鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「真理」は創造主を前提とする理念

2022年07月31日 | 永続確信のための聖書解読

 

  「真理」という日本語がある。 

     その意味は「変わらざる知識」だ。 

 

  この理念は、もともと日本にはなかった。 

     幕末から明治になって、英語のトルース (truth) が邦訳されて出来た語なのだ。 

 

 

<万物を創造した方の知識は変わらない> 

 

 「万物を創造した創造神」ならば「自分が創造した(被造物)のすべて」を知っているはず 

                ~前回筆者はそう述べた。 

 

     全存在を知っていれば、もうそれ以上観察範囲を広げる必要が無い。 

       だからそこから出る知識は「修正する必要がなく」「変わらざる知識」となる。 

 

     これは、創造主の理念があって初めて生じる概念なのだ。 

 

<ヘボン先生の苦心> 

 

 日本で邦訳聖書を初めてつくったヘボン先生は、このトルースに相当する日本語をつくるのに苦心された。 

 

  結局、「真(まこと)」という、昔からある語に、 

     「理(筋道)」という語を組み合わせて、 

           「真理」と邦訳された。 

 

<「科学」の源泉なのに> 

 

 真理の理念は「科学」という思想の源にもなっている。 

    科学では、わざわざ「仮説」という語を使う。

      

   「新事実が見つかったら修正する必要があるば知識」をいう。

             (だから「仮に設定した説」なのだ)

 

   この概念は真理の理念があって初めて心に生まれる思想だ。 

       科学が、自らを「真理に向けての永遠の仮説修正の営み」としているのは、それ故だ。 

 

<基本知識省略の習性> 

 

  ところが日本人には、そういう基本的な思想活動を軽視する習性がある。 

     西欧でできあがった科学知識も、それだけを摘み取って、成果をチャッカリ享受してきている。 

 

 この習性が、統一教会などに苦もなく取り込まれる、という結果をも産んできている。 

  

   聖書本来の思想は、聖書を掲げる新思想を吟味するための唯一の手がかりだ。 

            これを知る努力を省いたら、なすがままにされるしかないのだ。 

 

(続きます) 

 

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創造主が全奥義を知っているのは

2022年07月30日 | 永続確信のための聖書解読

 

  前回、創造神の持つ深い奥義を追ってみた。 

  今回は「創造主はどうしてそんなに知っているのか?」を考えよう。 

 

+++ 

 

 創造主からしたら人間は被造物であって、五感でしか物事を認識できない。 

   だが、その限られた世界から「推論」することはできる。 

 

 

<テレビの不思議> 

 

 今日ではみんなテレビ(受像機)をもっている。 

  これに電源(電流)を入れ、映像と音を出して楽しんでいる。 

 

     だが、その仕組みをわからないでいる。 

 

<考案した人間は知っている> 

 

 けれども、わかっている人間もいる。 

    それを考案・設計した人物だ。 

 

 このことから、万物の創造主を推論理解できる。 

   「全被造物の考案・創造者」だから全てをわかっている、全知だと。 

 

@@@@@

 

  <「信じる」と「知る」再論> 

 

  蛇足だが、前述した「信じる」と「知る」の奥義を再確認しておこう。 

 

   我々は生来、「五感で認識できるもの(物質界)だけの世界観」をもっている。 

     そこに万物の創造主のイメージを取り入れると、どうなるか。 

 

   「創ったもの」(創造神)と「創られたもの」(被造物)との「二つを含んだ世界観」が意識に生じる。 

       この合計二つになった世界観をどうするか。 

 

<日本にはニッポンの伝統が!> 

 

 「信じよう!」とすると、一つを絶対の真理だと思わねばならなくなる。 

    わざわざ一方に~意味もないのに~しがみつく。 

 

 ************** 

   「創造神と被造物?」それは西洋の考えだ。 

    日本人には日本人にふさわしい伝統的な考えがある! 

 ************** 

 

     ~という具合に陶酔してしまう。 

 

  こうして、わざわざ理性(理知)を殺してしまう。 

   聖書の思想を「知る」ことすら出来ないものにしてしまう。 

  

    ともに「知ればいい」だけの話なのに。 

  

     (続きます) 

 

 

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創造主発の言葉がもつ最深の奥義

2022年07月27日 | 永続確信のための聖書解読

 

 前回、聖書に出てくる言葉には、「意味深さ(奥義性)のランク」のようなものがみられる、~と筆者(鹿嶋)は言った。 

  

 今回はその第一番目~ ①「父なる創造主発の言葉」を具体的にみよう。 

 (今回は少し長くなる) 

 

 <イエスが変貌した山での事例> 

 

   この種の言葉の数は多くない。 

           以下に一つの事例を示そう~。 

 

  ******************** 

 「イエスは、ペテロとヤコブと、その兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。 

 

 彼らの目の前で、イエスの御姿が変わった。 

 御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。 

 

 そこにモーセとエリヤが現れてイエスと話し合っていた。 

 

 すると、ペテロがイエスに言った。 

  『先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。 

   もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋をつくります。 

    先生のために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ』 

 

   彼がまだ話している間に、光り輝く雲が三人をつつんだ。 

   そして、雲の中から声がした。 

  

 『これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。 

     彼の言うことを聞きなさい』」 

 

  弟子たちはこの声を聞いて、恐れ震えて、ひれ伏した。 

    するとイエスが来られて、彼らに手を触れて言われた。 

     『起きなさい、怖がることはない』 

                (「マタイの福音書」17章1-5節) 

********************** 

 

 

<創造主は何も「説明」しない> 

 

 ~ここで「これは私の愛する子・・・彼の言うことを聞きなさい」が、創造主発の言葉である。 

 

 これが何を言っているか、そのままでは、ほとんど皆目わからない。 

   多くの奥義を含んでいそうだが、創造主は、わざわざそれを説明しない。 

 

    それが創造主発の言葉の特徴だが、いまそれを解読してみよう。 

 

  <イエスの言葉さえ説明要素に> 

  

    結論から先に言えば、父のこの言葉は、御子イエスの言葉ですらを、その奥義の説明要素にしている。 

 

    イエスが別のところで言っている、次の言葉がそれだ~。 

 

******************** 

 「諸君は聖書(旧約聖書)のなかに永遠のいのちがあると思って読んでいます。 

      だが、聖書は私のことを述べているのです」 

           (「ヨハネの福音書」5章39節) 

****************** 

 

~ええっ? 何言ってるの? 

 

 そう、イエスのこの言葉だって、解読しないとその奥義がわからない。 

そういう言葉を、奥義として含んでいるのが、「父なる」創造主のことばなのだ。 

(だから深いのだ) 

 

 でもとにかく、このイエスの言葉を解読してみよう~。 

  

<旧約聖書はオレのことを言っている本> 

 

では、始める~。  

   まず、イエスが語っているこの時点では新約聖書は存在しない。 

   だから、聖書と言えば、いまでいう「旧約聖書」のことだ。 

    まず、それを認識しよう。 

 

  ~すると、「旧約聖書は、実は、自分(イエス)のことを述べている本だ」と、イエスが言っていることがわかる。 

 

+++ 

 

だけど、旧約にはイエスという名は一度も出てこないよ。 

   なのにイエスのことを述べているのであれば、それは、次のケースでしかない。 

 

 すなわち、それは比喩(たとえ:別のものに投影すること)でもってイエスを述べている以外にないのだ。 

 

+++ 

 

 そして実際に、その視角で読むと、旧約は、なんと、すべてが見事に新約聖書のイエスを比喩表現していることがわかってくる。 

       (ここではトライしないが、興味のある人は、試みられたい) 

 

  

<旧約の預言は「養育係」> 

 

だがそういうことであれば、また、別の疑問が出てくる。 

 

~どうせイエスが登場して、そのものズバリで、イエスを示すのならば、旧約聖書なんて必要なかったのではないのか? 

  

  その存在意義はあったのか? 

  あったならなんのために存在したのか? 

 

 ~これに対して伝道者(使徒)パウロは、その手紙の中で述べている。 

  聖句を見よう~。 

 

***************** 

 「イエスの言葉(理知)が現れる以前には、わたしたちは律法の監督下に置かれ閉じ込められていました。 

 ・・・・(中略)・・・律法は私たちをキリストへと導くための養育係となりました。 

 ・・・(中略)・・・だがイエスの言葉が現れた以上、わたしたちはもはや養育係の下にはいません」 

                   (ガラテヤ人への手紙、3章24-5節) 

******************* 

 

  ここでパウロは「律法」の語を旧約聖書全体を代表させて使っている。 

 彼は~「イエス(の理知)が現れる前には、旧約聖書はイエスを知る認知力を養うための養育係として役に立った」という。 

 

 そして~ 

 「だが本物(イエス)が現れたのだから、もう、養育係は要らないよ」

       ~といっているのである。 

 

+++ 

 

 モーセもエリヤも旧約時代の預言者だ。 

   御子イエスがいる今、もう、旧約の預言は要らない。 

  

 ~以上でようやっと、イエスが「変貌」した山で、創造神から直接下った言葉~ 

 

********************** 

 「『これは私の愛する子、・・・彼の言うことを聞きなさい』」 

********************** 

 

  ~の意味(奥義)が解読できた。 

 

 つまり、「モーセとエリヤの幕屋」は、ヤコブにもヨハネにも、もう不要だと、

    父なる創造主はいっていたのだ。 

 

+++ 

 

 長かった・・・。 

   創造神発の言葉は、こんな膨大な奥義を含めていた。 

 

  御子イエスの言葉でさえ、その奥義の説明になるとはね。 

   さすが万物の創造主だ・・・。 

  

<過去を追憶する素材> 

 

~蛇足を少々。 

  万物の創造主発の言葉の権威は絶対だが、筆者(鹿嶋)の私情もひとこと付言させて欲しい。 

 

 父なる創造主は、そっけなさすぎでないの? 

  いまや旧約には存在意義がないといっても、なにか少しはみとめてあげたら? 

 

 かつて「モーセやエリヤの預言」は、教科書として旧約の人々を養育してくれた。 

  そういう過去を懐かしく追想する素材としての価値を、認めてあげましょうよ。 

      

    (続きます) 

 

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言葉の意味深さにはランクがある

2022年07月26日 | 永続確信のための聖書解読

 

 これまでに我々は「信じる」と「知る」を比較した。 

 

 「信じる」は一般人向けの言葉だが、その実体は「知る」と同じだった。 

 

 だが(両者のつまるところの意味は同じだが)「信じる」の “奥にある意味” を「知る」は持っていた。 

 

+++ 

 

 この考察体験から、筆者は一つの仮説的な知恵を得た。 

    (あくまでも経験則だから、蓋然性はあるが、聖句解読の助けになると思うので記しておく) 

 

 

<違うのは「奥義」の量> 

 

 たとえば、同じイエスの言葉でも、人間に向かって語っている言葉と、

   父なる創造主に向かって語っている言葉とでは、意味の奥深さが違うのだ。 

 

 奥深い意味を聖書では奥義(おくぎ)という。 

     (辞書には「おうぎ」とカナ表記されているが、筆者は「おくぎ」と読む) 

 

   前述のように「信じる」と「知る」は、言ってることは、つまるところは同じだった。 

      (「信じる」は間違いで、「知る」が正解、と言うわけではなかった) 

 

 だが、その「奥義性」とでもいうべきもののレベルは違う。 

   「知る」は、「より奥義的」なので、「信じる」よりも多くの説明が要るのだ。 

  

<奥義性のランク> 

 

 その体験から、筆者は聖書の中の言葉の奥義性に、ランクのようなものを見出している。 

    それを高い順に示してみると~ 

 

  ① 父なる創造主発の言葉。 

 

  ② 御子イエスが父なる創造主に向かって語る言葉。 

 

  ③ イエスが弟子その他の人間に語る言葉。 

 

  ④ 人間が手紙などで他の人間に語っている言葉。 

 

           ~となる。 

 

  この奥義性の順序を意識におくだけで、聖句解読の効率が飛躍するのを筆者は体験している。 

 

 次回から、各々の説明を試みよう。 

 

(続きます) 

 

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「知っている」だけで救われる

2022年07月25日 | 永続確信のための聖書解読

 

 前回の問題は、これであった~。 

 

 イエスは通常は「信じる」の語を使っている。 

  なのに、(ヨハネの福音書、17章3節)では、なぜ「知る」といっているのか。 

 

      (ここは重要な聖句箇所だと鹿嶋は考える) 

 

 

<聖書の中の独特の章> 

 

 まず、これを見逃さないでおこう~。 

 「ヨハネ福音書、17章」は福音書の中でも独特の章であることを。 

    

  ここはすべてが、父なる創造主に、イエスが直接語りかけた言葉でなっている。 

  

 この状況ではイエスは、人間という「受け手の限界」を考慮に入れる必要が全くない。 

   だから~「信じる」でなく~ズバリ「知る」を使って語っているのだが、いまそれを詳論しよう。 

 

 

<簡単明瞭な「救い」の条件> 

 

  念のため、前掲した聖句をもう一度示そう~。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです」 

          (ヨハネの福音書、17章3節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

これをくだいて言えば~ 

 

「永遠のいのちを得る方法は、創造主が唯一のまことの神であることと、その神が遣わされた救い主イエス・キリストを知ることである」 

 

    ~となる。これは前述した。 

 

+++ 

 

 ここでイエスは人間に「永遠のいのち」を与える条件~いわゆる「救い」を受ける条件は~。 

 

 創造主と御子イエスに関するメッセージが、その人の「意識に存在してるかどうか」(「知る」というのはそういうこと)だけだ、

 

           ~といっている。 

  

 存在してれば「永遠のいのち」を与えるし、してなければ与えない、といっているのだ。 

 

 <だったら誰でも救われるのでは?> 

 

 条件はあっけないほどに簡単だった。 

  すると、こんな見解も出るだろう~。 

 

 「真理だと信じてなくていいのか?」 

 「ただ、”聞いて知っている”でもいいか?」 

 「“どこかで聞いたことあるなぁ” だけでもいいのか?」。 

 

 「だったら”永遠のいのち”なんて、みんな誰でも “いただき!” じゃないの?」 

 「天国に入れない人間など、いないのではないの?」 

 

 

<拒絶すれば「知る」ことがない> 

 

 だが、そうではない。 

  それでも創造神とイエスに関する言葉を心に持たない~知らない~ケースは結構生じうる。 

 

 代表は、メッセージの受信を拒絶する場合だ。 

 

 ~イエスがエルサレム神殿広場で福音を語っている当時は、これが非常に多かった。 

 

  いまでも、我が国にはこのように最初から耳を塞いで、聞きもしないケースが少なくない。 

 

      「笑わせるな・・・」 

      「そんな馬鹿馬鹿しいおとぎ話など聞いておられるか」 

 

 

<「受け入れられなくても聞いておきなさい」が福音> 

 

 だが、イエスは「ヨハネ17章」ではっきり言っている。 

 拒絶しなければ聞くことになり、「永遠のいのち」を得て、死後、天国にて幸福に永続できることになるよ~と。 

 

  実際、全知の創造主が救うか救わないかを判断するのは、天からみて「自分と愛する御子に関するメッセージ」が当人の心に存在しているかどうか、でしかありえない。

 

 その記憶が濃いか、薄いか、などいちいちみていない。 

 ましてや「信じなければ!」といって顔を引きつらせているかどうかは、「救い」の基準にならない。

    これが道理だろう。

 

<拒絶したその言葉が当人を裁く> 

 

 それをイエスは「ヨハネ12章」でこう言っている~ 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

  「わたしの言うことを聞いて、それを守らなくても、わたしはそのひとをさばきません。 

 ・・・(中略)・・・ 私の言うことを拒み、受け入れないものには  

 ・・・(中略)・・・ 私の話したことばが、終わりの日にその人を裁くのです。」 

                (ヨハネの福音書、12章47-48節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

    裁きの基準は、「受信を拒否したかどうか」だけなのだ。

  

<わざわざ難しくいう教職者> 

 

 これをわざわざ難しく~「信じないと!」~といって、長文を書き連ねている牧師さんら聖職者がフェースブックでも、少なからず散見される。 

 

 教会説教でも、「信じなさいっ!」「信仰が足りない!」と繰り返し信徒を叱っている。 

 

 もったいない話だ。 

  これでは信徒は、どうしたら救われるかが、わからなくなってしまう。

 

 父なる創造主にイエスが人間の理解力の制約なくして、 

  そのまま率直に言っている(ヨハネ17章で)こと、 

この「福音(良き知らせ)」の神髄を、我々は知るべきだ。 

 

(続きます) 

 

 

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「信じる」の意味、「知る」の意味

2022年07月24日 | 永続確信のための聖書解読

 

 

 前回の問題~ 

 「創造主とイエスを知るだけでいいのか、信じなくていいのか」 

  ~を考えよう。 

 

+++ 

 

 まず、そもそもの言葉の意味から~。 

 

<知る> 

 

 「知る」は、ある信号(情報)を心に受信してキープしていることだ。 

     これは「知っている」と解するとわかりやすいだろう。 

 

<信じる> 

 

 他方「信じる」はどうか。 

  これは信号(情報)に「これは究極の真理だ」という判断を付加して

  受信する状態~あるいはしている状態~を言っている。 

 

<真理判断は人には不可能> 

 

 でも考えてみよう。 

  ある情報について、「真理だ」と判断するのは、客観的な意味では人間には不可能だ。 

 

  (可能ならば、科学の仕事~真理の限りなき追求作業~はすぐに終わってしまう) 

 

  つまり「これは真理である」という判断は実質的には空虚なのだ。 

  

   「信じる」は「知った情報」にほとんど「何の意味も付加していないで」受信している。 

      それは「知る」と結果的には同じような行為なのだ。 

 

<他の情報に耳を塞がせる> 

 

 それだけではない。「信じる」という気持ちでの受信の仕方は、認識上のマイナスも産む。 

 

 ある知識情報を「これが究極の真理だ」と思うと、人はそれにしがみつく。

  その結果、それ以外の他の知識情報に対して排他的意識を、心に形成することになる。 

 

  つまり、結果的に、他の情報に耳を塞いでブロックするだけのことになるのだ。 

 

<真理願望> 

 

 でもイエスは通常人間には「信じなさい」の語を使っている。 

 

  それは人間が「究極の真理を知りたい」という真理願望を生来心に抱いているからだろう。 

   その気持ちを満たすために人は、新しい教え、知識を「信じる」として受容したいのだ。 

 

  そしてイエスも、それに合わせて、「信じる」の語を使っているのだろう。 

 

 +++ 

 

  だったらなぜ、イエスは上記、(ヨハネの福音書、17章3節)で、「知る」といっているのか。 

   

   それを、次回に探求しよう。 

 

(続きます) 

 

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「聖書本来の思想」をいま少し

2022年07月24日 | 永続確信のための聖書解読

 

   統一教会問題に関する考察は、以上で一段落した。 

  結局、「聖書本来の理論・思想を身につけていること」だけが、洗脳回避策となることがわかった。 

 

 身につけてないで接触してたら、洗脳もマインドコントロールもなされるがままになる。 

  洗脳を避けるには、接触を避け、逃げまくるしかない。 

 

+++ 

 

  だが、それだけでいいのか? 

 

  本稿の出発点での考察目的は「聖書から永続確信をどう抱けるか?」だった。 

 

 早くそれに戻りたいが、この機会に、聖書本来の思想を知るための知識を、

 もう少し述べておく必要も感じるのだ。 

 

+++ 

 

<「永遠のいのち」を得る簡単な方法> 

 

 筆者は先回、聖書思想の核心は「“永遠のいのち”を(霊に)得ること」だといった。 

 

 それを得る簡単な方法は、聖書にないか? 

  次の聖句を見よう~。 

 

****************** 

  「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、

   あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです」 

          (ヨハネの福音書、17章3節) 

******************* 

 

 「永遠のいのちとは・・・・を知ること」というのは、イエス独特の表現だが、言ってることはこうだ~。 

 

 「永遠のいのちを得る方法は、創造主が唯一のまことの神であることと、

   その神が遣わされた救い主イエス・キリストを知ることである」。 

 

+++ 

 

 さてこうなると大きな問題が生じる。 

 

  まず、「知るだけでいいのか」「信じなくていいのか」というのがそれだ。 

 

+++ 

 

 実際、イエス自身も、こういう時にはほとんどの場合「信じる」の語を使っている。 

  

***************** 

  「わたしを信じる者は、たとえ死んでも、生きるのです」 

       (ヨハネの福音書、11章25節) 

***************** 

 

   一体どうなっているのか?

    どっちが正しいというのか。

     次回に、この問題を吟味しよう。 

 

(続きます) 

 

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「永遠のいのち」を霊に得る

2022年07月23日 | 永続確信のための聖書解読

 

 

 ① ② ③ の改造理論だけを見ていると、なんだかわからない気持ちになってくるだろう。 

 

 聖書本来の思想~説明したが~を放念しやすくなるからである。 

 

 ここで改めて、聖書本来の思想のエッセンスを「永遠のいのち」の概念から示しておこう。 

 

 

<神髄は「いのちエネルギー」> 

 

 聖書が重視するのは、人の霊にいのちという「エネルギー」~いのちエネルギー~を充電することだ。 

 

 霊は永続する。 

 

 「いのちエネルギー」には減衰するものもあるが、永遠に減衰しないものもある。 

それが「永遠のいのち」だ。 

 

**************************** 

「永遠のいのちエネルギー」を霊に得ると、その霊は、イエスの空中再臨と共に、新しい身体に復活する。 

そして天国という幸福世界に、永遠に住むようになる。 

************* ***************

 

 このビジョンを、それを得る方法と共に示したのが、「福音(ふくいん)」だ、 

     聖書が「福音の書」であるゆえんはそこにある。 

 

+++ 

 

<聖書最大のプレゼント> 

 

 聖書の思想は、常に、永遠をみつめている。 

 「永遠」という概念を、人類に積極的に与えたのは聖書のみだ。 

 

    (この理念は、数学で言う「無限大」概念の源にもなっている) 

 

 地上の楽園は~もし実現可能としても~物質的な存在だ。 

物質は時限的であり、有限な世界だ。 

 

 永遠に比べれば、百年も二百年も、千年も億年も、結局ゼロに等しい。 

 

  聖書は人類に、「永遠の人生」のビジョンを与えているのだ。 

 

(続きます) 

 

 

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政治団体の併設へ

2022年07月22日 | 永続確信のための聖書解読

 

 前回、現世理想郷建設思想は容易に政治思想に直結する、と述べた。 

 

 実際、教祖は教団の中に速やかに政治団体を創設している。 

 勝共連合(共産主義運動に勝つための連合体)なる付属団体がそれだ。 

 

<教団組織の推進力に> 

 

 教団が発生した国(韓国)の統治者は、自由市場経済方式で国家を運営中である。 

 

 運営を担当すれば誰でも、共産思想の宣伝活動に、常時過敏状態になる。

 軽いノイローゼといってもいい状況で、常態的に仕事をすることになる。 

 

 彼らは、喉から手が出るごとくに、この連合体の利用を欲してくる。 

 

 ~ その結果、教団は多くの政治家の共鳴者をもうることになっている。 

+++ 

 

 この動きは、世界の自由主義諸国にも広がるに至っている。 

(日本でも、早くから岸信介、福田赳夫、安倍晋太郎らの協力をかちとっている) 

 

 なんとも、よく考えたものだ。

      (続きます)

   

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地上理想郷ビジョンの心理効果

2022年07月22日 | 永続確信のための聖書解読

 

 前回に示した、置き換え要素の「第二」は、珍しいものではない。 

 

 すなわち、「イエスから教祖への権威の置き換え」は改造思想 ①でも、②でも、なされていることだ。 

 これには聖書理論改造の常套手段といった観もある。 

 

+++ 

 

 だが、「第一」の置き換え、すなわち、理想郷の「天国から地上現世世界への移し替え」は、なかなかなアイデアだ。 

  これは教団員獲得のためには、大きな心理効果を発揮するのだ。 

  

<すんなり受け入れられ易い> 

 

a. 効果の第一は、そのビジョン(夢、まぼろし)が、すんなり受け入れられやすい、ことだ。 

  

 人はいま現に地上世界で生活している。 

 だから、その世界が理想郷になって欲しいという願望は、物心ついた時から自然発生的に心に育ってきている。 

 

 それが故に、人々はこの現世理想郷のビジョンを示されると、当然という感情で気楽に受け入れるのだ。 

 

 

<人心を燃やしやすい> 

 

 b. 第二の効果は、人の心を燃やすことだ。

 

 現世の地上世界は、人が今生きている「世」だ。 

 自分が現に生きている世界を改良したいという願望は、人は心の深くに抱いているものだ。 

 

 だから人心は、そのために働きたい、と容易に燃えもするのだ。 

 

 ~ a. b. 二つの特性は相まって、教団は多くの共鳴者を得ることになった。 

 

+++

 

<政治活動につなげやすい> 

 

c.  第三の効果は、思考が政治活動につながりやすいことだ。 

  地上理想郷ビジョンは現世改善思考を生み、それは現世の政治を改善したいという思いを生む。 

 

  この思考は、人々を政治活動に誘導しやすいのだ。 

 

~これについては次回に述べよう。 

 

(続きます) 

 

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「理想世界」と「真理体現者」の組み替え

2022年07月21日 | 永続確信のための聖書解読

 

 統一教会の改造理論~③~では、二つの要素の組み替えを行っている。 

 

その第一は、「求めるべき理想世界」の組み替えだ。 

 

これを理解するには、「聖書の空間理念図」が助けになる。 

 

 

 

 

 

 

+++ 

 

 聖書本来の思想では、人間が求めるべき空間は「天の創造主王国」すなわち、創造主が王として統治する天国だ。 

 

 そこは創造主と御子イエスを「知った」人間の、死後の霊が復活して幸福に生きるところの「永遠の霊的世界」だ。 

 

 

<宇宙は火の湖と化す空間> 

 

 では地上世界はどうかというと、聖書本来の思想では、そこは「宇宙」の一部である。 

 

 宇宙には、創造主に反逆した天使長が追い落とされ、閉じ込められた牢屋空間がある。 

 

 そこで悪魔となった天使長は、牢名主(君主)となって、裁きと刑の執行の時まで一時的に君臨している。 

 

 (人間は、なぜかその空間の中(の地上)につくられている) 

 

 イエスが悪魔を「世の君(君主)」といっているのは、そういう意味だ。 

 

 そして宇宙は、つまるところは(「最後の審判」の時には)、火で焼かれ「火の湖」と化すべく定まっている。 

 

  

<理想郷となるべき場> 

 

 改造理論③では、その現世の地上世界が組み変わっている。 

 

 そこが、人間が「理想郷にすべく努める場」だと、置き換えられている。 

 

 

<イエスは諸聖賢の一人> 

 

 第二の組み替え要素はイエスだ。 

 本来の聖書思想では、イエスは「究極の真理の体現者」とされている。 

 

 だがこの改善思想 ③ では、イエスを歴史に現れた聖賢の一人としている。 

 

 そして「神が、その真理の体現者にしたのは教祖である」という。 

  教団の教科書(『原理講論』光言社)はそう述べている(p.38)。 

  

(続きます) 

 

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イエスは十字架刑死すべきでなかった 、という

2022年07月20日 | 永続確信のための聖書解読

 

もう一つ、二十世紀に出た改造理論を、③として示そう。 

  

********************* 

③  

・イエスがこの世に送られた目的は、人の霊を天国という霊界に送るためだけではない。 

 

・まずこの世に、全人類が統一されて幸福に生きる理想郷を建設するためでもあった。 

 

・だから、イエスは十字架で殺されてしまってはいけなかった。 

 

・だが、創造神はその目的を実現すべく、究極の救い主にして真理の体現者を送ってくださっている。 

 

・それが教祖だ。 

 

・人間はこの現世を楽園にするために、教祖に尽くすべきだ。 

 

************************ 

 

 

  この改造理論 ③が、今話題の「統一教会」の理論である。 

 

 これは20世紀に韓国で出ているが、少々手が込んでいる。 

  この理論での「移し替え」を、次回に考察しよう。 

 

(続きます) 

 

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イエスの権威をエホバに置き換える

2022年07月19日 | 永続確信のための聖書解読

 

  時代が下って、19世紀に出た事例を ②として示そう~。 

 

 

************************** 

②  

 ・旧約聖書に出てくるエホバはイエスの父の名だ。 

 

・彼は、モーセを通して人間に律法を与えた。 

 

・イエスは自ら「父は私より偉大」といっている。 

 

・我々はエホバが伝えた律法こそを大切に学び守らねばならない。 

 

・また我々はそのことを証言する「証人」として 

生涯、伝道すべきだ。 

************************

 

   ~この思想② は、19世紀の米国に出現している。 

   提唱者はチャールズ・ラッセル。 

 

+++ 

 

   ~この改造思想は、意図的なものではない。 

      少し説明が要る~。 

 

@@@@@@@@@@@@@@ 

 最近の聖書に記されている「主」(英語では "Lord” と記されている) の語は、元々は「エホバ」(Jehovah) であった。 

      (日本語の文語文聖書にも「エホバ」と訳されている) 

    改造理論のエホバは、それをいっている。 

@@@@@@@@@@@@@@ 

 

  ~本筋に戻る。 

  この理論はエホバの名の奥義を解読できないが故に、結果的に出た改造理論なのだ。 

       (正しい解読は、鹿島春平太『エホバはイエスの父ではない』 

           アマゾン、Kindleブックス、を参照) 

 

   がともあれ、結果的にこれは、イエスの名の権威を、エホバの名に移し替えている。 

 

+++ 

 

  そして、この教えは、日本でも(世界でも)結構、猛威を振るっている。 

 

  人間の心には、「宗教」というと、規律(律法)で縛ってくれる教え、修養する活動、との期待もある。 

  その期待が大きい人は、これに注力するのだ。 

 

 (続きます) 

 

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イエスを「預言者」と組み替える

2022年07月18日 | 永続確信のための聖書解読

 

改造世界観の事例、まず、比較的早期のものを①として示そう。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

①  

・イエスは神の子ではなく、旧約聖書にたくさん出てくる預言者(超霊感者)の一人で、多くの預言をした。 

 

・彼は十字架刑死ではなく、自然死している。 

 

・創造主は、後の預言者になるほど、より究極的な預言を与える。 

 

・自分は、イエスの後に創造神が送られた、最後の預言者である。

          (だから、わたしの言葉に従いなさい) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

この改造思想は結構早く、7世紀に中東で出ている。 

 

こうして出来た新宗教の教典には、イエスだけでなく、アダムも、アブラハムも、モーセも出てくる 

本来の聖書の中で、最後のイエスのところだけを組み替えたからそうなる。 

 

だが結果的に、聖書本来の思想にあるイエスの「権威」を、そっくり自分(改造提唱者)に移し替えている。 

 

+++ 

 

 ちなみに、この改造理論だと、提唱者の後にも「新しい預言者」がでる可能性は否定できない。 

 実際、この宗教圏では「私は最近新しい預言を受けた最後の預言者だ」

 と自称宣言するものが周期的に出てきているそうである。 

 

 だが、その宣言が普及することはなかった。 

 これまでのところ、提唱者が最高の権威者と言うことになっている。 

  

 筆者をこの宗教の礼拝にも案内してくれた、当該宗教圏の若者がそういっていた。 

 

(続きます) 

 

 

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人は世界観飢餓心理で生きている~世界観欲求再論~

2022年07月17日 | 永続確信のための聖書解読

 

 聖書思想の改造理論を具体的に考察する前に、いま一段と深く認識しておくべきことがある。 

 

 筆者は、「統一教会問題」の解明を論ずる最初に、「世界観本能」を述べた。 

  人間は、世界観を持つことへの欲求を、本能的に抱いている~と。 

 

 だが、この程度の記述では、実体が十分に認識されないのではないか、と思う。 

 

 <米国心理哲学者の洞察> 

 

 この欲求は、感性的にも確実に認識しておく必要がある。 

 でないと、具体的な改造理論の説明が空回りする恐れが大きい。 

 

+++ 

 

 これをさらに深く直感できるために、米国の心理哲学者の洞察を、改めて引用しておきたい。 

 

 その人は、ウィリアム・ジェイムズという。 

 米国の実践哲学である『プラグマティズム哲学』の集大成者だ。 

 

 彼は、世界観欲求心理を、一見過激とみえるほどに劇的に述べている~。 

 

******************************* 

「若い人が、全世界は一つの偉大なる事実を形づくり、

その全ての部分は、いわば相並び組み合わさって動いているのだという考えにはじめて思いつくと、 

 

 彼はまるで何か偉大な洞察力でも恵まれたような気になって、 

 まだこの崇高な概念に達しないでいる全ての人々を傲然と見くだすのである」 

 

        (W.ジェイムズ『プラグマティズム』桝田圭三郎訳、岩波文庫、 p.99) 

*********************************** 

  

<世界観飢餓>  

 

 この「傲然と見くだす」姿勢を産むのは、(世界観への)欲求と言うような、生やさしいものではない。 

  それは敢えて「飢餓感」とも言うべき心理だ。 

 

 この「飢餓」が満たされた瞬間に、人間~特に若者~は、心に抱いた世界観を「崇高!」と感じるのだ。 

 

 <共産主義思想> 

 

 過去の人類史において、そうした世界観の代表の一つは、マルクスの「共産主義世界観」だろう。 

  これは、我々が生きるこの現世において、

  「人間が互いに他者を搾取することなく、平等に生きられる」 現世理想郷のビジョンだ。 

 

 これを知ったとき、人の心は感動で戦慄する。 

 多くの人はビジョン実現のためには、自己の生命をなげうってもいい、とすら思いこむ。 

 

<大逆事件> 

 

 この思想は、日本には早くも、明治40年代に入ってきた。 

 すでにこの思想は欧州、ロシアに吹き荒れていた。 

 

 日本では、幸徳秋水らがこれを学び始めた。 

 当時、明治政府はまだ出来て間もなかった。 

 

 新しい国家の為政者は、国家の一体性崩壊の恐怖、ノイローゼに襲われながら国家運営をするものだ。 

 

 恐怖心から逃れるために、為政者は、幸徳らが明治天皇の暗殺を計画していたという事件を(ほとんど)でっち上げた。 

  1910年(明治43年)に彼らを検挙し、翌年の44年にそのうちの12名がすみやかに処刑された。 

          大逆事件と呼ばれている。

  

<戦中の逮捕・投獄> 

  

 だが、共産主義思想は大正デモクラシー時代を経て、また幅広く輸入され、国内に大普及した。 

 

 昭和の戦前戦後には、日本の青年たちは、この思想の示す理想郷実現のために、生命の危険をかけて献身した。 

 戦時中には、多くが治安維持法で投獄された。 

 

<戦後の安保反対大運動> 

 

  戦後、被投獄者は解放されるが、思想は若者の心に深くしみ込んでいた。 

 

  それは、戦後1951年に米国と結ばれた安全保障条約の改正時、1960年にも、激しく盛り上がった。 

   東大・京大を始めとして、全国ほとんどの大学生が、安保改定絶対反対のために立ち上がった。 

  (筆者は当時、名古屋の高校生だったが、わけもわからず、デモに参加させられ街を歩いた) 

  

     国会を取り囲んだデモの中で、東大生・樺美智子さんがなくなり、若者はますます燃えた。 

 

+++ 

 

 当時、昭和30年代半ばには、自由市場体制で、日本経済は超高度成長を遂げていた。 

 だが、そんなことは眼中に入らなかった。 

 

 人間心理は、基本的に世界観飢餓状態にある。 

 特に、現世ユートピア世界観は、人間を激しく取り込み没入させる。 

 これをしかと悟って次回に進もう。 

 

    (続きます) 

 

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