月でも、もしかしたら来年でもなく、5年10年先に「ああ、そうだったのか」となることの方が、ほとんどではないだろうか。

私は、平成元年生まれの子どもから「学校教育」というものと親として付き合いだした。
『ゆとり教育』が本格的に動き出したころ。長男が小学校に入った時は隔週土曜日が休みだったが、そのうち完全週休5日制になった。「総合的な学習」という“教科(?)”があらわれ、「総合評価」から「絶対評価」に移行した。小学校でも中学校でも、保護者を対象とした説明会が何度も開かれた。学級懇談会でも、担任の先生が丁寧に話をして下さった。
先生方も戦々恐々としていたが、個人的に『ゆとり教育』の理念は理解できるし、本来のありかただろうと考えたので、先生方がどういう風にするのか楽しく様子を観ていた。

ただ、その時も感じたのだが、たとえば「総合的な学習」を理念に沿って指導できる先生と、難しい先生がいる。
それは仕方のないことで、子どもが百人百色ならば、先生だっていろいろだ。その先生が持っている「その子を一番伸ばせるやりかた」で指導するというのが、一番望ましいことではないだろうか。
それが、たとえ、隣のクラス、隣の学校、隣の県、と違っていても、それが、今その教室で可能な最良の“教育”ではないかと思う。

それは、教員が「今の教え方に甘んじていてはならない」が最大の前提になると思うが・・・。

だから、私はデジタル教材や道具を使っての教育に絶対反対というわけではない。
それで指導がうまくいく先生は、どんどん使ったらいい。だが、それを全部に嵌めこんでしまうのはどうなんだろう?

先生もそうだろうが、教えられる子ども側にも、デジタルでうまくいく子どもと、紙と鉛筆の方がいい子どもがいるのではないだろうか。こういうやり方でやると決め付けるのではなく、もっと柔軟で曖昧な部分もあるといい。

そして、どういうやり方であろうと、その教育の評価が出されるのはずっと先になる。

『ゆとり教育』しかなかったわが子たちは今、社会に出る前に「ゆとり世代」という本人たちが望まざる呼び名をつけられている。
施されてしまった教育は、その個人にとって、それ以上でもそれ以下でもない。それしかないのだ。今、自分が手にすることのできる教育で、最大限自分を伸ばすより手がない。
お役所は簡単に「失敗だったからやり方を変えましょう」と方向転換をすればいいかもしれないが、それはその教育を受けた子どもにとっては大切な大切なかけがえのない時間なのだ。今、目の前にいる子どもたち、常にそれを意識して教育を考えてほしい。

使う道具は何でもいい。日本の教員がのびのびと子どもに向き合える環境を作れば、彼らはきっと道具なんかなくたって立派に教え育ててくれると信じている。彼らはある意味、私たちが育てた、私たちの教員ではないか。できないはずがない。

もうひとつ言うと、
わが子が高等教育を目指すようになって感じることがある。

それはすべての学問が、幼少期の生活体験に結びついているのではということ。
地力の違いもあるだろうが、生活体験が豊かであればあるほどイメージが膨らんで、理解に結びつくように感じている。

わが子たちの勉強の力はとんでもなく強いというものではない。不得意科目もあり、それを理解するのにとてつもない努力を要しているようだ。高校へ進み、さらに大学受験、大学と進んで、私など意味すらわからない問題に取り組んで四苦八苦している。
そこで思うのは、彼らがまだ小さいころにもっと生活体験を豊かにしていれば、もう少し今が楽だったかもしれないということ。「物を持つ」「ひもを結ぶ」「枝を折る」「走る」「投げる」・・・・・・手で、足で、目で、耳で、体全体で、体験を重ねていれば、難しい方程式もイメージができたのではないか、古典も浮かんだのではないか・・・・・・。
教育はひとまねから始まる。だとしたら、彼らがついて回っていた一番最初の大人である私が、もっともっと豊かに動いていればと思う。戻ることもできない遠い遠いところまで来た今になって、遅ればせながらそんなことに気がついた。だから、彼らが精一杯努力していることに、精一杯応援するし、協力するつもりでいる。

新聞によると、フューチャースクール推進事業は、文科省のデジタル教科書の実証実験にもなっているという。
実証実験ということは、取り入れる前提で動いているということだろう。

どうも、それが、経済界の理論から来るものに私の眼には映る今の進め方は、今一つ首を縦に振りずらい。
わが末っ子は中学生。どうやらこの教育方法には引っかからずに済みそうだ。ほっとしている。
古いと言われようが、紙と鉛筆、黒板にチョーク、このやり方で、ぜひ、この子をお願いしたい。

 

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最後の忠臣蔵・・・池宮彰一郎

2011年12月08日 | 本・・・

昨年末、映画が上映された時、観たいなあと思っていた。

何しろ好きな役者のオンパレードだった。役所広司でしょ、佐藤浩市でしょ・・・火花がちりそうで、見ごたえあると思っていました。

思っていたが、その時は機会を得ることができなかったこの映画の原作に出会った。

もともと時代小説が好きなこともあって、とても面白く読んだ。 そして、映画があとでよかったかもしれないと思っている。

赤穂浪士の討ち入りは、まだまだとりあげられていない物語があるのだろう。 群像劇の魅力だ。

作者の池宮彰一郎さんは、まず脚本家として出た人だけあって、読み進むとその映像が浮かんでくるようだった。

ただ、反面、映像であれば、その1カットで終わるものが、書き文字で表現しようとすると説明に終始してしまいもたついた感じを受ける部分があった。それを感じて、映画ではどのように処理されたのか観たいと思っている。

ところで、読み終わって本をテーブルの上に置いておいたら、なんか違和感を感じた。

 

正体はこれ、カバーが2枚かかっていた。昨年、映画が公開されたときにきっとやられたことなんだろうけれど、
私は少々?だった。 なんとなく本屋の怠慢さを感じちゃったんです。

下から出て来たのは落ち着いた表装・・・いいじゃん!

でも、そこで自問自答、これで、貴女は手にとった? うーん、怪しい。

去年見のがした映画の原作と分かったから、棚からとったのだ。 

本との出会いというのはこんなきっかけで、やっぱり奇跡なんだと思う。

 

さあ、これからツタヤに行ってDVDを探してこようと思う。

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