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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

隈部軍記 - 2 「多久大和降参之事 付 冨田安芸討死之事」

2013-04-16 07:19:53 | 史料

然といへとも成政囲を解されハ、親永ハ且恨且憤り、千悔すれとも甲斐ぞなき、此上ハ是非ニ及ハす、思ふ程戦て討死するより外なしと、老臣冨田安芸宗治・多久大和宗員・小場常陸重実を初、諸士列座ニて評議一決して、明朝城戸を開き打て出、一戦の下ニ成政と雌雄を決すへきにぞ極りける、親永曰、此節の合戦ハ国守に対しての戦なれハ、千ニ一つも勝利を得る事堅(ママ)かるへし、只今父子不和なりし雖(イエドモ)死を共にせすんハ、世の人口後代の恥辱たらむ、此儀心懸りなり、親安か家老有働大隅ハ冨田安芸か婿なれハ、親き者を遣し、大隅に斯と沙汰致すへしと有けれハ、富田安芸畏て同姓兵庫を遣しける、兵庫山鹿ニ着、有働ニ対面致、右の趣を相達す、大隅兵庫を私宅ニ止め置、親安の前ニ出、爾々の趣を相達す、親安の曰、某も斯社(コソ)思へり、今父子義絶すといへとも、義によつてハ止事を得されは也、子として父の討死を余所に見るの法やあるとて、返書を認め、有働ニ渡されける、有働ハ親安の返書に私の状を添、兵庫ニ渡し、大隅か曰、明朝未明ニ城中ニ狼煙を揚け打出玉ふへし、親安は玉章(ママ)寺原に勢を伏せ、成政か陣の後より責戦ハ、一戦の下ニ勝事を得へしとそ申ける、兵庫ハ急き帰て返書をそ達ける、親永大に歓ひ、け様ニ割府を合たる如くにして戦ハ、成政を討ん事掌の中に有とて、夫より先手分を定むへしと小路口よりハ冨田父子切て出へし、後陣に某続くへし、御所小路口より多久大和・小場常陸突て出へしと極め、各持口ニ帰り明日を遅しと待にける。式部大輔親安には陸奥守成政か方より使者を以、足下父子義絶の旨承り候、此度の合戦は隈部家を断絶せんとにはあらす、親永非儀の仁たるにより、誅戮のため出馬せり、足下父子義絶之由承届候、此度某に属し城を御責候ハゝ、隈部領無相違相渡へしと申遣しける、親安ハ願幸と心中相歓ひ、被仰下趣承知仕候、任御差図人数可差出と返答有之、使者を被差返、其趣を父親永の方へ内通し、従弟山鹿彦次郎重安と共に佐々か陣所より川を隔玉正寺原ニ陣を取、相図の時刻をぞ待にけり、爰に親永の家老多久大和宗員つく/\思案しけるハ、此度成政を討取とも、当国を領せられん事ハおもひもよらす、所詮佐々殿に降参いたし、隈部領半分にても賜り後栄を期すへしと、弟須屋源五郎を招き密談し、郎従・与力の者千五百人を引連、成政に降参す、富田安芸此由を相達、親永ハ暫く忙然として云(言ヵ)葉なし、良人の大和、先々誅戮せさりし事の残念さよ、只今残り止る者何程か有、安芸か曰、百八十騎ニハ過不申とそ申ける、親永の曰、嘸(サゾ)足浮て覚らん、乍去係る時節に残り止る者ハ皆金鉄の士也、一騎に千騎をも代ゆへからす、然し諸軍の心をしつむる為、何れも人質を出すへしと有けれは、富田安芸畏候とて、宿所へ帰り妻女を質に出しける、安芸か嫡子飛騨は猶も心元なく、夜廻り致し城中を通りけるニ、母ニ行逢、何方へ越給ふやと尋けれハ、しか/\の由を答らる、飛騨か曰、此儀ニおいては存旨候得ハ、是より御帰り有へし、某本丸へ参り相断可申と母を止メ、親永の前ニ出、父安芸に人質の儀被仰付候由、母罷上居候処、某夜廻仕候道筋、御城内ニて行逢候故、母ハ宿所へ差返候、其故ハ、今宵人質を出し置、明日討死仕とも、富田も多久かことく落度社(コソ)有つらめとも、質を取られ是非なく討死致したりなんどゝ、人口ニ加らん事、尸(屍)の上の恥也、願くハ御赦免可被下と涙をうかべて願ける、親永の曰、是全く汝等か一族疑ふにあらす、城中の者共か心を定んか為也、左程におもなひハゆるすへしと有けれハ、飛騨大ニ歓ひ、母と共に帰り、斯と語りしかば、安芸大ニ怒りて、某壮年の昔より今老年ニ至迄、一事として君命ニ背す、忠臣を戴きて私なし、然るに明日ハ討死致すへき身か、今宵に至り仰を背く事有へからすと、再ひ妻を本丸にそ遣しける、斯て安芸は一族を集て曰、今度の合戦ハ仮令一旦勝利を得るとも国守に対しての軍なれハ、運を開く事有へからす、なましいに命なからへて、多久かことき二心もあらんかと一族評議相決し、翌日城戸を開き打て出る、敵方ニは多久か知らせにて城中の手配こと/\く聞へけれハ、其覚悟にて相待処、富田か一族纔(ワズカ)の人数といへとも、何れも必至と極め、槍を揃へ突掛り、裏へ颯とかけぬけて二段の備へに斬て入、火花散して戦ひける、敵兵数多討取といへども、寄手は大軍、味方は纔の小勢にて一騎も不残討死す、寄手には水野六左衛門勝成、敵を討て高名す 此勝成和泉守定重か嫡、父子義絶して成政に属す 、相続きて小谷又右衛門・松下弥兵衛も高名す

                                          ◆  ◆  ◆

   水野勝成の働きについては、別途「佐々傳記」には次の様にある。

   八月十三日、円通寺口におしよせ戦うに城中より小場太郎左衛門と名乗りて出でけるを水野六左衛門(勝成)懸け合せ、小場を切伏せ首を取る、是を見て
      城中より三人切り出て、水野を中にとりこめけれども勝成屑(ものとも)せず三人ともに弓手馬手に切りふせてしばし息つき居たりけり。

   蛇足
   熊本で藩校サミットが行われた折(平成20年6月)水野家現当主の水野勝之様もご出席になった。その席に小場一族のご子孫JK氏(熊本史談会会員)も
      出席され、しばし敵味方・首を討った者討たれた者のご子孫の顔合わせがあった。恩讐を越えての和やかな出会いであった。 

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