思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

裸的実存と団子的実存

2015年05月02日 | 哲学

 自分の日常を吐露しながら今日のブログを書きますが、読者登録しているブログを読ませていただいていると突然の病の告知に驚かされ、わが身に起きかねない事実として問われるているように思う。

 私という人間はどこまでも私であって、どうも画一化されることに忌避する態度が無意識のうちに湧き上るのが分る。だからといって非倫理的・非道徳的な世間から疎まれるような特段性格異常を見せるわけではないと思うが、どちらにしろ質的差異のあるほうがみが落ち着く。

 その質的差異も当然に上記の様な特別視されない変わり者を是認するものではなく、巷に個性を紛れ込ませて平凡に生きるそれだけでいいのです。

今朝の日の出

 




一段と庭の木々の色が色濃くなってきました。

 最近既知の哲学会の読書会における人物になっている森有正と今年の正月に放送されたEテレの『日本人論』(「日本人」とは何ものか?)の最初の哲学者九鬼周造に触れているとキルケゴールのように質的差異を好む立場における実存的存在者を個人的に好むようになっていることに気づきます。

 私は宗教的実存にあるわけではなくどちらかというと裸的実存者で日々の変容はあくまでも個性的な着飾りでありたいと模索しています。

 森は戦後のフランスに行き、九鬼は戦前のドイツからフランスでその国の文化に触れ一方は絶望に他方は個性的な哲学に走りました。森は宗教的実存にあったようで九鬼はどうでしょう・・・「いき」的実存に生きたとでもいうのでしょうか・・・両者ともにおもしろい人生です。

 現代の若者は個性に生きているようでいてよくよく見ると・・・同一化の帰来があります。常に何かのまとわりの中にあり、カテゴリーに納まって行きます。ヤンキー化でもなんでもすべてがそのようなものになって行く、団子になって行く・・・そういう意味で団子的実存・・・なるべくしてなる個性ではなく集団に見える。

 悪さをする者はトコトン似た様な悪さをし、極端な例としてはそれまで仲間としていたものを生き埋めにして殺害することに違和感が持っていない団子的実存になり、一方では大いなる慈愛に満ちた集団も多くある。

 そういう世界を見ていると私などはますます我が身を振り返る主体的な質的な差異を持った個性の内に納得して桜の下に朽ちたいと思うのです。

 裸的実存に何を纏(まと)うか・・・当然宗教的実存を否定をするものではありません。