鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=天理教と聖書の奥義=20  ~地上だけでの一時的な身体?~

2023年05月22日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

復活したイエスの復活体が、波動体であって、
さらに、以後天国におけるイエスの身体も波動体である、とすると
量子論的には筋が通る。
 
  ~前回、そんな考えを述べました。
 
 
@@@
 
今回、そのアイデアをもう一歩推し進めてみます。
 
するとイエスの「本来の身体は波動体」ではないか、とのアイデアも出てきます。
 
つまり、本来、波動体であったイエスは、この地上世界にいる間だけ、
物的肉体として存在していたのではないか、と。
 
正確には、生まれて十字架刑死して墓に葬られるまでの間だけ、イエスの身体は
物的肉体だったのではないか、と。
 
~そういう解読も浮上してきました。
 
 
 
@@@
 
 
<人類の罪を代償するには>
 
それには、次のような理由も加勢してくれます~。
 
物的肉体でないと「死ぬ」ことはできない、というのがそれです。
 
 
+++
 
イエスがこの地上世界においてなすべきとして、父なる親神から与えられた最大の仕事は、「死ぬこと」でした。
 
彼は十字架刑死することによって、アダム以来の人間の原罪を代償しました。
 
その「死」は、物理的力を加えられることによって「壊れる」ことによってもたらされます。
 
壊れて、循環運動をしなくなったことによって、もたらされます。
 
そういう事象は、物的肉体でないと起きないのです。
 
 
+++
 
 
<復活するためにも>
 
福音の神髄である「復活」もそれに直結しています。
 
人間に復活の姿を見せるには、イエスは「死」ななければなりませんでした。
 
イエスはそのためにも、物的肉体を持った人となったとも考えられるのです。
 
 
+++
 
 
<マリアの胎に宿ったのも>
 
そうすると、イエスのこの地上世界に現れる際、生母マリアの胎の中に宿った理由も特別な意味を持ってきます。
 
聖書はイエスが処女マリアから生まれたと記録していますよね。
 
だが、そもそもどうしてそんなドラマチックというか、奇抜な方法で生まれねばならなかったのでしょうね。
 
父なる親神様は、ドラマチック好みだった、というのは理由にならないでしょう。
 
後に人類がクリスマスのお祝いが出来るため、なんてのは、もっと理由になりません。
 
 
+++
 
だが、人間であるマリアの胎に宿り、そこで育って誕生することによって、
イエスは物的肉体を持った存在として、地上での生涯を送ることができるのです。
 
それによって、「死ぬ」ことが出来る。
 
波動体では「死ぬ」ことはできません。
 
 
+++
 
そして、復活以降のイエスは、本来の波動体としての身体にもどったのだ、と。
 
マリアからこの地上に生まれて、死んで墓に葬られるまでの間の、イエスの身体は一時的な身体だった、と。
 
この考えは、筆者にかなりなリアリティを与えてくれます。
 
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=19   ~量子物理学恐るべし~

2023年05月21日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

 量子論という最新の物理学理論は、イエスの復活体を物理的にイメージするに
決定的な役割を果たしてくれます。
 
 従来の古典物理学理論では、イエスの復活体は粒子の結合体としかイメージできませんでした。
 それではイエスの復活体は、物的肉体としかなりません。
 
そういう身体なら、弟子たちが閉じこもっていた部屋に(壁を通過して)入ってくることは、
不可能なはずです。
 
けれども古典物理学では、それ以外のイメージは描けないのです。
 
 
+++
 
<韓国でも>
 
韓国は、聖句解読が進んでいる国ですが、この点に関しては、限界(壁)を破れていません。
 
しかたなく、「生前の肉体でありながら、壁も透過できる、そういう不思議な身体に復活された」
などとやっている状況です。
 
 
@@@
 
「存在の根源は波動であり、粒子はそれが凝集した状態」という存在論。
 
~この思想があって、はじめて、イエスの復活体が壁を透過して弟子たちの部屋に現れた、という
状況に、物理的説明が成り立ちます。
 
波動は物質の壁を通過しますから。
 
 
@@@
 
<昇天できるのも>
 
それだけではありません。
復活したイエスは、500人が見守る中で、天に昇っていきました。
 
これは「口だけのこと」ではありません。
人々が実際に、自らの五感をとおして視覚した事実です。
 
+++
 
復活体が物質の肉体のままだったら、重くて、天に昇ることなどできないでしょう。
 
このあたりも、復活体が、根底的に波動体であること、
 
人々の目に見えたのは、物質化する直前の波動体であること、
 
そういうイメージによってはじめて物理的に理解できるのです。
 
 
+++
 
<父なる神の右に座すのも>
 
さらにいえば、昇天後のイエスは天国で父なる神の右に座していた、と聖句にあります。
 
最初の殉教者・ステパノが石打ちで殺されるとき、彼の目にそれが見せられています。
 
物質は天国には存在できませんから、物質の肉体ではそれはありえません。
 
 
+++
 
<将来の空中再臨も>
 
 くどいようですが、もうひとつ言うと、将来のイエスの空中再臨もそうです。
 
 物質の身体なら、空中に現れることなどできないでしょう。
 
 
@@@
 
 
<パウロ神学の限界>
 
それらの問題を、量子論は一気に解決してくれました。
 
これがなかったので、かのパウロ神学のパウロも、
 
「復活がなければ、あらゆる福音は空しい」とくりかえすしかありませんでした。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もしキリストがよみがえらなかったのなら、
あなたがたの信仰(信頼)はむなしく、
・・・・(中略)・・・
私たちは、すべての人の中で一番哀れなものです」
 
   (コリント人への第一の手紙、15章17-19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~といったようにね。
 
+++
 
パウロは回心した後、福音に通じていきました。
 
そして、福音にはイエスの復活が神髄になっている、との全体観も得ていました。
 
だが、イエスの復活体を物的肉体としてイメージするしかなかった。
 
そのために、聖句をあちこちからもってきて、
ただ、「キリストの復活がなければ、すべてが空しい」
と繰り返すしかなかったのです。
 
旧約聖書に精通していて、かつ、論理マシンとも言える論理力をもったあのパウロにしてそうでした。
 
 
量子物理学の認識効用は決定的なのです。
 
 
(続きます)
 
 
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=天理教と聖書の奥義=18   ~物質化直前の波動体~

2023年05月20日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

こんな疑問を考えてみましょう~。
 
イエスの復活体は、十字架死して葬られる前の身体とは違っていたのではないか。
だから、弟子たちも即座にイエスだと認知できなかったのではないか?
 
では、それは具体的にどういう身体だったのか。
 
これも物質に投影して物理的に比喩認識したいです。
 
それには、量子物理学(量子論)の知識が役立ってくれました。
 
量子物理学の知識にはまだモヤモヤしたところがたくさんあります。
 
けれども、その中から筆者の目的に役立つところを簡明に援用し、考えてみます。
 
 
@@@
 
 
<粒子論から波動論へ>
 
量子論以前の物理学では、物質の根源はツブツブの物体、すなわち粒子と考えられていました。
 
具体的には原子(アトム)です。
それは、陽子や中性子や電子でなっているのですが、それらもまた粒子でした。
 
ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそう考えてきました。
 
 
+++
 
<二重存在>
 
ところが、後に量子物理学者と呼ばれるようになる人々は、それは波動と粒子とで成っている二重存在であると認識しました。
 
それを証明した実験「二重スリット実験」は有名ですが、とにかくそういう「重なった存在」だと発見した。
 
そしてそれに量子(クオンタム:quantum)という名を付けました。
 
 
+++
 
<波動が根源>
 
 
そして、その後、根源は波動の方にあり、これが凝集した部分が粒子であった、と認識しました。
 
波動というのは、より根底的に言うと「振動:バイブレーション)」です。
けれども振動は外に向かって拡散し、波となって広がっていきますから、波動でもあります。
 
そして波動の方がイメージしやすいので、通常波動と言われています。
 
この波動が凝集するとその部分は、(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識される~というわけです。
 
 
 
 
@@@
 
すなわち、根源は波動(振動:バイブレーション)の方であって、その波動の海の中に、振動が凝集する領域もある~と。
 
それが(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識されてきただろう~と。
 
量子という物質はそういう風景でイメージされました。
 
筆者は、このアイデア部分をちゃっかりいただくことにしました。
 
 
 
+++
 
<素人には「凝集体」の方が>
 
 ちなみに量子論学者はその凝集体に「波束(はそく:波動の束)」という名をつけています。
 
 だがこの思想は、筆者のような素人にはそのまま「凝集体」としておいた方がイメージしやすいです。
 
 我々聖句吟味解読者は、直感的、感覚的に「イメージ」出来ればいいですから、主に凝集体と呼ぶようにしましょう。
 
 
@@@
 
 
<聖書の「霊」も物理的にイメージできる>
 
 
この思想は、聖書に出てくる「霊」という存在を物理的に投影してイメージするのにも助けになります。
 
それをたとえば極小の凝集体が組み合わさってできた存在とイメージするのです。
 
もちろん、量子ですから粒子は、波動の中に漂うようにして波動と共存しています。
 
+++
 
そこでもうひとつ、その粒子体は人の意識活動をも形成する、とイメージするのです。
 
 
 
@@@
 
 
<サイ科学会>
 
 
実は、それに似た思考は、以前にもなされてきております。
 
 
かつて人間の心理を科学的に研究する国際的な学会がありました。 
 
 「サイ科学会」という名称で、「サイ」は、サイコロジー(心理)のサイです。 
 
 集っている研究者は、人間の意識(心理)は、物質の素粒子の10億分の一にもあたる、極小のつぶつぶの粒子からなっていると仮説認識していました。 
 
  そしてその粒子を「サイ粒子」と呼んでいた。 
 
  その上で、その意識(心理)を科学的に研究する学会を立ち上げていました。 
 
+++
 
 その意識体は聖書で言う「霊」にあたります。
だから、聖書的には、「霊心理を研究する学会」ということもできます。
 
がとにかく、その学会では、人の心理の実体は、超微細なサイ粒子のネットワーク体と仮設認識していたわけです。 
 
 
@@@
 
 
<「霊なら肉や骨は構成しない」とイエス>
 
 
 聖書の「霊」も量子論を用いてこのように、似たようにイメージすることが出来ます。
 
 すなわち、霊は波動が凝集してできた超微細な粒子の結合体とみるわけです。
 
 
 すると、聖書における、復活して現れたイエスの次の言葉もイメージ理解できてきます。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・
 「イエスご自身が彼ら(弟子たち)の真ん中にたたれた。 
 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 
 
 するとイエスは言われた。 
『・・・(中略)・・・わたしの手や足を見なさい。 
 ・・・・(中略)・・・・・霊ならこんな肉や骨はありません。』 
 
            (ルカの福音書、24章36-40節) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・
 
 
イエスはもちろん、霊は実在し意識を形成するという認識です。
 
だがそれが超微粒子で成っている、とすれば、
骨や肉は構成しないと想像することは出来るでしょう。
 
 
 
@@@
 
 
<図式的に考えてみると>
 
では、イエスが復活前にもっていた肉体はどうイメージできるか?
 
これは、霊よりも粒子がどんどん大きくなったものとしてイメージしたらいいでしょう。
 
図式的に考えましょう。
 
たとえば、霊粒子を左の端とする線分を右に描いていきます。
 
右に進むどの時点でも、波動は凝集化しうるとします。
そして右に進むにつれて、凝集する粒子は大きくなっていく、とイメージしましょう。
 
+++
 
<右端は物質の粒子>
 
そして右の端では、粒子は固定的なものとなる、とイメージします。
固定化した粒子、すなわち物質の粒子です。
 
すると復活前のイエスの身体は、その大きくなって固形化した物質粒子で構成されていたとイメージできます。
 
 
@@@
 
<固形化直前の波動(粒子)体>
 
 
さあ、これでイエスの復活体の量子論的イメージを形成できます。
 
それは、波動が「固形化して物質化する直前」の、波動凝集体が組み合わさってできた波動体だとイメージするのです。
 
直前ですから、それは、物質の身体の様態も持っています。
 
だが、物質には至っていないので、波動体の特性も持っています。
 
イエスの復活の身体は、そういう波動体だったとイメージできるのです。
 
 
+++
 
それは固形化(物質化)直前ですから、物質の身体の様態をももっています。
 
だが、それはまた波動体でもありますから、物質の身体のようなメリハリはありません。
 
波動であるが故の「ゆらぎ」ももっていたかもしれません。
 
ともかく、そのようにして、マグダラのマリアや弟子たちが、復活のイエスをイエスだとしばらくの間認知できなかった理由(状態)も、物理的にイメージできるのです。
 
 
(続きます)
 
 
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=天理教と聖書の奥義=17   ~「いのちエネルギー」の認知効果~

2023年05月18日 | 天理教と聖書の奥義

 

 イエスの復活とそれによる人間の永続保障は、福音の核の核、神髄の神髄です。
 
  これがなければ、人間という存在も、空しいです。
  空虚です。
 
  永続がなかったら、人間も詰まるところは、あってもなくてもどうでもいいものとなります。
 
 
 
@@@
 
 ところが、このイエスの復活は、聖句で十分吟味されてきていません。
 その認識は、漠然としたままです。
 
+++
 
聖書を見ましょう。
 
 復活のイエスに最初に会ったのは、生母マリアを別とすれば、イエスをおそらく最も愛した女性、マグダラのマリアです。
 
 だがその彼女も、最初、自分に語りかけ、対面している人がイエスだと認知できなかった。
 
 「ヨハネの福音書」それを刻銘に記述しています。
そのまま引用しましょう。
 
 
+++ 
 
<マリアは墓前に立って泣き続けていた>
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、マリアは墓前に留まり、泣いていた。
泣きながら身体をかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、二人のみ使い(天使)が、イエスの身体が置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、
一人は足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えた。
 
み使いは彼女にいった。
「なぜ泣いているのですか」
彼女はいった。「だれか私の主をとって行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。
 
するとイエスが立っておられるのを見た。
しかし、イエスであることがわからなかった。
 
イエスは彼女に言われた。
「なぜ泣いているのですか。だれを探しているのですか」
 
彼女は、それを墓の管理人だと思って言った。
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのかいってください。
そうすれば私が引き取ります」
イエスは彼女に言われた。「マリア」
彼女は振り向いて「ラボニ(先生)!」と言った。
 
     (「ヨハネの福音書」20章11-16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
 
~復活のイエスに対面しても、それがイエスだとマリアはわからなかったのです。
 
なぜか?
 イエスの復活体は、以前の物理的な肉体とは違っていたから、としか考えられません。
 
だが筆者の知る限りでは、このことを意識的に自覚した聖書解読者はいません。
 
 ヨハネ伝では「ロゴスは人となって我々の間に住まわれた」とイエスを言っています。
 
 この「ロゴスが人となった」イエスの身体は、見た目では他の人間と同じ肉体でした。
 
 だがヨハネは「槍で刺されたその身体からは、血と水が出た」
   と目撃証言しています。
 
   人間の身体からは、刺されたら血だけが出ますから、  
   正確には、人間の身体と違うのです。
 
 +++
 
   けれども死んで墓に葬られるまでのイエスの身体は、人々には自分たちと同じ身体だと、即座に五感認知できるものでした。
 
   だが、復活したイエスの身体は、そうではなかったのです。
 
  だから、マグダラのマリアも、弟子たちも、当初、イエスだと認知できなかったのです。
 
 
  では、復活体としてのイエスの身体は、どうであったか?
 
  これを物理学的。比喩的に示されないと、我々人間は、イエスの「復活」をリアルに悟ることはできません。
 
 
 
  @@@
 
   この決定的な問題を、どう解決するか?
  
  その考察をする前に、筆者は、それ以前の体験についてまず語りたいと思います。
 
  話があちこちに飛びますが、これは論文ではなく、むしろ、クラシック音楽の「協奏曲」のように
    風景認識して下さい。
 
   例えばベートーヴェンのピアノ協奏曲の第五番「皇帝」を聞いてみましょう。
そこには、同じテーマ旋律が姿を変えて何度も現れてきます。
 
    (他の協奏曲も同じですが、筆者はこれが好きですので・・・)
 
 そういうようなものだと、筆者の話を理解して下さい。
 
 具体的な体験話に入ります。
 
 
@@@
 
 話はもっと前に飛んで、筆者の以前の聖書認識に戻ります。
 
 まだ、量子論を勉強していなかった筆者には、聖書理解におおきな障害物がありました。
 
 それは「いのち」ということばです。
 
 これが定義抜き、説明抜きでボンボン出てきます。
 
 神学者や牧師先生は、それを説明抜きで語っています。
 
 信徒は「そういうものだろうな」と思って聞いていますが、その実、誰もわかりません。
 
「いのち」は聖書論理のなかのキーワード中のキーワードです。
 
これをまったく理解しないでよくやってるな、という思いを鹿嶋は抱いてきました。
 
 
 +++
 
  こういう「みえないもの」を人間が理解する方策は、それを目に見えるもの、物理学的なものに
  投影する、ということにしかありません。
 
  これをたとえ、比喩といいます。
  実は、イエスだって、この比喩投影をどんどん使って、宣教しています。
 
 
+++
 
  筆者鹿嶋は、長い間、「いのち」という言葉の比喩イメージを求めました。
 
  あるとき、「なんか、エネルギーのような概念だなぁ」という感じを受けました。
 
  そこで、思い切って「いのちエネルギー」という比喩的な用語を造りました。
 
+++
 
  「えいやっ」とやってみた。
 
  そうすると、聖書の中の「いのち」という言葉が、とてもわかった気持ちになってきました。
 
  そしてこの比喩は、ほぼ、聖書解読に大きな悪影響を及ぼすことなく
  聖書を理解させてくれました。
 
  そこでその言葉を拙著『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)で
  使いました。
 
   そうしたら、「いのちエネルギー」をつかうと礼拝メッセージがしやすくなって、助かっている
という牧師さんが一人ならずおられる、といううわさも耳にしました。
 
 そんな体験を持っていましたので、イエスの復活体についても比喩投影できる物理概念がないか、と考え始めました。
 
 
(続きます)

 

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=天理教と聖書の奥義=16    ~解釈自由と福音の神髄~

2023年05月16日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

 サザンの(聖句主義)教会では、「個人の聖句解読の区自由」を大原則として活動します。
 
これを聞くと、外部者のほとんどは「そんなことしたら教会は(解釈の争いが起きて)分裂してしまう」といいます。
 
だが、実際には、教会は分裂しないです。
 
メンバーが吟味する聖書には、教えの神髄が内包されています。
 
それは、いってみれば福音(よき知らせ)の神髄です。
 
それについては、メンバーの解読・見解は一致します。
 
どうしても共有できない場合は、他のグループを探して参加すればいいのです。
 
+++
 
 
 
 
 
@@@
 
 
福音の神髄中の神髄は「天の創造主王国での永生」と、その資格を得る方法を教えています。
 
イエスは様々なことを教えましたが、その核心はまず「天国」(天の創造主王国)が存在する、ということでした。
 
マタイの福音書には、特に、その教えが繰り返し述べられています。
 
天国はどういう所かを、イエスは、まずは「消滅するものはなく、すべてが永続する世界」だと教えました。
 
(それ以外の天国の有様は、新約聖書の最後の書物『黙示録』に記されています。)
 
そして、それを「永遠のいのち」を与える、という約束で示しています。
 
永遠のいのちとは、永続するいのちエネルギーです。
 
それが与えられるというのは、将来、永遠の世界である天国にて永生する資格が与えられる
ということでもあるのです。
 
@@@
 
 
その資格がいかに福音(よき知らせ)の神髄であるかは、
今、人間が生きている世界の性質を考えるとわかってきます。
 
 
+++
 
 
いま我々が生きている地上の世界は物資でできている物質世界です。
そこではすべてが死んで消滅します。
 
人間は五感がすぐれて明確につくられているので、物資世界が全世界だと思って生きています。
 
(お釈迦様はその世界観で物質世界に平安を持って生きる方法を探求しました。
その考察が知識体系となり、弟子たちはそれを人々に伝えました。釈迦は紀元前6世紀の人です)
 
 
だが、人間には「永遠」という思いも与えられています。
 
それによって人は永遠への希望を抱きますが、同時に死への恐れも抱きます。
 
+++
 
<死の奴隷>
 
イエスは、自らの宣教の中で、それを「死の(恐怖の)奴隷」と言いました。
 
それを聞いたユダヤ人たち(特にサドカイ派と呼ばれていた高所得層の人々)は「私たちは自由人で奴隷ではないよ」といいました。
 
対してイエスは、「いや諸君はみな罪の奴隷なんだよ」といった。
 
+++
 
どういうことかというと、罪というのは霊の死をもたらします。
 
「罪の報酬は死」という聖句はそれをいっています。
 
霊の死は肉体の死につながっています。
 
死は怖いです。
 
だから、「罪の奴隷」とは「死の恐怖の奴隷」と同じ意味なのです。
 
@@@
 
これは人間存在の根底を明かす指摘です。
 
だが、イエスはただ、指摘するだけで終えませんでした。
 
この宿命的にもみえた恐怖を、根底から取り除いてくれたのです。
 
+++
 
どうやって?
 
まず、前述のように、イエスはまず永続する世界(天国)の存在を教えました。
 
(旧約聖書には「天国」の語は一度もでてこない)
 
 
「悔い改めよ、天国は近づいた」という聖句はそれを言っています。
 
+++
 
次いでイエスは、人がそこにおいて永続できる道を開き、人間に教えました。
 
イエスはその方法を、十字架死させられる前から、語っていました。
 
有名な「最後の晩餐」は殺される前に弟子たちととった最後の夕食を意味しています。
 
その時、イエスはこう口に出しています~
 
「私は殺されるが、復活して天国に永住する。 そして、私の言葉を心に抱く諸君も、
そのようにします」
~と。
 
だが、弟子たちはこの時点ではその言葉に信頼を置くことが、今ひとつ出来ませんでした。
 
 
@@@
 
けれどもイエスは、実際に十字架刑で殺され、死後墓に葬られ、三日後によみがえって弟子たちの前に現れました。
 
これによって、状況は一変しました。
 
実際には弟子たちは、しばらくの間は、それが復活したイエスだと認識しきれませんでした。
だがイエスは入念に繰り返して、それが自分であることを示しました。
 
そして、ついにそれが復活したイエスだと確信できたとき、弟子たちは別人になりました。
 
あたかも、「従来の自分は自分でなかった(どうでもいいものだった)」かのような感覚になった。
 
+++
 
五感での認識は、人間に確信を与えます。
 
彼らは、死後、自分の霊が天国で永住できることに「確信」を持ちました。
 
+++
 
突然、彼らのうちにあった死の恐怖はなくなりました。
 
彼らは大胆に語り出しました。
 
「イエスは復活された! われわれはその目撃証人だ!」
 
その彼らの言葉に、奇跡が伴いました。
 
こうしてその言葉を受け入れ、確信する人々が爆発的に増大しました。
 
こうしていわゆる「初代教会」がはじまるのですが、
これには、イエスの復活を五感で認識したことが、決定的なターニングポイント
となっています。
 
@@@
 
<福音書の成立>
 
これによって、弟子たちは地上で生きる限り宿命的な「死の(恐怖の)奴隷」状態から解放されたのです。
 
復活を目撃した人々は500人にのぼりました。
 
その中から、そこのことを後世の人々に書き残そうという活動が起きました。
 
これうしていわゆる「福音書」が作成されます。
 
新約聖書の冒頭には、これが四本収録されています。
 
後世の人々(我々も含めて)この書物によって、イエスの復活の目撃を「追体験」できます。
 
福音書によって、我々は「死の(恐怖の)奴隷状態」から解放されるのです。
 
+++
 
復活によって永生の確信をあたえたこと。
 
これが福音の核心であり、神髄です。
 
これについては、聖句主義メンバーはみな、解釈を共有します。
 
+++
 
聖書における他の話は、これに付随するおまけのようなものです。
 
イエスは数多くの「癒し」をおこないましたが、癒やされた人間もいずれ死にます。
 
聖書に記録されただけでも、三人の死んだ人間を生き返らせもしています。
 
だが、その人間も百年もすれば死ぬのです。
 
これらは、「死の(恐怖の)奴隷状態」を取り去ってくれるものではないのです。
 
イエスが復活して、自らの姿を五感で認識させた、というのは、福音(よき知らせ)を活きたものにする神髄なのです。
 
 
(続きます)
 
 
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=天理教と聖書の奥義=15    ~聖句主義方式の生成状況~

2023年05月15日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

聖句主義方式では「究極の解釈(教理)はこれだ」と結論できませんし、行いません。
 
その状態で、スモールグループを中心にして聖句吟味を続けます。
 
変な方式に見えますが、これは歴史のなりゆきとしてできました。
 
+++
 
その状況は、「ルカの福音書」の著者ルカが『使徒行伝』という書物に記しています。
 
これは本来「ルカの福音書」の後編としてルカは書いたものでした。
 
だが後の聖書編集者たちが、独立の書物として新約聖書に収録しました。
 
それは「ヨハネの福音書」のすぐあとに収録されています。
 
 
@@@
 
イエスは十字架刑で殺され、墓に葬られた後、復活して弟子たちに現れました。
 
そして、「エルサレムに留まるように」と命じて天に昇っていきました。
 
ここでいう弟子たちとは、いわゆる11使徒ではなく、広くイエスを信じる人々を意味しています。
 
その数は200人ほどいました。
 
 
+++
 
彼らは、エルサレム神殿の敷地のすぐ外側にあった大きな部屋に集まって祈っていました。
 
これは後に「マルコの部屋」と呼ばれます。
 
そこであるとき異変が起きました。
 
大きな爆発音とともに、弟子(信徒)たちに聖霊が下りました。
 
聖霊を霊に受けた弟子たちの口から奇妙な言葉があふれ出ました。
 
後に「異言(いげん)」と呼ばれるその言葉は、語っている当人もその意味がわからない言葉です。
 
 
+++
 
エルサレム神殿には、いつも各地から多くの人々の参拝に来ています。
 
爆発音に驚いた彼らは、「マルコの部屋」に飛び込みました。
 
そして、各信徒が彼らの各々の国の言葉で(当人は意味もわからず)ベラベラしゃべっているのを見た。
 
「信徒たちは酒に酔っ払っているのだろう」と彼らは評しました。
 
 
+++
 
その時、使徒のリーダー格の一人、ペテロが立ち上がって事態を、旧約聖書の聖句(『ヨエル書』と『詩編』の中の)を解読することでもって、説明しました。
 
人々は思いもかけない聖句解読を聞いて、目を開かれました。
 
そして、このような解読が出来る出来ることを切望し、弟子たちの集団に加えて欲しいと願いました。
 
使徒たちは受け入れました。
 
このようにして新参加者が出来上がりましたが、その数は、その日だけで3000人だったとルカは記しています。
 
その後も噂を聞いての参加者は続き、エルサレムだけでも3万人くらいいたと推定されています。
 
こうして出来た人類史初のキリスト教会は、「初代教会」と呼ばれています。
 
 
+++
 
だが使徒たちが彼らをどうしたか、は、ルカは一言も記述していません。
 
けれども、米国南部でサザンバプテスト教会を体験した筆者は、それを推定できます。
 
それは、初代教会の方式を、後述する迫害に耐えて、そのまま継承していると言われていたからです。
 
だから、サザンの教会から初代教会で使徒たちがおこなっていった、新参加者への処遇が推定できるのです。
 
 
@@@
 
彼らはこのシリーズ(=天理教と聖書の奥義=)の13に示したように、
人々を数人のスモールグループに分けたでしょう。
 
そのうちの一人の家で聖句を自由吟味させたでしょう。
 
このグループは後に「家の教会(house church) とも呼ばれます。
 
今回は、初代教会の出来方とその方式について、序論的なところを話しました。
 
 
(続きます)
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=天理教と聖書の奥義=14   ~聖句と教理~

2023年05月13日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

聖書に記されている言葉そのものを「聖句」といいます。
 
 それを解釈した言葉を「教理」といいます。
 
 教理は英語では、creed とか doctrine とかいいます。
 
 聖句はscriptureないしはBible verseです。
 
 
+++
 
人は聖句を読むと、それが何を言っているのかを理解しようと欲します。
 
聖句には、啓示や出来事を個別的に記述したりする文が多いため、そのままでは理解がむずかしい。
 
そこで、その思想を「要約して」理解しようとします。
 
解釈してできた文が「教理」です。
 
 
+++
 
前掲したヨハネの福音書のなかの聖句~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「創造神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」
 
  (ヨハネの福音書、3章16節)
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~は、その一例です。
 
これはヨハネ自身の聖句解釈で、教理(神学理論ともいう)です。
 
 
+++
 
だが、解釈(教理)はいろいろに出来ます。
これが絶対的に正しい、正統な解釈である、との判断は、人間には難しいです。
 
それを吟味するために、人は、もとになっている聖句にもどります。
 
聖句に照らし合わせて、吟味するわけです。
 
 
 
@@@
 
そのとき、行き方がわかれます。
 
最終的な権威を聖句そのものに置く、というのがそのひとつです。
 
これが聖句主義です。
 
サザンバプテスト教会では、これをBiblicismといいます。
 
Biblic(聖句的)に『主義』を意味するismをくっつけた言葉です。
 
 
+++
 
 
「そんなことをしていたらいつまでたっても生活に活かすことは出来ない」
「教会運営のルールも定まらない』と、とにかく一つの解釈を正統と定めてやっていこう」
 
        ~という思想も生まれます。
 
これが教理主義です。
 
英語では、creedalismとかdoctrinismとかいいます。
 
+++
 
歴史的に見ると、世界最初の教会である『初代教会」では、聖句主義でした。
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=13    ~聖句解釈自由とスモールグループ~

2023年05月10日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

話はさらに飛んで、サザンバプテスト地域での信徒活動を紹介します。
 
 
サザンバプテストも教会を形成しています。
 
日曜日(聖日)には礼拝も行っています。
 
だが日曜日の早朝8時半頃、個々の信徒はまず自分の選んだスモールグループの小部屋に集まってきます。
 
グループの人数は数人です。 多くても十人を超えません。
 
そのための小部屋が、教会には沢山作ってあります。
 
 
+++
 
彼らは、前の週に提示されたテーマに沿って、まず、聖句の個人探求を行います。
 
個人の探求自由原則のもとでやります。
 
各々の聖句解読を小グループの場に持ち寄って、また相互に自由に吟味しあいます。
 
 
 
@@@
 
グループにはリーダーが一人いて、議論をリードします。
 
彼は決められた時間がたつと、議論を閉じますが、その際、結論じみたことは一切口に出しません。
 
そして、議論の内容を鑑み、次週の小グループ会議のためのテーマを提案します。
 
 
+++
 
例えば「創世記」1章に創造神が「我々に似せて人を作ろう」という聖句があります。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「創造神は仰せられた。
『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、我々に似せて』」
            (創世記、1章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~この「似せて」とは「具体的にどのような内容を言っているのか、次回吟味しよう」とかいって会を閉じます。
 
メンバーはおのおの、自宅に持って帰って、他の聖句とつなぎ合わせて個人解読を始めます。
 
そして、次の日曜日(聖日)に各々が探求した結果の見解をもって
スモールグループの小部屋にやってきて自由に議論をします。
 
彼らはこの作業を年中繰り返しています。
 
 
 
@@@
 
スモールグループが終わると、一同、礼拝堂に集まり、全員礼拝をします。
 
賛美歌を歌い、牧師はメッセージ(説教)をします。
 
この点はプロテスタント教会と同じです。
 
 
+++
 
 
ただし牧師はそのとき、根拠に用いている聖句箇所を、正確に示しながら説教します。
 
「マタイ5章の11節によれば・・・」「ルカ8章7節では・・・」と言ったような言葉がボンボン出てきます。
 
筆者は「よくまあこれだけの聖句を知っているものだ・・・」、と感心ながら聞いていました。
 
 
+++
 
会員は礼拝後にその説教を、グループ仲間と自由に評価したりもます。
 
「バーリー(牧師の名を敬称無しのファーストネームで呼びます)の話のここのところはこういう解釈も出来るんでは?」
 
「まあ、その点は彼の限界でもあるな・・・」
 
        ~といったようにです。
 
 
 
@@@
 
 
だが教会員の行動はやはりスモールグループが中核です。
 
彼らは全体礼拝後、通常、揃ってどこかのレストランにいってランチをします。
 
その際、親しいスモールグループと一緒になって食べることもよくあります。
 
そして、スモールグループメンバーでそのまま、夕食までともにレジャーを過ごします。
 
夕食もともにすることもある。
 
 
+++
 
 
スモールグループメンバー間の親しさは、おそらく、血縁関係の親類以上です。
 
親しさの源の一つは、入念に吟味した世界観を互いに共有することにあると思われます。
 
 
     (続きます)
 
 
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=天理教と聖書の奥義=12    ~イエスが弟子の足を洗ったのは~

2023年05月09日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

 天理教の教義は、聖書と同じ創造神かあるいはその称号を使うことを許された天使が
中山みきに啓示されたものではないか。
 
~こういうと、多くのクリスチャンから「異端!」という声が飛んでくるでしょう。
 牧師さんは「鹿島春平太の書くものなど読むな!」と信徒に指令なさるでしょう。
 
+++
 
だが、話は飛びますが、それは、キリスト教の真の姿を知らないからです。
 
牧師さんたちは、「教理主義」の方法だけででもって、キリスト教を学んでおられるからです。
 
 
@@@
 
話は飛びます。
 
教理主義の反対語は「聖句主義」です。 
 
英語ではバイブリシズム(Biblicism)といいます。
 
この方法に関する知識が、人々に伝わっておりません。
 
 
 
@@@
 
この方法を知るのは容易ではありません。
 
説明するには、歴史からとらえ直す必要があります。
 
 
+++
 
 
さらに話は飛びます。
 
イエスによる、いわゆる「最後の晩餐」の時点にさかのぼります。
 
 
「ヨハネの福音書」を見ましょう~。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。
 
それからたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふきはじめられた」
 
           (ヨハネの福音書、13章3-5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~ドラマチックな場面ですが、ここでのイエスの真意は、キリスト者を自称する人々にも、正しく理解されていません。
 
 
イエスはここで、弟子の足を洗っています。
 
そして、「師匠(先生)である私がこうしたように、諸君(弟子たち)も
互いに足を洗いあいなさい」といっています。(ヨハネの福音書、13章12節~14節)
 
 
@@@
 
 
この言葉の奥義は「君臨するな」です。
 
どこで? 教会で、です。
 
教会などこの時点ではまだこの世にありません。
 
だが、イエスはすでに信徒の集まり、すなわち、教会(初代教会)を「自分の手で」作ることを決めているのです。
 
+++
 
実際、彼は死んで復活した後に、200人に上る弟子たちに「エルサレムに留まりなさい」と命じています。
 
そこで「聖霊のバプテスマ(生霊が人の霊の内に入ること)」を与え、
弟子たちに奇跡を起こさせ、エルサレムの人々を信徒にします。
 
イエスがこれをしなかったら、一日で3000人もの人々が弟子たちの仲間に加わること(教会が出来ること)など、起きえません。
 
初代教会はイエスの主導でできているのです。
 
 
@@@
 
 
 
だがその教会ができれば、弟子たちは先達として、入会者に敬われるでしょう。
 
放っておけば、弟子たちは入会者に対して指導者・上位者として君臨するようになるでしょう。
 
これは人間社会での自然な成り行きです。
 
だがイエスは、わざわざ弟子の足を洗ってみせて、「君臨するな」と強く戒めているのです。
 
 
 
@@@
 
では、弟子たちは新会員に対してどうしたか。
 
後述する理由によって、その記録は覆い隠されていて、歴史記録として見ることは困難です。
 
 
+++
 
だが、その活動を、度重なる迫害に耐えて、こんにちまで受け継いできている人々が現存します。
 
その最も多くの群れは、米国南部にサザンバプテストと呼ばれて、存続しています。
 
(信徒数は、推計4000万人です)
 
 
筆者鹿嶋は、その現地に出向いて群れへの参加を許されて一年間居住しました。
 
実際にその活動を体験したので、それを言葉で知らせることが出来ます。
 
 
 
+++
 
この方式は、書物で読んだだけの人が説明しても、聞くものは理解できません。
 
実地で体験するのがベストですが、少なくとも体験したものによる説明が最低限必要です。
 
 
これから筆者はその体験談をお伝えしようと思います。
 
話は長くなります。
 
 
(続きます)
 
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=11    ~なぜ幕末の日本に~

2023年05月04日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

「福音は地球を西回りする」といわれてきました。
 
エルサレムに始まったそれは、小アジアからローマへと、西方向に伝わりました。
 
さらに、英国に伝わり、その後、アメリカ大陸に伝わりました。
 
+++
 
不思議に、主要な流れは、インドにも中国にも伝播しなかった。
 
東回りには伝わらなかったのです。
 
 
@@@
 
そして、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生が、米国から日本にやってきて邦訳聖書をつくります。
 
これも米国から西回りしてきたとみることも出来ないことはありませんが、
これによるプロテスタントキリスト教は、すぐに、倫理宗教に堕してしまいます。
 
キリスト教風に愛は唱えますが、愛の道徳宗教で停滞してしまって今日に至っています。
 
ルーク唐沢が「ニッポンキリスト教」と攻撃しているそれですね。
 
 
 
 
@@@
 
 
「天理王」という認識は、それを見越して御使い(天使)が、中山みきに啓示した可能性があります。
 
具体的にはそれは、幕末の天保時代に、日本列島の奈良という地で、中山みきに対して与えられました。
 
 
 
<エホバ天使>
 
天使には、創造神の代理として働くものがいます。
 
旧約聖書には、冒頭に「神であるエホバ」という語がでてきますが、
その後に出てくる「エホバ」は、そういう「修飾語無し」のものがほとんどです。
 
この「エホバ」の語が、ヘボン訳の「文語文聖書」以外では、「主(しゅ)」と記されてしまっているのでややこしいのですが、
正しくは「エホバ」で、これは「創造神の称号」です。
 
ある天使が、この称号を使って(自らに冠して)、創造主の代理として、はたらいています。
 
律法などは、この天使がモーセに与えたものです。
 
(このあたりの聖書解読は、アマゾンの『エホバはイエスの父ではない』鹿島春平太、Kindle電子ブックを参照して下さい)
 
 
+++
 
日本は、アジア大陸と日本海に隔てられた極東の孤島です。
 
エホバ天使が、この島国に、福音の奥義を、ズバリそのもので、啓示した可能性を、鹿嶋は感じます。
 
「南無天理王の命」とだけで、余計な解釈で改変しがたいようにして、中山みきを選んで、
啓示したのではないかと思うのです。
 
 
(続きます)

 

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=天理教と聖書の奥義=10    ~使徒ヨハネと天理教教祖への啓示~

2023年05月04日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

イエスの弟子(使徒)たちの中で、ヨハネは特別な人でした。
彼は、『ヨハネの福音書』を書いていますが、学者的・神学的思考をする人でした。
 
その福音書には、イエスの言動の記録するだけではなく、彼自身の神学理論も書いています。
 
 
ヨハネの福音書のなかの聖句~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「創造神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」
 
  (ヨハネの福音書、3章16節)
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~は、有名ですが、これはイエスの言葉ではなく、彼自身の神学理論を記したものです。
 
 
@@@
 
彼はイエスの言動を観察・記録するだけでなく、イエスという存在を存在論的・神学的に理解することを
切望していました。
 
たとえば、十字架上で息を引き取ったイエスの脇腹を、兵士が槍で刺す場面があります。
 
そのときイエスの身体から「血と水」が出ました。
 
彼はそれを自分は間違いなく見たのだ、と念を押すように書いています~。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・兵士のひとりがイエスの脇腹を槍で突き刺した。
すると、ただちに血と水が出て来た。
それを目撃したものがあかしをしているのである。
そのあかしは真実である。
その人が、あなた方にも信じさせるために、
真実を話すということをよく知っているのである。」
 
     (ヨハネの福音書、19章34-35節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~ここでヨハネが「それを目撃したもの」というのは、自分のことです。
その「あかし」というのも、自分の証言です。
 
ヨハネは、自分でそう言っておいてさらに「そのあかしは真実である」と自分でダメ押ししています。
 
のみならず、「その人(実は自分のこと)が真実を話すということをよく知っている」
と、また自分で言っています。
 
 
+++
 
どうしてそれまでにしていうか。
 
この出来事が幻でなく、現実に起きた出来事である、ということを確かなものにしようとしたのです。
 
そのうえで「血と水がでたのはなぜか」を知ることを切望したからです。
(人間の身体なら、血だけが出ます)
 
 
@@@
 
彼は、イエスとは、「イエスの身体とは何なのか」を、存在論的に知りたかった。
 
それを何年も考え続け、霊感を受けて、ついに答えをえました。
 
結論を、福音書を書く時点になって自らの福音書の冒頭に書きました。
 
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     「はじめにロゴス(創造神の理法)があった。
 
     ロゴスは創造神とともにあった。
     ロゴスは創造神であった。
 
     すべてのものは、この方によってつくられた。
      このかたによらずにできたものは一つもない」
 
       (ヨハネの福音書、1章1-3節)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
ヨハネは、イエスは「創造神の理法(ロゴス)の具現体」だと認識するに至ったのです。
 
 
そして、それは結果的に、今日聖書を読むものにとってのイエスの存在論になっています。
 
われわれ福音書を読むものは、これをベースにして、イエスという「存在」を認識して解読しているのです。
 
(そこまで考えないで福音書や『黙示録』を読んでいるものも少なくはありませんが)
 
 
 
@@@
 
 
以上を心に留めて、天理教の教義を、今少し詳細に見てみましょう。
 
実は、天理教の教祖、中山みきは、信徒に親神を説明する前に、まず
 
「南無(なむ)天理王の命(みこと)」という言葉だけを唱えさせています。
 
 
 
+++
 
 
その意味は以下のごとしです~。
 
 
「南無」は「南無阿弥陀仏」の「南無」で「頼ります」という意味です。
 
「天理」とは(天の理法が具現した存在)です。
 
 そして、その方は創造主(親神)であって、創造者はすべての被造物の上位の存在であるから、
  一口に言えば、「王」です。
 
「命(みこと)」は、尊い方につける尊称で、「・・・様」と解していいでしょう。
 
 
つまり、
「南無天理王の命」は、「天理王様に頼ります」です。
 
教祖は最初に、「天の理法の具現体である、天理王様に頼ります」という言葉だけをまず信徒に、繰り返し唱和させよという啓示を得ているのです。
 
 
@@@
 
これを、ヨハネのイエス認識とならべ比べてみましょう。
 
ヨハネは、イエスを「創造神のロゴス(天の理法)の具現体」といっています。
中山みきは、(親神を)「天の理法(天理)の具現体」だといっています。
 
両者はほとんど同質的な認識です。
 
 
@@@
 
 
驚くべきことです。
 
一体、ヨハネより1800年も後の幕末の日本で、中山みきにこの認識を与えたのは、誰なでしょうか。
 
創造神なのか。 イエスなのか。 あるいは天使なのか。
 
そもそも、天理教とは一体何なのでしょうか?
 
聖書の福音とならべて、どう解したらいいでしょうか。
 
筆者鹿嶋が得た当面の考えを、心に浮かぶままに次回から記してみようと思います。
 
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=9    ~聖書と同質以上の神概念が!~

2023年05月02日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

ところが、天理教の教典には聖書にある神概念と同じものが記されていました。
 
いや、それだけではない。 聖書解釈で用いられる神概念と同質以上のものをも
含んでいたのです。
 
 
@@@
 
詳しく眺めてみましょう。
 
このシリーズの 3 にも書きましたが~
 
 
+++
 
1.この世界のすべては、創造神によってつくられている。
 
2.特に、人間は自分の子としてつくられている。
 
3.創造神は人間にとっては「親」であり、親神様である。
 
4.親神は、人間の親が子を慈しむように、すべての人を慈しんでおられる。
 
5.そのことを悟ると、人の心は不思議に「勇んで」くる(活性化する)。
 
6.すると、通常は「陰」であった気持ちが、「陽」に変わる。
  何をしていても、どんな境遇になっても「陽気」になる。
 
~と、天理教の神概念はまとめられる、と鹿嶋は述べました。
 
 
+++
 
ここには、創造神は人間の親でもある、という教えが明示されています。
 
たとえば~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.特に、人間は創造主の子としてつくられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~はそうです。
 
 
@@@
 
 
では、聖書ではどうか?
 
聖句を見ましょう。イエスの言葉です~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「・・・鳥のことを考えてみなさい。・・・(中略)・・・あなたがたは鳥よりもはるかにすぐれたものです。
・・・(中略)・・・ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。
・・・(中略)・・・しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
・・・(中略)・・・あなたがたの父である神は、喜んであなたたがたに御国をおあたえになるからです。」
 
          (ルカの福音書、12章24-32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~ここでイエスは人々に創造神を「あなたがたの父」と語っています。
 
イエスは創造主を「父なる神」と読んでいますが、人間にも
「あなた方の父」といっています。
 
見逃しやすいところですが、ここでイエスは、人間も、「創造神の子」といっているのです。
 
 
@@@
 
これは聖書の重大な奥義です。
 
だがこの奥義は、従来の聖句解読では見逃されやすいです。
 
鹿嶋はその主たる理由は、「万物の創造者であることと、人間にとって父(親)である
ということが、一つの言葉に収めがたい」からだと考えています。
 
実際、聖句解釈ではそこは「創造主」とか、「主」とか言う言葉で片付けられてきています。
 
すると、創造神が(人間の)「父(親)」でもあることが放念されがちになるのです。
 
 
 
@@@
 
だが、天理教の教祖、中山みき、には、そのことが明確に啓示されていたのです。
 
それが「親神」という呼称によって啓示されています。
 
繰り返しますが、「親神」という呼称は、絶妙というか、すごいものです。
 
『親』という語には、「存在させた(生んだ)」という創造神のニュアンスと同時に、
「子の父」という意味も含まれています。
 
 
これによって、創造神が人間の「父(親)」でもあることが、示唆されうるのです。
 
 
+++
 
これには鹿嶋は感嘆・仰天しました。
 
筆者はこれまで『創造主」という語で聖書の神を述べてきました。
 
それしかない、と思って、『(人間の)父」であるという意味を呼称に含められずに来ました。
 
聖書訳者も、クリスチャンを自称する人も、みなそうだと思います。
 
 
+++
 
だが、『親神』という言葉があったのです。
 
天理教の教義は、それを教えてくれました。
 
筆者は以後、聖書解読では、この語を用いようと思っています。
 
 
(ああ、また ”異端!” と罵る自称クリスチャンが多出するだろうなぁ)
 
 
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=8    ~創造神理念は自然発生しない~

2023年05月02日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

以上のことを長々と述べた主な理由は、「万物の創造神」という神概念は、人間の心には自然発生しないことを示すためでした。
 
 
<在物神の神イメージ>
 
 
人類には、神という「見えない、超人的な力ある存在」へのあこがれと恐れの感情はありました。
 
だが、そのイメージは、「物質の中に存在する」というものでした。
 
+++
 
たとえば大きな樹木や岩や、山や海や空をみて、「そのなかにいる」、と想像するものでした。
 
筆者はそういう神概念を「在物神(じぶつしん)」と呼んでいます。
 
「物」の中に存「在」すると想像される「神」という意味です。
 
+++
 
人類の心に自然発生したのは、在物神の神イメージだけでした。
 
そうしたなかで、紀元前1500年頃のある日、モーセに「オレは創造神」であり、「まことで唯一の神」だという啓示が与えられたのです。
 
啓示というのは、超自然的な存在から投げかけられるメッセージです。
 
世の中には、霊感に優れた人間もいますが、彼の口から出る言葉でもありません。
 
 
 
@@@
 
だがそういう話を聞くと、人はまず「モーセもそういって自分の考えを述べていたのだろう」と思います。
 
ところが、『旧約聖書』に記録された啓示を読むと、そうではない、ことがわかってきます。
 
+++
 
彼が受けた啓示の言葉は、兄のアロンが記録しています。
 
それらは『創世記』や『出エジプト記』『申命記』など、旧約聖書の冒頭の五冊の書物に記されています。
 
「モーセ五書」と呼ばれる、それら書物に記された長大な言葉は、とても、人間が考案できるものではない。
 
「律法」だけでも、膨大な文章量です。
 
それを読んでいくと、一人の人間が考案できるものでないことが、容易にわかってきます。
 
 
@@@
 
モーセが受けた啓示の中に初めて、万物の創造神という神概念が、人類社会に登場するのです。
 
イエスも、その神概念を受け継いで、教えを展開しています。
 
+++
 
それ以外に、純粋な創造神概念は人類の意識に、自然発生してはいません。
 
以後、他の宗教で語られる創造神めいた概念は、「聖書」の援用であり「言い換え」なのです。
 
そのことを正確に認識することを主目的として、鹿嶋は前回までの話を記しました。
 
 
(続きます)
 
 
 
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