竹原玄路による細川重賢像、またどてら姿の重賢像も玄路の筆によるものである。
名は玄路、一名惟親、勘十郎と称し、紫海また廣陵と号す、致仕して穀齋と称せり、禄四百五
十石御用人となれり、堀氏を進めて改正の業を為さしめ、其名高し、寛政六年十一月九日
没す。年七十五、往生院に葬る、
一、竹原氏先祖阿蘇の分流にて阿蘇家に仕ふ、阿蘇郡竹原村居住に付竹原氏に改、竹原下総守惟政侍頭
役 相良と合戦の時、嫡子甚五左衛門惟房と同戦死、惟房子上総守宗守島津氏に仕、其子市蔵惟成幽齋
公に仕、二百五十石、其子金左衛門惟英、三代荘左衛門惟尹、四代勘十郎惟秋、五代市蔵惟重、六代勘
十郎玄路なり、始惟親と云、實は小野某弟にて、元文五年七月養子に奉願、同年十一月家督御番方、寛
延四年二月御側御取次、寶暦六年十一月御足共に四百石高御用人、同八年十一月御足三百石増下さ
る、明和八年二月御足百石増下さる、中着座同列、安永四年十二月御足の内二百石地方に直下さる、
天明五年二月上着座同列、同六年十月老衰仕候に付御断の處、御足二百石下され御番等御免、悉
皆分職受持、寛政二年八月御足五百石、都合千五百石高、御留守居大頭同列、同六年七月隠居、五
十人扶持下さる、同年十一月病死、都合五十五年の勤なり、七代東彌實は市蔵實子なり、御雇にて
御取次助役、御留守居助役、御近習御次組脇等、数十年相勤、寛政六年七月家督、御用人、中着
座、八代雄助、比着座、九代九左衛門、實は橋本源吉三男、四百石拝領、御鐡炮頭、犬追物騎射
師役、御中小姓頭、御小姓頭、五十石御加増、十代東彌 初平八、惟路と改む、八左衛門 騎射犬追物師役、御物奉行
兼 諸家先祖附
一、君(重賢)御家継せ玉ひし初、いかでかさるべき者を得て、家中の仕置をも任せてんやと思ひ煩ひ玉ひける比
竹原勘十郎玄路と云ける者ありけるが、堀平太左衛門勝名こそ、其任に叶っふべき者と覺候、疾に厚
禄を與て擧用玉へと進む、君も内々は今一人の方に御心を引れおはせしに、玄路強く執し申し侍る
は、中略 御気色損して奥に入んとし玉ふに、御袖を引へて、尚も諫奉し事三度に及ければ、終に玄路
が申旨に任せて、大奉行と云職になし政事を任せ玉ひしより、年月につれて其勲顕れ、誉ある國
となれり、是等をや管仲が鮑叔と云べき、此玄路が先祖竹原惟政迄は阿蘇の家人なり、文略 曾孫市蔵
惟成 幽齋公に仕へ、歌道并書禮式をも傳玉ひ、弓馬の故實を武田氏より受傳、所領二百五十石、夫よ
り道をも禄をも傳へ、此玄路迄六代に及べり、略文 玄路家の道は云に及ばず、才學ありて多蓺の者な
りければ、君の御時用人に成され玉ひ、勤しこと四十餘年、賢を進て上賞を被ると云、本文によらば
他に異なる加禄をもあるべきに、役料こそ千石にも満つれ、所領は僅二百石を加て、四百五十石のみ
にして、君の有ける世を過るは、如何なる故ならんと、いぶかる者も有しかど、始堀勝名を勧めける
時、玄路申つる子細有て後迄加禄は辞退申したりとぞ、其人猶今も職にあり、委くは記さず 銀䑓遺事
つづく
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