津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■真夏日の中で

2016-05-23 18:37:03 | 熊本地震

 昨日の熊本は最高気温32℃、今年三回目の真夏日となった。今日も昨日同様の32℃だったらしい。
隠居爺は時間はたっぷりで少しずつ運びだしているが、これが現役の人たちは土日を利用してのことだから、引越し業者がなかなか捕まらない中苦労がおありのようだ。
午前と午後の二回小運搬、暑さの中で荷物運びは少々つらいものが有る。
午後の部は奥方のリクエストで観葉植物を運ぶ。これがやたらと重く、疲労困憊である。余りのきつさに一時間半ほど昼寝をする。

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熊本城顕彰会発行の会誌「熊本城」が届く。巻頭言は熊本市文化財保護委員会委員長の村上豊喜氏の「熊本城再々生への願いをこめて!」である。

明治10年西南の役で焼け落ちた熊本城は、明治22年7月28日の大地震で多くの石垣が甚大な被害を受けた。昭和35年篤志家の寄付を元にして天守閣が鉄筋コンクリート造で復元された。その後宇土櫓の解体修理、西・南大手門の復元その他櫓の復元をへて、熊本城築城400年に当たっては本丸御殿が完成し天下の名城として其の威容を現した。
この度の熊本城の大被害は熊本県民の心に大きな悲しみを与えた。
村上氏はどうやら木造での復元を目指そうと考えて居られるようだ。この不幸な大被害を乗り越えて、清正築城時代の熊本城の素晴らしい姿が蘇るならば、これに過ぎたる喜びはない。何とか健康に留意して完成の姿を拝見したいものだ。

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2 コメント

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絵巻から「国難」に立ち向かう勇気をもらう  (日羅)
2016-05-23 21:04:42
次の記事によれば、竹崎季長公(日羅公の子孫)墓跡も何とか安泰とのこと。他に倒れたまま顧みられないであろう墓跡のように失われる文化財の少なきを祈るばかりです。
心配ばかりするよりも、記事のように文化財に励まされてこその保存かと。展望台としての熊本城ではなく、多くの文化財と共に威容を誇る御城であって欲しく想います。

産経新聞【日曜に書く】絵巻から「国難」に立ち向かう勇気をもらう 論説委員・渡部裕明 
http://www.sankei.com/affairs/print/160522/afr1605220020-c.html
 熊本では地震発生から1カ月を過ぎても揺れは終息せず、多くの人が避難生活を強いられている。つらいニュースを見ながら、4年前にかの地を訪ねたときの光景を思い出した。
 熊本市の南にある宇城(うき)市は、約6万人が暮らす静かな田園都市。その山あい、小川町北海東(きたかいとう)に目指す「竹崎季長(たけざき・すえなが)の墓」はあった。英雄には不似合いの、小さな五輪塔である。
 季長の名を知らなくても、彼が描かせた「蒙古襲来絵詞(えことば)」(宮内庁三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)蔵、全2巻)は教科書でおなじみだ。約750年前に起きた2度のモンゴル来襲(元寇(げんこう))に立ち向かった季長の、実体験に基づいた同時代の絵巻物である。
750年前の蒙古襲来
 名字の通り、季長は肥後国竹崎(宇城市松橋(まつばせ)町)の御家人の家に生まれた。しかし、一族間での所領争いに敗れてしまったらしく、没落した日々を送っていた。そんなとき、鎌倉幕府から蒙古軍の襲来に備えるよう命じられたのだった。
 絵詞は文永11(1274)年10月20日、博多湾に上陸した元・高麗(こうらい)(朝鮮)連合軍約4万を迎え撃とうと勇み立つ季長の姿で始まっている(文永の役)。
 当時、季長は29歳。この戦いで手柄を立てて恩賞にあずかり、所領を回復する意気に燃えていた。とはいえ、目下の立場では郎党も、わずか8人しか組織できていない。
 「弓箭(きゅうせん)(弓矢)の道は先駆けをもって賞とす。ただ駆けよ」
 季長はこう叫んで、蒙古軍に斬り込むしかなかった。勲功第一となる一番駆け(先陣)を狙ったのだ。敵軍の組織立った攻撃に配下が倒れ、あわやの場面もあったが、何とか手柄を立てることができた。
私財を傾けた絵巻作り
 季長は首を長くして、論功行賞を待った。ところが、幕府からはなかなか戦功を認めてもらえない。悩んだあげく、地元の甲佐大明神(こうさだいみょうじん)(上益城郡甲佐町、甲佐神社)の神託を得て、鎌倉まで出向いて訴えることを決意したのだった。
 必死の提訴は幕府の恩賞担当奉行・安達泰盛に聞き届けられ、建治元(1275)年6月、竹崎に近い海東郷の地頭に任じられた。さらに、名馬1頭を与えられる栄誉にも浴した。これらの様子は、彼の人生のハイライトとして、絵詞に詳しく描かれている。
 季長は弘安の役(1281年)でも敵船に斬り込む勲功を挙げ、恩賞を受けた。念願だった、人生の成功者になれたのだ。ところが平穏な暮らしが続く中で、彼は突如として、絵巻制作という一大事業に乗り出した。なぜだろうか。
 絵詞の奥書には、「永仁元(1293)年2月9日」と記され、制作年と考えられている(ただし永仁は8月改元)。というのも、この年は季長にとって、忘れられないできごとがあったからである。
 文永の役の勲功を認めてくれた安達泰盛は弘安8(1285)年に起きた幕府の内紛「霜月(しもつき)騒動」で失脚、殺害されてしまった。それが8年後のこの年、霜月騒動を仕掛けた平頼綱が滅ぼされ、泰盛派の人たちが復権できたのだ。
 老境にさしかかっていた季長がこれを祝賀し、泰盛らへの追悼と報恩の意味を込め、私財を傾けて制作させたのが絵詞だったのではないか。
絵詞から「勇気」を得る
 筆者は季長の墓の現状が気になり、宇城市に問い合わせた。墓は明治に発見され、市の文化財に指定されている。
 「五輪塔の一部がずれましたが、幸い修復できそうです」
 文化財担当者は言った。宇城市も揺れは激しく、死者こそなかったが、避難生活を送る市民も少なくないという。
 平成7年の阪神・淡路大震災以来、日本列島は大地鳴動の時代に入ったようだ。大地震は瞬く間に家を押しつぶし、多くの人命さえ奪う。これには、普段から備えるしかない。揺れの一撃から命を守り、困窮生活を生き抜くことだ。たとえ家財を失っても、生きる場所があれば立て直すこともできる。
 季長だって、そうだった。恩賞目当てとはいえ、肝心の国が滅んでしまっては元も子もない。だから命を賭して戦ったのだ。その結果として蒙古軍を打ち破り、所領も回復できた。
 誇らしい人生と、それをもたらしてくれた恩人への感謝を込めて絵巻をつくり、後世に伝えた。私たちがこの絵巻を目にするとき、襲い来る国難に立ち向かう勇気もわいてくる。(わたなべ ひろあき)
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日羅様 (津々堂)
2016-05-24 19:01:43
貴重な情報を有難う御座い増す。
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