鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

8.創造神は「空間的無限者」

2019年05月31日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

前回、創造神イメージは、理屈(筋道)を含めた神イメージだと申しました。


端的に言えば、宿物神は「感慨の神」であり、創造神は「理念の神」なんですね。



<空間的無限者>

理念はそれにつながる理屈を次々に産み出していきます。

理性がその理屈を活かし~

「万物を創造している方」であれば「空間的無限者」だろう、という筋道(理屈)を産んでいくのです。
 
+++

どういうことか、といいますと~

もし空間的に有限な方だったら、その境界線の外側のものを「オレが創った」というのは、筋が通らなくなるでしょう。

境界線の外側にも、ものが創造され、現れる可能性は常にあるからです。

外に現れるその「もの」も「万物」の一つです。

そして、そういう創造がなされる空間が「自分の懐のうち」になかったらどうか。

「それはオレが創った」とは言いがたくなるでしょう。


 

であればその有限者は「万物の」創造者ではなくなります。

ですから、万物の創造神は空間的に無限な広がりを持った無限者でなければなりません。

空間的無限者であって、はじめて筋が通るのです。




<聖句照合>

(ここは、聖句に慣れていない人はパスしていいです) 

では、この推論に、聖句は呼応しているかを見ましょう。

聖書にはずばり「無限大」という用語はありません。

無限大というのは「限りなく大きな存在」という意味を持った聖句に触発されてできた数学用語の性格が濃いです

聖句では次のような言葉が、「創造神は空間的無限者」なる思想に呼応していると思われます。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは有りて在るもの(自存者)
 (出エジプト記、3章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
「有りて在るもの(I amu who I am)」とは、「存在するのにいかなる前提も条件も要しない、自分だけで存在しているもの」という意味で、自存者とも訳せます。

(被造物はすべて、創造者という存在があって~その存在を前提にして~はじめて存在できるものです)

この自存者なる存在は、他の全てを自らの懐に含む、無限に大きい存在と考えられるわけです。

+++

他にもこんな聖句が呼応していそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「創造神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も諸天の天も、あなたをお入れすることはできません」
 (第一烈王記、8章27節)
・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたは諸天の天と、その軍勢、地とその上のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます」
 (ネヘミア記、9章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・



<無限空間イメージの創成>

創造神イメージは、自然発生してくれないものです。

その属性である空間的に無限というイメージもそうですので、ここで、この無限空間イメージを、意図的に意識につくっておきましょう。

まず、自分の身体の上下左右の空間を意識します。
外側には壁が意識されるでしょう。

次に、それを上下左右に向けて広げていきます。
そういう状態をイメージします。

広がっても、当初はやはりその外側に壁があると意識されます。
だかまわずどんどん広げます。

黙想(瞑想)を加えていきます。

するといつのまにか、壁の印象が薄れて、限りなく広がり続く空間イメージになるでしょう

上手くいかない人はそれでいいです。
時の流れの中で、無限空間のイメージは得られていくでしょう。

(続きます)



 
 
 
 

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7.創造神イメージには「理屈」がある

2019年05月29日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

前述したように、宿物神イメージの中身は、物質に触発された「神秘的な感情・感慨」のみでした。

そこには、神を説明する「言葉」は含まれていません。


社殿の奥を拝んで「ウーン」と念じても、お地蔵さんや仏像に手を合わせても、人の心に生じるのは漠然とした感慨のみです。
最近、天皇陛下の退位とかで、涙で手を合わせている人民の姿がテレビで繰り返し放映されましたが、彼らの心理もそうでしょう。

感慨・感情は心にジーンとくるような「実感の重み」のようなものは与えますが、「この神とはこれこれのものだ」という言葉による定義や説明はないのです。

言葉がなければ、「理解」もありません。

いってみれば、宿物神(在物神)は自己説明をしない「感慨の神」なのです。

では、創造神イメージはどうでしょうか。
今回は、それを考えましょう。



<創造神イメージには当初実感がない>

創造神イメージの形成プロセスは、つぎのごとしです。

① まず(万物の)創造神という言葉を投げかけられます。

② 創造神という名(言葉)は、「自分以外の万物を創造した神」という属性の説明を、自らの内に(当初から)含んでいます。

③ それを受信すると、心にそのイメージが理念として形成されます。

④ そのイメージは、抱く当人に、当初は何の感慨も与えません。

⑤ その実在感は、事後的に増大させうるものです。


 

余談です。

上記で、理念の「理」とは「筋道」です。

「念」は「深く意を注いだ思い」です。

「念を込めて」といいますね。
「念力(深い思いが発揮する力)」ともいいますね。

~あの念です。

だから理念とは「筋道だった深い思い」となります。



ついでにもう一つ余談を。

こういう流れの話を聞くと、「ああこの著者は、自分がクリスチャンなものだから、創造神イメージの方に読者を持って行こうとしているな」との心配をする人も出るでしょう。

心配ご無用。

「神について理解なんていらない、神の本質は神秘的な感慨だ」という思想もれっきとしてある。
これを、神秘主義といいます。

それがいいという人は、堂々とそっち(宿物神イメージ)を選んで人生を歩めばいい。

大切なことは、対極的な姿勢をも知ることです。

両者を知った上で、一つを選んだらいいのです。



<代わりに理(筋道)がある>

話を戻します。

理念で出来ている創造神イメージは、当初心にジーンとくる感慨は引き起こさないのですが、その代わりに、心の中には言葉で説明された「理屈」を含んでいます。

「この神様は自分以外の万物を創造しているのだよ」というような「理屈」ですね。

+++
 
理屈とは、「筋道」だった思想です。

先ほど理念は「筋道」だった「念」だと言いましたが、念より「思想」の方がもう少し具体的なニュアンスを持っています。

+++

筋道のことを、漢字で「理」とも書きます。
 
よく、「人間には感情とともに理性が与えられている」といいますね。

この「性」は「能力」を意味しています。
つまり、理性とは理(筋道)をイメージに描く能力なのですね。

だから「感情と理性が与えられている」という上記のフレーズは、「人間には物事に対して、感情を抱く能力とともに筋道を描く能力も与えられている」よ、といっているわけです。

         

この筋道能力が創造神イメージには大いに関与しています。

だが、どう関わっているか、というあたりはもう少し具体的でないと、わかりづらいですね。

次回に具体例を挙げて示しましょう。
 
(続きます)




 
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6.宿物神イメージ、恐れ、仲介者、神官。

2019年05月28日 | 西洋を知る基督教再入門

 

ここで宿物神(在物神)と創造神 ~この二つの神イメージが人間の意識のなかでどうなっているか、その心理状況について、今一歩踏み込んで考えておきましょう。

人の心理は複雑ですが、まずは単純に、感情と理性の二つで成っているというメガネを通して吟味しましょう。

今回は、宿物神イメージについて。



<宿物神イメージの中身は感情と感慨>

宿物神イメージの中身の特徴は、フィーリング(感情)だけで理論がないことです。

それは次のようなプロセスで形成されます。

① まず物質を認知します。

② その物質の内に、「自分に影響を与える見えない存在」が、オートマチックに、理屈抜きに意識に浮かびます。

③ その影響に「善きもの」と「悪しきもの」との両方を漠然と予想し、前者に「期待」の、後者に「怖れ」の感情を抱きます。

④ その存在に「崇高」「拝すべき」といった感情も抱きます。

⑤ それらの感情を集合・併存させて、意識に(宿物)神イメージを形成します。

 
   
 
 
<「恐れ」の感情を内包する>

ちなみに宿物神イメージはそういうものですから、「怖れ」の感情を必ず含んでいます。

「悪しき影響を及ぼしてくる」ことへの恐れですね。

このイメージの中身はすべて「感情」ですから、人はこれを理性的に~論理でもって~処理することができません。

だから神イメージが在物神イメージだけの人は、漠然とした恐怖を心に内在させながら、生きることになります。

 
 
<仲介者が現れる>

こういう状況では、「この神を知ってるよ」というジャスチャーをとるものが通常現れます。

すると人々は、彼に神と自分との間の仲介を依存するようになる。

こういう依存者が、一定の地域や国の中に増えると、彼は容認された、神との仲介者になります。

祭司・神官の出現がそれです。

彼らは、人々への精神的支配力(権)をもっていきます。

それにつれて多額の富も、彼らのもとに集まってきます。


(続きます)

 

 

 

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5.韓国の「ハヌニム」と「ハナニム」

2019年05月23日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

韓国語(ハングル)には、昔からハヌニムという言葉があります。
「ハヌ」は「上方に、空に」、「ニム」は「拝べき方」という意味で、ハヌニムは「空にすむ神様」となります。

韓国の人々は長年、「空の神様」というイメージの神概念を持ってきたわけです。

 
 
<ハヌニムは創造神の神イメージか>

この「ハヌニム」は宿物神イメージでしょうか、それとも創造神イメージでしょうか?

空は広大な空間で、晴れた日にはどこまでも青く澄み通っています。

これはもう物質ではないのでは?
そこに宿っておられる神は創造神なのでは?

~そう思いたくもなります。

だが筆者は、これまで物質とは、「五感で認知できるもの全て」としてきています。
空は目で認知することが出来るので物質です。

そこでハヌニムもまた、物質の中に宿っている神、という宿物神イメージの神となります。

実際、空は空気でできていて、空気は酸素や窒素などの物質で構成されています。
物理学的にもやはり、物質なのです。


 
<五感で認知できないものを総称して「霊」という>

ちなみに筆者は「五感認知が出来ないモノ」の総称を「霊」としています。

五感で認知できないですから、それが「存在することを」100%肯定したり、100%否定したりはできません。

見えないのに~存在してるかも知れないのに~「そんなもの存在しないよ、笑わせるな」といったらおかしいですからね。

つまり、存在する可能性もあるから、それを霊と名付けておこうというわけです。
これについてはまた、詳しく語ります。



<聖書の創造神との混同を避ける工夫>

聖書のハングル訳書は一九世紀に、中国にいた米人宣教師のグループによって中国で作られ、韓国(朝鮮国)に導入されたそうです。

筆者の聞くところでは、長老派を中心とした宣教師チームだったそうですが、訳書作成に際して、ゴッドをどう訳すかが大課題になったそうです。

上記のように、韓国には昔から、ハヌニムという言葉がありました。

この「空の神様」という概念は広大な空間イメージを持っている。これをもって聖書のゴッドの訳語としよう、という案も出ました。

ハヌニムに創造神という意味も持たせようというわけです。

+++

だが、反対する訳者もいた。

それだとゴッドは、昔からあるこのハヌニムの意味だと受け取られる危険が大きいと主張したのです。
 
聖書における「万物の創造神」のイメージは、「空」をも、また、そこに宿るとイメージされる神様をも創造した超巨大な神イメージです。

ハヌニムなどとは比較にもならない別物だ。



結局、翻訳者たちは創造神の概念を直接示すために「ハナニム」という言葉を考案しました。

創造神という神イメージに、昔からある宿物神イメージが侵入しないように、先手を打った。

そして当時の李氏朝鮮国に、ハナニムという新語をゴッドに当てた韓国語聖書をつくり、導入しました。

「ハナ」は韓国語で「最初の」という意味を持っていました。

+++

日本でも「ハナっから(最初から)問題にならない」などと言いますよね。

もしかしたらこれは朝鮮語の語源から来ているのかもしれませんね。

が、ともあれ韓国では創造神の概念を示す言葉として、独自に「ハナニム」という言葉が造られている。
~これは大切なポイントです。



余談です。

その結果、現在韓国の社会には、ハヌニムとハナニムという、音韻的には非常に似ている二つの語が併存しているそうです。

かつて私のゼミナールにキム君という韓国からの留学生がいました。
彼から面白い話を聞きました。

韓国語の国歌には、「ハヌニムが我らの国を守る、云々・・・」といった歌詞があるそうです。
小学生時代に学校でこれを歌うとき、よく「ハナニム」と間違って歌った、という。

韓国ではクリスチャン人口比率が高く(30%ほどか?)、聖書語のハナニムも結構普及しているそうです。
だから、ちゃんと「ハヌニム」と歌うのに神経使いました、といっていた。

彼はクリスチャンホームの息子でした。

+++

かといって、七割近くはクリスチャンでないわけで、彼らにも感情移入してもらうためには、やはり昔からある「ハヌニム」で行くべきだ。

~戦後独立した韓国では、国歌作成者たちはそう考えたことでしょう。 


(続きます)

 

 

 

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4.宿物神感情は根深い!

2019年05月19日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 
<神イメージの「根深さ」を比較すると>
 
前回に示したように、創造神イメージは、外からの言葉によって、かろうじて人の心に創られるものです。だから、心に張り巡らせている意識の根っこは、基本的に浅いです。

他方、宿物神イメージの根っこは、生来人の心に根ざしているものですから、その根っこは深いです。
 
+++
 
それ故に、人類の歴史では、創造神イメージが与えられても、そこに宿(在)物神イメージの侵入がいつのまにか起きていた、ということがしばしば起こります。
 
創造神としては、宿物神イメージが侵入てきて自分の神概念がゆがんでいくのは面白くないでしょう。やはりこのゆがみを矯正しようと、人間に追加メッセージを送りたくもなる。
 
旧約聖書には、創造されてかなり時間のたった人間に対して「私(創造神)以外のものを拝んではならない」という戒め(命令)を創造神が発する場面も記されています。

ちなみに、この命令を聖書用語で「律法(りっぽう)」といいます。
律法については、また、後に追記します。

 

<新約聖書にさえ>
 
旧約聖書におけるだけではありませんよ。

時代が下って新約聖書にもその混同を示す場面がでてきます。
そのなかの、イエスの伝記~福音書ともいいますが~こんな話が記されています~。

 
<サマリヤの女>
 
一人のサマリヤの女が、次のような旨の問いかけをイエスにします。
 
「私たち(サマリヤ人)の先祖は、この山で創造神を礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は礼拝すべき場所はエルサレム(の神殿)だとおっしゃいます。どちらが正しいのでしょう」と。
 
サマリヤ人というのは、大国アッシリアの混血政策によって出来た混血ユダヤ人ですが、ユダヤ人と変わらず聖書民族です。
ユダヤ人は彼らを混血の故に見下していましたが、精神的にはむしろユダヤ人以上に聖書吟味に熱心でした。
 
で、このときイエスは応えています~。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたが父なる創造神を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういうときが来ます。
・・・(中略)・・・真の礼拝者が、霊とまことによって父を礼拝するときが来ます」
              (「ヨハネによる福音書」、4章20-23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
この話は「サマリヤの女」としてクリスチャンたちには有名ですが、ここで注目すべきはこれです~、
 
つまり、イエスの時代になっても、サマリヤ人もユダヤ人も山や神殿の中に宿るものとして神をイメージしていた、のです。
 
彼らは代表的な聖書民族ですよ。
それでさえ、依然として創造神を宿物神感覚でみていた。

このことは、宿物神感情が人間に如何に深く根付いているものか、を如実に示しています。



でも、聖書の描く物語は「それを悟っておしまい」とはなりません。
クライマックスがある。

それは、この創造神イメージの実在感をイエスが確かなものとする場面です。
イエスは最後に「もう宿物神イメージとの混同は生まれないように」します。

このクライマックスも含めて物語は完結する。

これが聖書物語の鳥瞰図(全体像)です。
後に、詳しく見ることにしましょう。

 
(続きます)




 
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3.創造神イメージの出来方

2019年05月15日 | 西洋を知る基督教再入門

 


前回創造神イメージは心中に自然発生しない、といいました。
ならば、創造神の理念は、どうやって人の心に存在するようになるでしょうか?

内に発生しないなら、残るは「外から刺激をあたえらて」しかありません。



<外から言葉で与えられて>

そんなこと実際にあるのか?
通常にはありません。

だが、人類の歴史の中でそれが起きました。

外からの刺激を与えたのは、言葉です。

まず言葉でそのありようが説明された。
それによって、はじめて心にその神イメージができるという事態がおきました。

+++

その様子は、聖書という書物に記されています。

聖書は旧約聖書と新約聖書との2分冊でなっています。前半に旧約聖書があって、そのあとに新約聖書がくっついています。

この書物の成り立ちと構造については、追って述べます。
まずはそのなかの言葉(聖句といいます)によって、創造神イメージが人の心に導入される様子をみてみましょう。
 
 

聖書の、冒頭の書物は、旧約聖書のなかの『創世記』です。
その書物の冒頭に、「始めに、神が天と地を創造した」とあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「初めに、神(創造神)が天と地を創造した。
地には形がなく、何もなかった。
やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」
 (創世記、1章1~2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
普通に暮らしている人間にとって、天は上方にある全空間です。
地は下方にある全地です。

つまりわれわれの日常感覚では「天と地」は全存在世界です。

この「全存在を創造した神がいる」とこの冒頭の聖句は言っています。

「ええっ、そんなかみがいるの!」という気持ちになりますよね。あるいは「ふ~ん」といいながら実在感を持てない人も多いでしょう。

だけど、上記「始めに、神が天と地を・・・」の神は、万物の創造神」なのです。

こうやって「創造神」の神イメージは、人の心に導入されている。

英語ではゴッドです。

+++

「全存在」をちょっと詩的に洒落て言ったのが「万物」です。
聖書では。まずまっ先に「万物の創造神」の神イメージが与えられ、続いて、この創造神が万物を次々に創っていく光景が描かれています。
 
こういう「言葉によってはじめて」人は創造神という神イメージを持てるようになるのです。

(続きます)
 
 
 
 
 
 
 
 
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2. 宿物神と創造神

2019年05月13日 | 西洋を知る基督教再入門

 

前回の続きです。
人間が抱くその神イメージには、2種類があります。



<宿(在)物神>

一つは宿物神(しゅくぶつしん)ないしは在物神(ざいぶつしん)です。

「物」質のなかに「宿」っているとイメージする「神」ですね。

わたくしの造語ですが、そう難しくない言葉でしょう。

たとえば人は山を見て、あるいは山中を歩いていて巨大な樹木に遭遇して神聖な感じに打たれます。そのとき山や巨木の中に「見えない影響者」が宿っていると感じています。

あるいは木や石に刻んだ彫像などの中にも、人は神イメージを抱きます。
墓石もそうですね。
先祖の霊が宿っていると思うから、花を飾って、お線香を焚いて、手を合わせるのですね。

ただし、「宿っている」はもう少し一般的には「存在している」いうこともできます。
こちらは少し抽象的になりますが、この場合は在物神となります。

宿物神と在物神、当分は、この両方をつかっていくことにしましょう。



<(万物の)創造神>

人が抱くもう一つの神イメージは、「自分以外のすべての存在」を創った「神のイメージ」です。

この場合、物質は被造物です。
またその中に宿っているとイメージされる神々は、「被造霊」となります。

また「被造物」の語はより広く「両者を総称した意味」でつかうこともあります。
複雑なようですが、実際には前後の文脈をみるとどちらの意味で使ってるかが、割合容易にわかります。



<宿(在)物神は自然の心情>

在物神の神イメージは、人の心に自然発生するものです。

人間は五感認識の能力を与えられてはいますが、目に見えないものを認識する能力を与えられていません。

そこで、人はまず先に物質を認識します。
その上で、その中に「見えない影響者」がいると想像します。
こうした精神作業は、心の中でごく自然に進行します。

つまり、宿物神イメージは人の心に自然発生するのです。



<創造神は自然の心情にない神>

創造神イメージの方はどうも自然発生しないようです。
「そうかなあ、それを喚起する物質の認知(イメージ)もなにか人間の心にできあがるんでないの?」という思いも浮かぶかも知れません。

だが、人が行う物質の認知は、五感を通してのものです。
五感とは、五感覚とも言い、知覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚です。

そしてその五感を通して認知される物質は、個々別々の具体的なものとしてしかなりえません。
リンゴでいえば「あのりんご、このリンゴ」というように、ですね。

「全ての物質」というような(一般的な)認識は、モノを見ても心に自然に形成される可能性は少ないです。
ましてや、霊も含めた「存在すべて(万物)」というイメージが、心に自然に形成されることはほとんどないでしょう。

+++

また一歩下がって、もし形成されたとしても、その全てを「創造し、あらしめた」存在というイメージがひとの心に自然発生する可能性はまずない。

人類史に於いても、そういう事象は起きていませんしね。

 
(続きます)





 
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1. 人みな「見えない影響者」を心に抱く

2019年05月12日 | 西洋を知る基督教再入門

 


フェースブックで、こんな投稿が目についた~。


>ニッポンの保守は靖国前で腹を切るし、左巻きはお花畑の幻想に生きてるし、ほんとこの国は世界から浮いている。今もなお神話に生きる国。世界のベストセラー聖書を知らないことは致命傷なのだ。


~投稿者はルーク唐沢とかいうらしいが、事実判断としてその通りだ。
つまり、こういう発言を見ると大概の日本人は「ああこの人は自分の熱い信仰で語っているな、信仰は鰯の頭も信心だから盲目だ」と受け取る。

だが、冷静に事実判断してその通りなのだ。

+++

けれどもこのことはなかなか悟られない。
聖書とホンモノのキリスト教を知るのが、日本人に限らず、人間にとってとても難しいからだ。

「西洋を知る基督教再入門」まずはその原因から始めよう。


 
 
<神のイメージ>

人間というのは、目に「見えなくて影響を与えてくる存在」をイメージする本能を持っているようです。

もちろん「そんなイメージなんかオレは持たないよ」という人もいるでしょう。

だが、その人も暗い夜道で向こうから和服の女性が一人とぼとぼと歩いてくるのをみると、何か怖いものも感じます。

近付いてきたその女性の顔をみると、長い髪がバラリと垂れ下がっていて、その目が恨めしそうに自分を見たらどうか!
反射的にギョッとするどころか、寒気に襲われて全身が収縮・鳥肌となるでしょう。

 その女性が単なる肉体(物質)ではなく、その内に精神的な何か、霊的なモノが宿っていると思う気持ちがあるからです。「完全に」物質のみだと思っていたら、ギョッともなんともしないでしょう。

 あるいは夜、暗い窓辺に向かった机で勉強していて、突然窓に人の顔がぬっと現れても同じです。直後に友達だとわかっても、現れた瞬間にはギョッとする。それはその人物にも「見えない影響者」が内在しているという思いがあるからでしょう。

+++

 ことほど左様に、人間は「見えない影響者」をイメージする意識を持って生まれているのです。

そしてそれを我々は「神(カミ):英語はgodsまたはGod」という名で呼んでいます。

(続きます)

 


 
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50. 西欧を知るための「キリスト教再入門」へ

2019年05月10日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
 
 
 
 

「鬱を打破する聖書の論理」なんと今回で50回目だ。

探究してきて、わかったのは~、
 鬱は「抑うつ」であり、それは人間に生来与えられた、精神、肉体の両面に渡る資質が、上から抑圧されることによって生じた葛藤、混乱による苦しみである、~ということだった。

具体的には「生きよう」という意向が「生きるに値せず」との思いによって上から下に向けて抑圧されたことによって生ずる、心奥での、心的エネルギーの激しい葛藤、苦しみであった。

現代の精神医学は、それに盲目で、患者の肉体(脳神経系)にやたら神経鈍化剤や脳興奮剤を、無慈悲冷酷にぶち込んでいる。

それによって患者は地獄の苦しみに陥れられ、廃人にさせられている。
現代精神医学は、まさに悪魔の手先を演じている。

+++

事態の打破は、福音の力によるしかない。

そのため、イエスを愛し同一化した「イエスの人」は、福音の二本柱~①宣教と②偉跡による証明~を、素直に、怖れず実施すべきだ。

~以上がこのシリーズの大筋だった。

 
 
<キリスト教の再入門シリーズ>

さてこれからしばらく、改めての「キリスト教入門」を語ってみようと思う。

同類のことがらは、『聖書の論理が世界を動かす』『誰もが聖書を読むために』『神とゴッドはどう違うか』(以上すべて新潮選書)でも述べてきた。

特に「誰もが聖書を」はほとんど文字通りの「キリスト教入門」でもあった。

だが、今回「福音の二本柱」をやっと悟ったことによって、これまでにない「入門手引き」が書けそうな予感がするのだ。

タイトルは「(西欧を知るための)キリスト教再入門」といったような感じになるのではないかな、、、・

抑うつ関連で、述べたいことはまだあるが、それは適時この「再入門シリーズ」の中に臨時版として差し挟んでいこうと思う。

50回にわたってフォローしてくださった方々に感謝します。
次回からの、「キリスト教再入門」の話も引き続きご愛読下さい。

(完)





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49. やっと悟れた福音の「二本柱」

2019年05月07日 | 鬱を打破する聖書の論理


前回述べた「人間は永続する」との人間観のもっている、抑うつへの治療効果は重要である。

だが、ことばの力には限界がある。

例えば、鬱に苦しむ人には、言葉の理解をする知力が弱ってしまっていることが多く、言葉だけでは治療効果は発揮されない。

その場合はやはり、創造神の力を得て癒やしてやってしまわないと、事態は打開できない。

また一般的にいって、言葉の説明では、聞く者の心底に「口だけなら何とでも言えるさ」という気持ちが常駐する。

 
 
<偉跡の納得力>

イエスの宣教も、言葉での説明にはそういう限界があった。

そこでイエスは、言葉の説明を受け入れきれないユダヤ人たちに対して、偉跡~しるしと不思議~を見せた。

偉跡といっても、イエスが説明している「見えない世界」(霊界)そのものを目に見えるようにしたのではない。

それとは別の、たとえば病人の「速やかな癒し」などを見せた。

すると人間は、そういうことは、「見えない世界」に通じている人でないと出来ない、と直感するものだ。

そこで、多くの人が偉跡によってイエスの教えを受け入れた。

 

<「偉跡の方法」を言い遺す>

イエスは、弟子や、弟子の宣教によって宣教者になる人々が宣教する際にも、それが出来るようにと、「しるしと不思議」を現す方法を教えていった。

そして、自分が天に昇って地上にいなくなるにつけ、福音を伝えるには~

①宣教と
②しるしによる証明

~の二本柱が必要と言い遺した。


            

<余談~反省~>

さて今回、ここからは余談だ。
筆者は一つの反省を述べておこうと思う。

30余年前に聖書解読を志して以来、筆者がこの「②しるしと不思議による証明」に正面から取り組まないままできた。
~そのことへの反省だ。

 
 
 
<偉跡をスキップして聖書解読>

筆者は、聖書にある「癒し」などの不思議を述べた聖句を、神話だとかいって一笑に付すことはしなかった。

実際に癒しを現す人をもよく知っていたし、奇跡は存在すると受け取ってきた。

+++

だが、今思えば、自分が「しるしと不思議」を現すことに尻込みした。

筆者は、癒しで偉跡を示す人たちに、「霊感が豊か」という共通の資質を観察していた。

その認識を踏まえて、筆者は「自分が癒しをするには、霊感が育ってから」と考えた。

そして聖書解読を伝える途中で、癒しの必要な人に出会ったときには、自分の知る「霊感の豊かな人」にそれを依頼してきた。
それで実際に病める人は癒やされた。

その状態で筆者は、自らに霊感が育つのを待ちながら、癒しへの取り組みをスキップした聖句解読を、続けてきた。

30年以上、そうしてきた。



<もう自分がせねば>
 
ところが、今回、筆者が直面した「抑うつに苦しむ人」は、これまで依頼してきた「癒し人」と居住地が遠く離れていた。
かつ、「苦しむ人」の親御さんが霊ベースの、霊感者による癒し、ということに、関心が薄かった。
これらの壁に対処している内に、患者当人が悲劇に襲われてしまった。
 
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この事態に直面して、筆者は「私自身が癒やさねばならなかったのだ」と痛感した。

そこで、聖書の中の「偉跡」~とりわけ癒しの方法~に、初めて本気で取り組んだ。
それが、本稿で示したヨハネ15:7の「イエスの夢の約束」をはじめとする聖句の解読だったのだ。



<時々聞かれるように>

そして、目の覚めるようなことが起きた。

イエスの「夢の約束」の聖句を吟味解読していたら、時々ながら、祈りがきかれ、しるしが現れるようになったのだ。

探究している間に霊感が増したという自覚はなかった。
霊感の豊かさは必須ではなかったのだ。

偉跡は思ってたより簡単だった。

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今振り返ると、筆者は聖書の「しるしと不思議」のところで、腰が砕けていたと思う。

そして「霊感の必要」を勝手に持ち出して、「しるしと不思議」の箇所をほとんどスキップし、「理解の聖書学」をすすめてきた。

 
 
<もう少し早ければ・・・>

だが、「もう自分がやるしかない場面もある」と思い知り、「理解の聖書学」の限界を悟った。

「実践の聖書学」がそこに加わらねばならない、と思った。
 
そうしてイエスの「夢の約束」の吟味に、初めて正面から取り組み始め、徐々に祈りがきかれ「しるし」が現れてしまった。

それを通して、30年間聖書を通して学んできた自分の福音は、二本柱でなかったことを、思い知った。

筆者は「(気がつくのが)遅かった・・・」としみじみ感じた。

残された自分の余生をみると「遅かった」のだと。

もっと早くやっていたら、多くの人を助けられたのに。
教会という「助けの場」を造ることも、あるいは出来たかも知れなかったのに、と悔いた。


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聖書には、癒しを始めとして様々な超自然的事象が記されている。
特にイエスは偉跡を連発し、死からの復活もして見せた。

のみならず、人間がそれを証言~当面「証し(あかし)」と呼ばれることが多いが、要するに証言だ~し、しるしと不思議でそれを証拠する方法も言い遺していった。

世を去るに当たって、イエスはそれを遺言していった。

聖書にはまた、宣べ伝える者たちが、多くの偉跡を実現した事例が、数多く記録されている。

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だが、筆者は聖書をそのまままっすぐには、ストレートには探究してこなかった。
自分のキリスト教探究は、真の素直さを持っていなかった。

伝道活動も、①宣教と②証拠、の二本柱を最初から明確に目標とすべきだった。
 
聖書の論理も、しるしを体験しないと深く霊識できない。

また、その霊識も周期的にしるしを体験しないと、維持できない。

オレのやってきた福音探究は「ママゴト」だった・・・。
 
この歳になって、はじめてそれを悟るとは・・・。
 
晴れやかでもあるような、複雑な気持ちだ。
 
 
 
 
 
コメント
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