鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.96『創主の言葉はレントゲン光線か?』(7章)

2005年10月31日 | ヨハネ伝解読


                        


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「自分の権威を基盤にしてことを語る者は、自分の栄誉を求めます。だが、自分を使わされた方の栄誉を求める者は正直であって、彼の内には偽りがありません」(7章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 「創主の真意を行おうとしている者ならば、私が語っていることは父なる創主から来たことばであることがわかる」(17節)の意味は、Vol.93で解読しました。しかし、イエスはこういった後に、さらに意味深い言葉を付け加えています。

 本日の聖句、「自らの権威を基盤にして語る者は、自分の栄誉を求めるんだ・・・」(18節)がそれです。これも、たくさんの中身を、短いフレーズにおさめたせりふであります。

+++

 まず、「自らの権威を基盤にして」とはどういうことでしょうか。「自分個人が思考して出来た信念でもって」語ると、自然にそういう結果になりませんか。自分の頭で考えたものは、たとえいろんなものを持ってきても、結局はその根拠づけは自分の考えでするわけですからね。

 そうすれば賞賛も非難も詰まるところ、その話を正しいと保証している存在、すなわちそのように権威づけている存在に対してなされるでしょう。

 “アンサンのいうてはりますこと、ホンマにホンマでっか?”
・・・ホンマでんがな。
 “そんなこと、どうやってわかりまんのや?”
・・・それはやな、ワイがわかってるからや。
 ”へーえ、そんならアンサンそれ責任とってくれはりまっか?”
・・・ああ、とるがな。

 自分の権威を基盤にして正否をいえば、結局責任も自分で抱えることになります。責任とは、結果に対するものです。で、結果が悪ければ責めもその人に来るのですが、よければ人々からの称賛もその人に来るわけです。

 ~~本人にはそのあたりの自覚はあるわけです。あってやっている。これが人間でしょうね。

+++

 そして、人間は非難でなく称賛を求めます。すると、自分が聞く人から同意され、賞賛されることへの期待が当人の心理に存在することになるんですね。

 すなわち、自分自身で正しいと権威づけて、何かを教えている際には、多かれ少なかれ自分自身に栄誉が増すことをも期待して語っていることになる。鋭いですね。

 だったら、自分の栄誉を求めないで、物事を語るにはどうしたらいいか。自分以外のところの権威を基盤にして語る、が正解でしょうかね。臭みのないように、純粋に謙虚に物事を語れる時とは、なにか、自分以上の権威を心に抱いている時となるでしょうか。ウ~ン、鋭いなぁ・・・。


 「創主の言葉は生きていて力があり・・・心のいろいろな考えやはかりごとを識別(解明)してしまいます」(ヘブル人への手紙4章11節)

 とあります。まことに聖書の言葉は、人間の行いや意識をレントゲンのように透視してしまうのでしょうか。


                   
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Vol.95『偽善とは真意を理解できずに“形式だけをおこなう”こと』(7章)

2005年10月30日 | ヨハネ伝解読
                        


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「モーセは諸君に立法を与えたよね。なのに諸君(ユダヤ教の僧侶たち)の内には、その律法を行おうとするものが一人もいない」(7章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 本日の聖句は、前回と同じです。
 これでもってイエスは正確には一体、何を言おうとしているのでしょうか。「僧侶たちが守っているのは、律法の外側の形式だけであって、その真意をわかったうえではないのだ」ではないでしょうか。

 このあたりは、旧約聖書と新約聖書との関係を理解するのにとても大切なポイントに思えます。また、聖書で言う「偽善」とか偽善者といった言葉の意味もこういう関連ではじめてわかってくるようにみえます。

 「本当のところがわかっているにもかかわらず、意図的に偽りを言ったりしたりする」ということ~~これは偽善か? そうではありません。

+++

 聖書で言う偽善者というのは、そこまで悪党ではないようです。そうではなく、実質的な中身が「わからないで」、外枠の形式にあたることだけをやっている人~~をいうようです。聖書での「偽善」とか「偽善者」とかいうのはみなそういう意味だととって、まず、筋の通らないことはありません。

 たとえば、「安息日を守れ」という律法がありますよね。
 安息日というのは、一週間の内6日働いたら、残る1日は働かないで安息せよ、という創主の命令です。だが、その真意は、

 「その日一日は物理的世界である『世』のことにかかずらわないで、ひたすら汝の創造主に意識を向ける日とせよ」

                 ~~というところにあります。

 そしてそうすることによって

 「あなた方人間の霊に、いのちエネルギーを豊かに吸収して幸せになりなさい」

  ~~という。主旨はそういうところにあるというのがイエスの主張のようです。

+++

  律法というのは、創主が一方的に人間に課する厳しい掟に一見みえます。

~~~だけれども、その真意は人間を幸せになる方向に導こうとしているものなんだよ。創主は幸福そのものな方だ。その幸せを人間にも豊かに与えようという主旨のもとに律法を与えておられるんだ~~イエスはこう言わんとしているようにみえます。

 だから、安息日に、病人をいやしてあげるのは、創主の真意にかなっている。安息日という日をもうけられたそもそもの真意にかなっている~~とイエスは言うのです。

 このことがわからないで、「安息日は、絶対になにもしてはならない」という厳しい掟の日である、とする。で、その日が過ぎるまで一日中「ただじ~っとしている」~~これは偽善者、ということになるのですね。

 もちろん、旧約聖書には、真意までは「明示」されておりません。安息日を守れと言う命令だけが記されています。

 だが、自分にはその真意が父なる創主から教えられているのだ~~というのがイエスの基本スタンスですからね。だから「私が真理だ」と言っているのですね。

 ヨハネはこういうことを十分わかった上で、この出来事を記録しているでしょう。

 旧約聖書では真理は、比喩として、あるいは影としてしか示されてこなかった。そこへイエスが現れて直接的に真意を明示してしまった。それを記録したのが新約聖書の福音書だ。

 聖書という書物は、そういう構造になっている~~ヨハネは、こういう認識を背景にしてこの福音書を記しているようです。



                 
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Vol.94『我々は律法通りに行事を執り行っているのだ!』(7章)

2005年10月30日 | ヨハネ伝解読
                        



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「モーセは諸君に立法を与えたよね。なのに諸君(ユダヤ教の僧侶たち)の内には、その律法を行おうとするものが一人もいない」(7章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 前回、「創主の御心を行おううとする人」とは、なによりもまず「創主の御心が自分の内に入っている人」でなければならない、ということを示しました。では、その御心とは具体的にはなんでしょうか。それは「旧約聖書に書かれている言葉の真意」となると思われます。

 当時は、まだ新約聖書は存在していませんでした。だから、聖書といえば、いまで言う旧約聖書でありました。なお、ユダヤ人はいまでも、旧約聖書だけを聖書といいます。新約聖書を聖書というと「それは聖書ではないよ、ニューテスタメントだよ」と抗議します。

+++

 また、ユダヤ教ではイエスを創主の子であると認めません。イスラム教ではイエスは預言者の一人であるとしていますが、ユダヤ教では予言者でもないただの人なのです。そんなわけで、イエスの教えを記した新約聖書などは、ユダヤ人には只の紙切れということになっています。

 が、ともあれ、当時のユダヤの僧侶たちは旧約聖書(彼らの言う聖書)を読んで、それなりの宗教行事をしておりました。特に、モーセがシナイ山で創主からとりついたとされている律法を守って暮らしていた。

 ところが、
    「みなさんは、その真意を掴んでいないんだ」
                ~~とイエスは指摘するのです。

 そのことが、イエスの次の言葉(本日の聖句)に現れています。

「モーセはあなたがたに律法を取り次ぎましたよね。なのに諸君は誰もそれを行っていないことになっているんだ」(19節)

          ~~~と。律法の真意をわかって行ってはいない、とイエスは言っているのです。

 ところが、ユダヤ教の僧侶たちはイエスの言っていることが皆目わかりません。だから「なにを言うか!この若造が」となります。

 ヨハネは、この状況を記しているのです。高僧たちは(旧約)聖書に関する当時の最高の権威者です。プロです。彼らは「わたしたちは、モーセの十戒を厳格に守って行事を執り行ってきているのだ」と確信たっぷりに言ったのでした。

                 
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Vol.93『創主の信念を自分の信念としている人』(7章)

2005年10月29日 | ヨハネ伝解読
                        



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=聖句=
 「そこでイエスは彼らに言われた『わたしが教えていることは、わたし自身の教えではありません。わたしをつかわした方の教えなのです』」(7章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前回述べたような理由で、“仮庵(かりいお)の祭り”の前半にはイエスは姿を現しませんでした。エルサレムの神殿広場では、“イエスが見えないが、どうしたのか”、ともっぱらの話題でした。

 ある者は「あの人はいい人だ」といい、別の者は「いや、民衆を惑わしているだけだ」という。とにかく、あれこれ言いながら、イエスの出現を期待して待っておりました(11~2節)。すでに、人気は鰻登り・・・。

 ただし、こういうやりとりは、ひそひそ話でなされていました。国家権力を持つユダヤ教の高官たちから、罰せられるのを恐れてのことでした。そうこうしているうちに、仮庵(かりいお)の祭りも期間の後半に入ります。

+++

 そんなことで、今回はもうイエスさんは、来ないのかなあ、とあきらめかけた。そこに、イエスはあざやかに登場いたします。(拍手!)

 そして、颯爽と教えを述べ始めました。その見事さに、伝統宗教であるユダヤ教の高僧たちは驚きます。「彼は、聖書学校で学んだことがない。なのにどうしてこんなに律法の知識を持っているんだ?」と(15節)。

 イエスには、こういうつぶやきはみな聞こえてしまいます。そこで語ります。

 「私が教えている内容は、私をつかわされた方(創造主)が教えてくださったことなんだよ」

 ~~と。そして

 「創造主の御心を行おうとしている者には、そのことがわかるんだけどね」

              ~~といいます。

+++

 ここは、意味深いところです。イエスは、人間が持つところの考えを、二つに分けてとらえているのです。

 一つは、自分の心をむなしくしておいて、それを創主の考えでもって充たすという、そういう状態において持っている考えです。もう一つは、創主に対する意識はなくて、自分の個人の信念として抱く考えです。

 前者は、聖書でいう「信仰(信頼)ある人」の意識状態を示しています。

 つまり、彼の意識は、創造主の信念でもって充たされている、自分個人の信念は混じっていない、という状態なのです。自分を空しくしている状態というのかな、こう言うのを・・・。

 イエスは後に~~

    「私の言葉が、あなた方のうちに留まるなら・・・」

            ~~~といいます。そのイエスの言葉が内に留まった状態が信頼心ある状態なんですね。そして、上記の「創造主の御心を行おうとしているもの」とは、そういう人を指していっているようです。

+++

 後者は、それと対照的をなしています。日常用語では「信念の人」といったらいいかも知れませんね。そこには、創主の言葉、(すなわち、聖書ではそれは父なる創主からの考え、となっているのですが)が住む余地はあまりありません。

 どうしてか。そこには、彼自身の人間的な信念が満ちているから、ということになります。こうなると、創主の言葉を学んでも、彼の意識は、それを無意識のうちに外に押し出してしまうんですね。

 すると、その人は「創主の御心を行おうとはしてはいない人」となるでしょう。ともあれそういう人の意識の内には、「創主から出ている」教えがありません。

 そこで、イエスの教えが創主からのものだとしますと、共鳴する要素が全く意識の内にないということになるのですね。「ああこれは創主からの教えだなあ」と共鳴させるものが自分の心の内にない。

 だから「わからない」となる道理です。

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Vol.92『「私は行かない」は偽りか?』(7章)

2005年10月28日 | ヨハネ伝解読

                              


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「そこでイエスは兄弟たちにいわれた『わたしの時はまだきていない。しかし、あなた方の時はいつも備わっている。・・・・(中略)』・・・あなたがたこそ祭りに行きなさい。わたしはこの祭りには行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」(7章6~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 仮庵の祭りのシーズンがきました。弟たちは「仮庵(かりいお)の祭りにエルサレムにいきなさいよ」と勧めました。対して、イエスは「行かない」と答えています。ところが、弟たちが出かけた後で、ひそかに出かけています。ここには、ああそうか、というだけでは済まないところが鹿嶋にとってはあります。

+++

 以前、鹿嶋は、創主には出来ないことがある、と書きました。それは偽ることである、と。イエスは創主の子です。自分は、父なる創造主の語るところを受けて語っている、と言っています。イエスの言葉は創主の言葉なのです。

 創主は他のことには万能ですが、偽ることは出来ません、創主の言葉には、偽りはありませんーーーと、言いましたが、ここではそれに反しているように見えるのです。

 「行かない」といっておいて、
     行っている。

 これは一体どういうことでしょうか。イエスは、その場の都合で、弟たちにうそを言っているのでしょうか。

+++

 そうだったら、まずいですね。
 ここは、イエスが弟たちに言った言葉を、詳細に検討したいですね。イエスはこの時、まず、

 「私の時はまだ来ていない。だが、あなた達の時はいつも満ちている。世はあなた達を憎むことが出来ないけれども、私については憎んでいる。私が、世の行いを悪いというからだ」(6-7節)

              ~~と言っています。

 イエスが「世の行いを悪い」というのは、「世は基本的に悪魔にリードされているところ」というイエスの見方が背景になっています。イエスは悪魔のことを「世の君(君主)」とも言っています。だから、世は基本的に悪なのです。従って、「世の行いは、悪い」と言うことになるわけです。

+++

 そんなこと言わなければいいのに、「みなさんは立派だよ・・」とか何とか言っておいて、自分の目的とするところに誘導すればいいのに、ホントに正直すぎるよ、イエスは・・・。そう言いたいほど正直です。偽りを交えてうまく持っていくということが全くない。そういうイエスです。偽りが言えるはずがありません。

 ここでは、「私が世の行いは悪いというから、世は私を憎んでいる」ということが、「私の時がまだ来ていない」ことの理由になっているのではないでしょうか。しかし、ここは例によってまた、話が少し飛躍しています。中間項を埋めなければなりません。

中間項は、「だから、今私が行くには、殺される危険がある」ということです。7章の冒頭で、ヨハネはそのことを記しています。「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、イエスはユダヤ地方を巡回しようとはされなかった」がそれです(1節)。

+++

 ユダヤ教の高僧たちは、すでに、イエスを殺そうとしていたのです。殺しも出来る諜報員を派遣していたのです。弟たちがエルサレム行きを勧めたその時点ですでにそうだった。だから、イエスはガリラヤ地域のみを巡回して教えていたのです。そういう状況でしたから、イエスは「私の時はまだ来ていない」と言ったわけです。  

 これを理解した上で、イエスの断りの言葉を眺めてみましょう。イエスは単に行かないと言っているだけではありません。それに「私の時はまだ満ちていないから」という理由をつけています。それは「時が満ちれば行く」という余地を残した言葉と理解できないでしょうか。道中、ひそかに安全に行かれるように時が満ちるまでは行かない、という意味でもあると。

 すると、後にイエスがエルサレムに向けて発ったとしても、殺される危険がなくなったならば、自分の言葉の通りに行動したことになるでしょう。つまりここでもイエスの言葉には偽りはなかった、となります。

+++

 「兄弟たちが祭りに行った後で、イエスも人目に立たぬように、ひそかに行かれた」とヨハネは記しています(10節)。そして、祭りの期間が半分ほど経過したところのエルサレム神殿に出現し、説教をし始めたとあります(14節)。

 これから推察するところ、ユダヤ教側の諜報員たちは、途中の行路でイエスを殺そうとしていたのではないでしょうか。エルサレムの神殿では、公然と広場で説教しているのに、とらえることも出来なかった。それは、多くの群衆の目の前だからです。

 イエスはすでに、大変な人気でした。彼が王となってユダヤの独立王国を再建してくれるのではないかという期待を持つ人々も多かった。これを正当な理由もなくとらえて殺害することは、群衆が許さなかったのでしょう。ユダヤ教の高僧側としては旅路の途中にひそかに殺害するしかなかったわけです。

 ガリラヤからユダヤにいたる行路には、ユダヤ教団が派遣した殺し屋工作員たちが待ち伏せていた。ところがガリラヤの人々がエルサレムに向けて発った3日4日後も、イエスと弟子たちは動こうとしない。

 殺し屋たちは、今回は来ないと見て、その旨いち早く報告すべくエルサレムに帰ろうとしたのではないでしょうか。その時、イエスは、時が満ちたと判断した。それらの動きをイエスは透視できたのではないでしょうか。そして、ひそかにエルサレムに向かったということになると、筋は通ってきます。



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Vol.91『兄さん、一気に全国区スターになるんだ!』

2005年10月27日 | ヨハネ伝解読

                        


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「時に、ユダヤ人の仮庵(かりいお)の祭りが近づいていた。そこで兄弟たちがイエスにいった。

 『あなたがしておれれるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがでしょうか。自分を公にあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をする人はありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世に顕しなさいよ』」(7章2~4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 7章に当たる部分を、ヨハネは「仮庵(かりいお)の祭」の時期におけるイエスの行動を記述することに割いています。ユダヤ歴の正月(太陽暦の9~10月)の15日から7日間(のちに8日となる)がその期間です。

 この時期、ユダヤの人々は、屋根を草木で葺いた仮小屋を建てて、秋の収穫物を天井からつるします。かつてエジプトを脱出してカナンに入るまでの40年間を荒野で過ごしたと「出エジプト記」に記されている先祖の苦難を忍ぶためです。また、それ以来今日までの創主が与えてくれた護りに感謝するのです。

+++

 エルサレムの神殿にも、この時期多くの人が集まってきます。イエスの弟たちは、祭りが近づくとイエスに勧めました。「エルサレムへ行きなさいよ。そして、お兄さんの奇跡を集まってくるみんなに見せなさいよ。こうして公にすべきでしょう」と(3-4節)。

 ヨハネはそれについては

 「こう言ったのは、弟たちもイエスを信じていなかったからだ」(5節)

 ~~と、解説を入れています。珍しいことです。ここで「信じる」とは「イエスの教えの神髄を理解し受け入れる」ということでしょう。

 イエスは、かねがね、「自分が教え、奇跡をなすのは、人間の意識を創造主にまっすぐに向けさせるためだ、そして、天の義を第一に大切なものとして求めさせるさせるためだ」という主旨のことを言っています。

 「それは人間が自らの霊に、創主から福を与えてもらうようにするためである。この世で肉体が有名になるためではないのだ」というのが真意でしょうね。

+++

 ところが弟たちは、それがわかっていなかったんですね。そこで「お兄さん、ここは絶好のチャンスですよ。エルサレムに全国津津浦々から集まってくる群衆に奇跡を見せるんだ。そして一気に全国区のスターになってしまいなさいよ」などと勧めています。

 彼らは、イエスが十字架死して復活した後に真意を知るでしょう。だが、この時点では全然わかっていない。ヨハネはそれを言っているわけです。

 ヨハネ自身はどうでしょうね。彼も今ふりかえってそれを悟って書いているのか。鹿嶋はそうではなさそうにおもいます。このことについては、ヨハネはもう理解していた、そのうえでイエスに付き従っていたと思われます。

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Vol.90『イエス時代のイスラエル地勢』(7章)

2005年10月26日 | ヨハネ伝解読
                        


 7章に入りましょう。
 誤解を恐れず端的に言うと、ここはインターミッション(幕間:まくあい)のような章かもしれません。ヨハネはここでは、彼独特の深い神学をあまり多く記してはいません。まるで、思索を一休みして周りに目を巡らすように、周りの情景を多く描いています。

 その背景の基にこれから展開される深遠な教えを、ちらり、ちらりと予告編のごとくに提示しています。歌劇の序曲や間奏曲で、テーマがチラチラと顔を出すような風情。それらを含めて天下の情勢を描いているといってもいいかもしれませんね。

 そういう意味で、ヨハネは6章までで一息ついているのではないでしょうか。ヨハネ福音書は、ここまでを一区切りとして読むのがよさそうです。

+++

 イエス時代のイスラエルは、南のユダ地方と北のガリラヤ地方との二つの地域からなっていました。真ん中にサマリヤ地域があって、これを挟んで二つの地域が分断されたような形で存在するといった状態でした。ユダ地方は昔からのイスラエルの中心地で、イエスの生まれたベツレヘムも聖地エルサレムもここにあります。

 対して、ガリラヤ地方は、昔は北の荒れ地だったという感じです。そこに、新しくユダヤ人が移植されて出来た新開地だったのです。イエスはここで成長し、父ヨセフについて大工の仕事をしていました。

 大阪のネオン街は、南と北とに分けて呼ばれていますよね。ミナミは、難波を中心とした旧地域。キタは梅田(大阪)駅を中心とした新しい地域です。「キタの新地」というのは、それを示す呼び名であります。イエスは、キタの新地の人だったんですね。

+++

 紀元前10世紀頃からイスラエルは、南のユダ王国と北のイスラエル王国とに分かれて国家運営がなされておりました。そして、紀元前8世紀には大国に成長したアッシリアによって、イスラエル王国は滅ぼされ吸収されることとなりました。

 その際、南のユダ王国は、どういうわけか吸収されないで存続しました。さらに南にある大国、エジプトと直接接触しない方が国家の安定を保つにはいいと、アッシリアが考えたというのが通説です。つまり、ユダ王国をバッファー(緩衝地域)としておいておく政策ですね。

+++

 アッシリアの王様は、一つの夢を持っていたようです。各々が民族として分かれて暮らしている人間を、混血させて一つの世界民族のような方向に向かわせるというのがそれです。そして、そういう融合政策を実施しました。

 北のイスラエルの民も、他民族と混じるように各地に移住させられ、他民族の民と結婚させられました。彼らは混血化していきました。

 こうして出来たのが、混血ユダヤ人です。後に彼らの多くは、サマリア地方と呼ばれた地にもどってきて住みます。そこはイスラエル地域のちょうど真ん中あたりに位置していました。

 しかしユダ王国の純血ユダヤ人は、彼らを軽蔑し、仲間に入れませんでした。そして彼らを、サマリア人という別名で呼んだのでした。

+++

 イエスが育ったガリラヤ地方は、かつてのイスラエル王国の北方にあった荒れ地だったようです。そこには、南北イスラエル時代には、ほとんど人は住んでおりませんでした。後年になって、ユダ王国の純粋ユダヤ人が移植されていった。そして、村が出来、町が出来ていった。

 イエス時代のガリラヤ地方は、いまの大阪というよりむしろ、日本史での徳川時代初期をイメージしたらいいかもしれません。南のユダ地方は京都を中心とする近畿地域、ガリラヤ地域は新開地・江戸を中心とした関東地域といったぐあいに。

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Vol.89『予定説か?』(6章:最終)

2005年10月25日 | ヨハネ伝解読

                        




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「預言者の書に『かれらはみな創主に教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者は、みなわたし(イエス)に来るのです」(45節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前回の続きです。
 福音を受け入れる人を、創造主はあらかじめ決定しておられることになっているのでしょうか? 

 違うんじゃないかなぁ。
 まず、ここは、イエスの話がユダヤ人だけに向けてなされていることに留意しましょう。ユダヤ人は、聖書(旧約)の預言書を与えられた民なのですね。

 その上で、上記聖句のイエスの言葉をながめてみます。そして「創主に教えられる」に注目しましょう。

+++

 ユダヤ人たちはどうやって「教えられる」のでしょうか。イエス以前のユダヤ人が創主に教えられるのは、聖書(旧約)の預言書を通してしかありませんよね。創主は、霊感の豊かな預言者に啓示を与える。預言者はそれを記録する。他の一般ユダヤ人はそれを読んで教えられるわけです。

  次に「父から聞いて学んだ」に注目しましょう。
 
 ここで「父から聞く」というのは、「預言書(旧約聖書)を読む」ことですよね。では「学んだ」はどうか? 将来現れる「何かまことのもの」を預言書が暗示している、それを学んだ、ということではないでしょうか。

 イエスは、そういう読み方が(旧約)聖書の正しい読み方であることをすでに宣言しています。そのまことのものとはイエスその人であるということを。

 「この聖書は私についてあかしをするもの」(5章39節)という解き明かしがそれを示していそうです。

+++

 当時のユダヤ人の大半は、「聖書(旧訳聖書)とはつまるところは、律法を守って生きていくことを教える書物である」と考えていました。だが、そのなかでも、違う学び方をした人はいたようです。

 まことのもの、まだ現れていないけれどもまことのもの~~その出現を示唆するを主旨とする書物である、という読み方をしていた人もいた。

 その本物とは自分たちの救い主らしいと予感してはいましたが、まだ漠然としていました。

 けれども、漠然ながらも、その出現を期待するような、そういう学び方をした人はいたわけです。まことの救い主の出現を期待して生きるという、そういう生き方をもたらすような学び方ですね。それがイエスのいう「父から聞いて学んだもの」の意味ではないか、と思えます。

+++

 創主は全知ですから、そういう学び方をしてまことのものへの期待を抱いている人がわかるでしょう。この救い主が早く出現してくれることを祈っている人がわかります。

 その人の意識に創主(聖霊)は働きかけるのではないか。祈りに答えた場合もあるでしょう。とにかく、意識に影響を与えるのではないか。

 すると、その人は、イエスの言うことが真理に聞こえるようになるんですね。そういう論理ならば、そこで(そういうふうに)学んだ者は「みな私に来る」(45節)となるわけですね。

+++

 ここで、大切なことは、そういう風な学び方をするというのは、本人の自由意志による、ということですね。そこまで創主が“全面的に”方向付けているのではない。

 もちろん、様々な条件付けはなされもするでしょうが、その中でロボットのように人間は動くのではない。当人の自由な意識活動による領域は残っているわけです。それがある限り、運命でもなく、予定されたところでもないことになるでしょう。

 そうすると予定説ではなくなります。
 自由意志活動の中で、まことのもの、永遠に変わらないもの、を期待し、祈り求める。そういう人に対してのみ、創主は、それにいたる手助けをする、というわけです。

 父なる創主が「与えよう」という決断は、最初の段階になされているのではない、ということですね。

  創主の超越的な力ですべてが方向付けられていく、という論理ではない。当人の自由な意識活動の余地があって、それも関与してどちらのグループに属するかが決まる、ということでしたら、予定説にならないわけです。

 「創主は求める人には与える」というのは聖書の基本理念ですしね。
          (6章これで終わりです)

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Vol.88『父が与えて下さる人だけが私に来る』(6章)

2005年10月24日 | ヨハネ伝解読
                        




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしを(この世に)つかわされた父が引き寄せて下さらなければ、だれも私に来ることは出来ません」(44節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 少し前の節に戻ります。36節から45節にかけて、イエスはもう一つのことを言っています。それがこの聖句です。

 ここで、「私に来る」というのは、「イエスの言うことを真理だと信じる」という意味でしょう。つまり、「創造主なる父がそのように働いて下さる人間だけしか、イエスの教えを真理だと信頼することは出来ない」と言っているのです。

+++

 いやぁ~これはまた重要なところですねぇ。
 文字面だけを読むと、運命説、予定説のように解釈してしまいそうです。「イエスの教えをだれが信じ、誰が信じないかは、当人の意識を超えたところにある全能の創主が、あらかじめ決めておられるのだ」というふうに解せそうです。

  だが、もしそうなら、福音、すなわち「いい知らせ」「グッドニューズ」というものがもつ、人類にとっての価値は小さいものになってしまうでしょう。いくら「いい知らせです」と伝えても、あらかじめ全能の創主が「この人は受け入れない人」と実は決めているというんでは、その聞き手に希望は全くないことになります。

 はたしてそうでしょうか? 福音を受け入れる人を、創造主はあらかじめ決定しておられることになっているのでしょうか? イエスのこの言葉は、そういっているのでしょうか。

+++

 聖書のサルベーション(救い)を予定されたこととするかどうかは、米国南部のサザンバプティストのあいだでも、今日も意見が分かれるところになっています。鹿嶋の印象では神学者では4割くらいが予定論者といった感じです。鹿嶋自身、予定説の立場をとる若い神学生と論争したことがあります。

 これが一般信徒になりますと、予定論者は1割以下くらいでしょうか。これも鹿嶋の印象ですけれども。

 予定論者は、カルヴァニストとも呼ばれています。予定説の元祖がカルヴァンとされていることからきています。対して、予定説を採らない人がアルメニアンと呼ばれることもあったようでした。が、ともあれ、この問題を考えてみましょう。


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Vol.87『私たちはついていきますよ、とペテロ』(6章)

2005年10月23日 | ヨハネ伝解読
                       



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「シモン・ペテロは答えた。『主よ。わたしたちは、誰のところへ行きましょう。永遠のいのちのことばを持っておられるのはあなたです」(6章68節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 群衆も去り、弟子たちの多くもイエスから去っていきました。

 イエスの周りは、まず12人の弟子が固めていました。なかでもヨハネとペテロは助さん格さんよろしく両脇を固めていた。さらにその周りには、72人の弟子が取り巻いていたといいます。これは最低限の数です。72人の外周には、さらに何人もの弟子たちがいたと推察されます。
 
 そのほとんどが「もうこの人にはついて行かれない」と去っていってしまいました。そこでイエスは12人のいわゆる12使徒にもこういった、とヨハネは記しています。

「君たちも去っていくのかい?」(67節)。

+++

  ・・・どう答えたらいいか。一瞬、気まずい沈黙があったのではないでしょうか。と、12弟子の一人、格さんペテロはこう言ったとヨハネは記しています。

 「主よ。わたしたちは、誰のところへも行きませんよ。あなたは永遠のいのちを与えるみ言葉を持っておられるのです。わたしたちは、あなたが創主のもとから来られた聖なる方であると信じていますし、知ってもいるんです」(68-9節)。

 これがペテロなんですね。彼もイエスの「私の肉を食べなさい」という主旨の言葉が何を意味しているか、わかってはいません。けれど、このままでは、イエスはあまりに寂しそうなんですね。だから、ともかく「私たちは去りませんよ」といって慰めた。ペテロは暖かい、人間的な人なのですね。

 対してイエスはこう応じています。「あなた方12人は私が選んだんではなかったかい?・・・」(70節)

+++

  この言葉の意味は、わかり辛いところですね。春平太は、こう解読します。

 「あなた方も何なら去っていったっていいんだよ。そうなったって、最終責任は私にあるんだから。諸君は、任意で私のところに来た人たちではないのだから。そういう諸君を選んだのは私なんだからね」

 ペテロは人間味の豊かな暖かい弟子です。とにかくこの場は、イエスを慰めようとして、「私たちはあなたを信じます」と言った。イエスの「わたしの肉を食べよ」という教えが、理解できないけれども、とにかく、何とか先生を慰めようとして、そういったのでしょう。

 対してイエスは、クールに突き放したのではないでしょうか。「そんな風にして、自分を縛って、義務感でついてこなくていいんだよ。諸君の場合は、これまでついてきた責任は、諸君の方にはないんだからね」

 「諸君の好きにしていいんだよ」と突き放しているともみえるイエスです。これを書いているヨハネは、どういう気持ちで聞いていたのでしょうか。また、その場を取り繕ってイエスを慰めるペテロを、どういう目で見ていたのでしょうか。

それについては彼は、なにも記しておりません。


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Vol.86『弟子もほとんど教えについていけなかった』(6章)

2005年10月22日 | ヨハネ伝解読
                        



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(6章66節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「私の肉を食べ、私の血を飲まなければあなた方の内にいのちはない」

   ~~~イエスのこの言葉は、ヨハネにとってその時も以後も不可解であり続けたにちがいありません。いったい、この方の身体とは何なのだろう? 

 そして、その疑問が解けたからこそ、ヨハネは自らの手で「福音書」を書き始めることが出来たのでした。

 そのことが、ヨハネ福音書の冒頭を「はじめにロゴス(言葉)があった」から始めたことに現れているようにみえます。そう感じたが故に鹿嶋は、この「ヨハネ伝解読」をその説明から始めたのでした。

+++

 そのあたりを繰り返しますね。
 ヨハネは、イエスの身体は「創主からでたロゴスが変化して出来たもの」である、そうでしかあり得ない、と悟ったと鹿嶋はみた。

 だから「言(ロゴス)は肉体となり、私たちのうちに宿った」(1章14節)と書いた、と解しました。

 そこでは、イエスの肉、血とは、イエスの言葉とイコールになるわけです。

 それを「食べよ、飲め」というのは、「自分の口から出る言葉を自らの血肉になるように消化し、同化しなさい」というのと等価になる。

 それが後の、

 「・・・私の言葉があなた方のうちにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。それは与えられる」(15章7節)につながっていきます。

           ~~すごい論理ですね。

+++

 けれども、かくいうヨハネも、6章に書かれているこの時点ではそんな悟りはなにもありませんでした。

 群衆は去っていきました。「なんだ、なんだ、今日は食べ物出してくれないのか・・・」といったところでしょう。飢餓時代の庶民とはそんなもんです。

 だが、イエスのこの話が与えた衝撃は、庶民を去らせる程度の生やさしいものではありませんでした。弟子たちのほとんども去っていったのです。

 けれども、“イエスが最も愛した弟子”ヨハネは去りませんでした。踏みとどまってそれを記録したのが、本日の聖句~~

「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(66節)
       ~~だったのですね。

 これってすごいドラマじゃありません?


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Vol.85『イエスの肉がいのちのパン』(6章)

2005年10月21日 | ヨハネ伝解読
        
        
                        



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「人々はイエスにいった。『主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい。』イエスは彼らに言われた。『わたしがいのちのパンです。』」(6章34~5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「霊に活力を与えるいのちエネルギーこそが本物のパンなのだ。旧約時代に天から与えられたマナはその影なのだ」ということは先回でわかりました。

 次にイエスはこう言います。「その本物のパンとは、私なのだ」と(35節)。これを「そんならその本物のパンをチョウダイ、頂戴・・・」と迫る群衆にカマせたのです。

 民衆は一瞬たじろぎます。ポカンとする。このイエス自身がパンだなんて・・・。どうやって食べたらいいの?・・・。対してイエスは、さらにカマシます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私が与えるパンとは、・・・私の肉である」(6章51節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「ええっ?」群衆は自問します。
 「このイエスは自分の肉をどうやって私たちに食べさせてくれることができようか?」 まあ、そうでしょうね。誰だってそう思う。だがイエスは、かまわず宣言を重ねていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「人の子(イエス)の肉を食べず、その血を飲まなかったら、あなた方の内にいのちはない」(53節)

 「私の肉を食べ、私の地を飲むものには、永遠のいのちがあるのだ。私は終わりの日にその人をよみがえらせるだろう」(54節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 終わりの日とは、いわゆる「最後の審判」がなされる日です。その時に、過去の全ての人は復活して、裁きを受ける。そこで天国に行くか火の池に送られるかは、霊にいのちエネルギーが完全充電されているかどうかで決まるというのが、聖書の思想です。ここでイエスが「よみがえらせる」といっているのは、「100%充電状態で復活させる」という意味になります。

 イエスはさらに言います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私の肉がまことの食べ物であり、私の血がまことの飲み物なのだ」(35節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・ああ、もうだめだ、とてもついていかれない。追いかけてきた民衆だけではありません。イエスに付き従っていた弟子たちの多くも、「これはひどい言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか」といった、とヨハネは記しています(60節)


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Vol.84『”まことの”パンとは霊のための糧』(6章)

2005年10月20日 | ヨハネ伝解読
                        


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「天からのパンを与えたのはモーセではありません。天からのまことのパンを与えるのは、私の父(創主)なのです」(6章32節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


~~しばらくお休みしていた「ヨハネ伝」解読を。


 聖句は前回と同じです。
 先回で「パンを与えたのはモーセではない」という、イエスの言葉はわかりました。「では誰か、というと、それは父(創造主)である」というわけですね。ヨハネの記したイエスの言葉には、これを示す文が省略されていたわけです。

 今回は「天からのまことのパンを与えるのは、私の父なのである」(32節)の意味です。

 「与えるのは父である」ということは、すでに前回の追加文章でわかりましたよね。今回は「まことの」パン、という部分になります。いったい、イエスはどういう意味で「まことの」と言っているのでしょうか?

 それを解くには、旧約聖書は新約聖書の「影」である、という聖書解読の鉄則を持ち込むことが必要です。影というのは、本物そのものではないと言うことです。旧約聖書は、本物を影でもって示している。その際、影として用いられているのは「たとえ」すなわち比喩です。

 では、本物は? それは新約聖書に示されている。それが聖書全体の基本構造です。具体的には、本当のものはイエスが示すのです。だから彼は「私が真理である」というのですね。

+++

 旧約聖書の時代には、約束の地、カナンに向けて荒野を旅するイスラエルの民に、創主はマナというパンを降らせました。このパンは、肉体の糧になるものであります。それによって肉体は生命を保ち、活力を得ます。しかし、それは本物の影であり比喩であるというのです。

 では、本物とは何か、といえば肉体でなければ霊の糧となりそうです。イエスは一貫して霊が幸福になる道を教え続けているのですから。そして、霊をの幸福を左右するのがその糧である「いのち」である。これは物理学でいうエネルギーのような概念であるというのが、春平太の見方でしたね。だから、敢えて「いのちエネルギー」と言ったのでした。

+++

 聖書のキーワード「いのち」って何を言っているのか。鹿嶋にも長いこと謎でした。あれこれ考えた結果、「いのちは、創主から放射されるエネルギー」のようなもの、とイメージすると、ほとんどの聖句に筋が通ることがわかってきました。

 エネルギーがもとになって、創造のわざも癒しも霊の活性化もなされる、と考えると論理が通よく通った。エネルギーとは力そのものです。物質界の燃料は、熱エネルギーを作り出す材料なわけです。

 ここでも霊に与えられる「いのちエネルギー」こそが、「まことの」パンであるというのがイエスの教えようとしているところだ、と鹿嶋は解します。旧約時代にマナという食べ物が天から降ってきたのは、後にいのちが天から与えられることを暗示する比喩だった。
これがここでのイエスの教えの真意だったと思えます。


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業界的領域

2005年10月19日 | 「考える宗教」へ

Unknown (Leaf) 2005-10-19 01:04:15

鹿嶋先生、ていねいなご回答をありがとうございました。

>そのうちでも、徹底しているもの、信頼の置けそうなものを
選択的に採用するように鹿嶋はしています。
>あくまでも「・・・じゃないかなあ・・」というニュアンスですね。
>自分の頭で推論することもしない、・・・・もう聖書がカバーしていないところについては、
何も言えなくなってしまうわけです。
>牧師さんの場合は、教会員さんからのそういう質問には逃げ回るしかなくなるわけですね。
>すると、「真理(福音)はあなたを自由にする」という聖句と矛盾してきます。
>(霊的なものをすべて怖がる、という姿勢は、聖句の霊的な解釈を怖がり、道徳的な知恵、
人生の知恵のみに解釈し、日本のキリスト教を結果的に道徳教にしている一因でもあるのでは・・・)

先生の、スタンスがよくわかり安心しました。(先生のファンの一人なのですが、
心霊科学の話が出て来たので、一時はどうなることかと思いました・・・^^。
先生のお話は、スリル満点ですね^^)

~~心霊科学は、すでに『キリスト教のことが面白いほどわかる本』中経出版、でご紹介していますので、なにも、ここが初めてではありませんけど。(鹿嶋)~~


これからも、よろしくお願いします。

+++


                      


~~コメントありがとうございました。

しかし、ご無理なさらなくていいのでは・・。
ニッポンキリスト教界でやっていかれるのは大変でしょうから。

 心霊科学のデータどころか、自ら霊的な体験をしてしまって、それをどう解するかと聖書と突き合わせ考えざるを得ない人も米国にはいます。ベニーヒンなどその代表でしょうが、彼は考察の結果をテレビで公表しています。

 すると、それを受けて恐れずに考える一般信徒の人がたくさんいるんですね、米国では。聖書主義の底深さを痛感します。そのほかにも、ラリー・ハッチさんをはじめこの種の牧師さんは米国にはたくさんいます。

 しかし、日本では現時点では無理でしょう。
ここについては、また、述べることもあるでしょう。

~~少し、業界的な領域に立ち入りすぎたかな・・・。
もう少し、上層に浮上するほうがいいかなあ・・。

鹿嶋春平太


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霊的情報の処理について

2005年10月18日 | 「考える宗教」へ
~~Leafさんから、コメント欄に質問をいただきました。
 ありがとうございました。
 これも、クリスチャンの方には自然な疑問だと思います。


                  


+++


Unknown (Leaf) 2005-10-18 16:02:31

先生こんにちは。

>心霊科学に『ブルーアイランド』ハート出版、という研究成果の本があります。
そこでは、死んだ人の霊とこの世で生きているその娘との交信記録が書かれています。

お聞きしたいのですが、こういう心霊現象は「悪霊の惑わし」である可能性もあると思いますが、それについては、いかがでしょうか?(つまり、「死んだ人の霊」だと思ってていたのは、実は、悪霊がなりすましているものだった、という考え方です)

+++

~~その「可能性」はゼロでないと思います。

 そこで聖書(聖句)に最終的な信頼を置く人(鹿嶋もそうですが)は、聖句に矛盾するものは採用しない、ということになると思います。

 心霊現象を踏まえて推論していった結果が、聖句に矛盾することもあるでしょう。それも同様に、採用しないわけです。

+++

 問題は、聖書がカバーしていないところ、したがって、一致も矛盾もしないところをどうするか、でしょうね。

 聖句から、どんどん推論を伸ばしていって、「・・・だろう」という考えを持つのも一つの方法です。

 その際、心霊科学の成果を推論の手がかりにするのも、一案ではないかと思います。

 心霊「科学」は、経験科学の方法をとっています。
いつも五感で確かめられる情報を起点に考えるという方法ですね。
そのうちでも、徹底しているもの、信頼の置けそうなものを選択的に採用するように鹿嶋はしています。

 けれども、これも絶対に正しいという判断にはつながりません。科学の知識はすべて仮説(・・・ではなかろうか、という余地を残した命題)です。だから、それが聖書でカバーしていないところを埋める、絶対的なもの、聖句と同等なものだとは考えないのです。

 あくまでも「・・・じゃないかなあ・・」というニュアンスですね。

+++

 自分の頭で推論することもしない、科学的研究の成果を手がかりにするのも怖いからしない、というのがほとんどの日本の牧師さんの姿勢です。それもいいでしょうが、それですと、もう聖書がカバーしていないところについては、何も言えなくなってしまうわけです。

 それもいいかもしれません。だがそうすると、「福音など伝わってない社会に生まれて死んだ人には、不公平じゃないか」という疑問にも答えられなくなるでしょうね。牧師さんの場合は、教会員さんからのそういう質問には逃げ回るしかなくなるわけですね。

 すると、「真理(福音)はあなたを自由にする」という聖句と矛盾してきます。恐怖で、考える自由をなくしてるんですからね。自分が教わったことを超えるのが怖い。業界の皆さんと違うようになるのが怖い。で、考える自由を閉じこめる。これでは、福音で自由にされてはいないわけです。

+++

                  


 大事なの次のことではないでしょうか。
 霊的な情報、霊感で受けたメッセージを、やみくもに怖がると、そうなるということです。


 さらにまたそういうことならば、聖書の著者に与えられたメッセージまでもが、なにか別の霊からの惑わしではないか、という疑問も成り立ってしまうのではないでしょうか。そもそも旧約聖書の預言者に与えられたメッセージも、何か他の霊からの惑わしではなかったか、と。

 すると、聖書の中の言葉そのものも、なにか得体の知れないものから与えられたものかもしれない、ということにもなりかねません。

 にもかかわらず、我々はなぜ聖書の言葉を最終的な思考の手がかりにしているのか。これは、一度考えるに値することと、鹿嶋は思っています。


(霊的なものをすべて怖がる、という姿勢は、聖句の霊的な解釈を怖がり、道徳的な知恵、人生の知恵のみに解釈し、日本のキリスト教を結果的に道徳教にしている一因でもあるのでは・・・)


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