鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

イエスに同行した女性は大勢いた

2022年10月25日 | 永続確信のための聖書解読
マグダラのマリアはイエスの宣教旅行についていったただ一人の女ではないようだ。
「ルカの福音書」にはこう記されている~。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「その後、イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次へと旅をしておられた。十二弟子もお供をした。
 
 また悪霊や病気を治していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれたマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大勢の女たちもいっしょであった。」・・・・
                    (ルカ 8:1-3)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~ここで「悪霊や病気を治してもらった女たち」とはこういう意味だ。
 
イエスは「病気は病人のうちにいる悪霊による」と認識していた。なので、「悪霊を追い出す」のと「病気を治す」とは実質上同義なのだ。だからルカも「悪霊や病気を治してもらった・・・」と記述しているのである。
 
+++
 
また「自分の財産を持って一行に奉仕していた大勢の女(金持ちの)たち」もまた「悪霊や病気を治してもらった女たち」に入るかどうかは、文脈上は明確ではない。
 
だが、「パトロン感覚でイエス一行を経済的に支えた女性もいた」ことはまちがいない。「一行に奉仕していた」というのだから。イエスには、アリマタヤのヨセフやニコデモのような男性支援者だけでなく、そういう女性もいたのである。
 
+++
 
やたら細かく吟味しているようだが、真実はディテールに宿るという。マグダラのマリアの心情を追体験するにはそれも役立つと思われるのだ。
 
ともあれ、そういう大勢の女の中に混じって、マグダラのマリアも弟子たちに同行していたようである。
野宿も他の女性と一緒にしていたただろう。
 
(続きます)
 
 
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マグダラのマリア追体験を通して

2022年10月12日 | 永続確信のための聖書解読

 

「復活のイエスを、今の我々も肉眼視できるか?」
難題なので、想像力をとばして、また、とりとめもなく語ろう。
 
<言葉は波動体を醸し出す>
 
我々は小説を読んで登場人物にリアリティを感じる。
だから、喜んだり、登場人物に同情して涙したりする。
 
これは量子論的に、こう理解できる。
 
言葉は波動である。
波動はオーラを醸し出す。
 
読者はオーラをリアルに感知して涙する。
 
そのオーラ(aura)とは、霊的な雰囲気で、「波動体」のことだ。
 
 
<歴史資料と実在した人物の波動体>
 
 
実在した人物に関わる言葉は、歴史資料にある。
この文献資料によって、歴史人物のオーラは視覚出来るようになるか。
 
+++
 
 
ここで突然飛躍した話になる。
筆者に一つの体験談を読んだ記憶がある。
 
語り手は歴史家トインビーだったように思うが、名の記憶は定かではない。
読んだのは新聞紙上だったように記憶するが、それも定かではない。
 
だが、彼の体験の中身だけは鮮明に記憶している。
 
<突然トルコ兵が現れた>
 
 
歴史文献を確かめていたとき、彼はトルコとアルメニアの国境に立った。
トルコ兵が、国教の壁を乗り越えて、攻撃してくる姿が見えた。
そのリアルさに思わず身を引いた。
     ~こういう話だ。
 
 
+++
 
いま、こう思う。
~すぐれた歴史家は、資料文献を精読して現場に立った。
熟読された資料の言葉は、波動体を形成した。
 
その結果、彼は兵の姿(波動体)を肉眼で視覚した、と。
 
 
<福音書を熟読して>
 
 
そして鹿嶋はいまこう思う~。
 
復活の(波動体)イエスも、福音書のおかげで視覚することが出来るのではないか。
 
特に、「ヨハネ伝福音書」はとびきり有力な文字情報だ。
その諸場面を入念・詳細に読んでいくと、復活のその姿(波動体)が読者の目の前に現れることがありうるのではないか。
 
 
<マグダラのマリアの追体験を通して>
 
 筆者の場合は、マグダラのマリアの行動が、その有力な手段になりそうだ。
マグダラは、ガリラヤ湖のイエスが住んだナザレ側と反対の湖岸にある村の地名だ。
 
福音書から筆者は推察する。
 
マリアは、そこに在住していた一女性であった。
 
筆者の観察では、女性は男性よりも、素質上霊感が豊かな傾向を持つ。
彼女はイエスの行った「しるし」(奇跡)と語った教えに、電気に触れたように深く打たれた。
 
彼女は、いま流にいうと「イエスの追っかけ」になった。
以後、イエスの宣教旅行に付き従った。
 
+++
 
当時は男尊女卑だったこともあって、12弟子の一人に加えてもらえなかった。
だが、イエスと弟子たちが野宿するときには、近い位置に野宿してついていったのだろう。
 
エルサレムでイエスが十字架刑死する時も近くにいたのだから。
墓場も真っ先にに訪れたのだから。
 
福音書に「七つの悪霊を追い出してもらった女性」とあるのはマリアのことかも知れない。
これも他の聖句との関連で吟味しようと思う。
 
このマリアを追体験することによって、復活(波動体)のイエスを目にみることが出来るのではないか、と鹿嶋は思っている。
 
 
(続きます)
 
 
 
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復活のイエスを現代人は視覚出来るか 

2022年10月10日 | 永続確信のための聖書解読

 

いろんな脇道に入り続けた。

本題に戻ろう。

問題は「イエスの同時代人でなくても、復活のイエスを視覚出来るか?」だった。

それに関する鹿嶋の考察を、まず、思いつくままに概論しよう。

 

<復活関連の聖句吟味放念>

 

まず、自覚すべきことがある。

「復活」にかんする聖句吟味はなぜか、放置されてきている。
神学的吟味がなされてきていない。
 
たとえば「ヤイロの娘やラザロの生き返り」と、イエスの復活との区別が
自覚的にされていない。
 
+++
 
彼らの生き返りは、肉体に霊が戻ったことによる。
 
イエスの「よみがえり」は、身体自体が変化している。
だが、それを明確に区別して示す言葉として「復活」は不十分だ。
 
そこで工夫が要る。
 
復活したイエスの身体を、まず、「復活の身体」と言おう。
その身体で現れたイエスを、「復活のイエス」とよぼう。
 
 
<「霊ではない」という>
 
弟子たちが締め切って潜んでいた部屋に「復活のイエス」は現れた。
 
弟子たちはおびえた。
 
イエスは「私は霊ではない」という。
「私は霊ではない。霊なら、手の釘あと、脇腹の刺し傷あとはないはずだ」
といって、自らの復活の身体を見せた。
 
だがそれはイエスの従来の身体ではないのだ。
 
ではそれをどう認識するか?
この認識論的考察がなされてこなかった。
 
 
<量子論思想の援用>
 
量子力学の思想・概念は、この作業を助けてくれる。
 
それは結論的に言うと、波動が肉体に凝集する(波束化・粒子化する)直前の「波動体」だと、
物理学的に比喩理解できる。
 
波動体だったから、マグダラのマリアも、イエスの墓の前で
イエスを墓守だと思っていた。
 
「マリア・・・」と呼ばれて、はじめて、「ラボーニ(先生:イエス)!」と認識できた。
 
 
<「霊ではない」という>
 
弟子たちも、締め切った部屋の中に現れたイエスを認知できなかった。
波動体だったからだ。
 
だから、イエスは、「私は霊ではない。霊なら、手の釘あと、脇腹の刺し傷あとはないはずだ」
といって、自らの復活の身体を見せた。
 
この身体「波動体」には、おそらく、「ゆらぎ」があっただろう。
 
それが故に、イエスの復活の身体は、霧がかかったような漠然さに覆われていただろう。
 
+++
 
波動体なら天に昇れる。
マリアから生まれて得た肉体として復活したのならば、重くて天に昇れないだろう。
 
復活の身体は、波動体であるが故に、天に昇って、永続できる。
また、この宇宙の中の空中に、再び現れることが出来る。
 
+++
 
ついに認知した弟子たちに、「私が(このように復活の身体でもう死ぬことなく)生きるので、諸君(弟子たち)も(復活の身体で)永続させます)」(Because I live, you shall live also)
      ~とイエスは言ったのだ。
 
弟子たちは、イエスの波動体を、肉眼で見て、自分たちの永続をも完全に確信できたのだ。
 
 
(続きます)
 

 

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