SHIKIBUさんのブログ 別館

iPhoneアプリ開発者のSHIKIBUさんが、歴史・文化・オカルトその他の雑学をいろいろ呟きます

【1月1日は】かつて暦(こよみ)は神聖なものだった?暦(こよみ)に関する意外な雑学【既に過ぎておりますが…】

2017-01-26 07:34:34 | 歴史

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(担当S)

 
■「1月1日 = 1年の始めの日」に決めたのは誰?
[写真]シーザーの彫像
 西洋式のカレンダーを導入している国は1月1日を1年の始まりの日にしていますけど、よくよく考えたらこれは不思議な話です。
 もっとあったかい季節、例えば春先を1年の始まりの日に制定して1月1日にしても良かった訳ですし、欧米なんかの入学シーズンに当たる秋口を1年の始まりの日に制定しても良かった訳です。
 これを現在の真冬の最中の1月1日を新しい年のスタートとして定めたのは、かの有名なローマの英雄、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)でした。
 当時のローマでは「ヌマ暦」と言う暦(こよみ)が使われていたのですけど、様々な諸事情により、実際の季節と暦(こよみ)の上での季節の間に、大きなズレが生じていました。
 これを何とかしようと思ったユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、古代エジプトの暦(こよみ)を参考にして、1年を365日、閏年は4年に1回と言う、現在の我々が知るカレンダーに近い暦(こよみ)を作りだします。
 紀元前45年に、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が作った暦(こよみ)がローマの新しい暦(こよみ)として正式に採用されますが、真冬の最中の寒い日を新しい年のスタートにした(※つまり1月1日の事)のは、この時でした。
 その後、1,600年以上も西洋ではこの暦(こよみ)が使われる事になりますが、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が作ったことから「ユリウス暦」と言う名前が付いています。
 
 
■現在のカレンダーを作りだしたのは、ローマ法皇だった?
[写真]グレゴリオ13世
 ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が作った「ユリウス暦」は、当時としては精度の高い暦(こよみ)だったのですが、流石に1,600年近くも使うと実際の季節と、暦(こよみ)の上での季節の間に僅かなズレが生じて来ました。
 どうしてズレが生じてしまったかと言うと、「ユリウス暦」での1年の長さが365.25日だったの対して、実際の1年の長さは365.24219日だからです。
 ほんの僅かの差ですが、この僅かな差が1,600年も蓄積されると、当時のカレンダーでの春分の日が、実際の春分が起こる日よりも10日も後にズレてしまいました。
 キリスト教では春分の日を、重大な祭日である復活祭の日に定めているので、こんなにズレては一大事です。
 そこで16世紀後半にローマン・カトリックの法皇であるグレゴリオ13世が、当時の天文学者らの意見を聞き入れながら現在のカレンダーの基となる「グレゴリオ歴」を制定します。
 先に紹介した「ユリウス歴」もそうなんですが、暦(こよみ)には時の最高権力者や神職の最高位に就く者が大きく関わっています。
 
 
■東洋での暦(こよみ)と権力者の関係
[写真]水運儀象台
 これまでの話で、西洋では暦(こよみ)と権力者や宗教の間には切っても切れない関係がありましたけど、東洋ではどうだったのでしょうか?
 実は東洋でも、事情は似たようなモノでした。
 古代中国の王朝は日食などの天体現象を不吉なものと捉えていて、日食の正確な予測を行う事が重要視されていたのですが、なんとかして日食の予測を行おうと色々と試行錯誤した結果、西洋とは異なる独自の高度な暦{こよみ)の知識が蓄積されていきました。
 既に三国時代の3世紀頃には「景初暦(けいしょれき)」と言う暦(こよみ)を使って、高度な日食予報を行っていました。
 更に時代が下って11世紀になると、世界初の天文時計まで作りだして天体の動きを監視するようになります。
 10世紀から12世紀にかけて栄えた宋王朝(北宋)は、首都の開封(かいほう)の宮殿に「水運儀象台」と呼ばれる巨大な天文時計を設置し、夜な夜な天体観測を行っていました。
 天文時計である「水運儀象台」は、当時の天文学の知識では予測できなかった彗星(※当時は「妖星」と呼んでいた)の出現をいち早く知る為に、非常に有効に使われていたと言われています。
 当時の人々は、彗星の出現は何か不吉な事が起こる前兆だと信じていたので、宮殿での天体観測で発見された彗星が、政治にも悪影響を与えていると判断された場合には、元号を「改元」して厄払いをしていました(※ハレー彗星が出現した1097年に宋の王朝内で政治的混乱があった事から、その翌年に元号が 紹聖→元符 へ「改元」される)。
 ちなみに中国では、清王朝が倒れる1911年まで、暦(こよみ)には日本のような元号が使われていました。
 中国の王朝では、皇帝は天の命を受け国を治めているとされていたので、その天(と言うか神様)に最も近い皇帝だけが、「改元」などの暦(こよみ)を変える特権を持っていました。
 
 
■それでは、日本における暦(こよみ)の立ち位置は?
[写真]神嘗祭での今上帝
 日本の暦(こよみ)は、飛鳥時代に遣隋使・遣唐使を派遣して、古代中国の知識や文化を吸収した事から、当時の中国文化の影響を強く受けています。
 平安時代から江戸時代初期まで、823年もの長きに渡って日本で使われた暦(こよみ)である「宣明暦(せんみょうれき)」は、中国から輸入されたものでした。
 江戸時代に入ると「宣明暦(せんみょうれき)」に、実際の季節変化と比べて2日ほどのズレが生じていたので、時の徳川幕府が「天文方」と言う役所を設けて改暦を行おうとしますが、当時の日本では、暦(こよみ)の改暦は朝廷のみが許されていた神聖不可侵な分野だったので、迂闊には手が出せませんでした。
 そこで徳川幕府は、1685年に「貞享暦(じょうきょうれき)」へと改暦した際に、この神聖不可侵な分野に幕府が触れていると思われないようにアレやコレやと手を打って、朝廷に対してとても気を使ったと言う記録が残されています。
 明治の文明開化が起こるまで、暦(こよみ)については天皇陛下が持つ大権の一つとされてきました。
 元号に関しては今でも天皇陛下と宮内庁が決める特権を持っていますが、明治以前は何か良くないことが起こると度々、元号が変えられてきました。
 今とは違って元号に一世一元の制約がなかったので、例えば夜空に不吉な事の前兆とされる彗星が現れたりしたら、今上帝が在命していても厄払いの為に元号を変えたりしていました。
 989年のハレー彗星大接近の時は、"妖星"(※彗星の事)が現れたと言う理由から、元号が永延から永祚へ改められています。
 古来より日本には、天照大神や月読命(つくよみ)などの神話にもあるように太陽神信仰があったので、太陽や月などの天体の運行から割り出される暦(こよみ)について、"権利の方"は天照大神の子孫とされる皇室が、"知識の方"は朝廷の陰陽師が、それぞれ独占していました。
 権利と知識を独占したと言っても、正確な暦(こよみ)の知識は稲作などの農業に対して必要不可欠なモノだったので、知識の出し惜しみをせずに農民達をサポートしました。そのせいか、今でも皇室は稲作と深いつながりがあります。
 毎年、神嘗祭で天皇陛下が初穂を天照大神に奉納するのも、この辺りの歴史的経緯と無関係ではないでしょう。
 昔は今とは違って、下々の民はカレンダーとかを持っていませんでしたから、当然、暦(こよみ)の知識なんかも持っていませんでした。
 そこに暦(こよみ)に対する深い知識を持ち、田植えの時期を正確に把握している権力者が現れたら、まるで神様のように敬われたとしても不思議ではありません。
 戦前から戦争中にかけて天皇陛下の別称として使用され、戦争が終わってからは「軍国主義を連想させる」として忌避されるようになってしまった「現人神(あらひとがみ)」と言う言葉も、ひょっとしたら現代人が考えるほど深い意味なんかはなくて、古代の農民達が田植えの時期を教えてくれる、とても有り難い朝廷の最高権力者への感謝の気持ちから「現人神(あらひとがみ)」と呼んでいただけなのかもしれません。
 そもそも「現人神(あらひとがみ)」と言う呼称は、その昔は神霊と一体化したとされる神官などにも使われる事があり、天皇陛下だけが特別扱いされて、そう呼ばれた訳じゃないんですけどね…
 
 
 
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風船のゲームを作ったので、今回は風船や気球の歴史について

2017-01-26 07:33:05 | 歴史
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(担当S)
 
■知ってるようで知らない風船の歴史について。
 

 寒くなってきましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?ブログ担当の担当Sです。

 担当Sは寒いのが大嫌いなので既に風邪気味です。担当Sは大阪育ちですが出身は東京で、両親とも東北の人間ですから、本来は寒いのには強いはずなんですけど、きっと自分の先祖はきっと南国に住んでいたと信じて疑わない位に寒いのが苦手です。
 ああ、夏の日の西日が恋しい…
 と、どうでもいい話は置いておいて、今回の話題は風船の歴史についてです。風船と言うと普通、ゴム風船を連想しますが、ゴム風船のみについての話だと歴史が浅い上に話がとても薄くなってしまうので、気球も風船の一種類として話を進めていきます。
 さて風船と一言に言っても中に詰めるガスの種類によって、性質は大きく異なります。よく販促活動の一環として街で配られている風船は宙を舞いますが、あれは空気よりも軽いガスが風船に詰められているからですね。
 担当Sは子供の頃、駄菓子屋で売っているゴム風船を膨らましては「どうして浮かへんねやろ?」と疑問に思ったものですが、風船の中に空気(担当Sの息)を幾ら詰めても比重の関係で宙に浮かんだりはしません。
 風船を宙に浮かすには風船の中に空気よりも軽いガスを詰めればいいのですが、ぶっちゃけそのガスはなんであっても構いません。
 熱した空気は普通の空気よりも軽いので、それを風船の中に詰める事ができれば宙に浮かす事が出来ます。
 熱気球はそういう原理で空に浮かんでいます。
 学校で熱気球を発明したのはフランスのモンゴルフィエ兄弟で1783年と習ったと思いますが、それは人間や動物を乗せた熱気球の事であって、無人の熱気球なら太古から存在します。
 無人の熱気球が歴史に登場するのは3世紀頃で、三国志で有名な諸葛孔明が発明した「天灯」が史上初の熱気球とされています。
 写真がその「天灯」です。熱気球と言っても、そんなに大きなものではなく、サイズも街頭で配られているようなヘリウムガスを詰めた風船と大差ありません。
 夜中なのに「天灯」が明るく輝いているのは、「天灯」の下で油を染みこませた紙を燃やしているせいで、構造的にも原理的にも人が乗るような熱気球と全く一緒です。
 先に「天灯」の発明者を諸葛孔明だと書きましたけども、本当のところは誰が発明者なのかはハッキリしてません。
 諸葛孔明が古代中国を代表する戦術家・戦略家だったので、だんだんと話に色々と尾ひれがついて、孔明が発明したんだという説が現在に伝わっているだけのような気がします。
 ですけど少なくても3世紀の頃のアジアに「天灯」のような熱気球が存在していたと言うのは確かなようです。この「天灯」は中国以外にもアジア全般に広く普及しており、タイのチェンマイで開かれるコムローイ祭では沢山の「天灯」を空に放つ光景を目にすることができます。
 さて時は進んで18世紀。当時、世界でもっとも科学が進んでいたヨーロッパで水を化学的に分離させる方法が発見されました。水を化学的に分離させるとどうなるかと言うと、水素と酸素に分かれるんですね。
 水素は自然界ではもっとも軽い元素なので、これを気球に詰めれば宙に浮きます。当時のヨーロッパの人達はいち早くこの事実に気がついて、さっそく人が乗れる水素ガス気球が発明されます。
 世界初の水素ガス気球はフランスのジャック・シャルルが発明しました。1783年の事になります。同年に初の有人飛行に成功しますが、当時の技術では行き先は風まかせ運まかせで、とてもじゃないですが実用的な乗り物とは言えませんでした。
 その後も水素ガス気球にエンジンなどをつけるなどして改良が進んでいきますが、気球と言う乗り物が本格的な実用性を備えるには1900年まで待たなければなりませんでした。
 1900年にツェッペリン伯爵によって開発された飛行船LZ1(写真を参照のこと)こそが空の旅に革命を起こした飛行船で、20世紀前半に空の旅を席巻した旅客用巨大飛行船の原型となるものでした。
 あの有名なヒンデンブルグ号の爆発事故が起きるまでは、空の国際長距離線の主役はツェッペリン飛行船だったと言っても過言ではないでしょう。
 飛行船LZ1の何が画期的だったかというと、それまでのグンニャリした気球の構造を捨てて金属で骨組み作り、金属製の強固な船体の内部にガス嚢と呼ばれている部分を設けて、そこに水素ガスを詰めたて空を飛んだ事です。
 こうする事によって、従来の気球や飛行船にない操縦性をLZ1は手に入れる事が出来ました。こうして飛行船は真に旅客を運べる手段として進化したわけです。
 ジャンボジェットや、それよりも大きいエアバスのA380が、世界中の空を飛び回っている現代の感覚では、飛行船などは古色蒼然とした乗り物にしか見えませんが、当時としてはオーパーツと呼んでもいいほど画期的な、空を移動する手段でした。
 このツェッペリン飛行船と当時の飛行機を比較すると、当時の飛行機は非常に原始的でした。当時の飛行機はなんとか空を飛べる程度の乗り物であって、墜落して命を落とす危険性も非常に高かったのです。
 そんな原始的な乗り物だった飛行機ですが、時代が進むにつれ少しづつ改良されていきます。それでも戦前の飛行機では、本格的な旅客輸送などは夢のまた夢でした。
 戦前のアメリカで作られた旅客機にDC-3というものがあります。近代的な旅客機の先駆けであり、名旅客機と言われているDC-3ですが、この名旅客機でも一度のフライトで運べる人数は、無理矢理詰め込んで34人(内パイロット2名)が限界で、飛行距離に至ってはとてもじゃないですが国際便に使えるような代物ではありませんでした。
 DC-3が現れた頃に長距離を飛ぶ旅客機はあるにはありましたが、そう言う長距離を飛ぶ飛行機は一部の例外を除き、殆どの場合、飛行艇と呼ばれる飛行機が使われていました。飛行艇とは海に着水する事ができる飛行機で、半分飛行機・半分船みたいな構造をしています。
 どうしてこんな特殊な構造の飛行機を、長距離の路線で使っていたのかというと、当時の技術で大西洋や太平洋を横断しようとすれば、必ずどこかで燃料を補給しなければなりませんでした。しかも一回だけでなく複数回、燃料の補給が必要でした。
 ですが、その燃料を補給する場所と言うのが、例外なく海に浮かぶ孤島で、当時は現代のように航空網なんかは発達してませんから、そんな海の孤島には当然ながら空港なんかもありませんでした。
 しかし飛行艇は半分船みたいな構造をしていますから、そのまま何の工夫をせずとも海に降りられます。燃料の補給を行う孤島に空港がなくても、飛行艇を使えば大きな問題にはなりませんでした。
 話が少し脱線しますが、日本でも戦後しばらくの間は、空港などのインフラが整備されるまで、飛行艇が全国各地で活躍していたようです。
 大阪なんかでも、八尾空港から和歌山の白浜へ向かって、飛行艇が定期便として飛んでいたと言う話を聞いたことがあります。当時はそれなりに、飛行艇のような特殊な飛行機にも需要があったようです。
 話を元に戻しますが、当時使われていた飛行艇は、一回の燃料補給で飛べる距離が限られていました。大西洋や太平洋を渡る際には、燃料を補給しつつ孤島と孤島の間を飛び石で飛んでいきます。離陸したら降りて燃料補給、そして離陸したまた降りて燃料補給…を何回も繰り返すわけです。そんな事をしてたら当然、目的地までの移動には時間がかかります。
 旅客用の飛行艇として最も有名だと言われているのがマーチンM130と言う飛行艇なのですが、このマーチンM130がアメリカからフィリピンまでの定期路線を飛ぶ際に、4泊5日もかけて飛んだと言う記録が残ってます。当時の空の旅は、現代よりもはるかに大変だったみたいです。
 さて話をツェッペリン飛行船に戻しますが、ツェッペリン飛行船はそんな時代にあって、大西洋や太平洋を横断するのに、燃料補給の為に地面に降りたりする必要もなく、しかも当時の飛行機と比べると格段に安全に目的地まで直行できる、唯一の手段でした。そう言う事もあって国際航路では、空の旅客輸送の主役として君臨していたのです。
 もう一つ、当時の飛行機にはなかった利点として、飛行船は沢山の人数を乗せることが出来ました。
 かの有名なヒンデンブルグ号は、乗員乗客合わせて最大で133人を乗せる事が可能でした。
 今の基準で見れば、中型旅客機の乗客数程度ですけども、当時としては画期的で、たとえば先に紹介したDC-3が最大34人、国際航路を飛んでいた大型飛行艇のマーチンM130でも、乗員乗客合わせて47人しか乗せられませんでした。それらに比べると正にオーパーツとも言えるような定員を、ヒンデンブルグ号は一度のフライトで運ぶことができました。
 当然のことながら、当時の旅客機が、ツェッペリン飛行船のライバルになるとかはありえず、ツェッペリン飛行船にとっての最大のライバルは当時、最盛期を迎えていた大西洋航路の旅客船でした。
 最大定員で飛行船は旅客船に負けるものの、所要時間は旅客船の一週間前後に対して僅か2~3日と比較にならないほど早く、十分に競争が成立する条件が揃っていました。
 こうして黄金期を迎えた飛行船による大西洋航路の旅客輸送ですが、ヒンデンブルグ号の爆発事故によってあっけなく幕を閉じます。
 ヒンデンブルグ号の爆発事故以後、大西洋航路から巨大飛行船による旅客輸送は姿を消しました。
 よく飛行船による旅客輸送は、このヒンデンブルグ号の爆発事件が決定的な要因となって幕を閉じたと言われますが、担当Sはそれは半分正解で半分間違いだと思います。
 ヒンデンブルグ号が爆発事故を起こした1937年は既に世界情勢がキナ臭くなっており、世界大戦の影もちらほら見えている頃でした。二年後の1939年には、第二次世界大戦が勃発するきっかけとなったドイツによるポーランド侵攻が起きてますから、世界情勢がかなり不安定な時期でした。
 もし仮に、ドイツのツェッペリンが2年か3年くらいの時間を費やし飛行船の信用回復に全力を傾け、その努力が実ったとしても、信用を回復した頃には世界大戦が既に始まっており、大型の旅客用飛行船が以前のように優雅に飛び回れるような状況ではなくなっていたと思います。
 ちなみに、この大戦中に飛行機の性能は劇的に向上し、戦後に出現したプロペラ旅客機のDC-4やロッキードコンステレーションは戦前のツェッペリン飛行船と性能面で遜色がなくなっていました。経済性においてはツェッペリン飛行船と比較するのが馬鹿馬鹿しいと感じられれるほどに優れており、飛行船が出る幕は既になくなっていました。
 これらの戦後に現れた旅客機が、ツェッペリン飛行船と比べて唯一劣っていたのは一回のフライトで運べる定員の数ですが、DC-4もロッキードコンステレーションもツェッペリン飛行船より遥かに速度が速かったため、その速い足を生かし同じ航路を何回か往復して沢山の旅客を運べばよかったので、殆ど問題になりませんでした。
 これで風船にまつわる歴史についての話は終わりです。古代の熱気球「天灯」から近代のツェッペリン飛行船まで話が及びましたがいかがだったでしょうか?
 ゴム風船の歴史に全く触れなかったので一応すこしだけ触れておきますが、現代的なゴム風船の原型は1847年にJ・G・イングラム社によって開発されたらしいです(余り興味がないので適当)。
 それではまた次回、会いましょう。
 


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