レナード・ムロディナウ『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』を読む。
この本は世の人々が「常識」とか「必然」と、なんとなく思いこんでいることを、確率と統計を使って冷静に、
「いや、それはすべて『たまたま』の偶然です」
と分析していくもの。
一読すると、世界がいかに
「必然のように見える偶然」
というものに支配されているかが見えてきて、目からウロコが落ちます。
人はだれかが成功したり、失敗したりすることに、どうしても「法則」を見い出しがちだ。
曰く、
「常に険しい道を行くから成功するのだ」
「勝つ者はリスクをおそれないのだ」
「彼は生まれながらに『持っている』のだ」
ちがいます。
これすべて「偶然」の出来事なのです。
資産家が巨額の富を築くのも、ハリウッドの映画が全米大ヒットするのも、ある本がベストセラーになるのも。
それは決して、
「茨の道を選択するから」
「リスクをおそれない」
「持っている」
からではなく、下手すると
「すぐれたコンテンツだから」
ですらない。
これすべて「たまたま」。
織田信長が桶狭間で勝てたのも、戦後の日本が経済大国になれたのも、世にはびこる
「成功の法則」
というのはすべてこれ運であり、それを語るのは
「後づけの結果論」
そのことをレナード・ムロディナウは冷徹に精査していく。
実際、ハリウッド映画のプロデューサーは、当たる映画、ハズれる映画を、まったく予期できないという。
そこには、ランダムネスの介入する要素が大きすぎて、とても法則化などできないからだ。
同じくベストセラーもそう。
世界的に売れた本と言えば『アンネの日記』があげられるが、これは元々出版社にボツを食らいまくっていた原稿だったのは有名な話。
売れたのには理由はなく、「たまたま」売れただけのこと。
あえていえば、
「売れた本だから、そのままさらに売れた」
それだけのこと。
もちろん『アンネの日記』が、すばらしい本であることは間違いないが、同レベルの内容のものや、宣伝をした本が、同じように売れるとは限らないのだ。
いや、それどころかアンネより才能のある作家が、まるで日の目を見ず、アンネの足元にもおよばない凡人の本が売れまくることだってある。
で、その理由もまた、「たまたま」なのである。
世界の大きなうねりの中では、人のちっぽけな努力や才能など、ランダムネスの大海にあっと言う間に飲みこまれる。
もちろん「運も実力のうち」だろうが、残念なことに偶然は自分の能力で、左右させることはできない。
その意味では「運」は、決して実力ではないのだ。
能力あるものや、がんばっている者でも、恵まれないことが多々という意味では、絶望的なほどに不公平。
また逆に言えば、阿呆でも降ってくるかもしれない面では、恐ろしいほどに公平であるともいえる。
宝くじを当てるのに努力や人格は関係ないわけで、それでいて人生とは、壮大なる「くじびき」の連続と、そこから生まれる予測不能の連鎖のようなものなのだから。
そこが、おもしろいのだが、逆に言えばこれはなんとも冷たい事実のようにも思える。
これも本書でふれられているが、人はその「理不尽」に、どうやら耐えられないらしい。
我々は自分の人生を、自分でコントロールできないことを受け入れられない。
かの天才アインシュタインですら、量子論に接したとき、さけんだのだ。
「神はサイコロ遊びをしない」
そう、我々は自分の人生が気まぐれで、なんら人の意志の介入を認めないサイコロゲームなんかで、決定されることを認められない。
かつて、宮部みゆきさんは『取り残されて』という短編の中で、
「運命が変えられないなんて戯れ言だ。それじゃあ、生きる価値もない」
そう登場人物に語らせたが、運命は変えられる。
いや、勝手に変わるのだ。
我々の意志も、努力も、才能も、愛も、思想も、人間性も。
すべてを、冷たく無視して。
もちろん、人生において「努力」や「行動」「才能」が無意味でないのは事実である。
だが、この本や、クリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズによる『錯覚の科学』にあるような、
「人は《偶然》の価値をあまりにも低く見積もりがち」
なことも真理であろう。
特に日本人は
「運が悪かった」
ことを「逃げ」「言い訳」と解釈する傾向が強く、ちょっとそれはきびしすぎるのではと思うことも多いし。
私などいい加減な人間なので、世界がランダムに動くことに関して、
「そんなもんかあ」
と茫洋としているけど、
「運命は自分で切り開くもの。努力はかならずむくわれる」
といった、タイプの人には、テンションを下げるので、おすすめできないかもしれない。
どっちにしろ、そんなことは、どうでもいいのだが。
「たまたま」は、そんなわれわれの想いも斟酌せず、今日もどこかで不可視のサイコロ遊びを続けているのだから。
(続く→こちら)