鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

〔臨時版)鬱心理への誤解、正しい理解および対処策

2018年08月20日 | 安全なキリスト教の学び方

 

最近うつ病による、悲しい悲劇を見聞した。

うつ病に関しては、根本的な誤解が医学界にも蔓延していて、多くがその犠牲になっている。
自分がそうでなくても、家族、親族など愛する人たちが犠牲になる可能性が大きい。
この機にうつ病に関する、現代社会の誤解と知的病根と対策について、記しておきたい。
 
 
<鬱心理の本質は霊の波動障害>

鬱心理の本質は霊の波動障害だ。
霊は意識波動体で、常に波動を発している。

だが、科学〔学問、もほぼ同じ意味)はその認識作法上、霊というものへの論及を排除している。

科学は五感経験主義にたつので、霊などと言う見えない存在は、ものごとを因果系列でもって説明する際に、説明要素から排除するんだ。


 
<霊はハードディスクのようなもの>

人間の心理は、パソコンにたとえるとわかりやすい。
霊はハードディスクの位置にある。

聖書でもう一つ挙げられている精神要素は魂(ソウル)だ。
これはRAM(ランダムアクセスメモリー)に相当する。

霊に保存、蓄積されている情報の一部がここに読み出される。
これはモニターに相当する。

これを頭脳が読み取って、これに意志の力で作用を加える。
 
これら諸器官の情報伝達役が神経系だ。
 
頭脳は、モニターに現れたRAM情報を理解し、加工する。
これはキーボードとマウスだな。

これが、修正された情報を再び、神経系統は霊(HD)に上書きし、記憶させる。

 

 

<科学作法の限界>
 
科学は、霊を視界の外に置くので、脳神経系しか見ない。
そこで、これに西洋医薬品で対処しようとする。

方法は二つで~、

① 霊の意識状態を受信する脳神経系を薬で鈍化させるもの。
    (これは鬱という拷問のような心理の受信を、伝達神経を鈍化させて、ごまかすものだ)

② 向精神薬で神経を一時的に興奮させ、躁状態に向かわせるもの。
    (これは依存症、中毒になる。ヒロポンなどと同じだからだ)

              ~となっている。


この処方は、長期的に効力がないだけでなく、危険極まりないものだ。

だが、現代人、とりわけ戦後の日本人は、科学亡者になっている。
だからこの方法に依存して、どんどん精神病患者を作り出している。


 
<うつ病の本質>

うつ病の本質は、霊という意識体の波動障害なのだ。
このことに正面から対処しないので、日本はえらいことになっている。

自覚の少ない軽症者まで入れると、半数以上が鬱心理を体験している。
(いま、中高年者にもその数が驚異的に多いひきこもり、は、これによるのだ)
そして、自覚者になると、2割以上いるのではないか。

このままでは、日本は衰退が必然的だし、場合によっては、滅亡する。


 
<「生きよう」という波動>

人間の肉体とそのなかにある霊は「生きよう、生存しよう」という波動を発している。
一方、頭で考える「自分に関する理念」はやはりその波動でもって、この生存志向波動に影響を及ぼす。

・自己が存在価値ある、という理念は、これに整合し、波動を強め、促進させる。

・存在価値を否定する理念は、生存波動にぶつかり、そこで波動の混乱、混沌を形成する。

これが霊的波動障害をもたらす。

この混沌波動が鬱心理の実体なのだ。
 
 
 
<世界歴史観の心理的影響>

自己に生存価値意識を与えるに力ある理念は、自己をその中に含む世界歴史理念だ。
これを英語ではワールド・パースペクティブという。

これがそのなかの一部としての自分に、存在価値理念を供給したり、自分からそれを奪い取ったりする。

+++

例えば、経済社会理念に自由市場理念と、共産社会理念がある。
いま、企業オウナーの息子がいて、彼は、それを継いで社長になる、と自覚しているとする。

彼が自由市場主義の社会理念を持っていれば、そうした自分を、将来世の中に富を生産し、雇用を造る存在と意識するだろう。
自らを存在価値ある人間と自覚し、彼の生存志向波動は、強まっていくだろう。

+++

反対に、共産主義を理想とする社会理念を持っていれば、将来の自分を労働者を搾取する俗悪な資本家と意識するだろう。
マルクス思想では、自由市場社会(資本主義社会)の本質は、資本家が労働者の労働を搾取するところにある、とするからだ。

この意識波動は、当人の自己存在価値波動と反対方向のものだ。

これは彼の自価意識波動と衝突し、波動混沌をもたらす。

さらにこれが優勢になると、彼の「自分は存在価値ある」という理念を減殺する。

彼の虚無感の原因になり、生きようとする意識を減殺する。

(実際、鹿嶋の親友は、亡き父の会社を継承すべき立場にあり、マルクス思想を受容したがゆえに苦しんだ。学生時代における血を吐くような彼の苦しみと筆者はつきあった。良家育ちの純真な青年だった。
関西の絨毯会社を継承し、この思想問題を完全打開しないままで経営活動を続けたことが、彼の寿命を縮めたように鹿嶋は今でも思っている)

このように、世界意識は人の自己存在意識に大きく影響するのだ。

〔世界理念は単なる教養でもなく、知性の遊びでもない。
生きる人間にとっての、大きな武器だ。
読者が若き日の内に、それを友と議論し、しっかりした世界理念を持つことをすすめる)


 
<大きな世界観を志向する>

また、世界と言っても、その大きさには種々ある。
家族、家庭も一つの世界として意識されうるし、所属企業も、国家も、人類社会も、宇宙も、それになりうる。

〔人生観も、その世界理念を構成要素として持っている。かつて筆者は、学生時代に人生観を確立しておけ、とよく言われたものだ〕

人の自然の情では、規模の大きいものが小さいものの上位に立って、小さいものの価値を規定していく。

それを知った上で、普段から大きな世界理念に意識を飛ばし遊ばせ、考えるという知性のゲームを楽しむことをすすめる。

それがうつ病への、強力な対処策となるのだから。



<極大の世界観は聖書にある>
 
そして、その究極に大きい世界理念は、聖書に埋め込まれているものだ。
 
ここでは、万物の創造神は、時間的及び空間的無限者だ。
 
世界はその懐のなかの存在となる。
 
そこでは創造神は究極の価値ある存在であり、その創造神の意図に沿った行為が、被造物〔人間)最高の価値を持った行為となる。
 
創造神の意図は聖書に埋め込まれている。
 
そこで、生活のなかで、何らかの形でその意図に沿う要素を含むことが究極の自価意識の源になる。

〔これは職業伝道者でなくても、できることだ)
 
それが虚無感ゼロ、自己否定感ゼロをもたらす、究極の力を持つことになるのだ。

 
一般読者にはこれを宗教的信念による言葉と感じる人も多いだろうが、本意はそうではない。
 
理性の論理として、そういうことがいえる、ということだ。
 
もう一度言うけど、うつ病への西欧医学的治療は慎重にすべきだ。
 
廃人にされるか、あるいは最悪の場合、いのちとられるよ。


 
 
 
 
 
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66.(臨時版)オウム事件の構造

2018年07月23日 | 安全なキリスト教の学び方

 


このところオウム事件の死刑囚の集団執行が話題になった。

明治の大逆事件以来の集団執行だという。

大逆事件は、社会主義者の一団が明治天皇の暗殺を謀議したとのかど逮捕、集団処刑がなされた事件だ。

これはでっち上げ事件の可能性が究めた高いが、オウム事件はそうではなかった。

教団員たちは、実際に弁護士一家(幼児も含めて)などを殺戮し、地下鉄内でサリンを撒いて集団殺戮をした。

 


<戦後無思想教育は世界の異常現象>


オウム事件には、戦後日本に出来た独特の教育背景がある。

敗戦日本には、戦時中受けた神国教育への強烈な反省と怒りが吹き上げた。

「天皇は現人神(あらひとがみ:人間の姿で現れている神様)」という思想を小学校入学と同時に吹き込まれはじめた。

「その神様のために戦死すれば、霊魂は靖国神社に住んで礼拝される毎日となるよ」

「戦争は、最後には神風が吹いて勝利できるよ」とも教えられていた。

だから若者の5000人余が、神風特攻機という軽量の飛行機に爆弾を積んで、飛行機もろとも敵艦に突入・自爆した。

中東イスラム教国の若者も尊敬する、自爆テロの先駆者だ。

彼らは神風特攻隊と、崇められた。




<一億総懺悔>


ところが、いつまで待っても神風は吹かなかった。

吹かないままで、南方の植民地や沖縄は玉砕した。

仕上げとして原爆を2発かまされて、広島長崎は地獄となった。

そして現人神天皇がなんと、玉音放送で敗戦宣言をしたのだ。




<もう絶対宗教なんか>


どうなってんだ?

天皇宗教に騙されたのだ!!

国民は一転して反省、懺悔した。

マスコミはこれを「一億総懺悔」といった。

こうして戦後、「宗教は危ない、宗教はもういらない」「正しいのは科学だったのだ」という思想転換が起きた。

こうして一大回天をした大人の文化は、教育制度をも直撃した。

もう神様がどうとか言うことは、絶対に、教育に持ち込まないぞ!!

これが加速して、価値観を教育は持ち込まない、となった。

かくして日本には、世界にも希な無思想教育ができた。

これは世界の先進工業国には異常なことだが、日本人はそれに気付かないでこれまでやってきた。



 


<他愛ない不思議事象>

 
だが、見えない影響者への関心は人間の本能にある。
 
これを徹底して避ける、という教育制度は本来無理なことなのだ。
 
その無理が、学問知識だけを詰め込む、という勉強を強いられてきた若者の心の内にくすぶり続けた。


そうした彼らにとって、超自然な不思議現象は他愛ないものであっても、見えない世界への関心を沸き立たせる。

その軽~い一つが空中浮揚だ。

これは他愛ないもので、あぐらを組んで、えいっと念を込めて、おしりの筋肉を動かすと、人の身体は一瞬飛び上がる。

修練すると、浮揚したように見えるところまでいく。

これをホッピングといって楽しんでいて、ホッピングで前進する競技会を定期的に開催していた宗教教団もあった。



<世界観工作の天才>


ところが、「超自然現象など絶対ない」と言う教育を徹底受けてきていた若者にはこれが衝撃だった。

そしてこれを契機にもちいて、独特の世界観に引き込む天才が現れた。

これが麻原影晃、本名、松本智津夫だった。

彼はキリスト教の終末論や仏教の修行理論を巧みに組み合わせた歴史観を造った。

この意識ワールドに、高学歴の若者たちは魅了され引き込まれた。

 
 

<世界観は人間に自価意識も供給する>



人間は世界観を求める動物でもある。

その中に自分を位置づけることによって、自分の存在意義のイメージを得ることが出来るからだ。

人間は、自価意識(自分が存在価値あるという意識、セルフバリュー感といってもいい)を渇望しつつ生きる動物でもあるからだ。

彼らは麻原世界観によって快感を得て、苦もなくそれに取り込まれ、目からうろこが落ちた感覚になった。

無思想教育で育ったから、そういう思想への免疫がゼロだった。

苦もなく、真っ赤っかに染まった。

 
 

<行為の正義感も提供>

世界観は、個人に「なすべきこと」をも与えてくれる。

彼らは、この世界は一度破壊して、麻原世界観の世界に再構成せねばならぬ、という考えに全意識を取り込まれた。

こうなると、そのために邪魔な弁護士一家を殺害しても、地下鉄にサリンを撒いて社会を混乱に陥れても、それは究極的には正義だ、となってしまう。

事実、その思想に全意識波動を取り込まれて、殺人行為に走った高学歴者たちがでたのだ。

その彼らは逮捕され死刑判決を受けて、執行を待つ身となった。

もともとは、純真な少年だった、と近隣者は述懐していた。

その刑の執行が集団に分けて行われたのが、最近のニュースだったわけだ。


 

<「安全な宗教の学び方」を知れば>


オウム事件の構造は、ここで述べている「安全なキリスト教の学び方」の知識に照らすと、簡単に理解できる。

ここで述べていることは「安全な宗教の学び方」と重なっているからだ。

人は「見えない影響者」への関心を抱かずして生きられない動物だ。

だが、高学歴若者たちは、それが自覚できなかった。

そこに、空中浮揚と(いう他愛ない)行為を示し、巧妙に合成した世界観、世界歴史観を語るのが現れた。

高学歴者たちの、それまでの人生で押さえ続けてきた、「見えない世界の探究衝動」が爆発した。

+++

そして、その世界との仲介者(を自称する教祖)に全面依存していった。

仲介者に全面依存すれば、それは危険を含んでいく~というのは、ここで述べたとおりだ。

彼らはその世界に全意識を取り込まれ、気がついたら弁護士一家などを殺戮し、サリンを造って大量殺戮をしていた。

こういう行為を、夢遊病者の如くにやっていた。

それがオウム事件の構造だ。

このブログを理解してきた読者なら、決して取り込まれることのない、他愛ない宗教教団の出来事だったのだ。

 

 

 

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65.ベルグソン認識論に助けられて

2018年07月17日 | 安全なキリスト教の学び方

 



創造神の波動ワールドを構成する意識波動体を、筆者は7つ述べてきた。

イエスの名の信号のもとには、他にも夢のような意識波動体が伴っている。

人の罪を許す「イエスの血」もそれだ。

とにかく、そのようにして意識波動体を具体的に述べた。

それによって、イエスの名という信号に伴う意識波動がイメージしやすくなったと思う。

 
 

その話の中で筆者はこうも述べてきたね。

その波動ワールドの中に自分(の意識波動体)を住まわせるのが、「信じる」の実体だと。

また、住まって黙想していると、自分の意識体の中に、創造神の意識波動体と同じ意識波動体が出来てくる、と。

これすなわち、創造神(の意識波動体)だ。

自分の身体が「創造神の宮になる」、という聖句はそれをいっている、と筆者鹿嶋はいったよね。

 
 
<ベルグソンの認識論>


だがこれらは筆者の私見だ。

そのうちで、創造神の意識波動体が、人の心の中での出現するという考えは、哲学者ベルグソンの実在認識論の助けをえている。

 
 
 
<実在は動態で個別的>

ベルグソンは、我々が認識しようとする実在それ自体は、個別的で動態的なものだとみる。

たとえば、自分の手をじっと眺めてみよう。

それは常時老化という動きをもった実体だとわかってくるだろう。

われわれが「自分の手」というときは、そのうちの一瞬の静止画像を想定して言っているのであって、実体は刻々と動いている。

一瞬前の手と一瞬後の手はちがう。つまり、自分の手という実体は、各時点で個性をもっているのだ。

+++

それを「手」という言葉(概念)を用いて認識するときには、すでに、個性的で動態的な面は捨象されている。

なぜなら、概念というイメージ体は、対象の個別性を捨象し、他の実在との共通性だけを抜き出して出来たものだからだ。

これを通して認識すれば、独特の個性は捨象されざるを得ないのだ。


 
 

<直感的同一化>

だがベルグソンは、実在そのものを認識する方法はあるとする。

それは、対象実在に心を寄り添わせて、感性を働かせて対象との同一化をすることだ。

人間に与えられている感性という認識能力を用いて、直感的同化をする。

これによって人は実在そのものを、自らの感性の内に再現するすることが可能だという。

 

<同情により悲しみを認識する>

心を寄り添わせての同一化認識には、他者の悲しみに同情する場面をイメージしたらいい。

われわれがある人の悲しみ聞いて同情し、ともに泣くときの心理はどうなっているか。

我々は、その人の心に自分の心を寄り添わせるだろう。

そして、その悲しみに自分の心が共鳴するのを待つ。
 
そのうちに、心が重くなっってきたとき、我々はその人の悲しみがわかった、と確信する。

その時同情者の心には、悲しんでいる人と同じ悲しみが、生じている。

これがベルグソンの同化認識だ。

 
 

<霊的領域でも共鳴箱作用がある>

筆者鹿嶋は、こうした心理作用は霊的領域に於いても働くと考える。

そしてそれに波動の概念を参加させてこう考えていく。

すなわち、創造神の意識波動体は波動を発している。 

ちょうど一つの共鳴箱が静かに波動を発しているが如くに、波動を発している。

+++

そして、我々がそれに意識を向けて黙想していると、我々の意識体の内に、同じ周波数を持った共鳴箱が出来上がっていく。

さらに黙想していると、自分の内の共鳴箱が「ウーン」と共鳴するときがくる。

このとき、共鳴箱の中に創造神の意識波動体(と同一の分身)が出来上がっている。

神と「同一」の分身というのは、すなわち神だ。

こうして「創造神が人の身体(宮)の中に住まう」事態は実現されるのだ。

そうなった当人が創造神になにかを願うとき、自らの内に住む創造神が、宮から出動して実現してくれる。

これが~



・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
              (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
~の鹿嶋解読だ。

そして、筆者はこの解釈に結構納得感を得ているよ。

今回はここまでにしよう。

 

 

 

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64.「永遠のいのち」は理解に労力がかかる

2018年07月15日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

創造神の波動ワールドを構成する意識波動体、今回は ⑦「永遠のいのち」だ。

前の六個の意識波動体は、言葉で説明して割合わかりやすかったが、この波動体は理解に労力を要する。



永遠のいのち、って聞くとこんな疑問が湧くだろう。

「いのち」ってなんだ。 いのちに永遠なものと永遠でないものとがあるのか? ~とかだ。

こうした疑問には従来、明確な答えが得られてこなかった。

だが、量子力学の発見で、筋道だった思考を展開できるようになった。


 

<存在の根源は波動>

量子論では、「存在の根源は波動」との発見をした。

これによれば、創造神も波動として理解できる。

他の被造物も波動体だが、創造神波動体は、波動を創出しているという点で一線を画する、と。

(この創造神イメージは、比喩ではない。実体そのものと受け取っていい認識だ)

 
 
 

<移動するバイブレーション>


波動とは、移動する振動(バイブレーション)という概念だ。

振動が移動すれば、振動の流れになるよね。

波動という語はそういうニュアンスをもっている。



<エネルギーと「いのち」>


その波動の集団が一定の秩序を持って運動しているとき、それはエネルギー(力)ともなる。

創造神が放射する波動は、そういう秩序を持っているので、エネルギーでもある。

正確に言うと、プラスエネルギーとなるが、単にエネルギーというときにはプラスのそれを通常指している。


+++


聖書での「いのち」という言葉は、そのプラスエネルギーを含む概念だ。

それは物理学で言うエネルギーを指すこともあるし、被造物の霊に吸収されて、霊に活力を与える力を指すこともある。

聖書では多くは後者の意味で用いられている。


 

<悪魔は混沌の波動を発する存在>


ここでは余談になるが、波動群に秩序がないとき、それは混沌の状態となる。

無秩序はすなわち混沌なのだ。

そして、無秩序で混沌となった波動群は、秩序ある波動群の秩序を相殺し破壊する性質を持つ。

これが悪魔の放射する波動の性質である。



+++

 
以上をまとめて言うと、こうなる~。

 創造神は秩序ある波動である「プラスエネルギー」を放射する存在であり、悪魔はそれを相殺破壊する性質を持った混沌の波動を発する存在、であると。


 


<永遠のいのち>

話を戻す。

「いのちエネルギー」波動は、宇宙の中では「聖霊」が放射している。

「父、子、聖霊」の聖霊だ。

それは創造神だから、いのち波動を放射し続けているのだ。

だが聖霊は天の創造神王国では、満ち満ちているが、宇宙では「風のように」ただよっている。

人の霊を覆って霊を活性化したり、去って行ったりする。

 
 


<イエス、昇天後に聖霊を送る>


けれども、イエスは昇天した後に、新たに「助け主」として聖霊を送ると約束した。

この聖霊は、イエス波動体の中に住まう人の意識体「の中に」入りうる。

そして一旦入ると、もう出ることはない。(ヨハネによる福音書、14章)


+++

いのち波動を放射し続けている創造霊だ。
 
人の内に入って住まえば、人の意識体の内部でいのち波動を発し続ける。

ゆえに、当人にとっていのち波動は「永遠のいのち」となる。

それは当人の霊を活性化するエネルギーを与え続ける。

イエスの名に伴う波動ワールドを構成する意識波動体の七番目「永遠のいのち」はそういうイメージだ。

夢のような話だ。

だから、これを伝える知らせも「よき知らせ、すなわち福音」となる。


+++

もちろん、この知らせも「すぐに100%信じないとばちが当たる」というものでは全くないよ。

自分の心の「意識共鳴箱」が創造神の意識ワールドの共鳴箱に共鳴するのをじっくり待てばいいんだよ。



今回はここまでにしよう。



 
 
 
 
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63.「悪魔のワザの破壊」も「救いの道」も復活の枝の一つ

2018年07月10日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

復活の論理の、もう一つの枝を宣べよう。
 
前述したように、悪魔は、人間の心理にある「イエスを十字架死させたい」という思いをあおって殺させた。
 
この時、悪魔の死の波動は、一旦、イエスのいのち波動を制する。
 
だが、まもなく創造神のいのち波動は、これを圧倒、逆転する。
 
御子イエスを生きかえらせる。
 
 
 
<破壊をもたらす権威を剥奪>
 
この事件は次のような側面(論理の枝)をももっている。
 
~悪魔は人間の意識を操作して、創造神の子イエスを殺させた。
 
これは、悪魔の本性が明るみに出たことでもある。
 
全存在界の最高の権威者である創造神に対してさえ、どこまでも敵対する、という本性だ。
 
敵対心の極地は「殺意」だ。
 
それが創造神の子、イエスを殺すことによって明るみに出た。
 
証拠があがった。
 
+++
 
これで天国(そこには創造神が統治する政府があり、裁判所もある)の裁判所で裁きが下った。
 
天国は地上界の上位にあるので、その判決は宇宙にも、地上界にも貫徹する。
 
悪魔には有罪の判決が下った。.
 
悪魔は刑の執行を待つだけの身分となった。
 
悪魔はもう、従来容認されていた死の波動を駆使できなくなる。

「破壊の権威」を取り上げられる。
 
こうして聖句にある「悪魔のワザ(力)を打ち壊す」は実現されたこととなる。

 
 
 
<罪の代償作りも枝の一つ>
 
もう一つの枝もある。
 
罪無きイエスの死が、人類の罪の代償になったことだ。
 
この波動体の内に意識を住まわせた人間には、それが実現する。
 
これがいわゆる「救い」の道が開かれたことだ。
 
この場合の復活は、イエスが罪なき存在であることを証明した(証拠づけた)ことになる。
 
このように、「救いの道」というのは復活がもたらす枝の一つなんだ。
 
イエスの死と復活という事件は、多くの枝を持っているのだよ。
 
今回はここまでにしよう。
 
 
 
 
 
 
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62.人間は復活する

2018年07月08日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

創造神の波動ワールドを構成する意識波動体、今回は ⑥「復活」だ。


復活という意識波動体は、いくつかの論理の枝を持っている。

話は若干複雑になるよ。

+++

まず「復活」は「死なないこと」ではない。

一旦「死んで」「生きかえること」だ。

波動で言うと、一旦、死の波動が優越するんだね。

+++
 
ちなみに、人間の五感ベースの経験ワールドでは、死の波動の優越状態はそのまま続くことになる。

なぜなら人間の五感は、肉体しか認知できない。

五感はまた、肉体は死んだら崩壊して消滅すると認知する。

だからそういう認識が、そのまま人の全存在のありかただと受け取られるんだ。

簡単に言うと、「人間死んでおしまい」という認識になるんだね。
 

 
 
<まずイエスが復活>

他方、天の意識波動ワールドでは、この死の波動を「いのち波動は圧倒し、逆転する」と認識する。

それを「人の子」イエスの復活でもって創造神はまず実証する。

こうして「死の波動はいのち波動に勝てない」ことを、思い知らせる(悪魔に)という論理になっている。

 
 

<人間も復活する>

そして、復活は人間にも起きる、という。

最初は、イエス再臨の時だ。

話はこうなっている。

イエスは復活して天に上って王座に就いたが、その彼はあるとき、(多くの天使を従えて)空中に現れるという。

この時、イエスの名に伴う波動ワールドに、意識が住まわっていた状態で死んだ人の霊が、(霊がそのまま)身体となって復活する。

+++

残りの霊は、いわゆる「最後の審判」のときに復活する。

聖書は、この宇宙は最後に火で焼かれて消滅する、としている。

このとき、残りの人の霊はみな身体となって復活するのだ。

彼らに対しては、各々その行いに応じて裁きがなされる、という論理になっている。

+++

「残りの人」となって復活して裁かれる人は心配かも知れないね。

そんなことなら、肉体のように、死んだら消滅した方がいい、と思うかも知れないなぁ。

でも、創造神ワールドでは、五感ワールドでの人間の姿を、「人は死の恐怖につながれた、死の奴隷となっている」とみる。

五感ワールドの住人は「みんな同じだ、仕方ない」と思っているが、死の恐怖を抱いて生きるのも、また、楽なことではない。

 
復活の論理の枝はまだある。

だが今回はここまでにしておこう。








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61.富裕実現~「世の方法」と「天の方法」

2018年07月04日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

創造神の波動ワールドを構成する意識波動体、今回は ⑤「富裕」だ。

 
富裕とは、「この世で物的富が豊かに存在すること」である。
 
これをもたらすにも「世の方法」と「天の方法」がある。
 
 
 
 
<「経済学の父」アダムスミス>
 
「世の方法」は、自然物に働きかけて、もの(財貨)を生産する方法だ。
 
古代、中世を通して、人々の生産効率は低く、人類は貧しかった。
 
近世になって「経済学の父」アダム・スミスは、生産効率を急速に高める方法を見つけ出した。
 
社会に分業を行き渡らせる、というのがそれだった。
 
 
 
 
<分業は生産の機械化をもたらす>
 
分業とは、生産の作業を細かく要素(部分)に分けて、人々が割り当てられた作業に専念することだ。
 
分業が広がると、個々の生産作業は単純化する。
 
たとえば、釘を造るという活動には~、
 
「仕入れた針金を伸ばし」「短く切り」「一方の端をたたいて頭を造り」「他方の端をヤスリで削って先を造り」「火入れと水による冷却によってヤキを入れ」~などの作業が含まれる。
 
中世までは、この一連の作業を一人の職人がすべてやっていた。
 
+++
 
だが近世になると、人々を工場に集め、各々の作業を各人に専門的に担当させるという方式が現れた。
 
スミスはこの方式を社会に普及させることをすすめた。
 
この方式を採ると、生産効率は急上昇する。
 
個々人の作業は単純化し、それを繰り返すと熟練して技能が上がる。
 
さらに、単純化した作業部分は、機械に置き換えやすくなる。
 
それを水車などの動力につなぐと、生産は自動化し、生産量は飛躍する。
 
スミスはこの方式が社会に広がることが、富裕化の鍵だとみた。
 
+++
 
こういうことが、様々な生産分野で起きたのが、産業革命だ。
 
それが進展して今の人類は、かつてなかった富裕を享受している。
 
 
 
 
<創造神波動界の方法>
 
創造神波動ワールドの方法は別だ。
 
これは、イエスが「魚とパン」を次々に出現させた状況に見ることが出来る。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・
「イエスは言われた『あの人たちに何か食べるものをあげなさい』
しかし弟子たちはイエスに言った『ここにはパンが五つと魚が二匹よりほかありません』
 
するとイエスは言われた『それをここに持ってきなさい』
そしてイエスは、群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚をとり、天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 
人々はみな、食べて満腹した。
そして、パン切れの余りを取り集めると、12のかごにいっぱいになった。
食べたものは、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった」
      (マタイによる福音書、14章16-21節)
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
 
この事態を、物理学的に理解させてくれるのが、量子物理学(量子力学、量子論、も同じ意味)だ。
 
量子論はすべての存在の元は波動であることを明かした。
 
その波動が凝集した部分が粒子となり、粒子は組み合わさって物質を形成する。
 
(魚にもパンにもなる)
 
イエスが行ったのはこれだった。
 
つまり、波動を物質に様態変えさせたのだ。
 
(『創世記』冒頭に期されていると同様な「創造」のわざをしたのだ)
 
+++
 
富裕実現の「天の方法」を現代流にいえば、財布の中に忽然と貨幣が出現する、といったような現象だ。
 
創造神の波動ワールドに住まい、意識波動が共鳴することによって、それはもたらされるのだ。
 
 
+++
 
 
アダム・スミス流の「世の方法」もいいが、こちらでは天然資源が細って行くにつれて、生産物も細っていく。
 
だが、創造神の意識波動を構成する意識波動体は「天の方法」を実施する波動体だ。
 
こちらでは資源は無限にある。
 
それは波動であって、創造神から全被造界に際限なく放射され続けているのだからね。
 
 
 
 
<「信じる」はオンゴーイングの状態>
 
日本の牧師さんに言うけど、「世の方法と天の方法と、あなたはどちらを採るか!」と二者択一を信徒に迫ったらいかんよ。
 
それは「天の方法を100%信じるか、全く信じないか(ゼロ%信じるか)」と迫ることで、「百ゼロ思考」だよ。
 
信じたらもう100%信じねばならないと誤解して、目をつむって突進する思考。
 
+++
 
聖書読みは、「信じる」というキーワードを正確に解する必要があるよ。
 
それは「創造神の波動ワールドに住まうこと」だ。
 
そして、成果が実現されるには、自分の意識波動がそれに共振・共鳴せねばならない。
 
「信じる」とはこの共鳴を期待し、共振に努めているという「進行中(ongoing)」の状態でもあるのだ。
 
 (その間は、「世の方法」も併用して肉体を食べさせていかねばならない)
 
 
だからね~
 
「信じたら(すぐに)実現されま~す。実現されないのはあなたの信仰が足りな~い。キィ~ッ」なんて講壇から叫んでたらいかんよ。
 
知的不全の教会員しか残らなくなるよ。
 
 
今回はここまでにしておこう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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60.「世の健康」「天の健康」

2018年06月30日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

創造神の波動ワールドを構成する意識波動体を具体的に眺めることを続けよう。

今回は、 ④ 健康(悪いところすべてが新創造された完全な健康)だ。




<不備な器官が再創造される>

これはこの世で病院や医師によってもたらされる健康、回復した健康ではない。

身体の不備な器官が、新しく再創造されて実現される健康だ。

御国のパワーでもたらされる天国の健康。




<イエスの癒しはすべてこれ>

イエスのもたらす健康は、みなこの再創造によるものだ。

例えば彼は、中風で足の萎えた人を歩かせている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・イエスは中風の人に『起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい』といわれた。
すると、彼は起き上がって家に帰った。
 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった創造神をあがめた」
        (マタイによる福音書、9章6-7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


このとき衰えた筋肉、骨などは新しく再創造されている。

 (旧い骨や筋肉はその瞬間蒸発しているだろう)

だから癒やされた人物は、そのまま歩き続ける。

もしも「この世的」な医学による癒しであれば、しばらくしたらまた歩けなくなるだろう。


+++

聖書には、被造界の創造は、『創世記』の冒頭部分だけに記されているのではない。

イエスがこの地上に「人の子」として来るとき、御国の属性を持った空間(天国空間)を彼は連れてきている。

(天使も多数従えてきている)

だから彼の癒しはすべて「創造」の属性を持った癒しとなるのだ。




<「百ゼロ」意識は恐怖感の源>

そして、今回も繰り返すが、こういう話の可能性を「100%かゼロ%」かという見方で認識したらいかんよ。

どちらの可能性も、人間の心理に現実に起きうることではない。

それにとらわれていたら、「100%信じないと神様に罰せられるのでは・・・」と恐れることになる。

また「そんなことはゼロ%だ」と考えたら、「そんな不信仰でいたら神様に罰せられるのでは・・・」と恐怖感に襲われることになる。

どっちにしても、待ち受けているのは恐怖感だ。

この感情を伴った心理状態は、危険の源で、安全でないのだよ。

+++

こういう「百かゼロか」の両極しかない通念から、一日も早く脱却する。

そして、理性が指し示す可能性「五分五分」から認識を進めるのだよ。

でないと聖書の解読は間違って行ってしまうからね。

今回はここまでにしよう。







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59.平安に満ちた静けさ

2018年06月26日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

創造神の波動ワールドを構成する波動体の話にもどるが、前回述べたことを、繰り返し示そう。

波動ワールドなどというのは「見えない世界」の話だ。

 
 

まず、信仰者読者および「こういう話を心に抱いていてみたい」と思う読者にひとこと。

~これを「百パーセント信じなければならない」などと決して思わないように。

人間にそんなこと出来ない。

なのに「絶対信じないと」と思うと恐怖感がやってくる。

その苦しみから逃れるには、「あんな話は間違いだったのだ」と思うしかない。

ところが人間は「見えない影響者」を思わないでは生きられないようにできている。

そこでまた「絶対信じられるもの」を求めていく。


「百ゼロ習慣」をもつ者は、この百とゼロとの間を行ったり来たりする。

これが日本民族大半の心情だ。

日本人の一人として、情けないが、これが現実だ。



 
<オウム教団事件も「百ゼロ」から>
 
 
そこに銘柄大学の研究者たちがつけこまれたのがオウム教団の事件だった。

これは日本人の「百ゼロ思考」習慣のもつ危険が絵のように現れた事象だったのだ。

多くの人が死に、かついまも、研究者だった死刑囚たちが刑の執行を待っている。




<「笑わせるな・・」は客観的ではない>

 
「見えない世界の話」について、そんなもの存在しないよ、笑わせるな!」というのが理性的であると錯覚しないように。

それは「見えない世界の存在確率はゼロだ」といってることだ。

実はそれは感情的なことなのだ。

だって、見えないのだったら「存在しない」ともいえないはずだろ?

 
こういう世界の話には、理性は「可能性五分五分」と判断する。
 
そこから始めるのが、知性的なことなのであって、それを神様が「不謹慎!」などと怒ることなどないからね。

心配しないで。
 
では始めるよ。
 
 
 
 
<「平安」は波動実体>
 
 
今回は、創造神の波動ワールドを構成する意識波動体のなかの~、

③平安に満ちた静けさ~だ。

この概念も日本語にはない。

ただ「音がしない」だけ、とか、「静寂」「静謐」とかの概念はある。

だがこの波動は「平安に満ち満ちた静謐」の波動なのだ。

これを示す英語には calm という語がある。

だが日本人にはpeaceful calm と言わないとわかりにくい。


+++

「平安」の語はイエスが繰り返し弟子たちに投げかけていった言葉である。

それは一定の空間の中に満ちる「調和の波動」とでも言うべき実体(波動実在)である。

イエスはそれを、弟子たちを遺して十字架死する直前(最後の晩餐の時)にも述べている。

・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは諸君に平安を遺します。諸君にわたしの平安を与えます」
    (ヨハネによる福音書、14章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

創造神の持つ平安波動である。

当面、そういっておく。




<「天国」の波動実体>

 
ここで一つ追加する。

イエスの言う平安だけでなく、① グレースの愛も ② トルースも、さらに④以降に述べる意識波動も含めて、すべてが存在する空間がある。

それが「天」である。

これは「創造神が王として統治する王国」であり、いわゆる「天国」とか「御国」はそれを言っている。

御国はそうした波動体が満ち満ちた空間である。



 

そしてもう一つ。 その天国空間(その性質を持った限定的な空間)は、地上にも降りてくる。

イエスが地上に来て以降、そういう事象が生じる。

だから、創造神の波動ワールドに人の意識波動体は「入って住まう」ことができるわけである)

その限定空間では、創造神ワールドの波動構成体以外の波動(「世」の波動)は留まれなくなって、出ていく。

イエスはそれを~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしが創造神の御霊(聖霊)によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう創造神の王国はあなたがたのところに来ているのです」
    (マタイによる福音書、12章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~との言葉で示している。




<「絶対信じなければ」は間違い>

 

いやぁ~、夢のような話だね。

だが、りんろうくんもこれを「100%絶対に信じなければならない話」として聞いたり読んだりしたらいかんよ。

「見えない世界の話は五分五分」としたらいいし、そうすべき。

「安全なキリスト教」のためにもそれは必要だ。

今回は、ここまでにしておこう。









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58.(臨時版)「見えない世界」を知的に認識する

2018年06月24日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

臨時版を差し挟む~。


日本人は、神とか、見えない世界のことになると、その存在を「ゼロか百か」という思考パタンでしか考えられない。

~この危険性を、鹿嶋はこのブログでも警告してきた。
 
 
 
だが、こんな程度の警告ではおっつかない。これはもっと繰り返し警告せねばならない。

そう痛感させられる事態を、最近も友人から耳にした。


 

<チャーチスクールの迷走>

彼も聖書の探求者だ。

探究するにつれ、この書物の持つ深い知恵に感銘し、それを取り入れて人生を送っている。

教会には所属していないが、外見的にはクリスチャンとみられている。

+++

その友人のお孫さんは、チャーチスクールに通う小学生だった。

一般にチャーチスクールには愛があり、自由がある。

また、聖書に基づいた世界理念、人間理念も教えられている。

(これは貴重なことである。特に戦後日本の学校教育は無理念教育だから)

+++

だが、あるときスクールの現場の先生は「生徒にもっと信仰を!」との情熱に燃え始めた。

子どもを集めて賛美歌を延々と合唱させて、もっともっと感覚的にキリスト教理念で包もうとした。

子どもたちには、長い賛美の繰り返しが終わると、ボーとしてしまっている姿がみられるようになった。

それを見て親(友人の娘)は考えた。

~小学生は、まだ、教科書の学問知識を用いて知力を育成していく段階だ。

なのに、学問文化は「世のもの」だとして軽視し、「天のもの」を歌う賛美歌に没入させようという。

善意なのはよくわかるが、これはもう洗脳ではないか。

 
 
 

<キリスト教観も悪化>


母親の考えは展開した。

~これでキリスト教会の正体もわかった。

やはり宗教なのだ。

人を洗脳して妄想に取り込もうとする。

そう考えた母親は、教会に、さらにキリスト教に失望した。

しばらくして子どもを居住区の公立学校に移した。

 

同時に鹿嶋の友人(祖父)からも孫を遠ざけようとし始めた。

子どもがキリスト教の影響を受けないように~と。

とにかく宗教的・キリスト教的なあらゆるものから、自分らを隔絶せねばならない、と。

~そういう話を友人はしていた。

 
 
 
<日本では起きるべくして起きる事態>


これは、(日本では特に)起きるべくして起きる事態だ。

根底に横たわる原因は、「見えない影響者」である神を認識する考え方にある。

「絶対的に信じるか、全く信じないか」の二つしか認識方法がないと、暗黙に思っていることにある。

こうなると、教会員は信じたら100%信じなければならない、という思いになる。

外部の一般人もまた「信者は100%盲目的に信じている妄想者だ」と思うしかなくなる。

「鰯の頭も信仰」というけど、全くその通りだなぁ~と思う。

+++

で、当の信仰者はどうかというと、「100%信じないといけない」という恐怖感に内心さいなまれれて暮らすことになる。

スクールでボランティアとして奉仕する先生方(教会員で信徒さん)も「子供たちの信仰を100%にせねばならぬ」という思いを内心もつことになる。

それが何かの契機で今回、発露した。

スクール生の母親は、そういう状況に抑圧感を直感した。

子どもをスクールから離し、自分も教会から離れた。

+++

繰り返すが、根底原因は「宗教は100%信じるか、信じないか」というものだ、という通念にある。

信仰者、未信仰者を問わず、日本人の99.99%はそういう暗黙の通念に落ち込んで暮らしている。


 
<在物神宗教しか知らなかった>

日本でそうなった理由は、歴史の中に在る。

日本人は歴史的に、(このシリーズで述べた)在物神宗教~物質の中に染み込んでいるとイメージされた神を信仰する宗教~しか持ったことがないからだ。

在物神には「神とはどういう存在なのか」を述べる理論がない。

ただ、物質(墓石や骨や像や建物や山や空などの)から受ける感慨だけがある。

感慨には論理はなく、漠然とした手がかりにしかならない。

これでは「信じるか信じないか」の選択~それは実質上百パーセントかゼロパーセントかの心理になる~に行くしかなくなる。

+++

だが日本人は、在物神宗教の経験しかないので、それ以外の認識方法を持たない。
 
その結果、「宗教とはそういうものだ」という思考が慣習になり、かつその思考が心底深くに染み込んでいる。

キリスト教会に通う信徒さんたちも~そして牧師さんも~そうだ。

だから、突然「世は悪魔のもの」という聖句をがぶ飲みして~詳細に吟味することなしに~福音賛美歌に子どもたちを没入させようともするのだ。
 
大人自身も教会で説教を聞いても、「これは100%信じねばならないもの」だとして、考えることをしないのだ。

 
 
 

<創造神宗教には神の理論がある>

日本には明治になってようやく、教典を伴ったキリスト教が入ってきた。

キリスト教は創造神宗教だ。

教典には「創造神とはどういう神か」を述べている理論がある。

そこには神を理性で吟味するという「知」の介入する余地がある。

理性というのは、創造神という「見えない影響者」の存在可能性を、まず、五分五分と考える。

だって、見えないのだからね。

見えないものを「存在する」と断言できないが、同時に、「存在しない」とも断言できない。

見えないのに「存在しない!」というのもおかしい。

「理性・知性」は自由にされていたら~恐怖感にさらされたりしないで~そういう風に働く。

それは「まずは五分五分だね」という風に働く。

 
 
<信仰に「知性」を>
 
使徒パウロの「信仰に知性を」も、そう認識すべきことを言っている。

それが~理性、知性という能力を与えられた~人間が採るべき、最適な姿勢という姿勢だ。

五分五分からはじめて、聖句と、生活体験とをつきあわせて探究をすすめる。

すると、心理的な確率が六分四分になったり、七分三分になったりするだろう。

また、逆に四分六分になったりもするだろう。

それでいいのだ。

それが理性を与えられた人間の採るべき道だ。

+++

ところがそれが日本では、「百かゼロか」の思考になってしまっている。

この暗黙の思考習慣が「信仰に知を」にカバーをかけて、見えなくしてしまっている。

そういう事態がもたらす悲喜劇が、今度の友人の話でまたまた露呈したのだ。

+++

友人は、日本には0.01%しかいない、希なる聖書吟味者だ。

「見えない世界」の存在可能性を五分五分から思考開始している。

世界には創造神が存在するという「オレの確信はいま70%くらいかな・・・」などといっている。

ところが、孫の親(娘)には「100%の妄想信者」としか見えない。

「当面、これは手が付けられないなぁ」・・・と彼はいう。

+++

それを聞いて鹿嶋は、日本人は危険な爆弾を抱きながら生きる民族だなぁ・・と、改めて思い知らされた。

「五分五分から始める思考」がいかに大切かを、もっと宣べ伝えねばならない、と痛感した。

 
 

<知の希薄な民族>

こんな思考状態が続けば、日本人の知性は、純朴なままだろう。

「見えない世界」への思考様式は、「見える世界」への思考にも影響する。
 
純朴な知性は、人民の政治見識にも現れる。

日本は世界でも珍しい、「政治見識の低い、経済だけの先進国」~との評が国際社会で定着しつつある。

この印象を終わらせる鍵も「五分五分思考」にある。
 
 
 
 
 
 
 



 
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57.「グレース」と「トルース」の波動の中に

2018年06月21日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

もう一つ、わかりにくい聖句を吟味しておこう。
 
・・・・・・・・・・
「諸君がわたしの名によって父に求めることは何でも、父は、私の名によってそれを諸君にお与えになります。
 諸君は今まで、何も私の名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです」
        (ヨハネによる福音書、16章23-24節)
・・・・・・・・・・
 
 
これも「イエスを証言し、しるしで証明する」というイエス最後の遺言の大枠の中でとらえるべき聖句だ。
 
だから欲しいものを何でも無条件に野放図に与えるというのではない。
 
+++
 
だが、それでも夢の聖句だ。
 
またこの特権は弟子たちだけに与えられるのでないだろう。
 
後にイエスを証言する人々にも与えられると解するのが道理だろう。
 
+++
 
だけど実際には、そんなことおきてないよね。
 
証言者がイエスの名によって求めても、超自然的な事象があらわれることはほとんど観察されてない。
 
だから、これも解読がいるのだ。
 
 
 
 
 
<イエスの名の信号に伴う波動ワールドの中で>
 
 
まず、「私(イエス)の名によって」は誤訳だ。
 
前述したように、これは「イエスの名の信号(シニファン)に伴う波動ワールドの中で」が正しい訳だ。
 
そのこともまた、ヨハネ15:7の解読知識を援用してわかることである。
 
見返すと信号(シニファン)「イエスの名」の意味内容(シニフィエ)は盛り沢山だ。
 
「創造神イエス)の(意識)波動ワールドの中に住み、その意識波動に証言者の波動が共振・共鳴し、彼の意識の中に創造神波動ワールドが生成した状態」というのがその正確な内容だ。
 
だが、「創造神の意識波動ワールド」というもの、まだ、漠然としている。
 
今回は、それをもっと具体的に吟味してみよう。
 
 
 
 
<七つの意識波動構成要素>
 
創造神の波動ワールドを構成する意識波動体を具体的に考えてみる。
 
わたし、鹿嶋が聖書を吟味して触れてきた様々な波動体のうち、とりあえず代表として次の七つをあげてみる。
 
その波動たちは~、
 
①グレースの愛(与えるだけの無償の愛)、
 
②トルース(真理:変わらざる知識)
 
③平安に満ちた静けさ(英語のcalmが相当する)
 
④健康(悪いところすべてが新創造された完全な健康)
 
⑤富裕(魚とパンを次々に創出した力による豊かさ)
 
⑥復活(死んでも生き返る力)
 
⑦永遠のいのち(客体に留まり続けるいのちエネルギー)
 
~といった波動たちだ。
 
+++
 
少し説明がいる。
 
まず①グレースと ②トルースについて~
 
これはヨハネによる福音書の1章17節から採っている。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしたちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、グレースの上にさらにグレースを受けたのである。
・・・・(中略)・・・グレースとトルースはイエス・キリストによって実現したからである」
   (ヨハネによる福音書、1章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


二つの語は、邦訳聖書では、①恵み ②まこと・・と訳されている。
 
 
 
<グレース>
 
どちらも日本語にはない概念だった。
 
で、邦訳聖書作成者のヘボン先生(ヘボン式ローマ字の)は苦心された。
 
結局、グレースを「恩愛」と訳され「めぐみ」との読み仮名を付された。
 
だが、意味はよくわからない。
 
それで、戦後、口語訳にしようという際に(ヘボン先生の訳文は文語文)、「もうどうせわからないのなら・・・」と「恵み」にされた。
 
これがグレースだ。
 
 
 
 
<トルース>
 
トルースの意味を表す言葉も日本語にはなかった。
 
(時が流れても永遠に)「変わらない知識」という思想は日本人にはなかった。
 
理念がなければ、それを示す用語も産まれない。
 
ヘボン先生はやむなく「真理」(言語上は「まことの理論知識」という意味)をつくってそれにあてられた。
 
でも、やはりこれもモヤモヤしている。
 
そして、結局、日本人には「もやもや」した状態できているがそれでは駄目なのだ。
 
そこで、わたしは、もう、英語の発音をそのまま日本語にして「グレース」「トルース」としたのだよ。

 
 
 

<生来もちあわせなかった波動体の中に住む>


どちらも、もともとは産まれたままの人間の意識にはなかった、意識波動体だ。
 
(西欧にそれがあるのは、聖書の理念をいち早く取り入れたからに過ぎない)
 
つまり、創造神のみから出た意識波動体だ。
 
わたしは、この二つを創造神の波動体要素の代表のトップと認識しているのだよ。

 
 
 
 

<共振がなると「神」ができる>

そして人の意識がその中に住まわっていると、自らの意識もそれに共鳴し始め、結果的に、それらと同じ意識波動が自らの内に生成する。
 
神は波動で構成されているので、共鳴した意識体は創造神でもある。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・『私は言った。あなた方は神である』と書いてあるではありませんか。
もし、神の言葉を受けた人々を神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
『私は神の子である』と私が言ったからといって・・・」
         (ヨハネによる福音書、10章34-35)
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
~というイエスの言葉は、それを言っている。
  (少し難しかったかも知れないが)
 
 
こうして、自分の内に創造神の意識波動体が形成されることを、エペソ書ではこういっている。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「このキリストの中で、あなたがたもともに建てられ、御霊によって創造神の住まいとなるのです」
          (エペソ人への手紙、2章22節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
  
 
  (こういう論理は量子論(存在波動論)があって初めて明確に理解できる)
 
 
そして、こうなると、自分が希望する事柄は、その創造神が出動することによって、超自然事象として実現される~という論理だ。
 
+++
 
だから、人はイエスの名に伴走する波動ワールドの中に、住まっていればいいのだ。
 
(ちなみにそうすれば、うつ病にもかからないし、かかっていても回復する。この波動の中に住まっていれば、心が喜びに満ちあふれるからだ)
 
そして黙想していればいい。
 
あとは、オートマチックにことはなっていく。
 
望むことも超自然的に実現される。
 
 
+++
 
そういう論理体系になっている。
    (これは福音(よきしらせ)の中核でもある)
  
③ 以下の意識波動体は、次回にするね。
 
 
今回はここまでにしよう。

 

 

 

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56.「ヨハネ15:7」は不明な聖句も明かす

2018年06月11日 | 安全なキリスト教の学び方
 

 


ヨハネ福音書15章7節を時間をかけて解読してきたね。

この解読は、他の難解聖句を解明するのにも役立ってくれるよ。

+++

聖書の中には、重要そうだが「ほとんど意味不明」という聖句がいくつかある。

それを解読するのに、とても助けになるのだ。




<信じる者にはしるしが伴う?>


例えば次の聖句(イエスの言葉)を見てごらん。
 
「・・・」は(中略)を示すよ。 
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。・・・・・・
・・・信じる人々には次のようなしるしが伴います。
すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、・・・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
    (マルコによる福音書、16章15-18節)
・・・・・・・・・・・・・


これ、凄い約束だろ?

だけど、福音を宣べ伝える人に、現実にこういうこと起きてる?

教会には「信者さん」はたくさんいるよ。

でも、そんな力は現れてないよ。

+++

牧師さんだってそうだ。

「うちの教会の牧師さん、そんな力ないよ。祈ってはくれるけどね」

~という教会員が日本ではほとんどだ。

で、牧師さんは説教でも、このマルコ16:15はパスしてやっている。

それが習慣になって、この聖句はないものとして扱うようになっている。

つまり、無視している。

それでいて「みなさん、聖書は神様の言葉ですよ! 疑わないでみな信じなさい!」

~などとニッポンの牧師さんは説教してるもんね。

そんなことしてる教会に、人々が留まると思う?

留まるのは、「あまり考えない」人たちだけだ。

だから、日本の教会は、概してみな、小さいんだよ。



 
<「最後の遺言」を追うところから始まった>

では、この聖句を解読してみよう。

まず、このところの一連の話は、イエスの「最後の遺言」とでもいうべき言葉の意味解明から始まったことを思い出そう。

遺言聖句はこれだったね~。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖霊が諸君(イエスを信じる人々)に臨むとき、諸君は力を受けます。
そして・・・(中略)・・・地の果てまでの、私の証人となります」
           (『使徒行伝』1章8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
この意味内容を解明する最大の手がかりとして、鹿嶋はヨハネ15:7に目を付け、その解読を試みたんだね。

この聖句ももう一度掲げておこう~。

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。
それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

<同じ信号を繰り返し受信すると人の感覚は麻痺する>

上記マルコ16:15-18の意味内容(シニフィエ)も、このヨハネ15:7と同じだと考えられるんだ。

なのにイエスが別の表現をするには理由がある。

同じ言語信号を繰り返すと、その信号に人間の感覚は麻痺する。

つまり飽きる。

飽きて、その意味内容に思いを至らせる意欲が湧かなくなる。

だからイエスは色んな表現で、本質を語るのだ。




<対応する一対を取り出す>

そこで、その同じ内容に対応していそうな聖句をマルコ16:15と、ヨハネ15:7の聖句から各々取り出してみる。

一対はこうなりそうだ~。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私の名によって悪霊を追い出し、・・・(中略)・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
    (マルコによる福音書、16章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
・・・・・・・・・・・・・・・・
「欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます」
     (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・

この二つはどちらも~

・・・・・・・・・・・・・・
「私(イエス)の証人(超自然的なしるしで証拠する人)となります」
   (『使徒行伝』1章8節)
・・・・・・・・・・・・・・

~の具体的な様態をいっているペアーだ。

 
 
 
<残りの一対も見る>

では他のペアーは?

残るは、もう一対だけで、それらは上記超自然事象を実現する方法をいっている。

それを示す信号は、マルコ伝では~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「信じる者には次のしるしが伴います」
     (マルコによる福音書、16章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~の「信じる」だ。

他方、ヨハネ伝ではこれだ~

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、」
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この聖句の内容を、わたしは長々と解読したのだったね。

だから、解読内容はもっと長く、豊富なものとなったよね。

それらの豊富な内容を示す信号に対応する、マルコ伝での信号はたったの一言「信じる」だけだ。

これではマルコ伝聖句がわからんのは当然だよね。

 
 
 
<「信じる」は砕きにくい言葉>

この「信じる」という言葉は短い一言であるだけではない。

一般的に言って、そもそもその内容がわかりにくい言葉なのだよ。

なぜなら「わかる」ためには、その語の意味を日常語に砕いてみねばならない。

だがこれは漢語から直接そのままきている語なので、日本で出来たことばのように、意味を砕いてみることが困難なのだ。

+++

我が国ではこの「信じる」という言葉は、通常「この幼稚園、小学校が子どもにいいと信じる」「この薬は効くと信じる」のような風に用いられている。

つまり、何かの客体を対象として、「いいと思う」程度の意味で用いられている。

+++

だが日本語の聖書で「信じる」と訳されている語の英語は 「believe in 」だ。

  「in」は「中に」だ。

でも「中に信じる」では、意味をなさないだろ?

「信じる」ならbelieveだけでいいじゃないか?

なぜ、in がついているのだ~となる。

やはりこれを「信じる」と訳すことそれ自体に無理があるのだ。

+++

日本語聖書の邦訳者ヘボン先生は、ここでも苦労された。

そして blieve in には他に適切な語がなかったので、「信じる」を邦訳語として使われた。

やむを得なかったことではあったのだが、その結果、この「信じる」という語は聖書に出てくる毎に、よくわからん言葉になっているのだ。


    


<イエスの波動ワールドに住まうのが「信じる」>

そのことがこのマルコ伝での「信じる」にもあらわれている。

もうこれはヨハネ15:7を援用して考えるしかない。

やってみよう。

+++

この「信じる」は、ヨハネ15:7の「「諸君が私(の言葉)に留まり(住まい)、私の言葉が諸君の内に留まる」に対応していたよね。

そしてそのヨハネ伝聖句の意味は~

「イエス(の言葉)という信号に伴う(意味内容である)波動ワールドの中に住まわり、かつ、そのワールドが自分の中にも内住すること」~だった。

これを「信じる」の「ヨハネ伝的」意味内容とする。

(以後、聖書の中の「信じる」は「その波動ワールドに住む」と解するのがいい)

そしてこれを援用すると、懸案の上記マルコ伝聖句はこうなる~。


・・・・・・・・・・・・・・・・
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。・・・(中略)・・・
私(の言葉)の中に意識が住まい、かつ、その意識の中に私の言葉が住まわった者には、次のようなしるしが伴います。
すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、・・・(中略)・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
    (マルコによる福音書、16章15-18節)
・・・・・・・・・・・・・


こうなると、マルコ伝、16:15-18の聖句はリアルな内容を伴って我々の前に浮上する。

信徒、牧師さんたちにも(そして鹿嶋にも)この意識状態が成立していたら、宣べ伝えた福音を証明する「しるし」は現れるはず、~となる。

当面現れてないのは、この状態が完成していないから、というだけのことだ~となる。


今回はここまでにしておこう。






 
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55.内なる創造神が出動して証拠する

2018年06月08日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

りんたろうくん。

ビッグ聖句の解読、続行するよ。

今回は、いよいよ夢のフレーズ「欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます」だ。

全体の聖句はこれだったね。

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




<ここで決めてやる!>


「望むことはななえられる」という聖句に焦点を合わせよう。

これはもう言葉通りで、敢えて吟味する必要ない、と人は思いがちだ。

だがそうでもない。

そのままでは、人は張り切って自分で事をなそうとするのだ。

 

だがそれでは超自然の奇跡は起きない。

人間(の意識体)にそんな力はないからだ。


+++

では、「創造神に内住されている自分」を意識してやったらどうか。

オレには創造神がいるのだから「ここで一発決めてやる!」と攻める。

燃え上がってイエスの名で命じたりする。
 
だがそれでも、超自然事象はおきない。

この状態でもまだ、「自分という意識体」を働かせようとしているからだ。

 
 

<滑り込んだ創造神に出動願う>

こういう「自分」を取り除いてしまったら残るは「うちに住まわっておられる創造神」だけ、となる。

もうこの方に出動を願うしか手がなくなる。

そこで、自分は何もしないで、この方に軛(くびき)を負ってもらう。

「私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイによる福音書、11章30節)の波動ワールドに安住して、負ってもらう。

+++

創造神は巨大なる天国、その中の一部である宇宙~これらを含めて何から何まで言葉創造した、巨大な力の持ち主だ。

全エネルギーの発生源だ。

この方ならば超自然事象を実現できる。

これに100パーセントゆだねる。

いっせつ手を出さない。





<言葉が留まれば、あとは私がする>

「・・・私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます」というのだから。

「留まったら、次にこれこれをしなさい」とは全く言っていない。

というのは、後は「求めたように実現される」ということだ。

だから、自分は何もする必要がない。

自分はこの聖句波動世界に安住していればいいのだ。

(実際上それは、「自分の内に創造神が住まわっておられる」という実在感が濃厚にあって可能になるものなのだが)

さすれば創造神は、自ら出動して超自然事象を証言に伴わせてくださる。

+++


~以上が「ヨハネ15:7」のビッグ聖句の私の解読だ。

現時点での鹿嶋解読。

今回はここまでにしよう。





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54.最悪感には「血の代償」の実在感で

2018年06月07日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

前回、量子論のおかげで、ヨハネ15:7の「「諸君(弟子たち)が私イエス)の内に留まり、かつ、私が諸君の内に留まる」という聖句を物理的にイメージできるようになった~ことをみてきた。

だが、それでもこの聖句は「我々が意識に留める」には実際上難しいところがある。

今回は、その「実践上の障壁」を取り除く方策を考えておこう。

+++

「創造神が我々の内に入る」ときくと我々の心には恐れ生じるのだ。


これ、クリスチャンも例外でないよ。

・聖なる創造神様が、こんな私の(霊の)内に入って住まわれるなんて」、そんな恐れ多いことが起きるはずがない!

・私はこれまでの人生で、自分の汚れを沢山認知してきている。

・私の良心が、それを体験してきている

・「神様が内住して下さっている」なんて、「平気で」言ってる人は神を恐れぬ傲慢な人間だ・・・。


~こう反射的に思って、人はフリーズする。

顔も身体も萎縮して固まってしまって、イエスのこの言葉を考えるのをやめてしまう。

その結果、この聖句は放念してしまったりもする。
 
 
 

 

<自然の情には聖句で対処する>

これは生きとし生きるものが抱く、自然の情だ。

でも、この壁を崩さないと「夢の果実」には至れない。

どうしたらいいか?

産まれながらの情に対処するには、やはり、聖句でもって対応するしかない。

+++

まず、思考を小休止する。

そして黙想し、聖句の波動を聞く。

すると、事態を打開する聖句が浮上してくるだろう。

有用な一つは、次の聖句(イエスの言葉)だ。

・・・・・・・・・・・・・・
「これは契約の血です。罪を許すため、多くの人のために流されるものです」
    (マタイによる福音書、26章28節)
・・・・・・・・・・・・・・

 



<「イエスの十字架で許された」はアバウトな認識>


聖書は「私のような汚れたものに・・・」という「汚れ」の源は、「罪」だとしている。

罪があるから汚れが生じている。

そしてその罪を相殺するのは「イエスの十字架」とか「十字架死」だとか漠然と思っている人は多い。

だがそれはアバウトな認識だ。

Sサイズの人に、Lサイズの洋服をあてがうような認識で、間違いではないが、いいかげんなところがある。

上記聖句は、罪を許すのは「イエスの血」だとズバリ言っている。


 
 


<ピンポイントは「血」>


これは、イエスが十字架死をする前に受ける拷問の際に流す血だ。

大量の血が流れ出る。

十字架に釘付けされるときも、兵士が槍でイエスの脇腹を刺すときにも、イエスの血は噴き出す。

これらの血が、ずばり「信じる者の罪を洗い流す実体」というのが聖書の正確な論理なのだ。


 
 
 

<旧約聖書との照応>

そのことは旧約聖書と照応させると浮上してくる。

旧約では、エホバ神が~モーセを通して~イスラエルの民にこう命じている~。


~(幕屋(神殿の前身)には、聖職者が罪の赦しを祈る聖所がある。

その奥に至聖所があって、そこは究極の祈りの場所である。

そこには毎年、選ばれた一人の祭司が入ることが出来る。

その祭司はそこで、屠ほふ)られた動物(若い雄牛や子羊)の血をで七度降りそそげ)~と。


・・・・・・・・・・・・・
「・・・会衆の長老たちは、エホバ神の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛をエホバ神の前でほふりなさい。
油注がれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持って入り、祭司は指を血の中に浸して、エホバ神の前、垂れ幕の前に、七たび振りかけなさい。・・・・」
   『レビ記』4章15-17節
・・・・・・・・・・・・・


~といった如くに。

この血が、直前の一年間にわたる、民が犯してきた罪の贖い(代償)になるというのである。


 




<影と本物>
 


旧約聖書に書かれていることは、新約聖書に書かれている真理の影である。

これは聖書の鉄則だ。
 
今みたように旧約聖書では、殺される動物(子羊など)の血が、罪の代償として振りかけられている。

それが本物であるイエスの影のだとすると、本物の生け贄はイエスであり、罪の代償はその血だということになる。

+++

ちなみに、これは次のような論理にも繋がっていく~。
 
すなわち、旧約における動物はイエスの影だから、その血は、毎年流されねばならない。
 
だがイエスは本物だから、その血は一度流されたら永遠に有効となる。
 
このようにイエスの血は永遠の贖いの力を持つ、と。
 
~聖書全体では、そういう論理構造になっている。

 
 
 
 

<物理的イメージは>
 
 
これには、次のような論理も繋がっている。
 
~旧約聖書には「血はいのち」とある。(『申命記』12章23節)

そしてイエスの血は「いのち(エネルギー波動)の凝集体」だ。

イエスのその "いのち”は、宇宙を含む被造物のすべてを存在たらしめた、巨大なエネルギーでもある。


+++

他方、人間の罪は、「いのち」概念を用いて言えば、「マイナスのいのちエネルギー体」だ。

人間は宇宙からしたら塵にも及ばないサイズの存在だ。

その塵以下の内にある「マイナスのいのちエネルギー」など量的には微々たるものだ。

それは、創造神の御子イエスの巨大な「プラスのいのちエネルギー」にあたれば
ロウソクの火が吹き消されるように消滅する。

当人が、後悔してもしきれないと悩み苦しむ罪も、この巨大なエネルギーによればあとかたなく洗い流されることになる~と
 
 
 
 
 
<傍証する聖句たち>


・・・聖書には、それらを傍証する聖句もある。

・「人の子」として地上に現れた創造神の御子イエス。

・その十字架死までの生涯と死のありさま。

・復活し500人の前に現れた、という記録。

・福音の宣教命令とそれに伴うしるし(奇跡)。

・イエスの昇天の様

     ~などなど。

+++

これらが形成する意識波動群は、人間の人生経験のなかで蓄積された罪悪感と当初は~当人の心の中で~激しい戦いを繰り広げるだろう。

だが結局は聖句にある力が勝る。

その波動が罪悪感の波動を凌駕していく。

「自分はイエスの血で完全に聖められている」という確信が心の中に満ちるだろう。

そのとき、創造神(のことば)が「自分の内に住まわれる」という理念への恐れは消滅する。

それに併行して、「私の言葉が諸君の内に入って住まう」というイエスのことばは、人間の平安な心のうちに内住していくだろう。


今回は、ここまでにしよう。


 








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53.言葉が「包み」かつ「内に入る」とは?

2018年06月03日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

今回は~

「私(イエス)のことばが諸君の内に留まる」だ。

聖句では「留まれば」となっているが、ともあれこの「言葉が(諸君の)内に留まる」という事態について、吟味しておく。

全体の聖句はこれだったね~。


・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 






<「もやもや」のままで>

ここでは「諸君が私の内に留まり、かつ、私が諸君の内に留まる」といっている。

これってわからんよね。

この思想はわれわれの日常感覚では、わからない。

なのに、そのままで、キリスト教会はやってきた。

そういう、「もやもや」を含めながらやってきてることは、「キリスト教はわからん・・・」という印象を一層強めている。





<波動体は弾力的>

これは従来の物理学を援用しても、物質的にイメージすることが困難だ。

ニュートン物理学でも、アインシュタイン物理学でも、「物質」は、粒子(つぶつぶのもの)が組み合わさってできていると考えられたからね。

その大きさは固定的なんだ。

+++

ところが量子力学(量子論)はこれを物理的にイメージできるようにしてくれた。

量子論は物質の根源が「波動」であることを見出した。

すると物質は波動の凝集体であることになる。

(量子論学者には「波束(波の束)」などと呼ぶ人もいるようだ)

+++

すると、物質を構成する波動たちの凝集の度合いは大きくなったり、小さくなったりすると考えられる。

それにつれて、凝集体は小さくなったり、大きくなったりする。

凝集体(物質)は弾力的なのだね。

であれば、(大きくなって)他の波動体を包含したり、(小さくなって)その波動体の中に住まわったりすることも出来るはずだ。

つまり、互いに「相手を含み、かつ、相手の中にいる」ことができることになる。




<創造神も様態は「波動の凝集体」>
 

弟子たち(諸君)の意識も波動の凝集体だ。

他方、創造神も意識体であって、その様態は人間と同じく、波動の凝集体と考えられる。

もちろん、被造物と違って、みずから波動を放射することのできる意識体だろう。

だが、創造神イエスもまたその様態は波動の凝集体だ。

だから、「諸君が私の内に住まい」かつ「私が諸君の内に住まう」ということも可能になるはずだ。



 
 
 
<繰り返し出てくる表現>
 

こういうたぐいの表現(思想)は、新約聖書に何度も何度も出てくる。

イエスの「父が私におられ、私が父にいる」(ヨハネによる福音書、10章38節)もそうだ。
 
量子論のおかげで我々はそれを、物理的にイメージできるようになったのだ。


今回はここまでにしよう。

 

 

 

 

 

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