「ランドセルが生き残ってるのは、《男気》のおかげやろうな」
唐突に、そんな意味不明なことを言い出したのは、友人マツムシ君である。
なぜマツムシ君が、そのような話を切り出したのかと問うならば、なにげなくつけていたテレビから、ランドセルのCMが流れたからであった。
それを見て私が、
「ふーん、今どき、ランドセルしょってる子供もおるんや」
なにげなく、口にしたわけだ。
ランドセル。なんであんな前時代的なものが、今でも幅を利かしているのか謎なのである。
私が小学生だった昭和の終わりごろでも、ランドセルといえば子供には不評であった。
低学年ならともかく、物心ついてくるとデザインは画一的でダサイし、重いし、それほど機能的とも思えない。
おまけに、なにげに高い。だから女の子などは5年生くらいになると、ランドセルではなく、おしゃれなマイバッグで登校していたものであり、先生も特にとがめだてもしなかった。
まあ、こういうのは
「大人の事情」
「癒着」
「既得権」
といったものが、からんでいるのだろうが、少なくとも私の周囲で「ランドセル、サイコー!」という声は、まず聞いたことがなかった。
そんなんだから、昔ともかく、今ではとっくに駆逐されてるものだと思っていたが、そうではないようだ。
それどころか、子供のいる友人に連絡して聞いてみると、
「最近はランドセルによって、親の所得がはかられるんや。安物を背負っていったら、子供がいじめられたりすることもあるんやて」
たかがランドセルで、格差をうんぬんされるのも業腹だが、それにつけこんで、
「いじめられたくなかったら、高い品を買え!」
とかカツアゲする業界も、なんだか生臭くてイヤである。
ただまあ、実際に子供がいる家ではそう脅されると、安易に「あんなん、安モンでええねん」とは言いにくいのだろう。
独身貴族にはわからないが、子育てというのは大変なことであるなあ。
ということで、結論としてはランドセル業界の恫喝、もとい企業努力のおかげであろう、と結論がいったんは出そうになったわけだが、そこでマツムシ君は柔らかい笑みを浮かべながら
「シャロン君、そこで終わらせるとはキミらしくないな。ちょっと思慮が浅いんとちゃうか」。
らしくない、といわれても「商売人の事情」以外、特に他の理由も思い浮かばないわけだけど、なにかあるのかいと問うてみるならば友は、
「オレにはわかったで、このカラクリが」
ずいぶんと自信満々である。
とここで、私は巻いたフンドシをしめ直し、気合を入れることとする。
どうやら、友は本当にひらめいたらしい。目がよこしまに光っているのだ。
ここに伝えておくと、私とマツムシ君は
「森羅万象、世の中のことを下世話に邪推する」
ことを旨とする「邪推会」という組織を結成しており、そこではそんな通り一辺倒の結論などゆるされないのである。
世の中を楽しむには、「ゆがんだ発想で世界と対峙する」ことが大切なのだ。
そんな邪推のエース、ことマツムシ君がビシッと断言することには、
「ランドセルが今でも現役なんて、そんなもん学校に【男らしいヤツ】が、いてるからに決まってるやんけ!」
(続く→こちら)