思考の部屋

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私のジレンマ

2016年08月03日 | 哲学

 年齢を重ねるごとに時代に遅れていることがあります。「PC」という単語にパソコンをイメージしますが、「ポリティカル・コレクトネス」の略で使われることがあることを最近知りました。

 それは間違いではないのですが、社会学の言葉の略だということを知り学びを忘れている自分を反省しています。今の私の日常会話の中には登場することはない言葉で、個人的に認識できる言葉の範囲は、環境に左右されるとともに理解や発想というものは言葉に関わる働きですから思索という働きも場所における現れ、学びを忘れることが遅れ感を生起させているとも言えそうです。

 この「PC」ウィキペディアの解説では、

 ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。
1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」という運動だけでなく、差別是正に関する活動全体を指すこともある。
この運動は日本語など英語以外の言語にも持ち込まれ、いくつかの用語が置き換えられ、言い換えられたが、しばしば伝統的な文化や概念と対立する。

とあり、言葉なくして人は何も表現できませんがその言葉自体の共有と使用の正しさが、改めて社会の動きの中に重大な出来事として起きていることに気がつきました。

 7月31日にEテレで“新世代が解く!ニッポンのジレンマ「ポリティカル・コレクトネスのジレンマ大研究」”という番組がありました。1975年以降に生まれた社会学者等の討論会、時々視聴していますが、今回は社会に今現在起こっている事態を読む背景に不可欠な言葉であることを知りました。

 この番組について番組紹介を引用しますが、

<参加者>
メディア批評家…大澤聡
政治学者…吉田徹
社会学者…富永京子
多文化教育ベンチャー創業者…岩澤直美
ライター・編集者…九龍ジョー
【司会】古市憲寿,二宮直輝
【語り】細谷佳正

<番組内容>
 マイノリティーへの差別、偏見をなくそうという取り組み=ポリティカル・コレクトネス。そのメッセージの重要性は勿論だが、その有効性は?そこに生まれるジレンマとは?

<詳細>グローバリズムの潮流とともに日本でも広まった、PC=ポリティカル・コレクトネス。直訳すれば、政治的正しさ。マイノリティーへの差別、偏見をなくそうという取り組みだが、その本家・アメリカでは今、逆行する流れが生まれている。いわゆるトランプ旋風の中、移民などへの差別的な発言が喝采を浴びる現象が。その時、この日本では?本当の「平等」とは?歴史的な経緯も踏まえ、文化の違いを考え、ジレンマを越える方法とは?

ということでどんなことが討議されたかが何となくわかるかと思います。

 「何となく」と表現したのですが、そもそも言葉(カタカナ用語)を知らないとついていけませんが、それよりもトークのスピードに驚きます。私の周りにはこのような人たちはいませんから当然でしょうが、新世代の知識人とでもいうのでしょうか大変なものです。

 確かにアメリカのTrump(トランプ氏)の発言や実際に日本で起きているヘイトスピーチ問題があり、多数なのか少数なのか、マイノリティーオピニオンに対して正しさの価値判断では問えない事態がこの時代に起きています。

 過去に「正義論」が流行しましたが、別視点からの再浮上といったところでしょうか。

 空気を読む、相場化、表現の自由、配慮という言葉が討論の中に出てきます。

 情報化の時代において、リテラシー(情報や知識の活用能力)があれば日本文化と西洋文化の違いは解消されるのか。人種・民族・宗教を超えて理解し合えるのか。

 マイノリティー・ポリティックス(人種・民族・宗教などの少数派による政治行動)に正しさが現れているのか。

 確信的にその場に於いて現れている個人

 特殊な言葉が一般化し、一般的な言葉が特殊化し、そこにジレンマが形成される。

 個人はその場に於いて現れ、ジレンマを経験する。

 場の論理、場の哲学

 「場所」の西田哲学の中期に展開される思考の世界

 人の「善」、人の「正しさ」は、今に現れる。