教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

現代の子ども―「個人主義」より「親依存主義」?

2008年08月27日 18時58分58秒 | 教育研究メモ
 ちょっと興味深い言葉にふれたので、思ったことを書き連ねます。
 「自分のことは自分でしたいと思いながら、つい雇人にものを頼むことにならされている子どもら」
 これは、自由学園の創始者である羽仁もと子氏が、自校の子どもたちについて説明した言葉です。自由学園は、大正10(1921)年、大正自由教育運動の風潮のなかで創始された私立学校の一つでした。大正自由教育の実践を行っていた私立学校は、一般にブルジョアジー階層とか新中間層とかいった人々の支えを受けて存立していたといいます。自由学園の子どもたちも、そういった人々の子どもたちでした。羽仁氏の子ども認識は、的を得ているように思います。
 さて、大正の子どもと今の子どもとは違うので、大正自由教育の実践をそのまま現代の教育現場に適用することはできません。しかし、この言葉は、今の子どもたちを説明する言葉と対比させて捉えると、とても興味深く感じました。今の子どもたちは次のようにも言えないでしょうか。
 「自分のことは自分でしたいと思いながら、つい親にものを頼むことにならされている子どもら」
 「雇人」を「親」に直しただけですが、今の子どもの説明としてそんなに外れていないのではないでしょうか。子どもにもいろいろいますので、実態を説明する言葉ではなく、いわゆる一般的な「子ども論」として捉えてください。今の子どもは「個人主義」になったと聞くことがありますが、自分のことを自分でできない人間を「個人主義」だとはいいません。ましてや、成人になっても、食事や生活費・学費を親に頼っている人は大勢います(恥ずかしながら、私もそうでした)。いわば、今の子どもは「個人主義」というより「親依存主義」なのではないでしょうか。
 なお、この言葉は、「ならされている」(慣らされている?)という部分が一つのポイントで、親が子どもをそうさせている、という意味でもあります。単に子どもの問題なのではなくて、親・子ども双方における問題だと思います。
 大正自由教育における子ども中心主義教育や自立した人間像は、現代の教育にも重要な理念であると考えます。大正自由教育は、「雇人依存主義」の子どもを自立した人間に育てる教育でした。現代の教育は、「親依存主義」の子どもを自立した人間に育てる教育であるべきなのかもしれません。なお、そのような教育は、学校だけの問題なのではなく、家庭におけるしつけの方向性をも示唆するものなのではないでしょうか。
 なんて。
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