津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「女持不申候者」顛末

2012-07-10 06:57:02 | 歴史

「女持不申候者」というリストがある。結婚適齢期の重臣の子息の名前である。

このことについて二度(1)(2)において記したところだが、どうやら私は見当違いのコメントをしていたようだ。
大日本近世史料・細川家史料(五)を読んでいたら、寛永十年八月十一日書状(1133)の追而書に次のようにあった。
 
   追而申候 此前長岡河内(村上景則)娘縁ニ付申度と申ニ付 其方之者之内女不持者書立給候へと申候
   處 六七人書付給候へ共 其後ハ江戸へ参 又國替ニ取紛やう/\此比存出 右書付之内 松野右京殿
   (正照)之儀申遣候へは はや阿蘇宮神主娘と右京殿被申合由候 左候は此方のを必さし置可申候條被
   申出候ことく いか様ニも可被仕候 此外之書付之者共も 卒度も此方より縁邊之儀申間敷間 いか様ニも
   可被申付候 為念申候 已上

これは三齋の側近長岡河内の娘の縁談をまとめようと、適任者はいないかと探すためのリスト提出の依頼であったらしい。
其のうち松野右京については、阿蘇家と話がまとまったようだからそのように為し、そのほかの者についても縁辺を申し付けることはないというのである。
河内娘の事はどうなったのだろうか。長岡河内は三齋没後八代を離れることになる。娘も父親と行動をともにしたのであろう。
10,000石の河内、娘も100石を頂戴している。光尚の政権下では受け入れられない存在であったのかもしれない。
また松野右京は氏家元高の妹を室とする史料がある。阿蘇神主女はどうなったのだろうか???疑問はまだ残っている。
 

(1)女持不申候者 2008-01-29

寛永九年三月十日付の書状の末尾に「別帋ニ切紙進上仕候、此等之趣、可然様可有披露候(以下略)」とあり、別紙覚書が添えられている。三齋宛忠利の書状であるから、三齋からの依頼に対する返事であろうか。いわゆる独身者の名前を書き出したものである。

 「女持不申候者」
  一、松野右京(正照)
  一、半齋(松野親盛)子・松野長蔵(親治カ)歳廿一
  一、谷 主膳
  一、圖書(藪正成)子・藪右衛門(三右衛門政三カ)歳廿四
  一、左馬允(牧興相)子・牧善太郎(相頼)
  一、藪市正(正直)
  一、右馬助(三淵重政)子・長岡左膳(同之直)歳十九

 明らかに三齋が有力家臣の娘の婿探しをしている事を伺わせる、大変興味深い記録である。過ぎる寛永八年十月、側近の槙嶋云庵女を氏家元高に嫁す事を手配したりしている。
肥後入国直前の話しだが、隠居しても尚こういうことで存在感を示している。


(2)女持不申候者--後日談 2008-01-31

寛永九年三月十日付書状の内「女持不申候者」のリストから、松野右京をはずす旨の書状が、翌十年七月二十一日付(書状案)で発せられている。独身である事は間違い無さそうだが合点が行かぬ話しである。
 同書状の後書きに「尚々、右京殿儀、事之外不辨ニ御座候付而、知行五百石増候へ共、中/\當年なと女房よはれ候儀は調兼可申と、推量仕候(以下略)」とある。肥後入国宿割帳には千石とあり、後の数種の侍帳には千五百石とあるから、五百石の加増がこの時期行われた事が推測される。そんな大身の身である右京が、それでも「女房よばれ候儀は調兼可・・」とは、どう解釈すればいいのだろうか。
 下って八月十三日書状(案)は「松野右京(正照)殿縁邊之儀、先書にも如申上候、右書付上申候内にて御座候、阿蘇之神主(阿蘇惟善=右京とは縁戚関係がある)へハ未不申出候、就其、先度御意之旨、右京殿へ内証ニ而申聞候、被仰出可有御座候間、内々被其意候へと迄申聞候つる・・」とある。「如何致しましょうか、御諚次第にしたいと思います」と三齋に送った忠利の書状であるが、・・・(よく分からん・・?)処で右京さんの奥方は何方なのだろうか、ご存知の方はご示教いただければ幸いである。

 そして、その他の者達(先のリストにあった人達)にも、忠利から「縁邊可申付候」と、結婚を促するような記述が有る。(何故・・どうして・・よく分からん・・?)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 又々、沢村宇右衛門宛書状 | トップ | 熊本敵討実録写本「岩井実記」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿