教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「教育情報回路」概念の検討(1)―梶山雅史氏の「教育情報回路」概念

2015年02月14日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、「「教育情報回路」概念の検討」の続き。

 出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 1.梶山雅史の「教育情報回路」概念

(1)「メディア」としての仮説的認識
 「教育情報回路」概念による教育会史研究を最初に提唱したのは、梶山雅史である。梶山は、早くから教育会に注目してきた1)。1990年の論文「京都府教育会の教員養成事業」では、日本の教員社会の形成過程や、教育社会の翼賛体制形成過程における府県教育会の重要性について言及した2)。1997年の論文「岐阜県下地方教育会の研究―安八郡教育会の発足状況」では、「地方教育会の実像解明なくしては、地方における教育実態の構造的解明は、その深部の核心を把握しそこねるといっても過言ではあるまい」と強調している3)。しかし、まだこの頃は「教育情報回路」概念を用いてはいないようである。
 発表者が把握している最初の使用例は、2003年のものである。梶山は、2003年9月21日、同志社大学で開催された教育史学会第47回大会のコロキウム「〈教育のメディア史〉の可能性」(オルガナイザー:辻本雅史)において、「近代日本における教育情報回路形成史への視点(1)―情報回路としての地方教育会」と題して報告した4)。当日の配付資料には、以下のように記述されている5)。

 教育情報回路として一般的には、教育行政機構、学校装置、教員・教員養成システム、教科書・教材供給システム、通信・出版メディアが想起されよう。
 しかしながら、教育行政担当者、師範学校スタッフ、教員、地方名望家を構成メンバーとした戦前の地方教育会は、実に歴史上、新たな組織・システムの造出であったのであり、その組織体は注目すべき教育情報回路を形成した。
 [略]多様な事業を駆動し、恒常的運動体として、教育情報の集積、配給、そして情報操作を行い、戦前の教員、教育関係者の価値観と行動様式を水路づけ、さらには地域住民の教育意識形成に大きな作用を及ぼした。

すなわち、ここではまず、「教育行政機構、学校装置、教員・教員養成システム、教科書・教材供給システム、通信・出版メディア」を一般的に指すものとして、「教育情報回路」概念が提示されている。そして、「戦前の地方教育会」は、その諸事業によって教員・教育関係者・地域住民の価値・意識・行動を方向づける教育情報回路を形成する一つの組織体として、注目されている。そして、地方教育会について、仮説的に以下のように述べた。

近代日本社会に学校装置を着地させ、駆動させる上で、地域に教育情報を最も濃密に凝縮させ循環させ、時事案件処理を担った地方教育会は、きわめて強力な「メディア」として機能したとの視点をなげかけてみたい。

 このように、「教育情報回路」概念は、2003年の教育史学会第47回大会コロキウムにて、「教育のメディア史」(辻本雅史)と関連づけながら使用された。ここで、この概念は、教育会研究特有の概念という位置づけではなかったものの、教育史研究における地方教育会の意義を説明する概念として使用された。教育会をメディアとして捉える「教育情報回路」概念の早い使用例である。
 梶山は、2004年7月3日、東北大学において「教育会の総合的研究会」を発足させた。この研究会の発会趣旨は、地方教育会の機能について、以下の点を強調している6)。

教育会の機能を端的に表現するならば、文部省の教育政策を前にして、地方における教育政策と教育要求を最も現実的具体的調整を担った特異な団体であったと言える。

このような表現は、1997年の論文でも使われている7)。また、この趣旨文には「教育情報回路」概念は使われていないようである(要確認)。なお、ここでは単に「教育会」とあるが、基本的には「地方教育会」を指している。
 再び「教育情報回路」が使われたのは、2005年3月、論文「教育会研究文献目録1」(竹田進吾と共著)である。とくに、この共著論文の以下の部分は重要である8)。

 明治、大正、昭和の戦時にいたる期間、全府県さらに朝鮮、満州、台湾、樺太、南洋群島にも設立されるに及んだ教育会は、近代日本の歴史において、空間・時間両軸において実に注目すべき巨大な教育組織であった。1872(明治5)年の「学制」発布以来、地域に教育情報を最も濃密に凝集させ循環させ、時事の案件処理にあたった教育会は、近代日本社会に学校装置を急速に普及定着させ、また社会教育を広範に推進したきわめて注目すべき情報回路であり、強力なメディアであったといえるのではあるまいか。教育会は多様な事業を駆動し、恒常的運動体として、教育情報の集積、配給、そして情報操作を行い、戦前の教員、教育関係者の価値観と行動様式を水路づけ、さらには地域住民の教育意識形成にきわめて大きな作用を及ぼしたのである。
 教育会の登場から解散に至る全プロセスを射程に入れ、教育会が各時代に何をもたらしたか。いかなる変化が生じたか。この教育会の組織・機能・活動実態について、トータルにその歴史的意味を解明することが必要である。

ここで、教育会史研究の対象について、全国内・植民地を対象とする対象地域の設定(空間軸)と明治・大正・昭和戦時期を主要対象とする対象時期の設定(時間軸)とが行われた。また、教育会について、国内・植民地の教育会全体を一つの巨大な教育組織として総合的に捉え、地域に教育情報を濃密に凝集・循環させて時事案件の処理に活用する存在として捉えた。ここでは、「教育情報回路」とは、近代日本社会における学校の普及定着および社会教育の推進にかかわるメディア、という意味で使われている。教育会はそんな「教育情報回路」またはメディアではないかと、仮説的に定義された。先述の通り、「教育情報回路」概念は教育会以外にも適用される概念であったから、ここで教育会はそのうちの強力なものとして位置づけられたということになる。2005年10月9日、東北大学で開催された教育史学会第49回大会において、コロキウム「近代日本における教育情報回路としての中央・地方教育会」が初めて開催されたが、このコロキウムの趣旨説明でもこの共著論文における定義がそのまま適用されている9)。

1)すでに、梶山雅史「教科書国定化をめぐって」(本山幸彦編『帝国議会と教育政策』思文閣出版、1981年)には教育会への注目が見られる。
2)梶山雅史「京都府教育会の教員養成事業」本山幸彦編『京都府会と教育政策』日本図書センター、1990年、491頁。
3)梶山雅史「岐阜県下地方教育会の研究―安八郡教育会の発足状況」全国地方教育史学会編『地方教育史研究』第18号、1997年、16頁。
4)なお、この前に、同年2月発行の『岐阜県教育史』通史編近代一において、教育会を「教育行政担当者・師範学校スタッフ・校長教員によって地域に新たに形成された教育情報回路」として強調している。(梶山雅史「総説」岐阜県教育委員会編『岐阜県教育史』通史編近代一、岐阜県教育委員会、2003年、1頁)
5)梶山雅史「近代日本における教育情報回路形成史への視点(1)―情報回路としての地方教育会」教育史学会第47回大会コロキウム配布資料、2003年9月21日。
6)梶山雅史「あとがきに代えて」梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』学術出版会、2010年、493頁。
7)梶山、前掲注3)、16頁。
8)梶山雅史・竹田進吾「教育会研究文献目録1」『東北大学大学院教育学研究科研究年報』第53集第2号、2005年、304年。
9)『教育史学会第49回大会プログラム』、東北大学、2005年10月、19頁。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「教育情報回路」概念の検討... | トップ | 「教育情報回路」概念の検討... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

教育会史研究」カテゴリの最新記事