津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「黄金の髑髏」話の出所

2013-04-24 07:16:25 | 徒然

水野勝成つながりの話、勝成の従兄弟に水野清久なる人物がいる。ウィキペディアは次のように紹介している。

水野清久天文13年 (1544)~? 水野忠政の兄弟・水野清重の子。名は正重としても知られている。通称は太郎作、左近。水野忠重の相婿。娘は渡辺重綱の正室。桶狭間の戦いでは一番首の手柄を取る[38]。鷲塚城を築く。三方ヶ原の戦い、長篠の戦いに従軍。高天神城攻めでは勝成の陣代。長久手の合戦では、清久の足軽杉山孫六が、森長可を射殺。渡辺守綱と連署で豊臣秀吉を挑発した逸話もある。関ヶ原の直前、江戸に向かう家康が、長束正家の水口城を挑発しながら通ったときの家臣として名前をみることができる[39]。関ヶ原の戦いでは、家康本陣の鉄砲頭の一人(おそらく勝成と家康の連絡係)。慶長7年(1602年)に1000石を与えられて徳川の旗本になる。のちに徳川頼宣に付けられて紀伊で6千石。水野太郎作家は、紀州藩の五家の一つ。「水野正重画像」は楞厳寺に保存されており、刈谷市指定文化財。寛永18年に提出された水野勝成覚書とともに、従弟水野左近大軸清久の伝記写が提出された。水野正重の遺談「水野左近働覚」[40]。無銘大磨上(名物太郎作正宗)は、正重から徳川秀忠に献上。徳川家光の代に家光の養女大姫(徳川頼房息女、前田光高室)が前田家に輿入れするに持参し、以後前田家に伝来する。

ここにある「水野清久働覚」と同様の内容と思われる文書が、宮村典太の雑撰録・巻17に「水野清久覚書」として存在している。(未見)
勝成覚書の読み下しを終わったら、こちらも読んでみたいと思っているのだが・・・・・・・・
大変興味深く思っているのは、[40]の注を見ると「 織田信長がやった黄金の髑髏の逸話は、これに書かれている。」とある。
ウィキペディアに又々お世話に成ると、「髑髏杯」については次のように記している。

天正二年(1574年)1月1日、織田信長が、前年討ち取った浅井久政長政及び朝倉義景の髑髏にを塗ったものを馬廻衆との宴に披露したと『信長公記』にあるが、『浅井三代記』ではこれらの髑髏を杯にしたとある。

漆か黄金かもさることながら、水野左近働覚から引用したとするのは信長公記の編年などを考え合わせると、首をひねりたくなるのだが・・・如何。
ご教示たまわれば幸いである。 

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