鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「真理が含まれている」という信頼で

2018年02月25日 | 政治見識のための政治学



こんにちわ。
クリスチャンの方には聖日ですね。

今回は、少し理屈っぽくなります。






前回までに「神語」「いのちの書」など、人間にはわからない項目が聖書にある、ということを見てきました。

これらをフォローしてきてくださって、とまどいを感じてしまわれた方もおられると思います。

のみならず~

「聖書には結局人間には解らんところがある」という事実に直面して、聖句探究の意欲を失ってしまう方も少なくないでしょう。

そこには、日本の精神土壌、ひいては福音の土壌とでもいうべき、深く大きな問題が横たわっています。





<宗教教典に関する通念>


その一つは、われわれ日本人が宗教教典に関して抱いている通念です。

一般の宗教教典を筆者はそんなに多く読んでるわけではないのですが、読んだ限りでは、一般の経典は、「これが正しい教えだ」と明確に教えています。

哲学書や倫理書のようで、内容のあいまいなところはほとんどありません。

教典とはそういうものだという通念がわれわれにはあります。

だから、「聖書には結局解らんところがある」といわれると、もう、「そんな本なら・・・」とやる気がなくなりがちになるのです。



    


<聖書への信頼心は維持する行き方>



だが、キリスト教活動には、不明な点があると認めながらも、教典(聖書)に対する「信頼心」を心に保ち続けて吟味を続けるという行き方もあります。

それはバイブリシズム(聖句主義)というやりかたです。

これはわれわれ日本人が一般の「宗教」なるものに抱く予想よりも、はるかに深い認識論を持っています。

これについて述べてみましょう。

すこし理屈っぽくなりますが、大切なところですのでやってみます。






<「真理がある」という信頼>


この方式は、「これぞ絶対的に正統という聖句解釈は、人間の短い生涯においては得られない」という考えの上に立っています。

そのうえで、「でもこの書物の中には真理(不変の知識)が最大に含まれている」という信頼を抱きます。

この信頼が、聖句にあれこれ解釈を巡らしていく意欲を維持するのです。


+++

それが実際に起きている様を確かめるために、鹿嶋は米国サザンバプテスト地域に丸一年間、滞在しました。

そこでは、数人のスモールグループでの相互吟味を生かしつつ、この方式を続行していました。

複数の教会にその参加を許されて、鹿嶋はみずから、相互自由吟味活動を実体験もしました。






<聖句自由探求者への質問>

これに併行して鹿嶋は、聖句主義に立つ教会の執事(信徒の代表者)や教職者に面談調査しました。

彼らバイブリシストは一様に、個々人に「聖書解釈の自由(Freedom of Bible Interpretation)」を認めます。

さすれば解釈は個々人によって分かれるのですが、それでよしとします。

+++

すると外部者から「諸君は究極的な唯一の真理は認めないのか?」という疑問が当然の如くに投げかけられます。

同じ質問をしてみた筆者に、彼らは一様に応えました~。

「それが存在することは否定しないが、そうしたものが人間個々人の短い生涯で見出されることはありそうにない」~と。





<真理は動態的なもの>

ついでこんな外部者的質問もしてみました。

「では、真理なしでやるのか」~と。

彼らは~

 「膨大な内容を持つ聖句に対し、個々人が吟味を試み解読したものが、その人にとっての(その時点での)真理だ」

                              ~と応じました。


つまり彼らには「真理は一つ」ではなく、「個々人が各々持つもの」だったのです!

また同時にそれは、個々人の中で成長する「動態的」なものでもあったのです!





<教理統一方式と比較すると>


これをカトリックやプロテスタントなど、教理統一方式をとる教会と比べると、その特徴がよくわかります。

これらの教会にとっては、真理は不変でただ一つで「静態的」なものです。
(そういう信念で示しているのが「教団教理」です)


そこで鹿嶋は教理統一方式の観点からの質問も投げかけてみました~。

「そんな相対的なものは真理と言えないのでは?」という(批判含みの)質問をした。

すると彼ら聖句自由吟味主義者は、こう答えました~。

「有限な人生を生きる、現実の人間個々人にとって、それ以上に確信して頼れる真の知識(真理)が他にあるとは思えない」~と。






<「プラグマティズム」の真理観は聖句主義思想の援用>


このバイブリシズムの真理観を、ほとんどそのまま援用して、有名な「プラグマティズム」哲学を構築した人が、米国の哲学者、ウイリアム・ジェイムズです。

彼は学問屋さんですから、このあたりの用語をきちんと定義しながら話を進めています。


彼は真理(truth)といわないで、「真の観念(true ideas)」と言い換えてこう言っています~。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「真の観念とは、われわれが同化(assimilate)し、効力あらしめ(validate)、確認し検証する(corraborate and berify)ことのできる観念である。
偽なる観念とは、そうでない観念である。・・・(中略)・・・そしてこれが真理の意味である。」
 (『プラグマティズム』、ウイリアム・ジェイムズ著、桝田圭三郎訳、岩波文庫、1957、p.147..)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~ジェイムズの認識哲学は、米国のその後の知的文化を方向付け、今日に至っています。






<沼に咲いた一輪の蓮花>


ハーバード大学というのは、神学校から始まっています。

それはピューリタンの教理統一思想一色だったボストンの街のただ中に成立していた、バイブリシズム活動の牙城でした。

いってみれば、教理統一思想の沼に咲いた一輪の蓮の花(聖句主義の)のような性格の学校でした。


ジェイムズの認識哲学はその土壌のうえに咲いた学問知識の花といっても過言ではない。

端的に言えば、ジェイムズは、その土壌から醸し出される思考の雰囲気を、本能的に吸収し、自己の認識哲学にチャッカリ援用したと言う観があります。



<味わい深い認識哲学>


だが、その土壌を形成している聖句主義は、さらに深い基盤を持っています。

聖句を最終権威とし、それとの照応をしながらグループ吟味もすすめるという実践活動などがそれです。

余談ですが、実はそれは、米国という国家の性格の根底を決めているのです。

これについては、また詳論したいのですが、とにかくバイブリシズムはそれほどに含蓄深い認識活動です。

この活動が、人間の知性と霊感を育てる力には計り知れないものがあります。

これを、姿勢としてでもいいから身につけたら日本人は変わるでしょう。


+++

この詳細を日本人にお知らせする第一報が、先日出版した~


『バプテスト自由吟味者』フランク・S・ミード著、鹿嶋春平太訳・解説、編集工房DEP刊、株式会社かんぽう発売

           ~でした。



お読みになれば「目からうろこ」の連続となるでしょう。

アマゾンが扱ってくれています。






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「黙示録」での「いのちの書」も謎だらけ

2018年02月20日 | 政治見識のための政治学


前回の続きです。

「黙示録」をみましょう。
まず、この聖句から~。




・・・・・・・・・・・・・・・・
「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」
                      (黙示録、20:15)
・・・・・・・・・・・・・・・・






<天国行きの人の名簿らしいが・・・>

~これなんか、普段聞いている「天国行き、地獄行き」の話が連想されて、わかったような気持ちにとてもなりやすい聖句ですね。

火の池は聖書の「地獄」ですから、ここにに投げ込まれるのは、「いのちの書」に名前が記されていない者」・・・というのは納得しやすい。

だけど、これも「いのちの書」の中身についてはなにも述べておりません。





<天の「都」に入れる人の名簿なの?>

~次の聖句もそうです。



・・・・・・・・・・・・・・
「しかし、すべての汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都には入れない。
小羊のいのちの書に名前の書いてある者だけが、入ることが出来る」
                         (黙示録、21:27)
・・・・・・・・・・・・・




~このでの「都」は~鹿嶋の聖書解読では~天国(天の創造神王国)の中に出現する城壁都市エルサレムです。

それは天国の一部でして、それすなわち天国ではない。

そして通常は、天国に入れるか入れないかが「いのちの書」に名前が記されているかいないかで決まることになっています。

すると天国に入るのは「都」に入るための必要条件の位置にありますよね。

だからこの天国の代わりに「都」(天のエルサレム)をストレートに持ってくるのは、ちょっと「いのちの書」の効力範囲を限定しすぎている観もあります。

が、まあ。ここはそういう細かいことは抜きにして、ざっくり言っていると解することもできるかもしれない。


+++


だけど、これたも「いのちの書」の中身がわかりませんので、つまるところは断言は出来ませんよ。

もしかしたら、この書物には、さらに詳細に、天国に入れた人の中で都に入れる人の名を記しているところがあるかも知れませんしね。

「いのちの書」はわからんことだらけの神秘の書ですね、被造物である人間には。





<「記されている名」も消されることがある?!>


~さらにわからんことが出ていますよ「黙示録」には。




・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・わたしは、あなあたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。・・・・(中略)・・・しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。
彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」
               (黙示録、3:1-5)
・・・・・・・・・・・・・・・・・




~鹿嶋の解読ですけど、ここで「生きている」というのは、「霊感が活き活きと働いている」という意味でしょう。
「実は死んでいる」というのは、「その霊感が枯れてしまっている」と解せられます。

福音は霊の次元の言葉ですからね。
人間は霊感が枯れたら、福音もこの「世」の話のように受け取ることになってしまいますからね。

+++

その「霊感が活きている」ものに着せられているのが「白い衣」というわけです。

そして、「この人の名はいのちの書から消されることはない」といっている。

ならば「霊感が枯れてしまった人の名」はいのちの書から消されることがある、となりませんか。






これは大変だ。

「いのちの書、には~

「イエスを創造神の子で救い主と信じたら、その人の名が記される」

      ~というだけではないことになる。


つまり、「これで決まり」となるわけではなく、その記されていた名は「消されることもある」という!


だったら「どの程度霊感が枯れたら」消されるんだ。

いったい「いのちの書」ってどうなっているんだ?


・・・だがそうした内容の論述はここでも一切ありません。







<世の初めから名が記された者?!>


~次の聖句はまた驚きですよ。


「いのちの書」に記されてない名前は「世の初めから記されていない」とも言っている!

だったら「いのちの書」に記された名前も「世の初めから記されている」ことになるでしょう。

聖句を見てみましょう~。




・・・・・・・・・・・・・・・・
「地に住む者で、ほるられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼(海から上ってきた獣)を拝むようになる」
                                  (黙示録、13:8)
・・・・・・・・・・・・・・・・




ここで「海から上ってきた獣」とは悪魔(の化身)をいっていますが、とにかく彼を拝むようになるものは、「世の初めから」いのちの書に名前が記されていないもの、という。

そんなこと、創世前から決まっているというのなら、人間の自由意志の働きなんて、意味なくなるんじゃないの?

人間はロボットと同じか?

まるでカルバンの「予定説」じゃないの・・・。


+++

~ここだけじゃないよ。

次の聖句でも同じことをいっている。



・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れないところから上ってきます。
そして彼は、ついに滅びます。 地上に住む者で、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、
その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現れるのを見て驚きます」
                           (黙示録、17:8)
・・・・・・・・・・・・・・・・



「底知れないところから上ってくる」存在は悪魔です。

そのことは、それ以前の千年間、悪魔は「底知れないところ」に閉じ込められている~と言う聖句に対応しています。(「黙示録」20:1-3)

がともかく、ここでも「世の初めからいのちの書に名が書きしるされていない者」(「黙示録」、13:8)とある。

「世の初めから記されている名」って一体どういう名なんだ?!






<親が役所に登録した名ではない>


人間が通常「オレの名」と思ってる名前でないことは確かでしょう。
それは、この世で親が付けて役所に登録した名ですからね。

「世の初め」よりず~とあとに現れた名だ。

これが鹿嶋春平太とかルーク唐沢なんてなると、さらに後に当人が造った名だからね。
問題にもなりません。

+++

それとは違う名が創世の初めからあるのか。
「ある」とせねば筋が通らないよね。

たとえば創世前からすでに、後に創造されることになる人間用に、名のリストが「いのちの書」には、づら~と準備されている~というように。

「いのちの書」に名が書きしるされるべき人間には、その名が一つずつ、各人にその都度割り振られ与えられ、て記されるのか。


でもその名ってなんなんだ。


+++


ダビデやヨハネは「いのちの書」には「名が書かれている」というところまでは言っています。

それ以上何も言ってないと言うことは、その名は人間が読めない文字によって書かれている、と受け取るしかないよね。

だったら、彼らはそれが「名」であることをどうしてわかったんだ、という疑問は残りますけどね。






「いのちの書」はそういう「被造物にはわからない言葉」で記されていると考えるしか、我々人間には容認するすべがない書物です。

するとそれは、鹿嶋が述べてきた「神語(かみご)的な」言葉という思想に、つながるのではないでしょうかね。

であれば、鹿嶋の「神語仮説」は、突拍子もないどころか、聖書という書物に結構しっくりする仮説ではないか、と思う次第です。










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「神語アリ」の思想は聖書にちりばめられている?

2018年02月18日 | 政治見識のための政治学






先回鹿嶋は、「神語アリ」の思想(仮説)は、そう突拍子もないアイデアでもないのでは・・と申しました。

それらしき思想は、結構聖書にちりばめられているようにもみえるのです。

今回は、このことを聖句と照合しながら考えてみます。

+++

これに相当する代表的な例は「いのちの書」ですね。

この言葉は聖書には沢山出てきます。

まず、これからみてみましょう~。





<「正しい者」が書きしるされる書物>



・・・・・・・・・・・・
「彼ら(ダビデに敵対するもの)が、いのちの書から消し去られ、
正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように」
          (詩篇、69:28)
・・・・・・・・・・・・




~ここでは、「いのちの書」には「正しい者」が書きしるされ、「悪しき者」は消し去られる~といってるようです。

だとしたら、この書は人間にとっても、重要な書物ですよね。

だが、その内容については、ダビデは何も書いていません。

どうしてでしょうね。






<聖と呼ばれる者が書きしるされた書物>



・・・・・・・・・・・・

「シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。
みないのちの書にしるされたものである」
                   (イザヤ書、4:3)
・・・・・・・・・・・・・・・



~これはどうでしょうか?

ここでイザヤは「いのちの書」には「聖と呼ばれる様になるもの」が書きしるされる、といっています。

だけど、それ以上のことは何も述べられていません。
説明なし。

何だって言うんだ・・・。






<福音を広める者は記されている>



・・・・・・・・・・・・・・・・
「ほんとうに、真の協力者よ。あなたに頼みます。
この人たちは、いのちの書に名の記されているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、
福音を広めることで私と協力して戦ったのです」
               (ピリピ人への手紙、4:3)
・・・・・・・・・・・・・・・・



~パウロも「いのちの書」をいってるんだよね。

手紙の中で当たり前のように言っている。

クレメンスたち~福音を広める~同労者の名は「いのちの書」に記されている、と言っています。

だけど、それがすなわち、パウロが「いのちの書」を読めたことにはなりませんよね。

パウロはクレメンスたちの働きを見て、その名はいのちの書に記されているに違いないと推測(確信)して書いている(名前の文字を見たわけではない)可能性が大きいでしょう。


+++

ヨハネが見せられた幻を記した「黙示録」にはこの書物名がなんどか出てきます。

次回にはその聖句をレビューしてみましょう。









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「神語アリ」の考えは平安をもたらした

2018年02月14日 | 政治見識のための政治学






今回は少し先に進みます。

前回鹿嶋は「歴史展開のすべての枠組は神語によって定まっている」という仮説でこれからやっていく、と申しました。

すると思いがけないことが鹿嶋の心に起きました。

平安が深まったのです。




<創造神への”恐れ”>


この仮説を抱く前には、創造神に暴君的な面もある、という恐れをも感じてきていたようだ、と気付きました。

なんてったって、創った側は創られて側よりも文句なく上位者ですからね。

被造物たる人間にとっては全能者ですからね。

旧約聖書の~

「陶器師が自由に創り、気に入らないものを割ってしまうのは、創る側としては当然ではないか」との旨の聖句もこの恐れを産んでいました。

預言者イザヤがそういう預言をしています。

引用しておきましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・
「おまえたたちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じにみなされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか、『彼が私を造ったのではない』と。
陶器が陶工に言いうるのか、『彼には分別がない』と」
     (「イザヤ書」29:16)
・・・・・・・・・・・・・・。




・・・・・・・・・・・・・・・・
「災いだ、土の器のかけらに過ぎないのに自分の造り主とあらそう者は。粘土が陶工に言うだろうか『何をしているのか、あなたの造ったものには取っ手がない』などと。
     (「イザヤ書」、45:9)
・・・・・・・・・・・・・・・・・




(このあたり詳しくは『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太、新潮選書)をご参照ください)

+++

これらの聖句は、ストレートにとれば、創造神はつまるところは「思いのままに何でもしてくる方」となります。

それがゆえに、鹿嶋の心は平安になりきれないでいたのです。





<「神語」で定まっていたら>


だが、すべての初めに、創造神の意志が神語となって定まっているとなれば話は変わってきます。
創造神と言えども、自分の言葉を破ることは出来ないでしょう。

されば、我々は、その意志を聖句を手がかりに解読していけばいい。

不明なところは霊感を働かせて神語を想像する。
それでもって意味を埋め合わせる。

そうすれば創造神の意志、ひいては創造神への知識を深めていくことが出来るのではないか。

完全に知ることは出来なくても、その知識は深まっていく。

するとそのレベルに応じて、「しるし」(奇跡)を創造神は与えてくれるのではないか。
聖書に記された「信じる者に現れる奇跡」はそうした事例ではないか。

~こう思ったとき、鹿嶋の胸には平安がどっと増大しました。

+++

するとこんな思いも浮かんできました。

「神語アリ」の思想は、そう突拍子もないアイデアでもないのでは・・と。

次回には、それについて考えようと思います







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人の知性は弱いから・・・

2018年02月12日 | 政治見識のための政治学






前回から少し間が開きましたが、続きです。

これまでに鹿嶋は、「姦淫の女」への律法に関して考えました。

「この女は律法に沿って石打ちでもって殺すべきではないか」、とパリサイ人らエリートたちはイエスに問いかけましたよね。

イエスはこれに対して「罪なき者が先に石を投げよ!」と応じた。

エリートたちはイエスの剣幕に押されて去って行った。

だけど、「石を投げられるのは罪を犯していないものだけ」という施行細則のようなものは、律法には述べられていません。







イエスはまた、彼女に「私もあなたを罪に定めない」といいました。

そんなこといっていいの?

律法はどうなるの?

~鹿嶋にはそういう疑問が湧きました。


+++

だが、こう考えました。

もし、天の神語(かみご)には、律法として示されてないような条文があるのなら、イエスのこの対応は正しいかも知れない~と。

すると今度はこういう疑問が浮上しました。

もしそうだとしたら、エホバ神はどうしてモーセにそれを伝えなかったか~と。

今回、それに関する鹿嶋の自由思考を述べてみます。





<律法が溶けてしまう>


結論から言うと、こうです~。

~つまり、そこまで律法として示してしまうと、もう律法の概念そのものが、人間の心の中で処理できなくなってしまうのではないか。

具体的には、律法はどんどん緩くなって、ついには溶けてしまうことになるのではないか~と。

これは律法全般にも及ぶ可能性がある。

つまり、「姦淫の罪」が緩くなって溶けてしまうだけではない。
さらに進んでついには「律法⇔罪」という理念も希薄になってしまうからではないか~と思われるのですね。





<知性の弱さを見通していた>


創造神は、そういう人間心理の弱さを見通していた。

だから、律法としてはまず、シンプルに「罪を犯したら石打ちせよ」と示した~そう考えるわけです。

+++

実際、人間の知性って単純なものですよ。

アインシュタインも「人類の愚かさには限界がない」~との言葉を残した、とルーク唐沢はいう。

鹿嶋が70年少々生きた人生体験からしても同じ見解です。





<「洞察力」が知性の評価基準>


鹿嶋は、知性の度合いは「洞察力」で測られると思っています。

洞察力とは「ものを“厚み”で見る能力」と言ったらいいでしょうかね。

同じ物事をみても、大半の人間はそれを「表皮的に」しか見られない。
厚みというか、深奥でみることができない。

こういう人の判断は、もう間違っていきます。

ところが本人は、それで理屈がたつもんだから、それが正しいと思っている。

これ、どうしょうもないんだよね。

鹿嶋の経験では、東大の学者さんにこういう人の比率が多かったけどね。


+++

もちろん洞察力を生かして妥当な認識をする人もいますよ。

だが、それは全体からしたらほんの1%前後という印象ですね、鹿嶋の経験では。





<神様にどうしても聞きたいこと>

そうした事象を繰り返し観察してきた鹿嶋は、こんなことを夢想をするようになっています。

~もしも将来、創造神と御子イエスに質問する機会が与えられたならば、次のことだけはどうしてもおたずねしたい、と。

つまり~、人類を「洞察力のある人がほんの少しにしかならないように、どうしてお創りになったのですか?」~と。

ついでにこんな苦情も付け加えたいな~。

「この比率をもう少し高く創ってくださっていたら、人類はこれほどまでに悲劇を繰り返さなくて済んだのに・・・」

~これはもうほとんど泣き言ですけどね。





<ヨハネは何故書かなかったのか>

ついでに、もう一つ、こんなことも考えてみました。

~イエスが地面に書いていたのは何だったろうか~と。


「ヨハネ伝」の著者ヨハネはイエスの手元を見ていたと思いますよ。

だって彼はペテロと並んで、常時イエスの両脇を固める「助さん角さん」だったのですからね。

ここでもイエスの脇に立って見ていたにちがいないのです。

なのにどうしてそれを「ヨハネ伝」のなかに書いていないのか?


+++

結局、こう考えざるとえなくなりました。

~イエスはこのとき地面に、天の神語を書いていたのではないか。

だったらそれはヨハネが知らない文字ですから、読めないよね。

だから書けなかった、のではないかと思います。


+++

ここでイエスが地面に書いていたことは、重要な内容を持っていたでしょう。

イエスのそういう教えは、ヨハネは他の箇所ではみんな書いている。

文字がわかったら、ヨハネが書かないはずはないでしょう。





こうした考察をしきた鹿嶋の心には、神語に関する実在感が濃くなってきています。

今後、「創造神の懐にはその意志が現れた神語がある」、という仮説を抱いて聖句解読をしていきたいと思っています。

それで聖書の論理に支障が無い限り、そうするつもりです。








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「姦淫の女」に神語を入れて考えてみる

2018年02月05日 | 政治見識のための政治学









このところ、聖書の存在論の出発点に「神語」(かみご)を入れた状況でいろいろ考えてきました。

要約しますと~

創造神の懐には、御子と聖霊だけでなく、創造神の意志の現れである「神語」(ともいうべき言葉があり
父。御子・聖霊はそれを共有している。

それが無限の過去から続いてきている存在の初めの状況である。

~というものです。

今回もまたその全体像の視野から、考えてみます。

本日は、新約聖書に記録された有名な「姦淫の女}の事件を吟味してみます。

「ヨハネ伝」の8章です。





<エリートたち「姦淫の女」をイエスの前に立たせる>


~話はこうです。

・・・・・・・・・・・・

エルサレムの神殿の広場にいたイエスの所に、一人の女が引き立てられてきます。

連れてきたのは学者僧侶とパリサイ人たち、すなわち、ユダヤ社会のエリートたちでした。

彼らはその女を姦淫の現場で捕らえてきたのです。

そして、イエスに問いかけます~

「モーセの律法では、こういう女は『石打にして殺せ』と命じています。さあ、あなたの意見を聞かせてください」


・・・・・・・・・・・・・・
(申命記には、色んな種類の姦淫が記されていて、そのすべてが石打の刑を受けることにはなっていませんが、このケースでは石打の刑が妥当するのでしょうかね。「申命記」22:22以降を参照)
・・・・・・・・・・・・・・








これに対してイエスは何も答えないで、「指で地面になにかを書いて」いました。

だが、パリサイ人たちは問いかけを止めない。

そこでイエスは身を起こしてこう言いました。

「諸君の中で罪のないものが最初に石を投げなさい」~と。

そして、また、身をかがめて字面に書きものをしていました。





すると、エリートたちは、一人一人去って行った。

そしてイエスと女だけがそこに残りました。

イエスは彼女に問いかけました。

「婦人よ。あなたを罪に定める者はいなかったのですか?」

「だれもいません」と彼女は応えました。

するとイエスは言います。

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは罪を犯さないようにね」

・・・・・・・

(「ヨハネ伝」8:3-11) 要約、以上。






感銘を受ける話ですね。

でもこれ、よくみると、考えるべきところもありますよ。

まず、姦淫に関する律法は「申命記」(5:18)にあります。

姦淫は罪、とある。

律法はゆるぎませんよ。

イエスも「私は律法を廃しに来たのではない。完全化しに来た」
~というくらいですからね。

するとイエスの「あなたを罪に定めない」などは、言えたことではないことになりませんか。




<イエスはまだ十字架死していない>

たしかに「イエスの十字架死で罪は許される」と受け入れたら、

人の罪は許されますよ。

だけど、よく考えてください。

この時点ではまだイエスは十字架死していませんよ。
いわゆる「イエスの功労」の効力はまだ実現していない。

なのに、イエスは「あなたを罪に定めない」といっている。

「そんな勝手なことしていいの、イエス様!」となりませんか?

~そうです。

そんなことしてたら、律法は揺らいでしまうではありませんか。





<神語を考慮に入れると>


ストレートに考えるとそうなりますよね。

だけど、ここで神語を考慮に入れたらなんとかなりませんかね。

天の神語にはモーセに示した律法もあるが、示されていないそれ以上のものもある、としたらどうにかならないか。


+++

たとえば~

 「石を投げることの出来るのは、罪を全く犯してないという自覚が完全な人間に限る・・・」といったような文が、律法には示されていないが神語には含まれている、といったように・・・。



それには我々人間の理に合ったところもありますよ。


たとえば~

律法を法文のまま単純ストレートに受け取ったら、自分がこれまで律法に反する行為をしたと指摘されなかったら「気楽に石を投げる行為」をも人間は行うでしょう。

また「自分が罪を犯してきているかどうか」を敢えて内省しないで石打での殺しに参加してしまうということも。

でも、それではなんかおかしい、少なくとも不公平感は残りませんか?





<条件付きなら?>


では「姦淫の罪を犯した者に石を投げられる人は ”自分は罪を犯していない”者に限られるという条件があったらどうでしょうか?

もちろん、そういう施行細則のような法文は律法にはありませんよ。

だけど、天の「神語」には、そのあたりが詳細に記された部分があり、イエスはそれを知っていた。

だからイエスは「諸君の中で罪のないものが最初に石を投げなさい」~と確信ある強い口調で言ったのではないか。

エリートたちがたじろぐような口調で・・・。


そして、さらにさらに、イエスが地面に書いていたのは、その条文の神語だったかもしれない、という推察も出来る。

ここはそういう風に解読することも(神語の存在を考慮に入れれば)できるのです。



+++


するとこういう疑問も湧いてきます。

~百歩譲って、それが事実だと仮定しよう。

だけど、もしそうなら創造神はなぜモーセにその部分を伝えさせなかったのか~と。

そのあたりについては、次回に考えましょう。











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創造神の意志の言葉を、御子、聖霊が共有?

2018年02月01日 | 政治見識のための政治学






では、前回に約束しましたように、鹿嶋の独断的全体像をのべますね。

従来のべてきた全体像との違いは、出発点で形成されますので、そこを重点的に述べます。

鹿嶋は以前、聖書の存在界の出発点では、「無限の過去から創造神がいて、その懐に、御子と聖霊がいる」と述べました。

これは神語(かみご)を考慮に入れない全体観でした。





<創造神、神語、御子、聖霊>


新全体像ではそこに、神語が入ります。

するとどうなるか?



まず、時間空間的無限者である創造神がいるのは、従来と同じです。

だが、今回は、そのふところに創造神の意志の現れである言葉、すなわち神語(かみご)が入ってきます。

そして、それを共有して、御子と聖霊がやはり、創造神の懐に存在する、という構図になります。

(これによって、父・子・聖霊の三位一体のイメージが一層充実します。三者は父の言葉を共有することによっても一体となりますから)

これが聖書の全体像の出発点にについての鹿嶋の新見解です。





<神語はヘブライ語で預言者に伝えられて旧約の聖句となる>


さて、以下、大筋は従来と似ています。

すなわち、この状態で被造物が造られます。






まず、天国(天の創造主王国)が造られ、そこに天使が造られます。

天国の中に宇宙が造られ、そこに人間が創られます。

そしてまず、神語の一定部分が、エホバ神によって、旧約時代の預言者(超霊感者)に伝えられます。

それは幻による啓示として伝えられる。

これを記録保存して、旧約聖書の聖句を人間は持つようになるというわけです。






<御子によって伝えられて新約の聖句となる>


次に、創造神の御子が、共有する神語(創造神の意志〕を体現してこの世に現れます。

そして、彼はその一定部分を人間にわかる言葉にして人間に示すのです。

それが記録され新約聖書に収納されます。






<神語は霊(波動体)という実体>


さてここで創造神の意志の現れである神語(かみご)についてもう少し考えます。

この語は、人間の話す言葉(「人間語」とでもしましょう・・・その特質はすぐ後に述べます)と本質的な差異を持っていると、鹿嶋は理解しています。


+++


まず、それは霊であり、波動を発する波動体です。

そういう明確な実体を持っている。

でありながら、言語(ことば)としての性格も持っている。

その性格のゆえに神語は、その実体を表現する信号をももち、それ故に翻訳文も作れるし複写(コピー)もできる(つまり伝達できる)できるのです。






<人間のことばは空気を振動させる「声」>

これを人間の言葉と比べてみるとその特質がいっそうハッキリしてきます。

人間の言葉の特質は、「ヨハネ伝」における「バプテスマのヨハネ」の次の言葉に現されています。


・・・・・・・・・・・
「わたしは・・・・(中略)・・・・荒野で叫んでいる声です」
    (「ヨハネ伝」1章23節)
・・・・・・・・・・・



これはユダヤ教団から遣わされた祭司たちの「あなだはどなたですか?」という質問に対するヨハネの答えの一部です。

ここでヨハネは自分は「キリストでもなく、エリヤでもなく、預言者でもありません」と応じた後に、上記のセリフを言っています。

つまり、キリストやエリヤや他の預言者たちの言葉は「霊」という波動体を内に持つ実体なのだが、わたしヨハネはそうではない。

その言葉の本質は「声」であって、時の経過と共に消えていく音なのだ・・・と彼はいっています。





<神語はエネルギーをもった霊的実体>

他方、神語の実体は「超凝縮波動体」とでもいうべく、それ自体すさまじいエネルギーを秘めています。

これは、敵対する者を立ち退かせ、立ち向かえば粉砕します。

そして中立的な被造物は、自らの意志の通りに変化させてしまいます。

+++

人間も「創造神に似せて創られた被造物」ですから、その言葉もある程度のエネルギーを内包することが出来るかも知れません。

全身全霊を込めて念を入れると、多少のエネルギーを持った働きをするかも知れないのです。
日本語にも言霊(ことだま)という語があるくらいですからね。


たとえば~、
憎くてならない相手を想定した人形を作って、「死ね!、死ね!」と叫んで釘を打ち付けているシーンなどを、日本の時代劇で見た人もあるでしょう。

・・・そうすると、その憎き対象が病気になる、とかね。

その程度のことは実際にあるやもしれません。

+++

だが、神語の力はそんな生やさしいレベルではない。

イエスにこんな言葉があります。

・・・・・・・・・・・・・  
 私の言葉が諸君の内に留まるなら、諸君の願うことはすべてかなえられます」
      (「ヨハネ伝」15章7節)
・・・・・・・・・・・・・

御子イエスの口から出る言葉は、「ヘブライ語に訳された神語」です。この言葉が弟子たち(人間)の内に留まるなら、その波動体は弟子たちの願うことをすべて現実化する」~という。

そういうレベルの力です。

+++

その視角からあらためて聖句をながめてみると、イエスが「言葉を発すると被造物がそのように変化する」という記録が沢山みえてきます。

(このあたりの詳細は、鹿嶋『誰もが聖書を読むために』新潮選書、を参照してください)

+++

先に創造神の言葉から見ておきましょう。

そもそも「創世記」の初めからそうだ。

「創造神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光が出来た」
       (「創世記」1章3節)
   ~がそうでしょ。

「『大空よ。水の間にあれ。』と仰せられた。・・・(中略)・・・
するとそのようになった」

   ~もそうだ。以下同様な聖句が続きますが、イエスの言葉を見てみましょう。

「イエスは風を叱り、『静まれ、黙れ。』といわれた。すると、風はやんでおおなぎになった」
   (「マルコ伝」4:39)

~イエスの言葉は、死人も生き返らせるのですよ。

   あるやもめの婦人の息子が死んで、棺に入れて運ばれています。

  「イエスはこの婦人(やもめ)をみて、深い同情を寄せられ、『若者よ、さあ、起きなさい』といわれた。すると、死人が起き上がってものを言い出した」

       (「ルカ伝」7:35-15)

~もう、向かうところ敵なしです。

+++

で、イエスは、これらの言葉を思いつくままに口に出しているか。
「そうではない」と言うのですね。

・・・・・・・・・・・・
「私は父のもとで見たものを語っている」
      (「ヨハネ伝」8:28)
・・・・・・・・・・・

でも、その「父のもとで見たもの」がなんだかわからないけど「とにかく見たものだよ・・・」であったらどうでしょうか。

やはり我々にはこの場面のイメージはハッキリしないでしょう。

ところが、この「父のもとで見たもの」が創造神の意志を現した神語(
かみご)だった、となったらどうでしょうか。

すべての創造がなさる前から存在していた神語です。

ならば、「それが不動の力を持って被造物を従わせる」のは自然だとイメージできませんか。






<神語のリアリティー効果>


以上を別の言葉で言い変えるとこういうことです。

~バプテスマのヨハネの言葉は、われわれに「キリストやエリヤや他の預言者たちの言葉」の特質を推察しやすくしてくれますよね。

けれども推察は推察です。

これだけではこの三者のことばの重みが、リアリティーをもって我々の心に入ってくる可能性は小さいです。

+++

そこで、これらの言葉が、すべての被造物が創られる前から存在していた霊的実体(神語)の翻訳語だった、としたらどうでしょうか。

ヘブライ語に訳された神語。創世前から存在していた創造神の意志を表す言葉。

その神語という霊的実体に、キリストやエリヤたち預言者の言葉の源があるとしたらどうか。

聖書の提供する全体像はより深く確実感のあるものになるのではないか、という気もしてくるのですが・・・。









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