鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

46.「癒し」には三つの方法がある

2019年03月27日 | 鬱を打破する聖書の論理
 



前回、病人に按手すると病人が癒やされるメカニズムを考えた。
これを容認すると、新しい問題が浮上する。

それは、“イエスの黄金の約束”と按手との関係だ。
黄金の約束とは~「わたしのことばが諸君のうちに住まうなら、望むことは何でもかなえられる」~だった。

「何でも」といったら、病人の癒しも含まれる。
つまり、病を癒やすのに、聖書には二つの方法が提供されていることになる。
すると癒しについて、この両者の関係をどう見たらいいのか、という問題が浮上するのだ。

+++

これを考えようとすると、癒しの方法を鳥瞰することになる。
そして、鳥瞰すると、聖書にはもう一つの、第三とも言うべき方法も出てくると、鹿嶋は認識している。



<第三の方法>

それは~「イエスの名のなかで命ずる」~という方法だ。
 
命じる対象は、病人でもいいし、その病を引き起こしている「汚れた霊」でもいい。また、ウイルスなどの物質でもいい。とにかく命じるのだ。

+++
 
この方法は少し解読がいるが、『ヨハネ伝』の14章13節に記録されている。

邦訳聖書で示すとそれは~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたが、わたし(イエス)の名によって求めることは何でも、それをしましょう」
  (ヨハネによる福音書、14章13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~となっている。

 
 
<修正すると>
 
面倒だが、この邦訳文は修正が必要だ。
 
まず、これまで繰り返し述べてきたように「イエスの名によって」は「イエスの名(の波動体)の中で」というのが正しい訳だ。
 
+++
 
そしてこの聖句には、もう一つ直すべき邦訳語がある。

それは「求めることは何でも」の「求める」だ。
 
これは英文でaskとなっている。
(このあたりの英文聖句は "Whatever you ask in My name" となっている。)
 
ところがギリシャ語(新約聖書の原文の語)に詳しい人によると、このaskはむしろcommand(要求する、命じる)に近い意味を持ってる、という。
 
すると聖句はこうなる。

つまり~「わたし(イエス)の名の中で対象に、望む方向に変化する(癒やされるも含む)ように命じることはなんでも、わたし(イエス)がしましょう」となる。
 
 
 
<弟子は「命じて」いる>
 
実際、新約聖書『使徒行伝』にその一例の記録をみることができる。話はこうだ~。
 
イエス昇天後に弟子のペテロとヨハネがエルサレムの宮殿に入ると、足のきかない男が運ばれてきた。

このときペテロは彼に「ナザレのイエスの名の中で歩きなさい』と“命じて”いるのだ。

その結果を聖句はこう記している~
 

・・・・・・・・・・・・・・
「(ペテロは)その男の右手をとって立たせた。するとたちまち
彼の足とくるぶしが強くなり、おどりあがってまっすぐに立ち、歩き出した」
(『使徒行伝』3章6~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
この方法の特徴は、癒しを父なる創造神でなく「イエスご自身がなされる」、となっているところにある。

イエスは、「私の名の中で命じたら“私がする”といっているのだから。


 
<どの方法でもいい>

そこで「父がなさる」のを「第一の方法」とし、按手を「第二の方法」とすると、この「私(イエス)がやる」は癒しの第三の方法と言ってもいいだろう。

もちろん、第一と第三の方法がカバーするのは、癒しに限らず、願うことの全てだ。

だが、それらは癒しをも含んでいるのだから、癒しに焦点を当てれば、その三つの方法といってもいいだろう。

では、癒しを施そうとする側は、このうちどの方法をとったらいいのか。

答えは、「どれでもいいはず」、となるだろう。
みな、聖書に記されている、イエスの約束だからだ。

どの方法をとっても、病人は癒やされる。

ただし、どの方法でも、癒やそうとする人は、イエスを全身全霊込めて愛し、イエスに同一化していることが必要だ。
そういう「信じ方」に至っている人であるべきことも明記しよう。








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45.「⑧手を置けば病人がいやされる」理由

2019年03月22日 | 鬱を打破する聖書の論理


今回は~
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
~の最後のフレーズ⑧病人に手を置けば病人はいやされます」である



これも、前回の「毒を飲んでも害を受けず」に共通した原因による。

病人は、物質的にせよ、霊的にせよ「死の波動(いのちのマイナスの波動)」に侵入されている、というのが聖書の論理だ。

だが「信じる」の第(III)ステージに到達している人間は、イエスと同一化している。

だから彼の身体は~イエスがそうであるように~創造神から放射されている「いのち波動」が通過しやすくなっている。

その波動が、置いた(按手した)手を通して、病人の身体に流れ込むのだ。

すると病の真因である「死の波動は楽々と相殺され、消滅してしまう。極当然の論理として、そうなるのだ。


 

<癒しは神の光線>

こう述べながら、筆者は、多くの病人を按手でいやしていた女性伝道師のことばを思い出す。

今は老齢となって癒しもされなくなっているが、彼女は「癒しは難しくない、神の光線ですから」と常々言っていた。

筆者がここでいまいう「いのち波動」を彼女は「神の光線」と表現しておられたと思う。

まだ、言いたいことはあるが、今回はここまでにしよう。



 
 
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44.「⑦毒を飲んでも害を受けない」?

2019年03月20日 | 鬱を打破する聖書の論理

 


今回は~
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
~の「⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず」だ。

 
    
 
これは前回に引用した、『使徒行伝』のパウロの事例がそのまま対応する。もう一度示すと~

パウロ一行は、伝道旅行の途中で上陸したマルタ島の人々に、親切にされる。島の人々はおりから雨が降り出して寒かったので、火をたいてもてなした。そして~
 
・・・・・・・・・・・・・・
「パウロがひとかかえの柴を束ねて火にくべると、熱気のために一匹のまむしが這い出してきて、彼の手に取り付いた。・・・(中略)・・・しかし、パウロは、その生きものを火の中に振り落として、何の害もうけなかった」
(『使徒行伝』28章3~5節)
・・・・・・・・・・・・・・

ここで「(パウロの手に)取り付いた(fastened itself on his hand)」というのは噛みついたという意味だ。それはこれに続く次の文からもわかる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
島の人々は、彼が今にも、はれ上がってくるか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼には少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、『この人は神様だ』と言い出した」
(『使徒行伝』28章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

マムシの毒は、人の血液を速やかに凝固させる。だからまともにかまれると、生きものは急死する。
だがパウロにはそれは起きなかった。なぜか?



<「毒」は「死の波動」放射物>

毒というのは、聖書の思想では「死のエネルギー(波動)放射物」だ。
死の波動は「いのちエネルギー(波動)」によって相殺される。

パウロは回心して以来、イエスを全身全霊でもって愛するようになり、イエスと同一化している。
だから、彼の身体からはイエスと同じいのち波動が常時放射されている。

これはマムシの毒の「死の波動」を楽々と相殺し、消滅させてしまうのだ。

それゆえ、「信じる」の第(III)ステージに到達している人間は、毒を飲んでも害は受けない。
ごく当然のこととして害を受けない。

⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず」は、それを言っている。






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43.「⑥ 蛇をもつかみ」は“恐怖ゼロ”のこと

2019年03月19日 | 鬱を打破する聖書の論理


今回は~
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
~の「⑥ 蛇をもつかみ」である。

+++

「蛇をつかむ」というと、『使徒行伝』に記録されている、伝道者パウロの次の事件を連想する(28章)~。

すなわち~、
パウロ一行(「使徒行伝」の著者となるルカも加わっている)は、伝道旅行の途中で上陸したマルタ島の人々に、非常に親切にされる。島の人々はおりから雨が降り出して寒かったので、火をたいてもてなした。そして~

・・・・・・・・・・・・・・
「パウロがひとかかえの柴を束ねて火にくべると、熱気のために一匹のまむしが這い出してきて、彼の手に取り付いた。・・・(中略)・・・しかし、パウロは、その生きものを火の中に振り落として、何の害もうけなかった」
(『使徒行伝』28章3~5節)
・・・・・・・・・・・・・・

このくだりを連想するのだが、鹿嶋の正解は少し違う。

ここでの「⑥ 蛇をもつかみ」はむしろ、「恐怖」がなくなることをいっている、とみる。



<蛇は不気味な生きもの>

蛇は、本来多くの人に恐怖を与える。あの眼も、ヌメヌメした動きも不気味だ。
また聖書読みは、『創世記』冒頭で、悪魔が蛇を用いてエバを誘惑した場面も連想する。

だが、ここでは「恐怖が全くない状態」をいっているのだ。

恐怖の反対語は安息(平安)である。人の心に安息が充満であれば、恐怖心の侵入する余地はない。その状態をいっている。

 
<恐怖は安息心理を失わせる>

恐怖は、たとえ一瞬のものであっても、イエスの「黄金の約束のことば」を信じる「第(III)ステージ」の心理を失わせる。

つまり、イエスと同一化した意識波動の状態を放念させる。
すると、「望むことはなる」という状態も消滅する。

それはイエスの弟子ペテロに起きた次の事件が如実に例示している~
(マタイ14:28)

+++

~弟子たちが、イエスより先に舟で湖の向こう岸に向かっていると、夜中の三時頃、イエスが湖の上を歩いてこられた。・・・(中略)・・・するとペテロがいう。「主よ、もしあなたでしたら(幽霊でなく)、わたしに、水の上を歩いてここまで来い、と命じてください」と。
イエスは「来なさい」といわれ、ペテロは水の上を歩いてイエスの方に行った。

・・・・・・・・・・・・
「ところが風を見て怖くなり、沈みかけたので『主よ助けてください』といった。」
(マタイによる福音書、14章29~30節)
・・・・・・・・・・・・・

ペテロは、イエスの天の意識波動体の中にいて、水の上を歩いていたのだ。

そのペテロの意識に、この世(地上)の物理的意識波動体が一瞬侵入した。
すると、ペテロは地上の物理法則の波動のとおりに、水に沈み始めたのである。

 
<イエスの与える安息は・・・>

だからイエスは弟子たちにことあるごとに、「平安(安息)でいなさい」「安息あるように」といった。
「私の与える安息は世の与えるものとはちがう」といった。

+++

世の与える安息とは、「優しい言葉」や「物的豊かさ」などの、安息心理を造る環境条件が形成するものである。
安息を増す、とは、それらの環境要素を増すことだ。

だが、イエスのいう安息は、「(天の)安息の波動体そのもの」なのだ。
その波動体が心に充満すると、もう恐怖の忍び込む余地はなくなる。

その結果、驚くほどに大胆にもなる。
恐怖がゼロになれば、大胆が100%にもなるのだ。

だから、「信じる」の第(III)ステージにいたると、「蛇をも(何の恐怖もなく)当然のようにつかむようになるのだ」と。

今回の聖句⑥ 蛇をもつかみ」はそう言っているのである。




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42.⑤「新しいことばを語り」とは?

2019年03月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

今回は~

・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・

~の「⑤新しいことばを語り、」である。

結論から言うと、この「新しいことば」はいわゆる異言(いげん:strange tongue)のことを言っている。
これはまず事例で示した方がわかりやすい。

 
 
 
<「マルコの部屋」での出来事>

イエスは復活して昇天するとき、「(故郷に帰らないで)エルサレム市内に留まっていなさい」という命令を弟子たちに与えた。
信徒たち200人ほどが大部屋(「マルコの部屋」と呼ばれる)に集まっていた。

すると、突然轟音がその家全体に響き渡り、この部屋では炎のような舌が一人一人の上に留まった。
すると各々が、他国のことば(自分の理知では理解できない)で話し出した。



エルサレム神殿に参拝に来ていた人々は、轟音に驚いてそのマルコの部屋に走り、突入した。
すると信徒たちは、彼ら参拝者たちの国のことばで、各々「ワ~ワ~」と語っているではないか!

それを見て、彼らは怪しみ驚き「連中は酒に酔っているのだ」などと言った。

語っている信徒たちの大半はガリラヤの人だったからだ。

+++

こういう事件が新約聖書『使徒行伝』2章に記録されているが、ここで信徒たちの口から出たのが異言である。

 
 
<「聖霊のバプテスマ」に関する諸説>

この事件は「聖霊のバプテスマ」とも呼ばれる。
その構造はこう理解できる。

+++

聖霊は「父・子・聖霊」の一つである創造神(霊)である。
創造霊だから、そこからいのちエネルギーが常時湧き出ている「いのち波動の源泉」だ。

この波動が、信徒たちの頭を、帽子をかぶせるように包んだ。

すると当人の意識は「聖なる天の意識」になる。

 
 
<「天の父」が示したこと>

このことは『マタイ伝』16章13-20節におけるイエスのことばで示されている。

イエスが連発する奇跡に驚き、人々は彼のことをバプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、そういう預言者の一人だと噂していた。

イエスは弟子たちに尋ねた、

「では諸君らはどう思っているのか?」

弟子の一人ペテロが応えた。

「あなたは(人間ではなく)生ける神の御子キリストです」

+++

するとイエスは言う。
「バルヨナ・シモンあなたは幸いだ。そのことを貴君に示したのは、人間ではなく、天の父です」と。

そして~

「私がキリストである、と誰にも言ってはならない」と釘を刺した。



<ヨナの子・シモンよ>

余談だが~
「バ」とは「子」で、「バルヨナ」とは「ヨナの子よ」という意味だという。

「ヨナ」は旧約聖書『ヨナ書』に出てくるヨナで、彼は海に溺れて死にそうになったのに大魚が飲み込み吐き出して死ななかった。

そしてニネベという街にいき、3日の道のりを1日で巡り尽くして創造神を伝道した。

その結果、ニネベの人々はみな創造神のことばに立ち返った。

このように、1日にして全員が創造神を信じた、というスーパーマンだ。

+++

シモンというのは、ペテロの本名だから、「バルヨナ・シモン」というのは「ヨナの子・シモンよ」と呼びかけだ。

イエスはペテロに、こう呼びかけたのである。
 
 

<「まだ他の誰にも言うな」>

預言者というのは、当時、飛び抜けて高い尊敬を受けていた。
そういう特別の人だったが、人間である。

だがペテロは、「あなたは(そうではなく)創造神の子・キリストです」と言ったのだ。

「キリスト」というのは「救い主といいう職分」の名である。
ペテロはイエスを「あなたは救い主という職分をもってこられた神の子です」といったのだ。

 

するとイエスは~
「そういう認識をさせたのは天の父(創造神)だ」といった。

どういうことかというと~
この創造神は、後に、聖霊であるとイエスは示す。
そういうことになる「聖なる意識波動体」だ

つまり、聖霊がペテロを覆い囲んだがために、その意識波動の影響でペテロは「神の子」と自然に認識した。

でなければ、ナザレ村出身の聡明な青年で、大工の子で、せいぜい預言者という「人間」という認識にしかならない。

~イエスはそれを知っていたので「他の誰にもそれを言うな」と命じた~言ってもわからないから~ことになる。

イエスが、多くの他の人々に聖霊を送るのは、もっと後になる。

そしてそれが開始されたのが、上記の『使徒行伝』2章の出来事だった。




<「聖霊のバプテスマ」に関する諸説>

話を戻す。
このマルコの部屋で起きたことは、現在「聖霊のバプテスマ」と呼ばれている。

ただし「聖霊のバプテスマを受ける」というのも、いろいろに解読されうる。

+++

『ヨハネ伝』14章では、イエスは~


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは父に願って、私とは別の助け主を送ってもらいます。
その方(聖霊)は・・・(中略)・・・諸君とともに永遠に住まわれます (abide with you forever)、
そして諸君の内に入り(will be in you)ます」
     (ヨハネによる福音書、14章15-20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~といっている。

この「(諸君の)内に入る」を「(諸君の)霊の内に入る」と解し、そのときに上記「マルコの部屋」におけるように、異言が口から噴き出すのだ、との解読もできる。

+++

聖霊は「父・子・聖霊」の一つである創造神(霊)である。
それは創造霊だから、そこからいのちエネルギーが常時湧き出ている「いのち波動の源泉」だ。

これが人間の霊の内に入ると、突然、その霊は活性化し、聖なる思いがあふれだす。

霊はフロイト精神分析学では、意識の最基底層にある潜在意識であり、それは全意識の根底となる。
ここから思いがあふれ出たら、それを日常の地上のことばでは表すには追いつかない。
 
なので、「異言となってことばがあふれでれるのだ」と構造理解する。

そしてこれを「聖霊のバプテスマ」をうけたしるし、と解するのである。



<「信じた全員に入っていく」との見解>

かというと、イエスを信じてバプテスマを受けたら、聖霊は徐々に当人の内に入っていくのだ、~との解釈もある。

その場合は、異言が口から噴き出すことはないが、当人は異言を「語る」ことができていく、というのだ。

この時の異言は、意図的に語る異言だ。

+++

このことからわかるように、異言には「口から噴き出す異言」と「意志でもって語る異言」とが認識されている。

そして「信じたらみな聖霊のバプテスマを受ける」との解読では、この二つの状況はあえて区別するほどのことではない、という認識になる。

+++

かというと、前者の「噴き出す異言」が出たことを「聖霊のバプテスマを受けたしるし」とする解読も成り立ちうる。

(以後の異言も否定しないが、それは「意志の力で語る」のだ、と考える)

いずれにせよ、「異言(strange tongue) ]とはそういうもので、これは「噴き出そうが、意志で語ろうが」とにかく存在する、というのが聖書の論理である。

@@@

ちなみに、YouTubeに登場する、カナダ在住の日本人伝道者、ドクターあいこさん~多くの人を癒やしている~は、この異言を「天のことば」といっている。
すると、われわれが日常話すことばは「地のことば」となる。

たしかに「天国で語られている言葉ならば、人間日常の理知ではわからない、のが道理となる。


 
<ニッポンキリスト教の見解>

そうかというと~、

上記『使徒行伝』に記録されているような事態は、聖書という書物ができていなかったときのものだ。

いまは聖書があるからそういう事態は必要ないから、「聖霊のバプテスマ」などはないし、なくていいのだ。

~そういう見解もある。

ニッポンキリスト教の神学校の教授先生や牧師さんたちはほとんどがこれだ。

いずれにせよ、「⑤新しいことばを語り」は、そういう「ストレンジタング」を語り、という意味である。




 
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41.「悪霊を追い出す」には

2019年03月12日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

今回は~

・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・

~の「④悪霊を追い出し」である。

うつ病も含めて、人間の病には、「細菌、ウイルスなど物質的な原因のもの」もあれば「霊(という波動体)によるもの」もある。

また、悪霊は貧困、事業の失敗、家庭不和などももたらす。

 
 

まず、「信じる者には・・・」の「信じる」の状態を再確認しよう。

これは~繰り返し述べてきた~ヨハネ15:7の「第三ステージ」の状態である。
すなわち、「イエスを全身全霊で愛することで、イエスと同一化し、創造神のことばが内に住まっている」状態。

+++

それ故、この人の行くところには、天の御国の空間も伴走している。

天国は創造神が王として統治する王国。その下で天使たちがガバメント・政府を形成している。
天国の政府の権威は、地(宇宙)における悪魔が統治する霊的ガバメントの権威より圧倒的に上位にある。

そこでステージ(III)の「信じる者」が、天の統治者イエスの名の波動体の中で、(悪魔統治下の)悪霊に「出ていけ」と命じれば、彼は命令に従わねばならない。

かくして、悪霊は、入っている人の身体から追い出されるのが道理となる。

+++
 
こんにち、そうならないのは、その信じる人の「信」(ルーク唐沢の言う「フェイス」)が第(III)ステージに達してないことによるにすぎない。

その信者は「信じる」という、このだだっ広い概念を吟味することから再出発すればいい。



<悪霊とは?>

追記である。
「悪霊とは何か?」もホントは考えねばならない。

+++

霊とは「見えない意識体」と鹿嶋は認識している。

この意識体を、聖書ではどう教えているかというと、1つはいわゆる「堕落天使」である。
つまり、サタンとなる反逆天使長~その名をルシファーとする解釈もある~に従った配下の天使たちの変質した姿、という説がその一つだ。

 

<もう一つの可能性>

だが、もう一つ、~聖書はそのものずばりで述べてはいないが~「可能性」がある。
それは人間~全てではないが~の死者の霊である。

これについては『キリスト教のことが面白いほどわかる本』中継出版に事例とともに詳しく述べているので、興味ある人は参照されたい。

+++

こういうとまた「異端!!」と叫ぶニッポンキリスト教のセンセイが出るなぁ。

聖句自由吟味活動を肯定できない人がそうなるのは道理でしてね。

まあ、仕方ないね。



 

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40.「イエスの名の中で」に繋がる壮大なイメージ世界

2019年03月02日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
 
前回~
「イン・ザ・ネーム・オブ・ジーザス」の直訳「イエスの名の中で」を筆者は当面「イエスの名の持つ波動体の中で」と理解している~といった。
そして、それは深い意味をもっている、と付言した。

今回はその「深い意味」を考える
長くなる。

 
 
<「御名の中に保ち守る」がわかる>

まず、この理解によって、従来わかり辛かったイエスの次の言葉の意味が初めてわかってくる。

・・・・・・・・・・・・・
「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。・・・(中略)・・・わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしにくださっている御名のなかに、彼らを保ち、守りました」
  (ヨハネによる福音書、17章11~12)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

これはイエスが十字架刑死を直前にして、父なる創造神に、弟子たちのことを祈る大切な場面だ。けれども「御名(イエスの名)の中に弟子たちを保ち守る」という祈りの言葉の意味がわからない。
それが「イエスの名」が波動体だとなると、わかってくるのである。

つまり、その意味は~

「自分は、イエスの名の波動体のなかに彼らを住まわせて守ってきた」
そして、自分はまもなく天に上っていなくなるが、この世にイエスの名を遺していくので、その波動体の中に彼らを保ち守ってください」
 ~という風に理解できるようになる。

 
 
<イエスは天国を持って地上に来た>

ついでにイエスのこの祈りの背景を、今少し詳細に考察するとこうなる~。

聖書では被造界の大枠は、天の創造神王国(天国)とその中の「宇宙」で構成されている。





天国は、罪のない世界、創造神の義の世界だ。
対して宇宙は罪に満ちた不義の世界だ。そこは黄泉(暗いところ)であり、いわゆる「世」だ。


その宇宙に「人の子」の姿をとったイエスは~天から~やってきた。
そしてそこに、いのち、救い、希望、能力、グレースの愛、慈愛(あわれみをもった慈しみの愛)等などを実現した。

これらは全て天国(天の創造神王国)に満ち満ちた要素である。
つまりイエスは「天国(の属性をもった空間)を伴ってこの世に来た」のだ。

それ故にイエスは「回心(repent)せよ。天国は近づいた」といった。イエスの近くにいた人間には「天国は近くに来ている」ことになるからである。
 
 
+++

言い換えると、御子は天国の波動空間をもって、「世」に下って来たのだ。
そして世を切り裂き、その中にイエスの名がもつ天国の波動空間を貫き建てたのだ。

+++

天国は宇宙より絶対的上位にある。そこに住む者は、その天の権威を行使できる。

この空間が併存するようになって、宇宙は悪魔の一円知行の空間ではなくなった。
天国という波動空間が併存する、そういう二元的波動空間になったのである。
 
 
 
<「世」の空間では悪魔の権は存続>

だから、従来の「世」の属性を持ったままの空間では、あいかわらず悪魔が空中の権を握って主導しているのだ。
 
昨今「イエスが十字架で殺されても復活したから、もう悪魔は打ち負かされ、空中の権も取り上げられた」と説明する指導者が多いのだが、事態はそうではない。

イエスの復活後も、「世」の空間では依然として悪魔が支配している風景になるのだ。
 
 
 
<「殺意」の証拠はあがったけれど>

たしかに悪魔は、創造神の御子をユダヤ人たちに殺させた。
それによって、創造神に対して抱いている殺意の証拠があがってしまった。
それで悪魔には有罪判決が下り、裁きは完成した。

+++

だが、刑の執行までにはまだ期間がある。
その間も悪魔は「世」の波動空間では支配者であり続けるのだ。

悪魔はその本性に従って行動することしかできない。
だから一人でも多くの人間を自分の(「世」の)側に取り込もうと働くのだ。
悪アガキと言われようがどうだろうが、そうしかできないのだ。
 
 
 
<バプテスマとは何か?>

こうした二元的空間の中でこそ、「信じる者には次のしるしが伴います・・・」という、今筆者が問題としている聖句の、すぐ前の聖句の正確な意味と位置もわかってくる。

その聖句は~
・・・・・・・・・・・・・・・
「信じてバプテスマを受ける者は救われます。信じない者は罪に定められます」
(マルコによる福音書、16章16節)
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~だった。

ここでイエスは「信じる」だけでなく「信じてバプテスマを受ける者には・・・」と言い残している。

なぜバプテスマまで持ち出すのか。
一体バプテスマとは何なのだ? 


それはまず、①人を水に沈めるが、これは~
 
~従来「世」の空間でその不義の波動のなかで生まれ育ち、義のない人間が、その旧来の自分を~イエスの名を信じて~水に沈めて葬る行為だ。


②次いで人は水から浮上する。
これは「世」の空間にいて義のない自分を葬った後、新たに生まれて「天国の(義の)波動空間」に入る行為だ。

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このように、イエスが来てからのバプテスマは、自分の霊の居所を切り替える行為である。
これを「新しく生まれる」という。

そしてそれは、この宇宙に「天と世」という、2つの相対立する波動空間が併存していてこそ成り立つことである。

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バプテスマは「信じたことを公に表明する儀式」と教える指導者も多い。
たしかにこれは一見儀式のように見える。だがそうではない。

これは「信じた者にはバプテスマを施せ」という、「主の命令に従う」行為である。
その命令に従うことによって、人はイエスの名の波動空間の方に、その霊の居所を変えるのである。

    
 
<「救い」は霊の住む波動体を変えることで>
 
天国の波動ゾーンに入って、人は初めて義と認められる。
世において善良で正直に生きた人でも、そのまま「世」のゾーンに留まっていれば、その霊は不義とされる。
最後の審判では有罪の裁きを受け、永遠に「火の池」にはいる。

創造神は人間のうわべをみない(第一サムエル記、16章7節)で、「霊」をみるからである。

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逆に「世」において悪行を重ねた人でも天国(イエスの名)ゾーンに入るならば、その霊は義と認められる。

彼は世の法で審判され、刑罰は受ける。
だが霊は義とされ、最後の審判でも天国に迎え入れられる。

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これが「救い(salvetion)」の実体である。
救いとは霊の居所を変えることで得られるものなのだ。

それにバプテスマが決定的な役割を果たす。
だからイエスは、信じて「バプテスマを受ける者」は救われる、といったのだ。

 
<バプテスマの神秘>

話は長くなるが、この機にのべておく。
 
量子力学の知識は、バプテスマのその効果を、物理学的に理解させてくれるだろうと、筆者は思っている。
だが、いま筆者・鹿嶋にはその論理を見出す余力がない。

そこで当面それは「バプテスマの神秘」として認識している。

福音の認識では、神秘主義は避けねばならない。
それはわかっているが、ここはかの創造神の御子、イエスの事例でほぼ納得している。
ヨハネからバプテスマを受けることで、一気にその姿を変えたイエスの事例がそれだ。
 
 
聖句をみよう。「マタイ伝」3章である。

イエスはヨハネからバプテスマを受けようとする。
だがヨハネは「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに・・・」と辞退する。(14節)

けれどもイエスは言う。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、全ての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(15節)

そこでヨハネはバプテスマを授ける。
すると「イエスが水から上がられると天が開けて聖霊が鳩のように下って、自分の肩に留まられる」のをイエスはご覧になった。(16節)

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(17節)
 

<突然母マリアを「女の方」と呼ぶ>
 
これを契機に、イエスのマリアの生んだ息子であり「大工の子」の側面は後退する。
代わって人間の姿をとって現れた創造神である「人の子」の側面が前面に出る。

なんとすぐに彼は、自分を産み育てたマリアを「女の方」と呼ぶのだ。
その時彼はすでに「人の子」としての公生涯を開始しているのだ。

その転換点に、バプテスマが位置している。
~これら一連の衝撃的な出来事が、当面バプテスマの力を筆者に理屈抜きで納得させてくれている。
 

<救われてもしるしが伴わないのは>

さてこれで、16節の、「信じてバプテスマを受けるものは」の「信じる」と、17節の「信じる者にはつぎのしるしが・・・」の「信じる」との関係も明らかに出来るようになった。

結論から言うと、16節での「信じる」は、イエスの「夢の約束」(ヨハネ伝、15:7)の第(II)ステージに相当する。
だから、これにはしるしは伴わないのが道理だ。

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現在、「俺、信じてバプテスマ受けたけど、しるしは現れないよ。あの彼も、この彼女もそうだよ。マルコ伝のこの聖句の言葉はオーバーだよ」といった感慨を抱くクリスチャンは多い。

だが、その状態は当然の帰結なのだ。
この「信じる」は、次の17節での「信じる者には・・・」の「信じる」とは違うからだ。

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つまり、それに続く17節の「信じる者には次のしるしが伴います」の「信じる」は第(III)ステージの状態だ。
イエスを全身全霊込めて愛し、同化し、分身となったレベルの「信じる」なのだ。

これにはしるしが伴う。
イエスの波動体空間の中に住まって、天国の「義」を与えられ、第(III)ステージに達すれば、天の「力」をうけるのが道理だ。
だから、その人からは、当然、しるしと力が現れることになるのだ。

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「イエスの名の中で」は、以上のような豊富な論理体系に繋がっている。
 
~今回はこれまでにしよう。


                 


 
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