津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊

2014-09-16 07:12:44 | 書籍・読書
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 明智氏一族宮城家相伝系図や、熊本の安國寺にある明智系図に依拠した論文ということで、すでにお読みになったご厚誼をいただいている「美濃源氏フォーラム」のH氏からわざわざのご連絡をいただいた。御礼を申し上げ、紀伊国屋のサイトから引用してご紹介申し上げる。

                                            明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊

 

                            明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊
                                        小林正信著
                                        価格¥2,700(本体¥2,500)
                                        里文出版(2014/07発売)


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内容説明

天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊。いわゆる「本能寺の変」で知られる明智光秀の謎は何を意味するのか。本書ではその実像と政変の動機に迫ることで、日本史研究における中世と近世の間に生まれた空白の真実を解き明かす。

目次

序章 三鬼清一郎の学説と「室町幕府奉公衆」(「明智光秀の乱」から「天正十年六月政変」へ;顧みられなかった第一人者の学説;明智光秀と「室町幕府奉公衆」)
第1章 室町幕府と「織田・明智体制」(天下人織田信長と室町幕府;明智光秀の地位について;「織田・明智体制」の成立;足利義昭の出奔と織田政権)
第2章 明智光秀とは誰なのか(明智光秀の出現と信長;明智光秀になった人物;明智光慶と光秀の妹ツマキについて)
第3章 信長の政権構想と「織田・明智体制」の崩壊(将軍権力襲撃事件(将軍御所・本国寺・本能寺)
織田信長の歴史的使命
「織田・徳川同盟」と明智光秀
「山崎の戦い」と室町幕府の滅亡
信長と光秀の十七年間)

著者紹介

小林正信[コバヤシマサノブ] 
1962年愛知県春日井市生。2001年織豊期研究会参加。三鬼清一郎名古屋大学名誉教授に師事。2011年博士(比較社会文化)九州大学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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5 コメント

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Unknown (mino阿弥)
2014-09-17 13:14:16
この書では、津々堂様が以前ご紹介された熊本安国寺所蔵「土岐系図」に見られる進士美作守晴舎について
1.進士美作守晴舎の子が明智光秀である。
2.光秀の妹(晴舎の娘)が足利義輝の側室小侍従である。
3.明智光慶は尾池義辰(足利義輝の遺児)である。
と主張しています。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、明智光綱の妹婿進士山岸勘解由左右門尉信周の次男也と書かれています。
明智光秀と進士山岸家の関わりを強く示唆していますが、インターネット上で調べると進士氏の家紋は、「丸に頭合わせ三つ五三の桐紋」と書かれています。
美濃の進士山岸氏は、はっきりわかりませんが九曜紋、梅鉢紋など数種使用されていたと記憶しています。
上記のような珍しい桐紋は使用していなかったと思います。
非常に良く調べられた研究書だと思いますが
若干、ひっかかるものがあります。
家紋についての疑問と、進士晴舎の「晴」は足利義晴からの偏諱だと理解できますが「舎」は美濃山岸氏では使われたことはありません。
別流の進士氏が美濃山岸氏の猶子、養子となり家督を受け継いだのか、そんな風に考えないと進士美作守晴舎と美濃山岸氏はつながらないような感じがします。

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安国寺土岐系図 (mino阿弥)
2014-09-22 09:15:22
インターネット上に、石川県史資料近世編(13)諸士系譜六「作左衛門 進士祖美作守・・・」という系譜の紹介があり、また安田国継(1556~1597)が進士作左衛門貞連と兄弟であったとすれば、「熊本安国寺土岐系図」の系譜の方が「明智氏一族宮城家相伝系図」より妥当性があると思います。
進士美作守晴舎と明智光秀は、兄弟に相当する年齢となり、晴舎の子進士源十郎藤延が明智光秀とは考えられません。
進士晴舎の生年は不明ですが、晴舎の娘小侍従は足利義輝の側室であり、足利義輝の生没年は、1536~1565年卒。
進士晴舎の生年を、1520年前後と想定。
小侍従は、1540~1545年生と想定し、16才で足利義輝の側室となったと仮定。
晴舎は、永禄の変(1565)で自害。晴舎の推定年齢を45~50才と考えれば、明智光秀の生年1528年とほぼ同年代となり、晴舎の子進士源十郎藤延が明智光秀とは成りえません。
むしろ、進士美作守晴舎を美濃山岸系譜に入れたこと自体、少し不審な点があります。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、晴舎及び信舎という名前は見られません。
「舎」を使用する人物は、「熊本安国寺土岐系図」のみに記載されており、晴舎の子作左衛門の子孫が石川県資料近世編の諸士系譜に記載されているものと推測されます。
「明智光秀の乱」の著者小林正信氏は、おそらく「熊本安国寺土岐系図」をご存じではなかったと思われますが、わずかに判る人物の生没年から推測すれば、進士晴舎の子が明智光秀には成りえないと考えられます。
返信する
mino阿弥様 (津々堂)
2014-09-25 18:46:49
「石川県史資料近世編(13)諸士系譜六」は承知しておりませんでしたので、早速拝見いたしました。
安國寺土岐系図がどの様な意味合いをもつのか、いろんな方々にご研究をいただきたいと考えます。
今後もご教示宜しくお願い致します。
返信する
たびたび、すみません。 (mino阿弥)
2014-10-01 15:10:37
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、明智光秀についての記述は、わずかであり、明智光安について多くの紙面を割いています。
これは、明智光秀について記述したいのではなく斎藤義龍に滅ぼされた明智光安が明智氏の嫡流であり、さらに光安の子光俊(明智光春)の子孫である宮城家について書き残しておきたいという意思を持って書かれた系図書であると考えられます。
その反面、「熊本安国寺土岐系図」は、明智光秀に焦点を合わせているような感じがします。
明智光秀の子晴光を進士輝舎の猶子として山岸家の家嫡とした事。
また晴光は、曾祖父山岸信周没後、出家し玄琳と称し寛永八年六月十三日に妙心寺に於いて亡父光秀や戦死者の法要を執り行い、同月十五日に亡くなったとあります。
山岸信周-進士美作守晴舎-輝舎-晴光(玄琳・実は明智光秀子)
この系図書は、明智光秀と玄琳など、その係累について詳述されており、「明智氏一族宮城家相伝系図書」とは違う意図で書かれていると思われます。
見聞諸家紋に見られる進士氏の家紋は、丸に頭合わせ三つ五三の桐紋ですが、これは足利尊氏が皇室から下賜されたものを、さらに進士氏に下賜したものではないかと推測されます。
進士美作守晴舎の進士家は、足利尊氏創業以来の幕府奉公衆であったと思われますが、美濃の進士山岸氏は、新田義貞の弟脇屋義助とともに美濃根尾谷に落居した加賀大聖寺福田庄の地頭工藤狩野氏の一党であり、当初から南朝方であり足利尊氏に従属した一族ではありません。
このようなことから推測すれば、進士氏と山岸氏は別家であったのではないかとも考えられます。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、進士美作守晴舎、輝舎については一行も書かれておらず、「熊本安国寺土岐系図」のみに書かれています。
少しうがった見方ですが、細川家に対して、永禄の変で滅亡した進士美作守晴舎を系譜に取り入れることにより、明智光秀の出自は代々の幕府奉公衆(明智氏も奉公衆ですが)であり将軍家の側近であることを強調し、足利義昭を追放した信長を討った正当性を肯定させるためのものではなかったかとも考えられます。
明智氏と山岸氏は、代々重縁であるという記述が真実であれば、太平記に出名する山岸新左衛門の子長山遠江守が土岐頼遠の娘婿であるとする系図の主張も、全く荒唐無稽なことではなく、脇屋義助と土岐氏との攻防の折、南朝方の勢力を削ぐため何らかの調略があり、山岸氏を土岐方に返り忠させた事情があったやもしれません。
しかし、「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、「進士は元来氏(うじ)に非ず。職原(官職)の官名也。本苗山岸と称す」と書かれています。
山岸氏の名字の地は、加賀大聖寺近くの山岸という地名に由来すると思われますが、「美濃国諸家系譜」などにも、山岸、進士系図はなく、進士氏と山岸氏の関わりが全く不明であり、謎というほかありません。

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進士氏について。 (ツヨシ)
2016-05-10 23:17:42
はじめて投稿します。
進士氏についてです。
現在の進士氏は静岡県の下田市U+2022掛川市U+2022菊川市や京都府の南丹市、福井県の越前町、三重県の菰野町にまとまった集落があります。
何処も庄屋等の名家でその土地等の伝承があったりします。
静岡県と京都府の進士氏は明智光秀の前に帰農したと推測。
福井県と三重県は明智光秀の後に帰農したと推測しています。
調べてみると何か分かるかもしれません。
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