思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

漱石の矛盾

2017年03月22日 | 思考探究
 夏目漱石著『草枕』から。旅する主人公が片田舎の床屋に立ち入った場面での江戸は神田の生まれ出身の店主の風貌等から醸し出される滑稽さに春の長閑さを語る場面に「矛盾」という言葉が使われている。旧漢字で変換できない部分もあるが次のように書かれている。

 矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯(たいく)において氷炭相容(ひょうたんあいい)るる能(あた)わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在あって始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやくしじんろう磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。大人(たいじん)の手足(しゅそく)となって才子が活動し、才子の股肱(ここう)となって昧者(まいしゃ)が活動し、昧者の心腹(しんぷく)となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽(こっけい)を演じている。長閑(のどか)な春の感じを壊(こわす)べきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半(やよいなかば)に呑気(のんき)な弥次(やじ)と近づきになったような気持ちになった。この極(きわめ)て安価なる気えん家は、太平の象(しょう)を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。(ワイド版岩波文庫・p72から)

 弥生三月のその時その場の出来事。そこに矛盾を見る。

 有ったか、無かったか。

 昔からそうなのだろうが、世の中の騒がしさは、見つめなおせば滑稽である。同程度の人間で、同程度の自覚意識で生きているように思い、対等に相手を批評すると争いになるが、我とは異なる次元の人々が織りなす喧騒世界だと、視点を展開させると、途端に滑稽に見える。

 長野県の上空にオスプレイが飛来し、戦争のきな臭いにおいを感知できる嗅覚をもつ者にとっては許しがたき事態だ。
 
 残雪残る山並みを越えて飛来する姿に思わず感動のシャッターを押したくなる、そんな人々も多々いる。

 世の中の出来事という現象に、人は、私は、汝は悲憤慷慨するのだろう。

 もう雪は降らぬだろうと思い、普通タイヤにしようと、春のどかな休日に、ふと思ったが、浮雲のようにふんわりしていると、意志が砕け、タイヤ交換を断念した。・・・何ということだ一転して雪が降り、気温が徐々に下がりはじめるではないか。

 天候という自然現象を、感覚で読み取りこのまま季節は移行するものかと思うと、途端に騙される。

 騙すつもりは自然にはない。人間同士には騙し合いがあるが、自然を相手にそのようなことはあり得ない。

 刻々と時は刻まれ、春の日差しの中観の中に息をつく。ため息まじりの言葉を吐く。

 「太平の象(しょう)を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。」

 明治もなんだかんだで、大正、昭和に移行し、その後平成に転じた。畏れ多いが間もなくその時代も終焉を迎えようとしている。

 もう少しマシな人々はいないものか。

 マシな人間。

 しまった! 我は何者かと思っているのか。汝が問う。「まじめですか」かと。