鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.273『真の裁きは人への裁きでなく悪魔への裁きだよ』(16章11節)

2010年01月17日 | ヨハネ伝解読
聖霊の働きについてのイエスのレッスンの続きです。


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BGMは相変わらずmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
http://aiai.hukinotou.com/

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=聖句=
 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世が誤っていたことを認めさせるよ。
人々は罪について誤って考えているんだ。私を信じないからなんだよ。
義についてとは、わたしが父のもとに行き、諸君がもはやわたしを見なくなるからだよ。
裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたからだよ」(16章8~11節)
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イエスの遺言レッスン中で、聖霊の働きについて述べる~
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世が誤っていたことを認めさせるよ」
~は、聖書の中でもとても難しいところです。
今回は、その三番目(最後)で~


「裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたからだよ」(16章11節)

~という聖句です。

まず、文章としての繋がりがわかりづらいですね。
「(聖霊が来ると)裁きについて世が誤っていたことを認めさせる」
といっておいて、
「この世の支配者が裁かれたからだ」という。
この二つの文章は、通常の感覚では繋がっていないんですね。

弟子たちも、少なくともこの時には、ちんぷんかんぷんさっぱりわからなかったのではないでしょうか。
でも、この言葉はヨハネの記憶に留まったのですが、とにかく、二つの文章の間を説明で埋めることにしましょう。


                    

まず、「この世の支配者」~これは悪魔をさしています。
これを理解するには、これまでしばしば示してきた、聖書の空間理念の図を再登場させるのがいいようです。
(上部の図をクリックしてください)

                    



<この世の成り立ち>

=天国=

図の一番外側は、無限空間です。
これは時間的・空間的無限者である万物の創造主のふところともいうべき空間です。
創主はあるときそこに、自らの王国を作ります。これがいわゆる天国で、
正確には「天の創主王国」で、創主が王として統治します。ここは有限の被造空間です。

創造主はそこをひとり子イエスに相続させます。
この段階のイエスは霊としてのイエスです。
イエスは「造られた」被造霊ではなく、聖霊と同じく、創主から「出た」創造霊です。

創主はその一角に自らの「名」をおき~この名が何であるかは次の17章で明らかになります~
無数の天使を創造してその名を賛美させます。
天使は「創られた霊」で被造霊ですが、大きな力をもった「力ある霊」です。
天国はこの賛美のもとに栄光であふれます。


                   

=天使長の反乱=

天使は、特定の天使長によって統率された、いくつかの軍団になっています。
そのうちの一人の天使長が、あるとき、「自分も創主のように賛美されたい」という思いを持ちます。
彼は、天国の一角に於いて、傘下の天使たちに、自分を賛美させます。
そういう「自分の王国空間」を天国の一角に形成するわけですね。


                    

=宇宙の創設=

これは許されがたいことですね。天国は創造主の王国で、創主の法が貫徹する空間ですから。
そこでこれを相続した霊イエスは、彼らを閉じ込める空間(暗闇の空間)を造ります。
そして、ある天使長に命じて、反抗者たちをそこに追い落とし、閉じ込めます。
これが宇宙です。

反抗した天使たちは、サタン(悪魔)に変質します。
この理由は別のところで示しますが、とにかく変質します。
宇宙は、悪魔たちを閉じ込めた牢獄なわけです。


                    

=この世の支配者=

悪魔は、その牢獄(宇宙)に於いても傘下の悪霊たち(傘下の天使が変質した)に君臨します。
いってみれば、悪魔は牢名主なのです。
そして、この宇宙の中に、イエスは太陽系も創り、そこに地球を造り、地上に動植物や人間を造ります。
これが聖書で言う「世」(人間の言う「この世」)です。
だから悪魔(牢名主)は「この世の支配者」ということになります。
これを「この世の君主」「この世の君」と訳すこともあります。

~が、とにかくこれで本日の聖句の中の「この世の支配者」がわかりました。
(まずはそこまでです。大変ですね)


                    

<容疑者、証拠、裁き>

(長くなりますので、「この後は次回に」とすることも考えられますが、
二回に分けると読みにくくなります。一度にいきましょう)

 さて、創造主に反抗して「いのちエネルギー」を受けられなくなった悪魔は
~このあたりも別に説明します~創造主を破壊しよう、という意識を持つところにまで変質しています。
後にイエスが人として肉体をもってこの世に来ると、これを「殺してしまおう」という殺意も自然に抱きます。

だが、まだそれは行為として表面化はしていません。
つまり、証拠になっていない。
悪魔は、「容疑者」の状態で宇宙という牢獄に入っているわけです。
「そんなつもりありませんよ~」と言える状態にいるわけだ。

創造主は義の方です。
証拠がないのに裁きをすることはいたしません。

ところが遂にその証拠が挙がる。
今イエスが弟子たちに遺言レッスンをしているその時間に、
イエスを捕らえて十字架にかけようとする一団が腰を上げています。
彼らはユダヤ教~当時の国家宗教で国家権力でもって秘密警察を使うことも出来ます~の僧侶たちに促されて
そうするのですが、その僧侶たちの意識が悪魔の意識波動に影響されている。
つまり、悪魔が究極の主導者としてこれをさせている。

これまでそういう企みはなされてきましたが、「時がいたらず」
イエス殺害までには至らなかった。
だが、今回のこの試みは、イエス殺害に至ります。

~これで証拠が挙がった!

悪魔はイエスが創主の子であることを知っています。
羊の子が羊、馬の子が馬であるように、創造主の子は創造主です。
この子を殺しに来て殺害に成功するというのは、
創造主に対して破壊の意識、殺意を含んだ敵意をいだく存在になっていることの
証拠があがったことになるのです。

証拠が挙がれば裁きはなされたと同じです。
実際の裁きと刑の執行は最後の審判の時に実行されるのですが、
それは、百パーセントそうなるのですから、今裁きが下ったと同じです。
かくして本日の聖句「この世の支配者が裁かれた」となるわけです。



                    


<悪魔への裁きが真の裁き>

以上で、イエスがこの遺言をしている時点で、悪魔は「裁かれた」ことになるという論理がわかりました。
次いで、もう一つあります。
「裁きについて世が誤っていた」がそれです。

これはどういうことかというと、いま述べた「悪魔への裁きが真の裁きなのに」
世の人々は悪をなした当の「人間への裁きが真の裁きだと間違って考えている」ということです。

この点に関しては、このヨハネ伝の著者ヨハネが、自らの手紙文の中で直接的な説明を与えています。

++++++++++++++++++++
「罪のうちを歩む者は、悪魔から出たものです。・・・・(中略)・・・
だれでも創造主から生まれた者は、罪のうちを歩みません。
創主の種がその人の内にとどまっているからです。
その人は創主から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです」
(ヨハネによる第1の手紙、3章8~9節)
++++++++++++++++++++

 イエスの教えを受けたヨハネは、ここで人の罪の源は悪魔だと明言しています。
「創主から生まれた」とは、
「創造霊たる聖霊が意識の内に宿ることによって、その意識が創造主から生まれた状態になった」
ということです。
そうなるとその人の潜在意識は基本的に創造霊によってリードされることになります。
するとその人は罪ある思いを形成されることがありませんので
「罪の内を歩むことが出来なくなっている」というのです。

 イエスはこのように「人の罪の真因は悪魔にある」と教えています。
すると「罪を犯したその人への裁きではなく、それをさせた悪魔への裁きが真の裁きなのだ」
となるわけです。

なのに、世の人々は当の人間への裁きが真の裁きだと間違って考えている。
これが今回の聖句としてあげたイエスの「裁きについて世が誤っている」の意味です。


                    

このイエスの教えを端的にいいますと、こうなります。
もしあなたが罪を犯したらどうするのが正しいか?
日本人の多くは「ああオレが悪かった、意志が弱かった・・」と反省し、
自らを切り刻むのではないでしょうか。
だが、イエスの教えではそれは誤りとなる。
罪を犯したらその都度「主よ、悪魔が悪いのです!」というのが正解となります。

(これを、「責任転嫁だ!人間の悪い癖だ!」と説教するとニッポンキリスト教になります。
禁断の実を食べたイブが「蛇が私を惑わしたのです」というのは創主の御旨にかなっているのです)

創造主は人間には優しいのです。
人間はそれを悟っていないだけというのが聖書の思想です。


                    

<聖霊が悟らせる>

そのことを「聖霊が悟らせる」という聖句は、これまでの二つと同じです。
弟子たちがそのことを宣教しても人々はわからない。
だが、真理を知っている聖霊が意識波動を送ると人々の意識は影響される。
その結果、「ああ、悪魔はイエスを十字架死させようとした時点で殺意が証拠づけられて
裁きが決まったんだ、そしてこれこそが真の裁きなんだ」
と実感することになるんですね。


                    

<イエスが世に来たのは>

蛇足です。
 このヨハネ伝の著者ヨハネも、そのことを悟りました。
そこで彼は自らの手紙の中で~

「創造主の子が現れた(この世に)のは、悪魔のわざを打ち壊すため」
(ヨハネによる第1の手紙、3章8節)

~と書いています。
悪魔は、創主に対する敵意、破壊の精神を持っていますので、存在する限りそのワザをし続けます。
だから、悪魔の「わざを打ち壊す」には、悪魔を滅ぼすしかありません。
そのために証拠を挙げて裁いて「最後の審判」の時に「火の池」に投げ込むことを決定づける。
イエスはそのために、肉体をもった人の姿をとって「この世」に来た、
つまり「殺されるため」を第一目的としてきたという論理です。

長大な論理ですね。
一般読者の方には、「奇想天外」で「バカらしい」論理かも知れません。
でも、これは基本的に霊界の論理です。
霊界は一般人の目には見えません。
見えないものの真偽は、知的、論理的には五分五分となります。
実際にそうなっていないとしても、いるにしても
どちらも見えないんですから可能性は五分五分だ。

これを「そんな馬鹿な」という場合、その心理内での
「そうなっていない」と「なっている」の主観的確率は
百対ゼロないしは九分九厘・対・一厘というよう状態になっている。

これは感情的であって、知性的ではないですよね。
ところが「そんな馬鹿な」と思うのが知性的で合理的で正常だと
思っている人が日本には多いです。
「騙されるのでは・・」という恐怖感によってゆがめられているに
すぎないんですけどね。

今回は長くなりました。


                    






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Vol.272『聖霊は「天の義」こそが真の義と人々に悟らせるよ』(16章10節)

2010年01月03日 | ヨハネ伝解読
聖霊の働きについてのイエスのレッスンは続きます。

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BGMは相変わらずmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。
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=聖句=
 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世が誤っていたことを認めさせるよ。
人々は罪について誤って考えているんだ。私を信じないからなんだよ。
義についてとは、わたしが父のもとに行き、諸君がもはやわたしを見なくなるからだよ」
(16章8~10節)
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今回は、10節の「義についてとは私が父のもとに行き、諸君がもはや私を見なくなるからだよ」
の聖句部分です。

これも難しい!

イエスがいなくなることが、「義について世が誤っている」ことに関与しているか、
「誤っていたことを認める」ことに関与しているかが、文脈の上ではあいまいですね。

                    

でも、「義について世が誤る」のはイエスが世にいる間に起きていることなはずですから、
これを「いなくなった後のこと」につなげるのは無理がある。
やはり、「いなくなると」「誤りを認める」という方に繋がるでしょう。

つまり、「いる間は義について誤った考えをもつ」のだけれど、
「いなくなると誤りを認める」ということの内容を探ればいいことになります。


                    

では、「義」とは何でしょうか。
「正しいこと」でしょう。

ところで「正しい」という形容詞を英語で見ると、rightとrigihteousの二つの語があります。
二つはニュアンスにおいて違います。
前者は、「この世一般で正しい」というニュアンスを持ち、後者は哲学的と言っていいでしょうか、
もう少し深い意味での「正しい」という色合いを持るように、辞書からは読み取れます。
名詞の「正しいこと」にもrightnessとrighteousunessがあって、同様なニュアンスの差が感じられます。

                    


それはさておき、この聖句では、二つの間の差はもっとはっきりしています。

「義」にもまた「天の義」と「この世の義」があるという思想がここにはある。
この天の義が英語の聖書ではrighteousunessと表現されています。


                    

具体的にどうか。
創世記で、アダムとイブが「智恵の実」を食べる前に善悪判断の基準としていた義は「天の義」です。
二人はそうやって暮らしていた。
そこに蛇(悪魔)が「この実を食べると自分で善悪の判断が出来るようになる」(創世記、3章5節)と
イブを誘惑します。そして二人は食べる。
食べたということは、以後、自分で(人間の考えで)善悪を判断するようになったことを意味しています。

この判断をする基準が「世の義」です。
彼らは以後、世的に見て、つまり、人間から見て「正しいこと」を基準に善悪を判断する、ということになる。
それ以来、人間はその状態で来ている、というのが聖書の論理です。


                    

あとは、前回の「罪について」と同じです。

以後、人間は世の霊(悪魔)だけによって全面的に影響を与えられることになる。
だから、「世の義」だけを基準に善悪を判断して生きている。

けれども、聖霊がくると事態は一変する。

悪魔からの「世的な」意識波動で人々の意識が全面的に影響を受けているところに、聖霊が来る。
これはイエスと同じ創造霊で「聖なる」天の意識波動を発する霊である。
イエスがいなくなるとこの霊が送られ、この世に遍在して働く。

そこに弟子たちが「天の義こそが真の義だ」と宣教する。
人々は「何を言ってるか」と最初は思うかも知れないが、
聖霊が意識波動を送ると心が共鳴して感動する。
そして「ああ、俺たちは間違っていた、本当の義というのはこうだったのだ」と悟る。

~そういうことになります。


                    

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2010年

2010年01月01日 | ヨハネ伝解読
 
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