津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興外孫・稲葉彦四郎様小倉に遊ぶ

2008-08-18 09:10:26 | 歴史
 寛永七年(1630)四月七日、稲葉彦四郎なる人が小倉に入った。「彦四郎様、今日被成御着船候事」と「日帳」は記す。稲葉彦四郎とは、忠興女・多羅(多良・豊後臼杵城主・稲葉民部少輔一通室)の息・信通である。
忠利とは伯父・甥の間柄である。
               ja.wikipedia.org/wiki/稲葉信通

 慶長十三年(1608)の生まれであるから、当時23歳、まだ家督には至っていない。忠利の甥に対する深い心遣いが感じられる。

■四月八日
  ・今朝於本丸、彦四郎様被成御振舞、諸侍衆何茂長袴にて被相詰候事
  (台所備品がいろいろ調えられると共に、生肴の納入などが指示されている)
■四月九日 
  ・彦四郎様を、今朝御本丸にて、被成御振舞被成候也
  ・今晩 殿様(忠利)・彦四郎様、監物殿(米田是季)へ御成候也
■四月十日
  ・今朝ハ北ノ御丸にて、彦四郎様を御数寄被成候事
  ・彦四郎様御同道にて、長池へ御慰二被成御座候也
  (前日幕の引き回しや、畳替えなどが急遽行われている)
■四月十二日
  ・彦四郎様、今朝御本丸にて被成御振舞被成候事
  ・今晩、彦四郎様被成御同道候而、備前殿(小笠原長元)御成候事
■四月十五日
  ・昼より、彦四郎様被成御同道候而、さヽいぜ二御舟にて御慰二被成御座候、それより、東御花畠
   ノ様ニ被成御座候、彦四郎様より、殿様を被成御振舞候事
■四月十八日
  ・竹ノ子十本、 彦四郎様御やとにて御膳御上り被成候間、御料理のため二、御掃除の者に持
   せ遣、小堀長左衛門尉ニ渡させ候也
  ・今晩 彦四郎様被成御同道候而、清田七助(乗栄)所へ御成候也
■四月十九日
  ・今朝八つ時分より、彦四郎様被成御同道、西ノ御茶やへ被成御座、彼地にて夕御膳上ル、酉之
   下刻ニ被成御帰城候事
■四月廿日
  ・今晩氏家志摩守(元高)殿へ御成候也、但、彦四郎様御同道也
■四月廿一日
  ・彦四郎様御馬之血を可被成御取せ候間、白楽可申付由ニ御座候、則上田忠左衛門をよひ、此段
   申渡候、忠左衛門を則遣候也
  ・彦四郎様御やとへ笋(竹の子)拾本上候(略)
■四月廿二日
   彦四郎様御同道にて内匠(朽木昭知)殿へ御成候也
■四月廿九日
   (忠利演能)
■四月晦日
  ・彦四郎様、今朝御本丸にて被成御振舞候也
  ・今晩、薮図書(正成)所へ 彦四郎様被成御同心(ママ)、御成候也

 ここで寛永七年の「日帳」は、五月分が途切れている。六月に入ってから、彦四郎殿に関する消息は見えないところを見ると、五月の内に小倉を離れたのであろう。それにしても、忠利の熱の入った饗応ぶりに驚かされる。
 彦四郎の母(忠利・妹)はこの時期既にない。慶長十九年豊後杵築で亡くなっている。27歳。彦四郎七歳の時である。そんな彦四郎が、忠利にとって大変いとおしく思えたのだろう。
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