里山と言っても東北は山形県の人の話である。サークル仲間のAさん(80才くらい)は
「家の内には牛や馬もいてね、羊も飼っていたし鶏も30羽ばかりいて、弱ってくるとそれを下ろして食べるのよ。田畑はもちろん蚕も育てていたから桑畑もあったし、ビールのホップも育てていたし、たばこの葉も・・・」
次々に湧くように話す昔語りに魅了されてしまった。
「だからね子供も遊んでいられないの、忙しかったわ。夜になると繕い物を母親と一緒にするし、男は藁を打って草履やかんじきを作るの。」
「雪はね、雪の階段を作るほど積もるから毎朝隣の家のところまで雪かきをするの」
「丈夫じゃないと生きて行かれないね」と言ったら、
「そういう生活をするから《丈夫になるのよ》」と言う。
すごいなぁ!
すごいよ!
軟弱なわたし、すっかり脳天を打たれてしまった。
『ガラスの鍵』
山頂に置かれた岩石、空はどこまでも青く、標高高い山には草木(有機物)は見えない。
山の峰に巨大な岩石が乗っている現実はあり得ない、岩石の噴出、あるいは天からの降下…存在は奇跡以外の何物でもない、という光景である。
神々しい景であるこの現象は、同時にバランスを崩しはしないかという危険を孕んでいる。
存在と崩壊(非存在)との融合の景色は、この地球の成り立ちにも通じてはいまいか。
無かったかもしれないが、現実に在り、世界を成している。わたしたちは当然の景色の中に確信をもち安穏として暮らしているが、実はこのようなものではないか。
太陽という振子に守られて存在している巨大な石に過ぎない。
この奇跡的な光景の謎を解くには、透明で見えず破損を余儀なくされる「ガラスの鍵」しかない。換言すれば、この楽しいバランスを解く秘密は、有るかもしれないが無く、決して見えないのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
扉の裏側には、
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、
ことに尖ったものは、みんなこゝに置いてください」
と書いてありました。
☆秘の理(ことわり)を測(予想する)。
要の教(神仏のおしえ)の済(すくい)は、普く太(最も尊い)魂(たましい)である。
仏の誄(死者を悼み生前の功績をたたえる言葉)は、千(たくさん)の値(ねうち)を署(割り当てる)。
いったい、ランプをテーブルのうえ以外のどこに掛けたらよいというのでしょう。しかし、人びとは、それが我慢ならないとおもったのです。と言って、わたしたちがランプをべつなところに掛けたところで、あの人たちの反感は、すこしも消えないでしょう。わたしたち自身も、わたしたち自身も、わたしたちがもっているすべてのものも、おなじような軽蔑を受けたのです。
☆この停滞をどう別なところへ交換させたらいいのでしょうか。人々は我慢できないと思ったのです。下劣な人々を別なところに停滞させたところで敵意は消えません。わたしたちの死は、同じような軽蔑に遭遇したのです。