鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.248『枝としてつながるとは?』(15章5節)

2009年02月11日 | ヨハネ伝解読
久しぶりに「ヨハネ伝解読」をしましょう。
迫り来る拷問と十字架刑を前にして、
弟子たちに切々と語るイエスの遺言に耳を傾けましょう。

本日のBGMはこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて春平太チャーチを開くと
BGMのある状態で読むことが出来ます。
mariさん、ありがとうございます。音楽が流れ続けるのがとてもありがたいです。)


                    


今回の聖句はこれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私はブドウの木。諸君はその枝です。
人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
私を離れては、諸君は何もすることが出来ないからです。」(15章5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あれっ? これ前の4節によく似ているなぁ。
4節をもう一度ここに掲載しますね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私につながっていなさい。そうすれば、私は諸君とつながっていましょう。
枝はブドウの木につながっていなければ、自分だけで実を結ぶことが出来ません。
そのように、諸君も私につながっていなければ実を結ぶことは出来ません。」
(15章4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


どうしてこうして同じようなことをイエスは繰り返すのでしょう。
ヨハネの記録が正確ならば、やはり、これには深い意味があるからと推定すべきでしょうね。

両者で違っているところを、少し詳細にみてみましょう。

4節では、「私につながっていなければ実を結べない」といっている。
5節では「私と離れては(これは「私につながってなければ」と同じですよね)、何も出来ない」といっています。

ここから「実を結ぶ」とは、「なにかをする」ことだとわかります。


                    

この「なにか」とは何か?

結論から言うと、それは「福音伝道」です。
イエスがいなくなった後、弟子がなすべき福音伝道につき、いまイエスは遺言しているのです。

それは「イエスにブドウの枝のようにつながってなければできない」というのです。
では、「つながる」とは?
これも鹿嶋の考える結論的なところを、先取りしていってしまいましょう。

「弟子たちの意識がイエスの言葉の中に住み」かつ
「イエスの言葉がその人の意識に中に住む」という状態がそれです。

その状態で行う伝道では、聞くものの霊の内に、イエスの言葉が染み込んでいくのです。
そして、聞いた人も同じような状態になる。語らずにいられなくなっていく。
こういう連鎖が起きるのが幹につながっている伝道です。


                    


<疑似信仰者>

では、そうでない伝道ってあるか?
ありますよ。

たとえば、国家権力を手中に収めて、国教にする。
他宗教を禁じて、国民を強制的に居住地域の教会に所属させ、礼拝、結婚、葬式などすべてを
その宗教方式でやる。
そういう風にしたら、抵抗する者も出るでしょうけど、まあ大多数は習慣的に信者になるでしょう。
教会も大きくなるでしょう。

またそこまでいかなくても、素敵な音楽や楽しい交わりに満ちた会を作る。
あるいは会社内で「クリスチャンにならないと課長以上にはなれない」という制度を作る。
こういう世的なやり方でもってしても信者は作れます。

でもそれをメインにしてなった信者は疑似信仰者だというのがここでいうイエスの言葉の意味です。
真の信仰者を造るには、イエスに言葉でつながっている状態で宣教しなければならない。

「私(の言葉)を離れて伝道したら、真の信仰者は作れないんだよ」とイエスは言っているのです。


                     


<知的躍動は言葉の奥義に触れることによる>

 「意識がイエスの言葉の中に住み」かつ「イエスの言葉がその人の意識に中に住む」には、
言葉の神髄、エッセンスが開示されてなければなりません。
エッセンスの解き明かしですね、これがなされなければなりません。

これを聞いたときに、人の心は感動を受けます。
これは福音についてだけでなく、知識一般にいえることですが、
普段そこまでいっていない深みに、意識を導かれて深みを悟ると人は感動するのです。

鹿嶋が「ネクストステップの知識」を得ると人の知性は躍動する、というのもこれです。
感性が感動して知性は躍動するのです。
また、感動すると知識は霊にしみ込むのです。

ただ、普通の書物は、あるところまで深みをたどると、
それ以上の深みがなくなることが多いです。
すると、もう、感動を与える素材でなくなってしまう。
あとは、飽きるしかなくなります。

これがどこまで行っても尽きないのが聖書の特徴です。
深み(奥義)を掘り出しても、掘り出しても、生涯それを続けても奥義が尽きないのです。
鹿嶋が、スモールグループでの知的活動には、聖書が最適な素材、という意味はそこにあります。


                    


<周囲を回るだけの説教>

話をもっと脱線させますと、我が国で牧師さんがなさる教会説教には、
聖句の神髄を開示してないのが多いです。

開示しないで周囲をぐるぐる回る。
そして終わります。

最近こんな説教を聞きました。
題名は「恐れるな」。
湖でボートにいる弟子たちの方に、イエスが水の上を歩いてやってくる場面がありますよね。
弟子たちは「幽霊か!」と恐れる。
近づいたイエスは「私だ、恐れるな」といいます。

説教ではこの場面の聖句が引用されるのですが、結論は、
「この船の中の弟子たちのように、イエス様と一緒なら恐れることはありません、
いつもイエス様と一緒にいる信仰を持ちましょう!」ですって。

そりゃまあ、そうでしょうけど、そんなことならなにも牧師さんに説教されなくても、
信徒さん自身が聖書読んだって得られる知識ですよ。

説教では、そこにいたるまでに、
「皆さんも日々いろんな恐れを持って生きているでしょう、私もそうです」
とあれこれ日常生活での例を出して長々と時間を費やしました。
で、どうなるかと固唾を飲んだら、
「イエス様と一緒にいる信仰でやりましょう!」でおしまいだった。


                     


広告業界に広告代理店という業種があります。
トヨタや花王などの広告主が広告をするに際して、
テレビや新聞などの媒体を準備したり、そこに流すメッセージの作成を代行する業種です。

鹿嶋の聞くところでは、この大手の会社に、社員に伝えられる不文律がある。
「広告主のところに行っても本質は決して語るな、本質の周りをぐるぐる回れ」
「前回より次回は本質に少し近づいて回れ、それを繰り返すが本質そのものには決して踏み込むな」
~がそれです。

なぜでしょうか?
本質というのは少ない言葉で語れるもので、かつ、明かしてしまえばそれでおしまいになります。
広告業務では、そうたくさんの神髄はありません。
だから、明かしてしまえば、それきり「ハイ、それまでよ・・・」となって
もう広告主は頼ってくれなくなるのです。
ありがたみが薄れるので、代理店手数料を「まけろ」とも言い出しかねません。
それで「本質を語るな」と言い伝えるのです。


                     


だけど、聖書の言葉には、神髄が無限に埋まっていますよ。
明かしても明かしてもなくなりませんよ。
なくならないどころか、一つ悟ると、次の解き明かしがもっと感動的になる。

なのに、礼拝説教は周囲をぐるぐる回ることしかできない。
日本の福音説教では、ほとんどこればかり、という観があります。
これでは、新しく教会を訪問する人も、
「宗教って結局つまらんもんだな、葬式と結婚式にはお世話にならなきゃいかんけど・・・」となります。
「次の日曜日にも礼拝に行こう」、という気がおきません。

イエスは、こういうことが人間社会には起きやすいことが、わかっていたのです。
それで、直接の弟子たちには、
「とにかく、私の幹につながる枝になっているんだよ」と繰り返し繰り返し説いたのです。


                    





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<SG用再録4>『水を良質ワインに変える(2章)』

2009年02月08日 | ヨハネ伝解読
遠くハワイよりISさんより第4回SG用のテーマをいただきました。
最初のコメントもいただきましたので以下に掲載いたします。
ISさん、日本は冬です、ハワイは暖かいでしょうね!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Vol.25
2004年12月11日                    <ヨハネ伝解読>



 2章に入りましょう。 

 イエスは、結局、自分に直接従う弟子として12人を選びます。
これは後に12使徒と呼ばれるようになります。
そのうち、ナサニエルまでの5人が弟子になるいきさつをヨハネは記しています。

 それをまさに、イエスの脇にいたからこそ書けた筆致で描いています。
あとは、どうして書かなかったか。弟子選びの記述としては、もうそれで十分だったからでしょう。

 ヨハネは、続いて、結婚式でイエスが行った奇跡について書き残しています。
これが後世、第2章として整理されることになったところの冒頭に記されています。

                    


 ナサニエルを弟子にしたイエスは、故郷であるガリラヤ地方に戻ってきます。
この地域にカナという町があります。地図で言うとガリラヤ湖の近くで左下方、つまり南西の町です。
イエスが育ったナザレは、さらにその近くの、その左下方にあります。

 そのカナの町で、婚礼があった。そこにイエス、イエスの母マリヤ、それに弟子たちも招待されます。
ヨハネも一緒でした。
それほどにまとめて招待されるとは、一体、招待主はイエスとどういう関係にあったのか。
それは記されておりません。

 けれども、この時代の結婚式は、大きなお祭りです。
村を挙げてみんなで何日もお祭りするのが普通だったようです。

 ともかく、彼らは婚礼の場にいた。そうしたらワインが無くなってしまいました。
予想外に招待客が飲んだからでしょうか。
ともあれ、みんなを招待してのお祭りの場で、ワインが無くなったというのは、大事件です。
 招いている婚家の名誉にもかかわるのです。

だが、そのとき、生母マリアがイエスにそっと告げます。
「ワインが無くなってしまったみたい・・・」

 これに対して、イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」と母の言葉をたしなめるようなことを言います。
だが、そう言っておいて、実際には水を良質のブドウ酒に変える、という奇跡を行うのです。

                    


 こういう母子のやりとりを記述しているということは、著者ヨハネはイエスにくっついていたと言うことですね。
彼は結婚披露宴の招待席においてもイエスの脇を固めているのです。

 ヨハネはまた、以前はバプテスマのヨハネの側に付いていました。
著者ヨハネは大物の理解者たるべく生まれたような人物、生来の側近タイプだったかも知れません。
毛沢東の脇を固める生涯をおくった中国の周恩来のように。


                    


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<SG用再録3> “いのち”はエネルギー

2009年02月01日 | 若者よ、聖書を知れ!
ハワイのISさんより第3回SG用の吟味テーマをいただきました。
最初のコメントもいただきましたので以下に掲載いたします。
ISさん有り難うございました!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


 若者よ。
 創造主が地球を創り、表面を海と陸とに分け、植物、動物をつくったんだったね。
そこに人間を創った。人間には、これらを支配せよ、といった。産めよ増えよ、地に満ちよ、といった。

 それから、ず~と時が流れた。そして今から6千年ほど前に、別の人間・アダムを創った。
このアダムの身体には、「いのちの霊」を入れた。そして彼のいる地、エデンを楽園に造った。

 聖書のイメージ世界を、そこまで紹介し、前回は、霊のことを話したよね。

 今回は、「いのちの霊」のうちの「いのち」を説明するよ。


                    


 「いのちと」いうのは、創造主から発射されているエネルギーだと思ったらいい。
創造主は、いのちエネルギーの源・総元締めだね。

 エネルギーは波を打ってやってくるけどいのちエネルギーもそうだ。つまり、波動をもっている。

アダムの霊は、この「いのちエネルギー」を吸収し蓄積できるように造られたんだ。
このあたりは、充電式の乾電池をイメージしたらいいだろう。

乾電池って、内部に電気を蓄積しているよね。
そして、この電気を放電して、ウオークマンやパソコンを動かしたり、
最近は自動車まで動かすようになってきた。

でも、使っていると、だんだんと蓄積されていた電気の量が少なくなる。
けれども、充電式は、コンセントにつないでまた充電することができるよね。


                    


 「いのち」というのは、この電気のようにイメージしたらいいよ。
 で「いのちの霊」は、この電気を内部に蓄積できる充電式乾電池だ。


                    

 「いのち」というエネルギーを蓄積すると、いいことあるか?
 あるんだよね。
 これが霊の内部にあると、創造主から発せられるいのちの「波動」がよく共鳴する。
すると、創造主の思いがよくキャッチできる。

 また、自分のうちにあるいのちエネルギーの波動を発信して、創造主と交信することもできるんだ。
 この発信が「祈り」だね。

 アダムは、そういうことができる、特別な人間として造られたんだね。

                    

 では、それよりズ~と前に造られた人間はどうかというと、これにも霊はある。
だけど、この霊は、創造主の思いを受信したり、自分の思いを発信したり(これが祈ること)は、できない。

 だって、「いのち」エネルギーがないんだから。
 創造主と同じ種類のエネルギーをもってないから、その波形の波動を発信することはできないわけ。

 人間同士でも、こういうこと多少はあるよね。
 愛し合っているもの同士は以心伝心という。

お互いに言わなくてもある程度、波動でわかっちゃう。
波の形が同じ波動を発信してるんだろうね。

♪ むーごん(無言)、色っぽい ♪

~~なーんちゃってね。


                     

 人間だけでなく、動物にも霊はあるよ。
 かわいがっていたペットが死ぬよね。
 その後、そのペット(の霊)を見たという証言は、た~くさんあるよ。
 こういうことを研究する科学も盛んだ。

 で、こちらの霊も、身体が死ぬとそこから出るんだ。
 正確に言うと、霊が出ると、身体は死ぬし、霊が戻るとまた生き返る。
 生き物はそういう風になっている。

 霊が出ると、肉体のなかの血液循環運動が停止する。
 すると、肉体は、腐り始める。
 そして、崩壊して消滅する。

 腐ると言うことは、崩壊していくことなんだよね。


                    


 動物は、霊があっても、自分を造った創造主なんて全然意識にないよね。
 その状態で、仲間うちで無邪気に生きている。

 アダムの前に造られた人間も、そうだったんだ。
しかし、アダムは創造主の思い、創造主の意識に感応する。
ビンビン感応する。

 そして、この人間の子孫が、現在の我々人類につながっている、と聖書は言うんだ。
さ~あ、どうやってつながってきていると、聖書は言うのか・・・・・。



                    





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