「来年」を失わないために。

……来年があるってことは、ものすごく幸せなことやねんで。

【あの9月(7)】後夜祭の花火

2005年09月27日 | あの9月
【あの9月】シリーズ最終回です。

9・24で最期を迎えたバファローズ。
私にとっては、この神戸での試合は「後夜祭」のようなものでした。
実をいうと、この試合に足を運ぶ気は直前まで無かったのですが(正直、燃え尽きてたし)、結局会社が終わってから向かうことにしました。
おかげで、「勝って終わり」の予定が「負けて終わり」になってしもたやんかー(笑)

「笑顔の最終戦」


ブルーウェーブのファンの方にとっては、これがブルーウェーブの「最期」でした。

この球場でずっとライトにいたブルーウェーブを愛する人たちは、何に思いを馳せていたでしょう。

私はバファローズファンだったので、どうしてもいつも「近鉄バファローズを失った」という視点でばかり話をしてしまいます。それは当たり前だし仕方ないことだろうと思っています。
でも、ブルーウェーブのファンの人たちは「ブルーウェーブ」を失ったのです。
親会社の名前が残っても、ネッピーとリプシーが残っても、ユニフォームのデザインが殆ど変わらなくても、

「オリックスバファローズ」と「近鉄バファローズ」が全く別のものであるのと同じで「オリックスバファローズ」と「オリックスブルーウェーブ」とは別のものなんだもの。

ブルーウェーブファンの方から「合併反対」の声があまり大きく聞こえなかったことに当時は歯がゆく思っていましたが、たとえ少数でも私たちで同じ気持ちでチームを失うことを悲しみ、苦しみ、涙し、そして静かに「オリックス」に背を向けた人はいました。


あの時マウンドに上がった若手たちのうち、藤崎と朝井はイーグルスに来ました。
朝井は成長著しく、ローテの一角を担うまでになりました。
藤崎も一度は戦力外通告されたものの、シーズン序盤にはローテに入っていました。
アベケンや宮本はオリバへ。彼らの成長をこちら側からも楽しみにしています。
ベテランたちはというと、吉井は戦力外から再びテストで這い上がり、「おっちゃんはまだ出来るで」と見せ付けてくれましたね。小林はイーグルスへ。
あの時レフトスタンドにも挨拶にきた3人のうち、大島はオリバでのコーチ就任の話を断りイーグルスで何度も大きな仕事をしてくれました。

あっという間のような一年だったけど、こんなにも彼らを取り囲む状況は変わってしまった。
あの頃とは別の時計が着実に時を刻んで、

「近鉄バファローズ」も「ブルーウェーブ」もない今日を迎えました。



後夜祭の花火は、近鉄バファローズのファンである私の時計をそっと止める最後の合図だったのかもしれません。



なんの利害もなくただ好きなチームをひたすら応援するだけのファン達。
その中の誰一人、あんな風に自分の意思と反してその時計を止めなければならないような事が起こらないように祈るばかりです。

【あの9月(6)】永遠の9・24

2005年09月24日 | あの9月
今日明日、大阪ドームではオリックスバファローズと北海道日本ハムファイターズの試合が行われます。
明日は、日頃お世話になっている日ハムファンブロガーの皆さんに合流してファイターズの応援に行きます。
でも今日は遠慮しました。

今日が、「24日」でなければ、行っていたと思います。
出勤日の土曜日なんて有給で休んでも誰も文句言わないし。
仕事もたいして無いし。

でも、どうしても、「今日」だけは、
大阪ドームで野球を見る気にならなかった。


一年前の9月24日、大阪ドームで大阪近鉄バファローズが最期を迎えたこの日に。


何年分かと思うほどの涙を流した2004年でしたが、
あれほど声を張り上げて泣いたのは後にも先にもこれっきりでした。

9・24ドキュメント ~1~  ~2~ ~3~

この記事は日付こそ2004/9/24ですが、書いたのは半月以上経った10/17のことです。




愛するチームが「最期を迎える」ということの意味を、

白熱する終盤のペナントレースの中だからこそ、
どうぞもう一度考えてください。


この記事は私のメインブログday by dayにも掲載しています。

【あの9月(5)】そして、礒部の涙

2005年09月23日 | あの9月
2004年9月23日。
1年前の今日。

大阪ドームで大阪近鉄バファローズはオリックスブルーウェーブとのホーム最終戦を戦っていました。
私は6月13日以降、大阪ドームでの主催試合は2試合を除いて全て足を運んでいましたので当然この試合もライトスタンドで見守っていました。
この試合は、結局バファローズが敗れたということくらいしか、覚えていません。

いつそのニュースを聞いたのかも実を言えばよく覚えていません。
ただ、
「今週末のストは回避されたらしい」
という情報だけはスタンドで耳にしていたように思います。

ストが回避されたということは、選手会側とNPB側の折り合いがついたということです。


けれど、ストが実施された決定の時に古田が謝罪したように、
その「折り合い」の中には私が、私たちが本当に望んでいたはずの「合併撤回」という内容が含まれていないだろうことは───

容易に察しがつきました。


帰宅して、ネットで情報を集め、そしてニュース映像をチェックし………


その後の数ヶ月の間、思い出したくもないのに繰り返し繰り返し見せ付けられることになる、あの映像を見ることになります。


そして、私はこの日記を書きました。


なんで礒部が泣いて謝っているのか、どうしても納得がいかなかった。
私たちをこんなに苦しめた元凶は、悪いことをしたなどひとかけらも感じずに上機嫌に笑っているというのに。




あれから1年。

あまりにも多くの心を踏みにじって出来た合併球団。
選手は頑張ってる。監督もよくあのチームをまとめあげてくれたと思う。

でも、チームをあんな形にした「上の人」はきっとこう思ってる。

「合併したおかげでたいした補強費も使わず補強ができてチームは強くなったし招待券をばらまいたおかげもあるだろうが客もそこそこ入るようになったし、あれはやっぱり大成功だったな」

仮にあのチームがまた低迷期を迎えたり動員が伸び悩む時期が来たら、彼はまた考えるだろう。

「またどっかの同じように伸び悩んでるチームと合併したら何年かはもりかえして美味しい汁が吸えるはず」

頑張ってる選手やその選手たちを一生懸命応援してるかつての仲間たちには本当に申し訳ないけど。
そう思ったらこれ以上あの会社に美味しい思いをさせたくないです。




あなたの愛するチームに「来年」があるという約束は、誰もしてくれないのです。


この記事は私のメインブログday by dayにも掲載しています。

【あの9月(4)】野球のない週末

2005年09月19日 | あの9月
9月の泣き言シリーズです。

スト決行。
スト2日目。

プロ野球初の選手によるストライキ。
ストライキを決行することによって勝ち得たものはなんだったんでしょう。


ゼロかヒャクか、ならば私にとってはゼロでした。

なぜなら、このストを決行すると決めた時にはすでに、選手会側は
「合併を覆すことはもう不可能だ」
と判断していたからです。

ご紹介した記事にも書きましたが
「これはゲームセットのコールに等しい」
と思いました。

この時点で、もうすでに「選手会しか頼れるものがない」という気持ちになっていたせいだと思います。
その選手会が、球団合併そのものは凍結させることはできなかったと言ってしまっては、もう他に頼るものがない。
例えば、元凶の偉いさんたちが自分達の利益に関することで内輪もめでもしてくれて白紙に戻るなどという形でしかもうこの決定を覆すことはできないのだろう、そんな気がしました。

それでも、古田はじめ選手会を責める気にはなりませんでした。

彼らと私では目指すものは全然違っていたとは思います。
でも、少なくとも目標は同じところにあったはずでした。
そして、選手として戦うほかに会議などに出て戦っていたこと、それは、多分、他の誰よりもファンに近いところでいてくれたからだということを私は今でも信じたいと思います。


もっともらしい理論を並べる評論家や、訳知り顔の球界関係者の人たち。
その誰よりも、「この合併でBuとBWが消滅すること、それを心から苦しむファンがいること」を思いやった発言をしていてくれたのが選手会(というか古田…)でした。

人気がない、球場に人がこない、だから経営が成り立たなくなる……

その少なくても必死でそのチームを愛して応援しているファンが、まるで価値のないもののように言われてきました。
むしろ、少ないこと自体をその少ないファンが批難されるという理不尽な目にもあってきました。

でも古田は、数は少なくても、愛する球団を失うファンの痛みについて、きちんと言葉にしてくれていたんですよね。

だから、スト決定の内容には絶望もしたけれど、選手会支持の看板だけは下ろすまいと思っていました。


あの日、「すぽると」出演中に古田が流した涙。
それを見て、私が共に流した涙は別の意味を持っていたけれど。



野球のない休日。

報道は無責任に、これが「野球人気」に与える悪い影響を懸念すると垂れ流していたあの日。


藤井寺球場で選手たちにサインをしてもらってまわったあの日。



もう「最後」なのかもしれないという絶望と必死に戦っていた私がいました。

【あの9月(3)】9月15日は何の日でしょう?

2005年09月15日 | あの9月
9月の泣き言シリーズです。
9月15日という日付は、2004年の騒動の中で特別な意味を持つ日ではありません。
むしろ、エアポケットのように何も無かった日だったのかもしれません。
ストライキを一度回避し、2度目の協議交渉委員会を控えた水曜日でした。

9月15日というのは、おそらく、タイガースファンの方にとっては特別な日付だと思います。
2003年の9月15日は、タイガースが18年ぶりの優勝を決めた日だったからです。

再編騒動のエアポケットで、私はふとそのことを思い出しました。

当時私は個人サイト「SINUS」で99年9月から日記を書きつづけていました。
「去年、タイガースが優勝した日って私は大阪ドームでダイエー戦を見て、夕方からは吉川のライブに行ってて、しかも3列目だったわ。ライブが終わったあと、ミナミの暴徒(笑)がうっかり流れてくる前に帰らなきゃと思って急いで帰ったっけ。それから優勝特番をいっぱいはしごして見てたなぁ」

そんなことを思いながら、「その日」の日記を読んでみたのです。



私自身の、楽しそうな日記が突然、胸を刺しました。


それで書いたのがこの日記でした。

多分、ずっと心に溜まっていて。
色んな人の意見を見たり聞いたりしているうちに混乱もして。
感情的になってはいけない、ただ感情に任せたところで爺さんどもにはなにも響きはしないと思いもし。
ファンであるということがそもそも感情的なことなのだから感情任せのどこが悪いのかと思いもし。
もはや選手会しか頼れるものがないとも感じ。
何も判っていない人に少しでも理解を求めるためにはどうすればいいのかを模索し。



そんな時に、自分自身の日記を読んだことで

自分がこれまで何を奪われてきたのか。
そして何を奪われようとしているのか。

これまでになくはっきりとそれは私の心の中で形を成したのです。


「たった1年前には…」
と書いたあの日から、もう1年たってしまいました。

あの時書きながら涙が止まらなかった日記。
今でも、正直なとこ読み返すと涙が出てきます。

自分に同情して泣くなんてみっともないと思うのですが───

これを読んで涙がこみ上げもしない自分にはなりたくない。
そんなふうに思うのです。

そして、今でも思うのです。




楽しかったはずの2004年を、
単なる「去年の続き」だったはずの2005年を、
大阪近鉄バファローズとともに戦ったはずの2005年を、

返してよ、と。

【あの9月(2)】記事の隅についでのように書かれた一文

2005年09月09日 | あの9月
9月の泣き言シリーズです。
本来なら昨日、マジレンジャーや響鬼の感想文などより優先して書いておくべきだったのですが、実をいうと何を書くべきか考えてるだけで苦しくなって投げ出していました。

運命の臨時オーナー会議。 (2004/9/8)

この記事にリンクを貼った記事はすでにWEB上では削除されています。
でも、その中の一番大事なところを、私は転記していました。

オリックスと近鉄の合併を正式に承認し、
来季はセ・リーグ6球団、パ・リーグ5球団の
変則的な2リーグ制を維持することを決めた。


こんなに短い文で。

いくつもの議題の中のひとつにすぎないようなあっけなさで。


たくさんの、他球団のファンの人が力づけてくれた。
「まだ終わったわけじゃない」
「まだ戦いはこれからだよ」
「ストでも何でもして、そんな承認なんて覆させよう」
私も、何度も何度も自分に言い聞かせた。
大阪ドームで、見慣れた顔の常連仲間と、同じように励ましあった。

でも、この日の日記には、今にも倒れてしまいそうな私の泣き声が綴ってある。
口でどんなに前向きで威勢のいいことを言っても。

どんなに戦っても、
結局、ここまでズルズルときてしまったじゃないか。
正直、今だから言えることだけど、この時私は本当に絶望していたのだ。
もう無理だ、何をやっても何の力にもなれないじゃないか。

いつも、観戦後にほぼ欠かさず書いていた観戦日記も、この日は書けなかった。
岩隈と松坂の投げあいで、勝った試合だったけど───。

おまえたち、1リーグになるのが嫌なんだろう、ほら2リーグを残してやったぞ、それで満足しろよ。
そんな年寄りたちの嘲笑が聞こえるような気がして、眠れなかった。
2リーグがどーした。そんなもんどうでもええわ。
「もう一つの合併」は破綻したのに、なんでうちの合併は破綻せぇへんの?

老人たちの笑顔と、自分の無力さが
悔しくて悔しくて悔しくて、
布団に入っても泣けてきて眠れなかった。

それでも、殆ど倒れていたけれど
完全に倒れるわけにはいかなかった。
一度倒れたら二度と立ち上がれなくなりそうだった。
まだ、倒れちゃいけない。
選手たちはまだ戦ってる。


この日。
本当の最後の戦いが始まった。

夏の初めに始まった戦いは、
あの忘れられない暑い暑い夏は───

秋を迎えようとしていた。


トラックバック先(順不同):
今日は何の日?-広島カープを除く11球団が球団合併を決定した日:なにわっち's Weblog
去年の今日って……:にわか日ハムファンのブログ
そういえば、今日は「あの日」だったのですね…:夢で逢いましょう
一年前の9月8日…:スポーツが好きです@SeesaaBLOG
あれから1年も経ったのか…:孤空の彼方へ
バファローズが殺された日:Starless and Bible Blog
一周忌。:おおまちまるかのなんてことないひび。
9・8オーナー会議~牛をNPBに:やきう大好き!
わやや・・・こんな合併なんか、わやや・・・:阪急神戸線新開地行特急ブログ
オーナー会議、そしてストから1年:いすみマリーンズ
近鉄バファローズが消えた日。あれから1年。:マリンブルーの風
あれから1年この先も…:★Field Stars★

【あの9月(1)】 いっしょに歩いた道

2005年09月05日 | あの9月
今年も9月がやってきました。

イーグルスが連勝したり若手投手陣の活躍でわいわいと一喜一憂している一方で、
「去年の9月は泣いてばかりいたなぁ」
と、思い出します。
あれはたった1年前のことだったのかと、
逆にもう1年も経ってしまったのかと、
何度思い出しても軽い驚きを覚えるのです。

9月は、またそんな思い出して切なくなったことを垂れ流してしまおうかと思います。
さぞかし鬱陶しいことでしょうが、気が向いたらお付き合いください。
そして、たった1年前にどんな悲劇があったのか、思い出していただけませんか。


去年の9月5日には、合併反対デモ行進(大阪)に参加しました。

この時、福岡のホークスファンの友人が大阪へ遊びにきていました。
彼女は、嫌な顔ひとつせず、むしろ喜んで、一緒にデモ行進に参加してくれました。
ホークスファンなのに、レッドdeハッスルの赤Tシャツを着て、本町付近から合流し難波まで歩き、その足で大阪ドームへ。
彼女はこのシーズンが始まる前に、冗談っぽくではありましたが
「ウチ(ホークス)、来年はないかもしれないし」
と言っていました。
愛する球団の来年を失うかもしれない。
それは彼女にとっては現実的で共有できる不安だったのだと思います。

あの時一緒に歩いた皆が、バファローズを失いたくないという同じ気持ちで歩いていた筈です。
バファローズファンだけでなく、その日の対戦相手であるホークスのファン、それ以外のチームのファンの皆さんがたくさん、一緒に歩いてくれたのです。

その日の試合は「バファローズとホークスの最終戦」でした。

最終戦の恒例である、エール交換。
「来年も、このチームで対戦しよう」
そんな祈りをこめて、がんばれホークス、がんばれバファローズと声援を送り合いました。

あの時ホークス応援団が送ってくれた「がんばれバファローズ」のコールは、

「オリックスバファローズ」に対するものでは決してなかった。


1年後の今。
一緒に歩いたバファローズファンの多くは今は同じ大阪ドームで
「オリックスバファローズ」を応援しています。
「ああ、オリックスバファローズ」という歌を歌っています。

そして私は、ゴールデンイーグルスを応援しています。


大きく反対方向に分かれてしまった道。
一度分かれてしまった道はもう二度と合流することはありません。
私が彼らと同じ道を歩くことは───

二度とありません。



「とりかえしがつかない」
というのは、こういうことなのです。