鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.12 キリスト教会の誕生

2016年01月29日 | キリスト教の正しい学び方




こんにちわ。

今回から、キリスト教活動史に入ります。


キリスト教は教典のある宗教です。

Vol.11 までは、その教典である聖書に焦点を当てて述べてきました。

今回から、それを用いた活動の歴史に入ります。




<教会と教会堂>

キリスト教活動とは聖書〈新約聖書をベースにした)を肯定的に受け入れる人々の活動です。

この人々には、思いを同じくする点が多いので、集まって交わりをし、多くの活動をします。

この人々の群れが「教会〈church)」です。

教会と聞くと、一般人は「教会堂(chapel)」を連想しますが、あれは、キリスト教活動の一つの場です。

「教会はイエスの教えを信じる人々の群れである」ことを確認するために、
米国では「コングリゲーション・イズ・チャーチ」(Congregation is Church)といったりもします。

+++

この歴史を追おうと思います。

教会史は、このブログでは一度ならず紹介してきました。

このシリーズでも、それを繰り返す部分が多いことになります。




<初代教会>


最初のキリスト教会は、初代教会と呼ばれます。

それがこの世に産声を上げる状況は、劇的でダイナミックです。



イエスは復活して現れて、弟子たちに宣教命令をして昇天します。

弟子の多くは、北方のガリラヤ地方の人でした。

だが、首都エルサレムに留まっているように、とも命令していきます。

+++

イエスがいなくなった後にも、その言葉を肯定的に認識し、受け入れている人々が120人ほど、大きな建物の一室に集まって祈っていました。

そこにドラマが起きました。
〈この様子は、新約聖書のなかの『使徒行伝』という書物に記録されています)





<轟音と異言>

突然、天から激しい風が吹き下ろすような音響が家全体に響き渡った。
次いで、全員が自分も知らない他国の言葉で語り出した。

これは後に「異言(いげん)」といわれるようになります。
英語ではストレンジ・タング(strange tongue)です。

エルサレム参拝に来ていた人々は、轟音に驚き怪しみました。

部屋に来てみると、使徒や信徒たちが各々自分たち(群衆)の国の言葉で
酒に酔ったようにしてベラベラ語っている。

彼らは仰天しました。




<リーダー、ペテロ、聖句解読で事態を説明>


その彼らに向かって使徒〈弟子の中でイエスに直接教えを受けた12人)の中のリーダー格・ペテロが立ち上がって語り始めました。

彼は旧約聖書の中の一節を解き明かすことで事態の説明をしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る・・・」
(旧約聖書「ヨエル書」2章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この聖句は従来、みんな何をいってるのかわからなかったものでした。

だがペテロは~

「これは今現在、自分たちに起きていることをいっているのだよ、
そしてイエスはこの出来事を約束して行かれたのだよ」

~といって、聖句を解き明かしました。





<初日から3000人が加わる>


またペテロは他の聖句も、イエスを預言しているものとして解き明かし、「そのイエスを君たちは十字架にかけたのだよ」と指摘した。

この解読は参集した人々の胸を打ちました。

その結果、この日に約3000人が悔い改めて弟子たちの群れに加わったと「使徒行伝」という書物は記しています。

キリスト教会の誕生はそういう劇的なものでした。

弟子が一人一人宣教して広めていくような出だしではなかったのですね。

+++

次回には、この新教会の活動様式を述べます。



(「キリスト教の正しい学び方」   第12回   完)









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Vol.11 「真理の夢」にどう対するか

2016年01月26日 | キリスト教の正しい学び方






<「全知」と宣言するメッセージ>

キリスト教の教典である聖書は、全体的にいえば「創造神の導きで書かれたもの」と自ら宣言しています。


旧約聖書は「創造神メッセージの受信記録が中心になっている」という。
新約聖書は「創造神からの導きを(霊感に)受けて書かれている」という。

まとめていえば「どちらも創造神の導きで書かれたもの」となり、
「聖書のつまるところの著者は万物の創造神だ」ということになります。

万物を創造した方となれば、万物の全てを知っておられることになり、
そこから出る知識は、修正不要な究極の知識である「真理」となる。

~これは前述しました。




<対する人間は有限者>


さて問題は、そういう宣言を持った聖書メッセージに、有限な存在である我々人間はどう対すべきか、です。

人間には、認識可能な空間からして、すでにもう、限りがあります。

人は自分たちの住む宇宙ですら、その全てを知るにはほど遠い存在です。






<二つの代表的姿勢>

では、どう対応したらいいか?

まず我々日本人の現状から見ていきましょう。

大半の人々は「全知者のメッセージだなんて、そんなのウソだ」というでしょう。

「宗教の教祖はみなそういうものだ。 だけどウソだ」と。

・・・・

これは戦後日本の精神風景でもあります。

太平洋戦争での敗戦直後、日本の青年たちは「宗教に騙された・・・」と痛感し憤怒しました。

「天皇は現人神(あらひとがみ)である。 異民族が攻めてきても蒙古来週の時のように、
カミカゼが吹く」

~と小学校から教えられ、信じてきた。

なのに沖縄を米国艦隊が取り囲んでも、カミカゼは吹かなかった。

多くの友が国を守ろうと戦死したのに、吹かなかった。

+++

「騙された。もう宗教は絶対に信じないぞ!」

青年たちの怒りに充ちた決意は、戦後日本の精神文化の基調になりました。

いったん出来上がった思想基調は、社会の大動乱があるまでは続きます。

後の戦後世代にもこの精神は受け継がれ、今も「そんなのウソだ!」という人が大半となっているのです。

・・・・

そうしたなかで、数は多くはありませんが「絶対に神の言葉です!」という人もいます。

教会に通う信者さんの大半がそうです。




<どちらも自己矛盾>

だが、よくみるとどちらも矛盾を含んだ姿勢です。

人間は、全ての存在を知ることが出来ない存在です。

それがどうして「全知者からのもの」と宣言するメッセージに対して

「絶対にそうでない」とか「絶対にそうだ」とかの判断を下せるのでしょうか。

どちらも、矛盾したことを言っている。

自己矛盾です。




<「半信半疑」が自然な感覚>


ではどうしたらいいか?

われわれ有限な人間は、素直にその状態から出発したらいいのではないでしょうか。

日常我々は「半信半疑」という言葉を使いますね。

見えない世界のことは半信半疑であるのが、生身の人間の姿です。

確率の考えで言えば、真偽は五分五分ということですね。

+++

そこでその中身を考えてみる。

すると最初の五分は、「そこには真理があるかもしれない」という期待の感情を持った五分でしょう。

あとの方の五分は「真理などないのでは?」という、希望感の薄い五分です。

生身の人間には、その二つの心理が同居しているのです。

+++

無理をしないで、そこから自然体で出発する。

この状態でも、気持ちの軸足をどちらに置くかで行動は異なるでしょう。

後者の「期待できない」という感情に軸足を置いたらどうか。

聖書の言葉に興味は湧かないでしょう。

だから聖句を吟味したりはしません。

それで「サヨナラ」です。


   

<期待感の方に軸足を置く>

他方、後者の期待感の濃い気持ちのに方に軸足を置いたらどうでしょうか。

聖書の言葉への関心が湧いてくるでしょう。

聖句に分け入って調べてみようという欲求も湧いてきます。

すると、聖句吟味に入っていく可能性が出ます。

+++

そして調べ、吟味していったらどうなるか。

聖書では「真理だ」とするものでも、そのまま直裁的に表記されていることは少ないです。

前述しましたように、「旧約聖書の聖句は、イエスを比喩で述べているもの」とみるのがイエスの教えです。

キリスト教の読み方はそうなります。

比喩(たとえ)であれば、解釈が必要になるでしょう。

そして、どう解釈するかを考えることは、すなわち聖句吟味をすることなのです。


+++



新約聖書にも、吟味の必要な聖句が多くあります。

イエスは自分の言葉は真理だと言って語りますが、それを喩えで沢山語っている。

それを記録した聖句が沢山あるのです。

+++

新約聖書にはまた、イエスが喩えでなく、そのまま語る言葉も記されています。

だがその意味は深いです。

その意味を理解し味わうにも、やはり吟味が必要です。

その作業を、理性だけでなく霊感も動員しておこなう。

それすなわち、聖書の探究であり吟味です。





<「これは真理だ!」との確信>

吟味・解読に入っていくと「これは人間には考案できない知恵だ・・・」と感心する知識に出会うことがあります。

この体験は、聖句への信頼感を増大させます。

出発点では五分あった信頼感が、六分に変わる。

「信頼できない」という気持ちとの比率で言えば、六分四分になるわけです。

すると期待感も増しますので、人はさらに探究を進めます。

そしてさらに「人智を越えた知恵」と感心する知識に出会いますと、信頼感は七分三分へと上昇するでしょう。

そうやって信頼感が増していくのが、世に言う「信仰が増す」という心理の中身です。

このようにして進んでいくのが、生身の人間の「正しいキリスト教の学び方」だろうと筆者は考えます。

おそらく「正しいキリスト教活動」とは、その学びを中核にする活動でしょう。




<聖句吟味のあるのが正しいキリスト教学習>

ここからは余談です。

「五分五分の期待感から聖書吟味を始めて、信頼感が自然に高まるにまかせ」たらいいんだ。
こういわれると、恐怖感に襲われる人も出るでしょう。

我が国ではとくに、教会に通う信仰者にはそういう人が多いようです。

「そんなことでいいのか!」
「100%信じないで聖書を読むなんて、神様への冒涜ではないか!」
「牧師先生に叱られる・・・」

~もう聞いた瞬間にフリーズして身体が固まってしまうのですね。

+++

けれどもよく考えるとこれでいいことがわかってきます。

その方が、むしろ、聖書の論理にかなっているのです。

次の聖句はそれを示す一つです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「わたしは彼らが熱心に創造神に仕えていることについては、その通りだと証言します。
 
しかしそれは深く知った上での熱心ではないのです」

          (『ローマ人への手紙』10章9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新約聖書の中の一節です。


パウロという宣教者がローマの信徒に向けて書いた手紙中の聖句です。

ここでパウロは「信仰に知を」と訴えています。

やってみればわかりますが、聖句吟味のない信仰は、その心温は熱いのですが、底が浅いです。




<理性も与えられている>

聖書には、創造神は人間を感性だけでなく、理性をも持つように造っているという思想も貫徹しています。


人間が五感で経験認識できる範囲は限られています。

だが、その直接的な経験認識を手がかりにして、その範囲を超えた世界の認識を試みる。

この理性を使って、さらには霊感も動員して、推測し想像をめぐらせる。

そうやって信仰を底の深いものにしていく。

パウロはこれを勧めています。
有限な人間にはこれしか無限の世界を知っていく道は与えられていないからです。




<自由意志をもつようにも創られている>

また聖書では、創造神は人間を「自由意志を持つ生き物として」造っている、という思想も貫徹しています。

創造神は、その様に創造した以上、人間の自由意志領域には立ち入りません。
全能者だから基本的には何でも出来るのですが、自らそう定めた以上立ち入ることが出来ない。

それほど徹底していますので、「人間が創造神の言葉を信じる」という行為も、自由意志によるものを認められる。

「恐れ」によって強制的に信じさせられての信仰を好まれません。

+++

話は少し先に飛びますが、イエスはだから福音伝道を天使にさせないのです。

創造神が人間を幸福にしようとして送られるメッセージが福音(ふくいん:英語はゴスペル:gospel)です。
その伝道をイエスも人間にゆだねられている。

天使は人間と同じく被造霊です。
けれども、肉体をもたないから死の恐れがない。
しかも、自ら火にも風にもなる「力ある霊」です。

こういう被造霊は、強く統御する必要があるのでしょうか、天使は天使長の元に軍隊のように統率されて動く存在となっています。
(この知識もまた聖句理解のために重要になってきます)

軍団では行動はすべて「命令⇒服従⇒(従わねば懲罰)」の原理でなされます。

天使はこうやって動いているのです。

+++

こういう被造霊に福音伝道をゆだねれば、その伝道もまた、「命令⇒服従」様式でなされるでしょう。

力ある霊ですから、「福音を受け入れない人間の行く火の池」の幻を人間に見せることも出来るでしょう。

そうやって「信じなければどんな悲惨なことになるか」と脅して受け入れさせることになる。

恐怖で信じさせるのです。

+++

だがそれは人間を「自由意志を持つ存在として造った」鉄則に反します。

だからイエスも、伝道は人間にさせるのです。

イエスは天に昇る前に、弟子たちに宣教命令を与えていきます。
そのイエスの行為は、上記のようなつながりをもっています。

まあ、これは上級編の知識を含んだ話です。
だが、「創造神が人間の自由意志をいかに大切にされるか」をよく悟っていただく願いもあって、あえて書きました。

ともあれだから、人は理性と霊感を動員して、自由に聖句を吟味していいのです。





<信仰でなく信頼>

最後に余談をもうひとつ。

実は世に言う「信仰」という訳語は適切な語ではありません。

ヘボン先生の邦訳のもとになっている英語はfaithまたはbeliefです。

これは「信頼」の方が適切です。

+++

「信仰」には「信じる」と「仰ぐ」という二つの意味が混ざっています。

前述のように「信じる」は「肯定的に認識する」という認識の一形態です。

信仰は,これに「仰ぐ」という意味を組み合わせた言葉です。


そしてこの「仰ぐ」というのは、意志の力を必要とする一仕事という性格をかなり持っています。

信じたら自然に伴ってくる心理ではない。

フェイス(faith)にはこういう複雑な心理のニュアンスはありません。

+++

およそ二文字からなる漢字は、程度の差こそあれダブルミーニング(二重の意味)を持った言葉になります。

その意味では信頼もそうですが、同じダブルミーニングでも「信頼」の方がクセが少ないです。

「頼る」というのは、「肯定的に認識する(信じる)」と、比較的自然に沸き上がる心理です。

「肯定的に認識する」対象は力ある全能者です。

こういう存在を「信じて心に受け入れる」と、それに「頼る心情」は「仰ぐ心」よりもはるか自然に伴ってくるのです。

英語のフェイス(faith,belief)のニュアンスは、日本語ではむしろ「信頼」が近いです。

筆者は、信頼の語を通常使うことにしています。



(「キリスト教の正しい学び方」   第11回   完)











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Vol.10  「真理」という新理念

2016年01月18日 | キリスト教の正しい学び方




こんにちわ。

本日は、真理という考え方が、「万物の創造神」という神イメージあってこその新概念であることを示します。


+++

これまでに筆者は、イエスの新しい教えの骨子を示してきました。

 イエスは「聖書(旧約・・・以下同じ)が創造神メッセージの受信記録」であるとしていました。
この点は当時のユダヤ人と同じです。

だが、その解釈が違った。

① 「聖書の“罪”は思いの罪も含めているのだ」

② 「聖書は結局わたし(イエス)のことを述べた本なのだ」

~これらをイエスは「自分は全てを知っている全知の存在である」として権威をもって語りました。




<創造神の知識を話しているのだ!>


そんなこと言えば人は「お前は自分を何様だと思ってるのか!」と投げ返しますよね。

時の勢い、自然の情です。

だがイエスはこれに対して、「自分は創造神のひとり子であり、全知の父(創造神)から全てを聞いているのだ」と宣言した。

そして、「聖書の思想では創造神でなければ出来ないことになる奇跡」を連発しました。


+++

奇跡はここではさておきまして、「イエスの言葉が全知者の言葉である」ということが、もし、事実ならばどうなるかを今回は考えておきます。

〈聖書は、「事実である」という姿勢で書かれていますが、これに生身の人間はどう対すべきかは、後に考えます)

新約聖書はみずから、「創造神からの導きを(霊感に)受けて書かれたもの」といっています。

また、前述したように、旧約聖書もみずから「創造神メッセージの受信記録」といっています。

これをまとめていえば「聖書全体は創造神の導きで書かれたもので、つまるところの著者は万物の創造神だ」ということになります。

+++

すると、ここに込められている知識は、人間の造る知識とは、性格を異にすることになります。

そのことは理論知識、とりわけ、天体に関する理論知識を例に取るとわかりやすいでしょう。





<天動説>

人間はむかしから「天空は我々の住む地面の上を回っている」と考えてきました。

自分の生活経験からそう考えてきた。

朝が来て空が明るくなります。
昼が来て、その次に夜が来ると暗くなります。
また朝が来ると明るくなる。

これは天体が自分たちの頭上で回っているからである、と人々は思ってきた。
庶民も僧職者も学者もそれが当然だと考えてきました。

今ではその思想は天動説と呼ばれています。




<地動説>

ところが近世になると、望遠鏡が発明されたりして、従来見えなかった事象が新しく見えてきました。
すると天動説では説明がつかないものも出てきました、

そして、従来と正反対の説を考え出す人が出ました。
コペルニクスはその代表で、「我々の住む地面は実は丸い星の一部であって、こちらの方が動いて太陽の周りを回っている」という理屈を考案しました。
ガリレオも同じ理論を考え出しましたた。

この理論知識はいまでは地動説と呼ばれています。

そしてこの説は、新しく見えてきた事象も含めて、すべてを筋道だてて説明してくれました。
人々は、地動説の方が正しいと思うようになりました。





<科学は「仮説造り」の営み>

「天動説から地動説へ」というような大転換ではありませんが、天文学ではガリレオ以後にも新事象を発見し、理論を修正し続けてきています。

どうしてそうなるか?

人間は全ての存在を認識することが出来ないからです。
だから、知識を発展させようとすれば、観察できる範囲を少しずつ広げていくしかない。
それに応じて地動説も修正され続けることになります。

科学の理論は修正され続ける運命にあるのです。

これを示すために科学者は、自分たちが作る理論を、仮説(かせつ:仮に設定した説:英語は hypothesis)というようになりました。

そしてそのことは天体理論に限らず、人間のすべての知識についていえることだ。

人間が製造する知識は仮設であり続けます。

人間の知識作りの営みは、終わりのない「仮説⇒修正⇒新仮説⇒再修正・・・」の営みなのです。




<創造神の知識は「究極不変」の知識>

ところが、もしも、「すべての存在である万物」を作った創造神がいたらどうでしょう。

万物を造った創造者ならすべての被造物のすべてを知っているはずです。


この世にテレビが存在する前にそれをイメージし、設計し、製造したのは人間です。
人間は、テレビの存在目的も仕組みも全て知っています。
このように創った側は被造物の全てを知っているのです。

すると、こういう方からの知識は、はじめから、もう修正されることのない究極にして不変な知識、という道理になるでしょう。

聖書は「自らのメッセージに込められている創造神の知識は、そういう性格の知識だよ」といっているのです。




<「真理」の本義は「変わらざる知識」>

この不変の知識、究極の理論を、英語ではトルース(truth)といっています。
この概念は基本的に聖書の概念なのです。

もちろん、ヘボン先生が初の邦訳聖書を造っておられた頃には、日本にはそんな理念はありません。

先生は思案されたでしょう。

その結果、このトルースの語に漢字の「真理」をあて、それに「まこと」とふりがなを振りました。

先生がそういう工夫をされて、真理という語が日本に出現しました。

真理は聖書用語だったのです。

+++

繰り返します。

人間自製の知識は修正されていく「仮説」です。

対して創造神メッセージの中の知識は「真理」です。

聖書の含め持っている、この知識の性格の違いを、明確に理解するのは、キリスト教を正しく学ぶために必須なことです。




<学問は真理の追究?>

余談です。

我々は高校や大学で~

「学問は真理の追究である」

     ~という言葉を聞かされます。

でも、何を言ってるか釈然としなかった。

それが今回の話でおわかりになったでしょう。





<西欧文化はキリスト教を知って初めて・・・>

またそれは~

 「西欧文明はキリスト教(聖書)を知って初めてわかる」

~という、よくいわれる格言のようなものの理解をも、
助けてくれそうですね。




<わたしの言葉は永続するよ>


もう一つ余談を。

この思想は、イエスの次の言葉にも繋がっていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「この天地は滅びます。
 しかし、私の言葉は滅びることはありません。

    (『ルカによる福音書』21章33節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この聖句には、前述した「言葉は量子である」という量子力学的視野を援用すると、
さらにリアルに感じられるかもしれませんね。

また、この聖句はさらに~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたし(イエス)の言葉が諸君(弟子たち)の内に留まるなら、何でも欲しいものを求めなさい。
それはかなえられます」

 (『ヨハネによる福音書』15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~にも繋がります。

これも「言葉は量子であり、エネルギーである」という量子力学的理解がイメージを助けてくれそうですね。

本日は、これまでにしておきましょう。



(「キリスト教の正しい学び方」   第10回   完)










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Vol.9 「聖書」全体の構成  

2016年01月15日 | キリスト教の正しい学び方


こんにちわ。

本日は、昨日のVol. 9 の記事のタイトルを新しくして、投稿しなおします。

昨日この記事を、タイトルを入れ忘れて「投稿」をクリックしてしまいました。

そうしたら、タイトルのところに、「記事のタイトルを入力して下さい〈必須)」
という文字が、そのまま出てしまいました。

驚き、Gooブログの記事にタイトルを入れて修正しましたが、それは、Twitterとフェースブックには反映しませんでした。

(このGooブログの記事は、投稿すると自動的に、Twitterとフェースブックにもそのタイトルが出て、リンクされるようになっています。
だが、それらには、修正が反映されなかったのです)

+++

急ぎ、Twitterとフェースブックの記事を削除し、タイトル入りの記事を、コピーして投稿しました。
だが、見直してみると、そのタイトルもあまり適切でなかったようでした。

そこで、gooの投稿原稿自体を削除し、新しく、「Vol.9 「聖書」全体の構成」 
のタイトルをつけて、投稿しなおすことにしたのです。

それが本日のこの記事です。

これで、Goo, twitter, フェースブックの3つが同じ記事になります。

本文は、前のものと同じで、紛らわしいのですが、ご了解下さい。






こんにちわ。

今日は2016年1月14日です。

(臨時版)はまずは前回までとして、本論にもどりましょう。

「キリスト教の正しい学び方」・・・今回はイエスの新しい教えをもう一つ示します。

イエスはそれまでにない教えをたくさんのべました。

本連載ではまず、その大きな柱を一つ示しました。

それは「旧約聖書の“ 罪 ” は行為だけでなく、『思い』の罪も含むのだ」でした。

これは伝統的なユダヤ教の旧約聖書解釈をくつがえす、仰天の教えでした。




<聖書(旧約聖書)は私のことを述べた本なんだよ>

今回は、もう一つの画期的な教えを示します。

それは「旧約聖書はイエスのことを述べた教典だ」というものです。

だじゃれですけど、これは「仰天」ですね。

+++

従来、イスラエルの民は、旧約聖書に保存された受信記録の内、律法以外のところは、何を教えているかわかりませんでした。

ところが、イエスは、律法も含めた霊感受信記録の全体像を明言したのです。

それも、こともあろうに・・・

「この教典は私のことを述べた(証言した)ものなのだ」

  ・・・とぶち上げたのです。

それはヨハネという弟子が書きのこしたイエスの伝記『ヨハネによる福音書』に紛れもなく記録されています。


・・・・・・・・・・・・・・・・

  「諸君(ユダヤ教の僧侶たち)は、聖書(旧約聖書)のなかに、永遠の命があると思って調べているよね。

だが、この聖書はわたし(イエス)についてあかしする教典なのだよ」

(『ヨハネによる福音書』5章39節)
・・・・・・・・・・・・・・・・



弟子たちはこれを受けて、宣教活動をし、教会を造っていきました。

その後継者たちは、このスタンスで、キリスト教の「聖書」を編集していきました。

だから、この聖句は、安易に読み流したらいけません。

キリスト教の教典が、新約聖書だけでなく、旧約聖書も含めて造られている理由がここにあるからです。




<旧約は(比喩)解釈すべき教典>

この聖句はまた、次のことも示唆しています。

『旧約聖書』には、イエスという名は出てきません。
 
それがイエスのことを語っているとなれば、それは「比喩で語っている」ことになります。

+++

そのことから、さらに、キリスト教における聖書の性格も浮上してきます。

まず、キリスト教の聖書では、『新約聖書』が主体になっている、となります。

さらに、『旧約聖書』は、イエスの比喩として解読すべき教典、ということにもなります。

旧約聖書の歴史記述から、人生の知恵など色々引き出す説教は多いです。

だがそれは、この書物の主旨ではない。

主旨を心にとどめないで、そうした知恵を教えてばかりいると、イエスを見失うことにもなりえます。




<「新約聖書」の構成>


さて、そこで、新約聖書の構成・枠組みを示しておきましょう。

新約全体は、イエスとその教えを語っているのですが、それは次の四つの塊に分けることが出来ます。


・まずイエスの伝記。

    これは四本収録されています。

・次に、弟子たちが教会を造っていく活動史。

      これは『使徒行伝』という一冊の書物に記されています。

・さらに、イエスの教えを解説した手紙類。

      これは沢山あります。

・最後に 愛弟子ヨハネに延々と与えられた幻の記録。

       『黙示録』という一冊の書物になっています。

      この幻には、永遠の未来に起きていくことが、含まれています。

      対照的にモーセは、自分より過去の、この世が造られる状況の幻を受信しています。
    
      『聖書』の最初と最後の書物が、こういう風になっているのは、興味深いことです。







<聖書の全体構成>

これに前述した「旧約聖書」の構成を加えると、
聖書の大枠は、合計、7つになりますね。

改めてまとめて示しますと~


① モーセ以前の過去の幻の受信記録。

② モーセ以後の未来の幻の受信記録。

③ 人間が守るべき律法。

④ イエスの伝記。
     (四本収録されています)
⑤ 弟子たちが教会を造っていく活動史。
      (『使徒行伝』という一冊の書物)

⑥ イエスの教えを解説した手紙類。

⑦ 愛弟子ヨハネに延々と与えられた幻の記録。
       (『黙示録』という一冊の書物)


~となります。





七部構成なんですね。

この全体像を心に保っていないと、聖書購読は迷走いたします。


(「キリスト教の正しい学び方」   第9回   完)







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(臨時版1) 自価意識は人間の最後の砦

2016年01月13日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。 

「キリスト教の正しい学び方」・・・まだ続きます。

だが、話が一段落しましたので、本日は気分転換のために、(臨時版1)をお送り致します。




<自価意識の概念>

今回は「自価意識」( じかいしき )という、言葉(概念)を導入いたします。

『広辞苑』をみても、この言葉はありませえん。

だから皆様には全く新しい言葉だと思います。

けれどもこれは、実に鋭い分析力を持ったキーワードです。


+++


自価意識とは「自分の存在を存在価値あるものと感じる意識」です。

実はこれは人間が生きていくのに決定的に重要な機能をはたしています。

これがないと、人から 生きる意欲が根底でなくなってしまいます。

これなしでは、人間は生きられない。

自価意識は、生きる上での「最後の砦」なのです。





<幼子に死なれると食べられなくなるのは>


たとえば、自分の愛する幼子が死んだとします。

親は、食べ物も飲み込めなくなります。

それは自価意識が急減するが故です。

+++

幼いわが子は可愛いです。

ニュースでは例外的な大人も報道されますが、一般に親には、子供の世話は大きな喜びです。

そして育てる過程で、自分が存在する価値の意識(自価意識)のほとんどを、愛する子供から得るようになります。
子供への貢献が、自分の価値の源になるのですね。

ところが、その子供が亡くなることも起きます。

すると自価意識の供給源が突然なくなって、親の自価意識が消滅してしまいます。

すると、食欲という生理的、動物的欲求すら減退してしまう。

意志の力でもって意図的に飲み込む努力をしないと、飲食物も飲み込めなくなってしまいます。

自価意識は、それほどに、人が生きるのに決定的な機能を果たしています。





<子供にも決定的な役割を果たす>


親だけではない。

子供にだって、自価意識は決定的な役割を果たしていますよ。

たとえば、小学校に入るくらいの年齢の子供をみましょう。

親が子供に対する愚痴を配偶者や友人にこぼすのは、時として、起きることです。

たとえば~、子供の世話をするのが、がいかに大変なことか。

自分がそれでいかに苦しんでいるか、~などを愚痴ります。

+++

そして子供はそれをはたで耳にすることがあります。

幼い子供は、その言葉で自分の存在が有害だと思わせられます。

すると自価意識が突然減退するのです。

+++

この時親は気がつなないのですが、子供の存在を呪う言葉を発しているのです。

すると子供は、離れていって一人で涙したりします。

自価意識が減少するのは、予想外に過酷な苦しい体験です。

子供は突然生きる気力を失って苦しい。 だから泣くのです。

そして親が理由がわからず慰めに近づくと、蹴ったり殴ったり、突然します。

子供も幼いながら、そうさせた大人を傷つけようとするのです。




また、そういう自己表明の機会が得らえないままでいると、事態はさらに深刻になります。

子供は自価意識が感じられなくなった自分自身を、傷つけもするのです。

そのとき子供は、存在価値のない自分を呪っています。

自分だけでなく、存在するもの自体すべてを呪っている。

この家庭状況に大人が対処できず、それが長引くと、子供は気力がわかない状態で大人に成長していきます。

そして悲劇も起きます。

家庭内のバット殺人事件も、この延長線上で、自然に起きる出来事です。

+++

子供を育てることは大事業です。

親も、その過程で、工夫をして、知恵をつけていかねばなりません。

その知恵のために、驚くべき貢献をしてくれるキーワードが「自価意識」です。




<自尊心=「自価意識+自己神欲」>

本日の本論は以上ですが、余談があります。

筆者の話を聞いていると、「それは自尊心だよね」と思われる読者がおられるでしょう。

だがその理解は正確ではありません。

自尊心というのは、「自価意識と自己神欲が組み合わさった」結合体です。

こういうと「自己神欲というのがよくわからん」という声も出るでしょうが、
それは鹿嶋春平太『自己神欲が諸悪を産む』(キンドルブック,電子本)を一読してください。

要約的にいうとそれは「自分を神のような位置に置きたい欲求」です。
他人の尊敬を求める気持ちは、それから発しています。

だから、それには自価意識とは異なった意識が入っている。

こういう違いを含む概念を混合(混同)してしまいますと、その言葉の分析力は鋭さを失ってしまいます。

自尊心はシャープさの欠けた概念用語なのです。


   

<量子力学の思想で見ると>

もう一つ余談を。

前回までの三回に見てきた量子力学の思想を援用すると、上記の事例の原因もイメージできていきます。

子供に死なれて飲食も出来なくなる事象です。

+++

人の肉体は量子で出来ていて、それは、「存続しよう」というエネルギーを持っています。

そういうエネルギー量子体なのです。

そしてそれは、「存続価値ある」という思い(精神エネルギー)を受けつつ機能しています。

+++

そこに、自価意識の急減をもたらす事態が起きるとどうなるか。

一時的ながら、それは、「自分はもう存続価値がないのでは・・・」という意識をもたらします。

それが「時の勢い」というか、精神エネルギーの勢いです。

それは、肉体という量子体のエネルギーがプラスとすれば、マイナスの(精神)エネルギーを形成します。

このように相殺し合うエネルギーを内に持てば、その人の、生きる気力も体力も減退する。

そういう風に理解できます。




自価意識というキーワードは、他の現代社会問題をも明かしてくれなす。

一般人にも識者にも気付かれてない原因を明かす。

たとえば自価意識不全は実は「ひきこもり」や「いじめ」の真因なのです。

そのことは、また以後の(臨時版)で示していきましょう。


(「キリスト教の正しい学び方」   臨時版1   完)









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Vol. 8  言葉も「エネルギー体」である 

2016年01月12日 | キリスト教の正しい学び方




こんにちわ。

三連休もあけた2016年1月12日、「信じれば救われる」の物理的理解、ようやっと大団円となります。

+++


これまでわたくしは、量子力学の思想を援用して次のようなことを見出してきました~。

・物質は認識されると影響され変化する。

・それは、物質の根源がエネルギー波動の凝集体だからであり、かつ、

人の精神活動の源もまた、エネルギー波動体であるからだ。

・その変化は、「認識のされ方」によっても、異なるに違いない。




<ソシュール記号論>



今回は、言葉について、それが量子であるといえるかどうかを考えます。

それには、記号論と呼ばれる学問知識が助けになります。
記号論は、フェルディナンド・ド・ソシュールというフランスの認識哲学者によって、19世紀に創始され、20世紀前半に広く知られるようになりました。

彼のいう記号は、言語だけでなく、音楽や絵画・彫刻など造形的なものをも含めています。

だが、彼はその思索を、ほとんどもっぱら言語記号を直接の経験的手がかり(素材)として、進めました。

その言語記号に関する理論を援用しましょう。






<言葉は信号と意味の結合体>


ソシュールは言語を「信号と意味を持つ記号」ととらえます。

+++

「信号」は、それでもって我々に他の記号と識別させてくれる個性的な信号です。
単語で言えば「イ・エ・ス」という音声や文字などがそれでしょう。

+++

「意味」とは、その信号を受信すると「連想するイメージ」と解しておきましょう。

単語で言えば、たとえば「イ・エ・ス」という音声信号を受信すると、人は様々なイメージを心の中で連想します。

イエスが教え始めた当時には、人々は「ナザレの若者」、「旧約聖書の新解釈を教える男」、
「教えるに際して驚異的な奇跡を見せる人物」等々を連想したでしょう。

<文章>

文章もまた言語記号です。

それは単語が組み合わさってできたものです。
文章の信号は、単語の信号が複数組み合わさった信号の連鎖体だといえます。

文章の意味は、単語の意味を組み合わせた、意味の連鎖体です。

<ソシュールは言語を実体としてとらえた>

ソシュールの画期的なところは、言語を信号と意味が結合した「一つの実体として」認識したところです。
人類は従来そうではありませんでした。

音は音、文字は文字として独立にとらえ、それに対応して心に思うものは「概念として独立に」とらえました。

ギリシャ哲学以来、言葉は、概念論でもって考察されました。
それは人の心にイメージされるもので、物質のような実体ではない、と考えられてきました。

+++

ところが、ソシュールは言語を、信号と意味を併せ持った一つの「生き物のような実体」ととらえました。

するとそれは量子力学とのつながりを持ってくるのです。




<言葉もまた量子>


ソシュールのいう信号は「人の注意を引く力」を持っています。
「イ・エ・ス」という音声信号は、受信する人に「え?」「なに?」という注意を起こさせます。

またそれは同時に、信号の受信者に、その記号のもつ意味内容を「思わせる」力をも持っています。

イエスという信号は「ナザレの若者」だなあ、「旧約聖書の新解釈を教える男」だ。
「教えるに際して驚異的な奇跡を見せた」等々の「意味の思い」を誘発します。

+++

量子力学では、そうした力はすなわちエネルギー波動です。

そしてエネルギー波動を持つものは量子です。

言葉はエネルギーを内包した量子という実体なのです。

その属性においては物質と同列の存在なのです。


<文字は持続性を増した量子>

また、口から発声される言葉は文字にもできます。

文字になればそれは、たとえば、紙の上に定着して、持続するでしょう。

するとその力も持続します。

言語は信号が文字になると、持続性が増した量子になるのです。






<認識されると変化する>


持続性の大小はあれども、ソシュール記号論を援用すると言語は量子となります。

量子であれば、それは、光子と同じく、人に認識されることによって影響を受け、変化するはずです。

そして、その変化の仕方は、認識のされ方によっても、異なってくるでしょう。



    


<「信じる」は認識の一方法>


さて、いよいよ「信じる」について考えるところに来ました。

そもそも信じるとはどういうことでしょうか。

それは、認識活動であり、認識の一方法です。

「信じる」は、言語記号の「意味」を「肯定的に」認識する精神活動です。

イエスの「私の死は人類の罪の代償になる」という言葉についていえば、それを肯定的に認識する精神活動が「信じる」です。

そしてイエスが「信じればそのようになる」というのは、その信じるという認識活動が、イエスの言葉に影響を与えることになる、言っていることになる。

肯定的に認識すれば、わたしのその言葉は、「あなたの罪の代償になるように働くよ」というのです。



+++

人間は、イエスのその言葉を「否定的に」認識することも出来ます。

「そんなこと信じないよ」というのは、そういう精神活動をしているのです。

そういう認識波動を発すれば、それはイエスの言葉に、別の影響を与えることになるでしょう。

具体的にはどうなるか。




<聖句の示唆>


それに繋がっていそうな言葉(聖句)が、キリスト教の教典『聖書』のなかにあります。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「私を拒み、私の言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがある。

私が話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのだ」
   
      (『新約聖書』 ヨハネによる福音書、12章58節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




~イエスの言葉です。

筆者は告白しますが、この~

「(イエスの口から出た約束の)言葉を受け入れない人には、その言葉が〔終わりの日に)裁く」

~という聖句の意味が、ずーとわかりませんでした。

「言葉が裁く」とは、何を言ってるんだ?

+++

けれども、量子力学の思想をかじることによって、わかってきました。

~イエスが語った言葉は、量子という実体になっている。

それは肯定的な認識エネルギーを受ければ、相応に変質する。

否定的な認識エネルギーを受ければ、それに影響されて、また別の変質をする。

二つの変化は、別物になる。

+++

否定的に認識した人には、その言語量子体は相応に変質して、「終わりの日」(「最後の審判」のとき)に有罪判決をくだす。

判断のルールとしてでなく、あたかも人格を持った意識体であるかのように活動して、有罪の裁きを下す。

~こう理解できるようになりました。

(これが真理なら、イエスの時代にたまたまイエスが宣教する場面に出っくわし、

「笑わせるな・・・」とつぶやく羽目になった人は、ホントに不運だなぁ~)




ついでながら、「肯定的に認識した人」には、この言葉はどうなるのでしょうね。

こんな感じかな・・・。

~肯定的な認識のエネルギー波動を受けると、その量子群(イエスの言葉)は、言葉通りに働く強力な量子群となって活動するだろう、と。

ともあれ、このように、意味不明だったイエスの言葉にも、明確な理解ができるようになりました。

私の個人的一理解ですけどね。

+++

量子力学の思想によって、物理学的に理解できるようになる聖句は、他にもあります。

だが、本日は、このへんで話を区切ることにしましょう。


(「キリスト教の正しい学び方」  第8回  完)







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Vol. 7 物質は認識されると変化する

2016年01月10日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちは。

実はこれ、前回、第六回と同じ、2016年1月10日に投稿しようとして書いています。

これから3~4回は、「信じるという行為は物理的な意味を持つか」を探究するために、
順に理屈を追っていく話です。

時間的にもひとまとめにやらないと、これがなんで「キリスト教の正しい学び方」になるのか、
わからなくなってしまう恐れがあるんですね。

少なくとも、前回と今回の話は、一気にやらねばなりません。

そこで、今日、日曜日、クリスチャンの方には忙しい聖日ですけど、またまたアップロードいたします。




前回は、「物質はエネルギー波動体の一形態」と申しました。

最先端の物理学である量子力学の思想ではそうなるわけです。

今回は、その「物質(エネルギー波動体)が、人間の精神活動によって影響を受ける」ことを示します。





<双子の光>

量子力学では、われわれの五感による認識感覚を超えた、ことがらが次々に出てきます。
その一つに「双子の光子」というのがあります。

光子(こうし)というのは有り難い素粒子です。

それが我々の眼球内に飛び込んできて、網膜によってキャッチされることによって、
我々はものを視覚することが出来ているのです。


そして量子力学の世界は不思議な世界でして、この光子から双子のように全く同じ二つの光子を造ることが出来るそうです。

これが双子の光子なのですが、これを用いた実験についての筆者の耳学問をお伝えします。





(余談です。

鹿嶋には実は、長年にわたって物理学知識を耳学問させてくれている親友がいます。

親友といっても国際的に活躍する物理学者で、故・朝永振一郎先生のお弟子さんのI名誉教授です。

でも聞き違い、理解間違いというのはあるものでして、私が学問的に間違ったことをいう可能性はゼロではありません。

その時にはもちろん、責任はすべて私にあります。

+++

私はこれをドスを効かすつもりでいっているのでなく、我が友への感謝を記念しておくために書いています。

なおI先生はビックリするような学界武勇伝をもお持ちです。

いつか、そのこともお話しできるかもしれません。

「世」というものがどういうものかを教えてくれる話です)





<驚愕の実験結果>


実験の話に戻ります。

研究者は、まず双子の光子を造って、各々を遠く離れた全く別の地点に閉じ込めた。

そして、一方はそのままに、もう一方は、人にそれを認識させました。

すると、認識された方の光子は、されない光子とは異なったものになっていた、という。

つまり、認識されることによって、光子という素粒子は影響を受け変化したのです。

そのことが、実験で確かめられた、というのは、筆者には驚愕的な情報でした。





<認識は精神エネルギー活動>



筆者は従来より、人間の精神活動は、エネルギー活動であることを、体験的に確認していました。

たとえば、気功の達人が気を送ってくると、文字通りドシンと感じる。
そういう体験を一度ならずしてきました。

人間の認識活動もまた精神エネルギー活動です。

精神エネルギーも波動体であり量子であり、その活動は量子活動です。

認識活動は量子活動なのです。

+++

一方、光子もまた物質(素粒子)であり、その根源はエネルギー波動体であり、量子です。

認識という量子(精神エネルギー)活動が、光子という量子(エネルギー)に影響を与え、変化させた。

この実験は、それを確認させるものだと理解しました。





<認識のされ方にも影響されるはず>


実験が筆者に教えてくれたのは、光子が認識されたら変化した、という事象だけはありません。

「量子は精神エネルギーを受けると変化する」、という、いま少し一般的な法則も示唆してくれた。

そして、そこから次のような推論も成り立つように、筆者にはみえます。

すなわち、量子の変化のありかたは、認識の「され方」によっても異なってくるだろう~と。

認識のされ方の違いは、精神エネルギーの送られ方の違いでもあるからです。

その違いは量子への影響の仕方も違えるだろうと考えられるのです。

+++

これも余談です。

筆者には精神エネルギーの送られ方が、それ特有の影響を与えるらしいと感じた体験があります。
現役時代のことでした。

午前10時頃だったと思いますが、筆者は勤務地の正門を入って仕事場に向かって歩いていました。

すると、突然、強烈な「気」のようなものが、筆者の胸にドシンとぶつかってきました。

その「気」は、暗く重々しく、不快な感じを与えるものでした。

それはものすごいものでしたので、筆者はそれが送られてきたであろう前方を見ました。

すると、ある人物が、さっと歩道の横の建物の方に身を寄せたのが見えました。

筆者が通り過ぎるのをやりすごそうとしているようでした。

その人は、日頃から筆者を快く思っていなくて、接する人々に筆者の悪いイメージを仕事のように言いふらしている人でした。

遠くから歩いてくる筆者を見たその人から、反射的に憎しみを含んだ「気」が発せられたと、筆者は今も解しています。

送られる精神エネルギーのあり方が、それ特有のあり方でもって対象に影響を与えることを認識させてくれた経験です。





<言葉が量子ならば>


話を戻します。

これまでの考察を踏まえて、イエスの言葉もまた量子という実体だといえるかに、考察を進めていこうと思います。

もし量子であるならば、イエスの言葉もまた「信じられる」ことによって、変化するはずです。

「信じる」も、紛れもなき精神エネルギー活動だからです。


+++

次回には、それを考えましょう。

今回は短いのですが、知識の大事なひとかたまりですので、これで区切りといたしましょう。



(「キリスト教の正しい学び方」   第7回   完)









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Vol. 6 「信じれば救われる」の物理的理解に向けて

2016年01月10日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。
今日は、2016年1月10日の日曜日です。

前回と3日ほど間が開きましたが、始めましょう。

+++

先回、イエスが人々に語った教えの一つを述べました。
 
要約すればそれは~

・私(イエス)はこれから殺されるが、その死は、人類の罪の代償になる。

・私のその言葉を信じたものには、それが実現する。

~でした。





<結局「宗教」か>

この話を読んで、期待外れの気持ちを抱かれた読者は多いのではないでしょうか~。

「な~んだ、例のごとく “信じるものは救われる”というのか」

「宗教の常套手段だ」

「いわしの頭も信じれば貴く見えるという」

「そうやって信じさせ、無批判にさせておいて、信者をロボットのように動かし、お金を出させるのだろう」

「キリスト教は違うと思ったが、結局、世の中に沢山あるる宗教と変わりないではないか」

~と。





<対象を明確に打ち出している>


確かに「信じなさい」という部分は同じかもしれません。

けれども、キリスト教の場合、その中身には独特なものがあります。

このあたりに、一歩踏み込んでみましょう。

長くなるので、何回かに分けて考えます

+++

違いの一つは、イエスは約束の言葉を「明確に」発していて、聖書もそれを記録していることです。

そして信じたら「それが実現する」という。

言っていることに「ぼかし」がないのです。


+++

余談ですが、情熱的なクリスチャンは「他にもある」と熱く語るかもしれません。

キリスト教では教祖が「信じよ」といっておいて献金で豪邸に住む、ということをしないよ。

きらびやかな衣装で,信徒の前に登場すると言うこともないよ。

そもそも、信じるもののために教祖が死ぬ、ということなど、他の宗教ではないよ、と。

~もっともなところもありますが、ここまで行くと話が複雑になります。

まずは(信じたら約束の)「言葉が実現する」という点を吟味してみましょう。





<物質とエネルギー>

これには、人の「思い」や「言葉」のエネルギーについて考えねばなりません。

また、そのためには、まず、物質とエネルギーの関係についてみておく必要があります。

少し難しくなりますが、やってみましょう。





<原子と分子>

物質は究極的には、原子というツブツブ物質で出来ていそうだ、という考えがギリシャ哲学の時代からありました。

そして近代になると、実際にもそうであることが明らかになりました。

原子が組み合わさって分子になる。

この分子が、直接には我々の観察する物質を形成しているのだ~と。

+++

たとえば、水素、酸素は原子です。

それら自体は、「気体」になっています。

ところがその水素が二個と、酸素が一個組み合わさると、なんと、水という「液体」になる。

この結合体が分子です。




<原子核と電子>

ところがさらに時代が進むと、その原子が、原子核とその周囲を回る電子でなっていることもわかってきました。

原子核は、陽子と中性子がくっついて成っています。

陽子はプラスの電荷を持ち、中性子はもちません。

他方、電子はマイナスの電荷を持っている。

プラスとマイナスは、互いに引き合っていて、だから、電子は原子核(陽子)の周りを回っている。

~そういうこともわかりました。

+++

電子は原子核の周りを、円軌道を描いて回っています。

その状態は、こういうイメージです。


原子核をサッカーボールだとします。

電子はそこから1キロメートル離れて〈半径1キロメートルで)原子核の周りを回っている。

大きさはピンポン球のようなイメージになります。

原子核と電子の間は、真空でなにもありません。


原子は、スカスカの物質なのです。





<分子は電子を共有した原子で出来ている>


原子がその電子を他の電子と共有すると、二つは結合して分子になります。

一個の酸素原子(O)の電子二個を、水素原子(H)二個が各々一つの電子を共有すると結合します。
そして水という分子になります。

中学校の理科でおなじみのH₂O(2はHの右下の小さい文字になります)というのはそれを表しています。


だから、分子もまた、大半が真空のスカスカの存在なのですね。




<素粒子>

物理学者は陽子や中性子や電子を素粒子(an elementary particle) と総称しました。

「素」は、もとになるもの、「粒子」はつぶつぶの塊、という意味です。

陽子も中性子も電子も素粒子なのです。





<量子力学>

ところがさらに最近になると、それら素粒子は波のように動いていて、波動を発する波動(運動)体でもあるらしいこともわかってきました。

また物質もこれくらいに微少になると、従来考えられなかった不思議な現象をも起こすのでしょうか。

理由はよくわからないのですが、どうも素粒子の波動のような面が、予想されなかった現象を引き起こしているようなのです。


そこで、そのことを発見した物理学者は、これらの素粒子を新しく量子(りょうし:quantum)と呼んでとらえ直すことにしました。

つまり、従来の素粒子を、粒子と波動の集まりとの二つの面を重ね持つ存在と認識して、
新たにそれを量子という名をつけたわけです。

そして、これを探求する学問を量子力学(りょうしりきがく)とした。
また、それ以前の従来の物理学を古典物理学と呼ぶことにしました。


+++

量子力学は発展途上でして、「量子力学を十分にわかっている人はまだいない」ともいわれています。


そういう不完全な状態ながら、量子理論でしか説明できない事象も実際に起きています。

量子コンピューターなどというものが、すでに造られて、カナダで動かされている、という。

それは量子力学の理論で製造したもので、従来の、古典物理学理論をベースにしたスーパーコンピューターの何万倍という速度の計算能力を発揮しているという。

量子力学は単なる、空想理論ではないようなのです。






<「波動体でもあり粒子でもある」とは>


しかし、我々人間には「粒子でもあり波動体でもある」というのが、よくわかりませんね。

我々の五感感覚でイメージしたいものだ。

おそらくそれへの答えとしてでしょう、「超ひも理論」という物理理論が出てきました。

+++

「超ひも」というのは、極微小の輪ゴムのようなイメージです。

輪ゴムが広がったり縮んだりして、波打つように常時運動している、というイメージだ。

動いているとなれば、それは、エネルギー体でもあります。

宇宙にはそういうエネルギー体が充ち満ちている。

それは運動体でありながら、凝集すれば、粒子のような感触を人間に与えるだろう。

そういう風にもイメージすることもできるわけです。


+++

さてこうなりますと量子のイメージは一歩進みます。


つまり、従来の「つぶつぶの超微粒子(従来素粒子とみられてきた)でもあり、同時に波動(運動)体でもある」
というのは2つの性格を並立的に見たイメージです。

超ひも理論は、そういう並立的な見方を超えて「波動体の方が根源である」といいう見方を与えてくれます。

波動体が凝集すると、粒子の感触も与える、というのなら波動体の方が根源ですからね。


+++

そして根源が波動体であれば、それは運動体ですからエネルギーでもあります。

エネルギー波動体といったらいいかな。

これが我々が観察してきた物質の根源であることになります。




<相互変換関係と繋がっている>


余談ですが、この考えは、古典物理学の理論とも適合するところがあるのですよ。

量子力学は、ニュートン物理学もアインシュタイン物理学も古典的理論にしてしまいました。

そのアインシュタイン物理学に「エネルギーと物質は相互変換関係にある」という大発見があります。

アインシュタインは、エネルギーと物質との量的関係を示す数式( E=MC2 ;2はCの右上に来るべき、二乗を示す2) まで見出しました。

これでいくと、1グラムの物質もマグニチュード6の地震を起こすくらいのエネルギーが凝縮してできていることになるそうです。


ちなみに、物質に凝集されたこのエネルギーを解放する技術ができた結果、出現したのが原子爆弾や原子力発電装置です。

ともあれ、この「物質とエネルギーは相互変換関係にある」という法則、これは量子力学の思想と繋がっています。

量子力学では、物質の根源はエネルギーだというのですから。

量子力学は、エネルギーと物質との相互変換関係を否定しないのですね。


<物質はエネルギーの一形態>

ただし、量子力学は、物質とエネルギーを並立的に見るのを超えて、エネルギーをベースにする思想をもっています。

そして、この思想で行くと、エネルギーが変換されて出現する相手は物質に限定されなくなります。

エネルギーは全ての存在の根源なのですから、変化するのは物質以外の存在だっていいわけです。

+++

その思想は「物質はエネルギーの一形態」という言葉も生みました。

その思想で行くと、「アインシュタインはたまたま、物質との関係を見出した」ということになりますよね。






<「思い」や言葉もエネルギーの一形態となれば・・・>


これが「信じる」という行為の物理的効果への道を開きます。

もし「人の思い」や「それを表現している言葉」も、エネルギーの一形態だったらどうでしょうか。

もしそれが言えたらイエスの言う「信じればそのようになる」が、独特の物理学的意味を持つことになrでしょう。

次回には、その話に向けて前進しましょう。




(「キリスト教の正しい学び方」  第6回   完)











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Vol. 5 イエス出現し新しい教えをする

2016年01月05日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ、今日は2016年1月5日です。

「キリスト教の正しい学び方」 第五回を掲載します。

+++

これまで~、

・キリスト教の教典は旧約聖書と新約聖書が合わさって出来ていること。

・旧約聖書は超霊感者に幻や声で示されたメッセージの受信記録であること。

・この霊感者はイスラエル民族の中に周期的に出現したこと。

・送り手は自らを「万物の創造神」と宣言し、霊感者もイスラエル人も、それを信じたこと。

・霊感受信記録の中には、「人間が守るべき律法」が含まれていたこと。

・イスラエル人〈ユダヤ人)は、その塊を取り出し、律法を守って生きる活動をする宗教、ユダヤ教を造ってきたこと。

~などを述べてきました。


今日はそれに続いて、もう一つの教典『新約聖書』をみましょう。

こちらはイエスの教えを中心にして出来ている教典です。





<イエス出現する>


イエスはモーセより1500年ほど後の人です。

モーセに始まる、超霊感者著者〈預言者」)の時代は、紀元前400年頃に終了しました。

最後の予言者著者はマラキでした。

それ以後、霊感受信記録は、空白期間が続きます。

そして400年ほど経った頃、イエスは出現します。

+++

イエスはイスラエル民族の中に生まれました。

当時イスラエルはローマ帝国の属領になっていました。
そこで成人した彼は、30才になると、自らの教えを語り始めました。

イエスの教えも行いも、画期的でした。

そのひとつを挙げてみますと~



     


<行為だけでなく思いも罪だ>

彼もまた、ユダヤ教の教典になっていた旧約聖書を、全知全能にして万物の創造神からの啓示を受信した記録集であるとしました。

その上で教えを述べるのですが、その書物への彼の解釈は未だかつてないものでした。

+++

たとえば、律法について。

それまでユダヤ教の僧侶は、律法を守るというのは、行為のレベルでのものだと、
民に教えてきました。

ところがイエスは、律法は思い〈意識)のレベルまで含めているのだ、と説いた。

たとえば十戒に「姦淫するな」という戒めがあります。

イエスはそれについても

  「女を見て姦淫の情を抱けば、それは、姦淫の行為をしたの同じく、律法に反する罪だ」

~と述べました。






<民族の伝統宗教が茶番になってしまう>

ユダヤ教の高僧や信徒たち〈多くはパリサイ人という中産階級でした)には
これは「あ、そう」では済まされないことですよ。

彼らはそれまで、姦淫の情が内に湧くと、それが行為に繋がらないように、苦闘してきたのですから。

情欲が湧いたら「クッ!」とこらえます。

そうしてたら罪にならず、創造神に呪われることもない、とがんばってきました。

苦行の宗教だったのです。

でも人間は苦行が好きですからね、
結構、こういう宗教は多いですよ。

日本人は特にですけど・・・。




ところが、イエスは、そんな苦行は意味が無いと教えた。

だったら、これまで奮闘努力してきた僧侶や信徒たち〈多くはパリサイ人という中産階級でした)どうなりますか。

茶番を演じてたことになってしまいます。

1000年以上にわたって民族が守ってきた光輝ある国家宗教をなんと心得るか!

ユダヤ教の僧侶たちは、烈火の怒りを抱きました。





<驚異的な奇跡を連発>

上記はイエスの教えの一つにすぎず、彼は他にも数多くの新しい教えを語っています。

主要な説教場所は、エルサレムの神殿の広場でした。

彼は、北の方のガリラヤ地域のナザレという村から首都に出てきて語った。

普通、こういう聞いたことのない教えを、田舎出の青年が語っても、人々は耳を傾けません。

日本で言ったら、青森の田舎から上京した青年が、

靖国神社の境内で参拝に来た人々に新しい教えを叫んでいる、という風景です。

もう全然駄目。

無視されます。

新しい教えというのは、理解が難しいこともありますしね。





ところが、イエスはこれらを教える一方で、すさまじい奇跡〈偉績ともいいます)を連発しました。

彼の教えを聞きについてきた5000人の群衆に、パンと魚を出現させて食べさせる。

湖の嵐を「静まれ!」のひと言で鎮めてしまう。

死人も生き返らせます。

もちろん、病も癒します。

癒やしは、霊感に恵まれた宗教教祖もすることが多いのですが、イエスの癒やしはレベルが違いました。 

盲目者の目は開く、聾唖者の耳や口を開く、足萎えを歩かせる、ライ病は浄める、てんかんは治す、・・・・もう桁外れです。

+++

奇跡というのは、「教えている人の言葉が、人間を超えたレベルから来ているもの」との思いをもたらします。
(イエスを信じる人の間では、教えを真理であると「証拠する」ともいいます)

ユダヤ教の僧侶やパリサイ人たちは旧約聖書を読んでいます。

それに照らすと、イエスのなす偉績は、「創造神からのもの」としか解せないものでした。





一般人の群衆の中から、イエスの教えを受け入れるものも出てきました。

資産家や、ユダヤ教の高僧からも、ひそかにイエスを支援する者も出た。

12人の弟子が、イエスを直接取り巻きました。 
その外側を70人の心酔者が取り巻いた。

イエスは、彼らを引き連れて、宣教旅行をしたのでした。





<救い主とは罪を代償する人だ>

上記の、イエスの教えの話を続けます。

この教えでいくと、現実に罪を犯さない人間などいなくなりますよね。

そしてイエスは「そうだ」といって、こう宣言します~。

「そこで罪のない私が、死んで人間の罪を代償する」

「実際私はこれからユダヤ教高僧たちに殺される」

「そして、それが全人類の罪の代償になると信じたものには、それが実現して救われるんだ」

~こういって、実際にイエスは十字架刑で殺されてしまいました。

+++

彼は、「旧約聖書の預言者たちが幻に見ていた『救い主』とは、実は私のことなのだよ」
とも教えました。

これもユダヤ人には新しい教えでした。

彼らは「救い主」の出現とは、昔のダビデ王のような、戦に連戦連勝をもたらしてくれる王様の再来だと信じていましたから。

そして、この王が、イスラエル国を征服して属国にしているローマ帝国を追い出してくれると固く信じていましたから。




<「永遠の救い」が真の救いなのだよ>

だがイエスはこう教えました~

  ~ローマ帝国政権を追い出したって、人民たちの肉体は百年もすれば死んでいくので、永遠の救いにはならないのだよ。

けれども人間は肉体と霊から成っている。

肉体が死んでも、霊は生前の意識を持った意識体として、身体を抜け出て永続する。

その霊の幸福こそが永遠の幸福だ。
それは、罪があっては実現しない。

その人類の罪を、私は死んで代償する。
そのことを信じたものには、それが、実現する。

それを可能にする存在こそが真の「救い主」で、それが私なのだよ。

~彼はこう教え、実際に殺されてしまいました。

これがイエスの教えと行動の一つでした。


(「キリスト教の正しい学び方」  第5回   完)











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Vol 4. 旧約聖書三つの塊とユダヤ教の生成

2016年01月04日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ、「「キリスト教の正しい学び方」 今日は第四回です。

+++

先回、旧約聖書の幻受信記録には、モーセより前のものと、後のものとがある、とのべました。

モーセには、彼以前の過去の出来事の幻が与えられ、
彼以後の預言者たちにはモーセより未来の出来事の幻が与えられているようでした。

そこでこれらを旧約の聖句の二つの塊、と見ることも出来ます。

だが、その見方で旧約聖書を見ると、じつは、もう一つ塊があることがわかってきます。

それは律法(りっぽう)を述べた聖句グループです。





<律法>

律法とは、「人間が守るべきものとして、創造神が与えるルール」です。

英語ではこれを、現世の法律と同じ用語(law)で示しています。

ところが、日本人は漢字を使うので、法律の前後の漢字をひっくり返して別の用語を造りました。

律法(りっぽう)が、それです。

日本語は便利ですね。

がともあれ、これを旧約メッセージの第三の塊、ととらえることが出来ます。

そうすると、旧約聖書では、都合、次の三つの塊があることになります。


① モーセ以前の過去の幻の受信記録。

② モーセ以後の未来の幻の受信記録。

③ 人間が守るべき律法。





<律法を代表する十の戒め>

律法もまたモーセに与えられています。

それもまたものすごい量です。

モーセに語られた律法は、長い言葉の中に含まれているのですが、それらから独立した律法文を抜き出すと、950くらいになるそうです。

モーセもまた大変だったでしょうね。

+++

だが、モーセにはまた、それらを10の戒めで代表的に示す命令も与えられています。

「モーセの十戒」としてよく知られているのがそれです。

おそらくこれは音声で与えられたでしょう。





十の戒めは次のようになっています。~

    1.創造神以外の神を拝んではならない。

2.偶像を造ってはならない。

3.創造神の名をみだりに唱えてはならない。

4.安息日を守れ。

5.父母を敬え。

6.殺すな。

7.姦淫するな。

8.盗むな。

9.偽証をするな。

10.隣人のものを欲しがるな。




戒めとは創造神の命令ということになります。

もちろん、イスラエルの民は、それを創造神からの命令と信じて受け取りました。

++++


幻の受信記録全般が意味するところを理解するのはイスラエルの民には困難でした。
そうしたなかで、律法の部分は比較的筋が追いやすかった。

そこでイスラエルの民は、この律法の部分を抜き出して、これを守って生きるすべを本気で考え、
実行する道を進みました。






<ユダヤ教が成立する>

そのために、律法文の意味や他の律法文との関連を探求したり、民を導いたりする専門僧侶も育つようにしました。

そしてこの活動が、「ユダヤ教」となり、これがイスラエル民族の民族国家宗教になりました。

ユダヤ教は、現在も、ユダヤ人の宗教として続いています。


(「キリスト教の正しい学び方」  第4回   完)








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Vol. 3 「過去の幻」と「未来の幻」

2016年01月03日 | キリスト教の正しい学び方





旧約聖書のメッセージについていま少し具体的に見ておきましょう。

旧約聖書は、霊感者に送られたメッセージの受信記録だと申しましたが、
そのメッセージは幻と音声によって送られています。

幻とは、現在我々が見る映画やビデオのようなものだと考えたらいいでしょう。

映画は映像と音で出来ています。
音声は、言葉の声でして、おそらく多くは響き渡る声だったでしょう。

超霊感者たちはそれを書き留めた。




<最初の預言者はモーセ>

旧約の最初の著者は、映画『十戒』にも描かれたモーセです。

彼は自らの霊感に受信した幻を言葉に書き留めました。

旧約聖書に収録された最初の書物は『創世記』です。

これに始まる最初の五冊の書物を彼は書いた。
そこでこれらは「モーセ五書」と呼ばれています。

+++

冒頭の書物『創世記』には、万物の創造神が世界をつくった様子が書かれています。

暗闇の中に光が造られ、
天と地、陸と海が造られ、
さらに空を飛ぶ鳥や地上の動物、海中の魚などが造られる。

こうした様子をモーセは書き留めています。

また、有名なアダムとイブの話も書いている。

ノアの時代の大洪水の話も、彼の家族が箱船に入って水の上を漂った話も彼は書いている。

それだけでなく、イスラエル民族の祖とされるアブラハムについても沢山書き留めています。

その他諸々あって、その量は驚異的に膨大です。 

+++

彼はどうしてこんなに多量な情報を書き留めることが出来たでしょうか。

おそらく彼には何人もの祐筆(ゆうひつ:付き添って書面に書く人)が従っていて、
その人たちがモーセの口から出る言葉を文字にしたのでしょう。





人間社会で、飛び抜けて有能な実践リーダーに祐筆が付き添うのは普通のことです。

織田信長も豊臣秀吉もたくさんの手紙を書いていますが、みな祐筆が、彼らの言うことを的確にまとめ、それにふさわしい書体で文章にしています。

二人は最後の部分の署名の下に、花押(かおう)という、今で言う印鑑のようなものを自著しただけです。

秀吉など、尾張の百姓の出で、信長に取り立てられて出世しただけですから、文字などあまり書けなかったはずだ。

なのに、どうして手紙文をあんなに雄壮な達筆で書けたのか、というと、祐筆がいたからとなります。



余談ですが「モーセ五書」には、モーセ自身が死ぬ場面も記されています。

死んでいく人間がどうして自分のことを書けたかと思ってしまいますが、このあたりは、祐筆たちが書き足したのでしょう。





<わかるわけないやないの!>

もう一つ余談を。

こういうことをしっかり踏まえていないと、我々は旧約聖書の聖句を誤って理解しがちになっていきます。
人間の自然の情でそうなるのです。

+++

関西風に言いますと~。

~だけどモーセは紀元前1500年頃の人だというやないの。

大昔の「世界が創造された様子」や、自分が生まれる前のことなど、知れるわけないやないの。

勝手に自分の頭でストーリー造って書いてるにきまってるわ!・・・というようなことになってしまう。

+++

大阪人でなくても、われわれは日常自然の情でそういう感覚になっていきますので、幻受信の論理はしっかり理解しておかねばなりません。

繰り返しますが、モーセは、幻をみたり声を聞いたりして書いています。
(他の預言者も同じです)

その際、送り手は、「自分は万物の創造神だ」といってメッセージを送っています。

モーセもそれを「信じて」受信し、書いている。

送り手が実際に創造神であったかどうかについては後に考えます。

が、とにかく彼は「そう信じて」記録しているのです。




<旧約メッセージの二つの領域>


余談が多くなりました。

今回の本論は次のことです。

モーセ一人が書き残した分だけでも、その情報量は膨大です。

なのに、彼の後につづく預言者20人余の記述をあわせたら、もう目が回るほどの総量になります。

(聖書全体の中で旧約聖書の占めるページ数の割合は、4分の3になります)

加えて霊感受信した中身は多岐多様にわたっています。

こんな情報をそのまま読んでいったら、まるで、ジャングルの中に迷い込んだような状態に我々は陥ってしまうでしょう。

なんとか、それを整理する引き出しのようなものは出来ないものか。

そう思って、鳥瞰し続けていると、一つの区分線のようなものが浮上してきます。




最初の預言者モーセの見せられた幻は、ほとんど自分が生きた時代より昔の「過去の幻」のようです。

対して、彼に続く二十余人の預言者たちは、みな自分より将来の、「未来の幻」を見せられているようです。

(それには、「将来救い主が現れる」という幻もありますが、それについては後に考えます)

いうなれば、モーセは過去の方を向いて幻を見ています。
後継の預言者たちは、未来の方を向いて幻を見ています。

この大枠は、聖書を把握するのに助けになると思われます。



(「キリスト教の正しい学び方」  第3回   完)






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Vol.2  旧約聖書は超霊感受信集

2016年01月02日 | キリスト教の正しい学び方




では、本文を始めますね。




<教典のある宗教>

宗教には、教典のないものと、あるものとがあります。

大きな岩を拝んだり、大木を拝んだりする宗教は通常原始宗教といわれますが、
これなどは教典なしで宗教活動をしています。

+++

われわれ日本人が慣れ親しんでいる神道、これも教典のない宗教です。

神殿を拝むとき、柏手をどう打つか、とか、榊の木をどちら向きに捧げるかとか、
拝礼を何度どのようにするかとかを述べた本はありますが、
これらは教典には入りません。

教典とは、拝む神はどんな神か、どんな属性を持った方か、といった、
神についての理屈を述べたところのある書物です。

こちらの宗教は原始宗教に対比して「高等宗教」といわれることが多いのですが、
筆者はこの呼び方を好みません。

ちなみに、神とは「見えない影響者」と言ったらいいでしょう。
見えなくて意識を持った存在を、霊と言います。
神は見えない意識体なのです。

いずれにせよ、キリスト教はこのうちの「教典のある宗教」です。




<聖書は特異な宗教経典>

さて、世の中に宗教の教典は多々あります。
そのうちで、キリスト教の教典である聖書は、なんともユニークな性格を持っています。

どういうことかというと、通常の教典は教祖が語った教えを記したものです。

豊かな霊感に恵まれた一人の人物が、出現します。
この人が様々な霊的経験をもとに人々に教えを語り、病の癒しも行います。

これが教祖です。

彼の死後、弟子たちがその教えを後世に残そうとして書き残します。
通常、宗教経典はこうして出来上がります。

+++

ところがキリスト教の教典である聖書は、これらとは大きくかけ離れた生い立ちを持っている。

聖書は旧約聖書と新約聖書とからなっています。

まず、旧約聖書についてみますと、著者は20人以上います。

この人たちは、いずれも飛び抜けて霊感に恵まれています。
教祖として自分独自のの宗教を興そうと思えば出来る、超霊感者です。

+++

なのに、みな「万物を創造した神」と自称する存在から送られる幻を、霊感受信して言葉で記録しているのです。

彼らはそれを創造神からのメッセージと信じて、バトンタッチするかのように受信し記録しております。

(これをどう考えたらいいかについては後述します)

+++

記録が作られた期間は紀元前1500年頃から400年頃までの1100年間の長期にわたります。

著者はみなイスラエル人です。

古代イスラエル民族に、そういう超霊感者が1100年にわたって周期的に出たのです。
平均すると50年に一人くらいの割合になるでしょうか。

そしてイスラエル民族もまた、それを創造神からのメッセージ受信記録と信じて、みんなで保存してきたのです。




<超霊感者を預言者という>


旧約聖書の聖句は、この幻の受信記録を基盤にしています。

超霊感者たちは、受けた幻を大枠として、その中に自分が直接見聞できた歴史事実も書いている。

その部分は受信記録そのものではありませんので、全てが霊感受信記録というわけではありませんが、
それも受信記録を大枠として理解され解釈されて書かれていますので、一言では霊感受信記録と言っていいでしょう。

そしてこれら超霊感者たちは預言者(prophet)といわれています。
受けた啓示を「言」葉にして「預」かる「者」という意味です。

ですから今時に言う「予」言者とはちがいます。
こちらはもっぱら先のことを予言する人ですから、混同しないようにすべきです。

+++

なお、正確に言うと、超霊感者の全てが預言者ということにはなりません。
霊感者には、それを言葉にして書き留めることをしない人もいるのです。
アブラハムという人などは、超霊感者そのものですが、彼は受信内容を言葉にしてはおりません。

けれども彼もまた預言者と呼ばれています。
まあ、ざっくり言えばそれでもいいわけです。


(「キリスト教の正しい学び方」 第2回 完)







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Vol.1 戦後日本とヘボン先生の邦訳聖書

2016年01月02日 | キリスト教の正しい学び方





2016年の正月になりました。
読者の皆様、新年おめでとうございます。

本日は1月2日です。
この時節は1つの契機にしか過ぎませんが、これから「キリスト教の正しい学び方」
という連載を始めようと思います。

表題は「正説キリスト教入門」にしようと思いましたが、なにか格式張りすぎた感じがしました。
それは副題に回ってもらって、「キリスト教の正しい学び方~正説キリスト教入門~」といったように考えることにしました。
 
連載と言っても、この現世で起きる事件や悲劇にも無関心でいられない筆者です。
時折(臨時版)を差し挟みながらの連載といたします。




<敗戦時には幼少時>


わたくしは第二次世界大戦の終戦時に、満4才を3ヶ月ほど超えた幼児でした。
それから多少成長してからでしょうか、幼少時より戦後日本の風潮を全身に感じながら暮らしました。

人間は、多かれ少なかれ根無し草感覚で人生を生きています。
だが、戦後日本の大人はその傾向がとびぬけて顕著でした。

+++

太平洋戦争、日中戦争、東南アジア戦線などすべてにおける敗戦で、日本人はそれまでとは逆に「我々は宗教(国家宗教)に騙されてきた」という思いを抱きました。

宗教には、見えないものを信じさせ、人を盲目にし、無反省に人を狂った道に突進させる面があります。

日本の大人は、突然、この面を強烈に自覚し、「・・・宗教はもうごめんだ!」となりました。

この決意が、パン種(イースト菌)となって、戦後日本人の胸の内のパンを膨らませました。
大人たちの心はそれでいっぱいになり、その結果、「今の見える世界」だけに意識を明確に限定して、生きていました。

「人はなぜ存在するか」「どこから来て死後どこに行くのか」などの話題を、本能的に恐怖し回避して暮らしていた。

まあ、それは食糧難で飢えた腹を満たすのに懸命な戦後日本人には、適合した姿勢だったかも知れません。

だが、そうすると意識は顕著に根無し草的になるのです。

筆者も、大人たちのそうした空気の中で幼少期を送り、成長しました。




<政治的に13才>

戦後日本を統治した占領軍総司令部(GHQ)長官のマッカーサーは、明治維新から敗戦までの日本を、こう認識していました~

「西欧文明を素早く学んで富国強兵に成功したにもかかわらず、その政治が独裁制に向かってしまった民族国家」~だと。

彼はこの民族に民主制の精神を根付かせるのが自分の使命、と考え、その姿勢の下に、「日本人は政治的に13才」との名言を発しました。

母国アメリカにキリスト教の宣教師を1500人送るよう要請もしました。

聖書の持つ広大な世界視野と長大な歴史観が、日本人の政治見識を育成するに必須と洞察してのことだったのでしょう。

+++

だが、戦後日本人にはキリスト教も、他宗教と異なることのない「宗教の一つ」でした。

見えない世界を持ち出して人をだまし、狂った道に誘導するものでしかなかった。

筆者もその思いに感染しつつ育ってきました。






<邦訳聖書は既にあった>

けれども、当時、日本には邦訳されたこの宗教の教典がすでにありました。

キリスト教の教典は聖書です。
後述しますが、それは旧約聖書と新約聖書とからなっています。

天才医師、ジェームズ・カーチス・ヘボン(James Curtis Hepburn)が、44才という、人生50年の当時としては老年で、宣教師として、幕末の1859年(安政6年)に来日しました。

ニューヨークでの医院を惜しみなく閉じて、日本人にも聖書を読め本にするという志を抱いて来日したのでした。

彼は72才まで全巻の邦訳に余生を捧げ、1887年(明治20年)に文語文聖書を完成・出版しました。

その後、東京白金の台地に明治学院を創設し、前々から横浜に造ってあった指路(しろ)教会の教会堂を全面改装した。

日本語聖書を完成した後、まるでやり残した仕事に気付いたように、天才的な実業能力でこの二つの事業を行い、1892年(明治25年)77才で祖国に帰りました。

戦後には、彼の作品を口語文にした『口語訳聖書』も造られました。

+++

ヘボン先生には、この書物の日本民族への貢献に関して期するところがありました。

だが、その仕事を受け継いだ日本人の後継者たちは、ヘボン先生の業績をフォローして生かすことは出来ませんでした。

先生の抱いた夢は今もほとんど実現しないままでいます。

かくいう筆者も、先生の創立された学院に40年間働きながら、先生の真意をつかみきることが出来ませんでした。

だが、在任中から、そのフォローを志し、ささやかな努力も続けてきました。

ヘボン先生が翻訳活動に注ぎ込まれたエネルギーに比べたら、筆者の努力など口に出すほどのものでもありませんが、ここにそのささやかなる成果の一端を記してみようと思います。


(「キリスト教の正しい学び方」 第1回 完)








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