朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

偽りを避け、真実なこと、誉れあること、正しいこと、清いこと、徳と言われることに、心を留めながら

2019-12-31 11:06:14 | 聖書から
偽りの発言を避けねばならない。出エジプト記23:7


 すべて真実なこと、
すべて気高いこと、
すべて正しいこと、
すべて清いこと、
すべて愛すべきこと、
すべて名誉なことを、
また、徳や賞賛に値することがあれば、
それを心に留めなさい。フィリピ書4:8



 マタイ13:24~30
 ロマ書8:31b~39
 イザヤ書55:6~13(通読箇所)
  (ローズンゲン日々聖句12/31;火)


 偽りの発言、偽りの告訴から遠ざかり、避けるように、
と言われるのですね。
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方が。



 さらに言われます。
「すべて真実なこと、すべて誉れあること、
すべて正しいこと、すべて清いこと、
すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、
そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、
そのようなことを心に留めなさい」(ピリピ4:8 新改訳)、と。



 また、イエスは言われます。
この世の中は、私たちの心もそうなのでしょうが、
良い麦と毒麦が一緒にはえている麦畑のようだ、と。



 それで、畑の主人は言うのですね。
「今、毒麦を抜き集めようとすると
よい麦も一緒に抜き取ってしまうかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、まず、毒麦を集め、焼くために束にし、
麦のほうは、集めて倉に納めるように言うから」(マタイ13:24~30)と。



 だから、この世の中も、自分自身の心も、
いい麦と毒麦とが一緒に育っているわけなのですね。

 だから、私たち、毒麦、悪い思いを抜き取る、無くする、
心に出て来ないようと、果し得ない努力をするのでもなく、
その思いを生かす、成し遂げる、完遂のでもなく、
それは、毒麦、「的外れ」なものであると認めて、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせていただいて、
処刑済み、死んだものから出て来た思いであると
認めて、放っておけばいいのだそうですね。



 そして、良い麦、
墓に葬られ、
三日目、新しい霊のからだに復活し、
天の、【父である神】の右の座に復帰されたイエスが派遣してくださる
【聖である霊】と呼ばれる方によって、
心に【父である神】のも思いを置いていただいて、
その、【父である神】の御思いで生きる、
【父である神】と心を一つにして生きる生き方をするように、と。



 使徒パウロは言います。
「神が私たちの味方であるなら、
だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、
ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。


 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。



 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか。迫害ですか。
飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。
私たちは、死に定められた、ほふられる羊のように見えていても、
私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。


 死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、
今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:31~39)、と。

 
イザヤは言います。
主を求めよ、お会いできる間に。
近くにおられるうちに、神を呼び求めよ。
悪者はおのれの道を捨て、
不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
【主】、「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方に帰れ。
そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。


 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。

――主の御告げ――
天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、
必ず地を潤し、
それに物を生えさせ、目を出させ、
種蒔く者には種を与え、
食べる者にはパンを与える。
そのように、
わたしの口から出るわたしのことばも
むなしく、わたしのところに帰って来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、
わたしの言い送った事を成功させる。


 まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、
安らかに導かれて行く。
山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、

野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
いばらの代わりにもみの木が生え、
おどろの代わりにミルトスが生える。
これは主の記念となり、
絶えることのない永遠のしるしとなる」(イザヤ55:6~13)、と。

私たちも、この勝利と希望の中で、
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる、
偽りを避け、
すべて真実なこと、すべて気高いこと、
すべて正しいこと、すべて清いこと、
すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、
また、徳や賞賛に値することを心に留める思いをいただきながら。
今日も。



(近くの教会を知りたい等、
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剣や槍を必要とせずに、私たちを救い

2019-12-30 11:21:43 | 聖書から
主は救いを賜るのに
剣や槍を必要とされないことを、
ここに集まったすべての者は知るだろう。サムエル記上17:47



 義の実は
平和を実現する人たちによって、
平和のうちに蒔かれるのです。ヤコブ書3:18


 イザヤ書63:7~14
 イザヤ書55:1~5(通読箇所)
  (ローズンゲン日々聖句12/30;月)


 ユダに攻め込んで来たペリシテの軍。
戦いを挑む代表戦士のゴリアテは、
背の高さ6キュビト半(2メートル80センチ余り)、
青銅のかぶと、青銅のうろことじのよろい、
青銅のすねあてを身につけ、
背中には青銅の投げ槍。



 これに向かうのは、紅顔の少年ダビデ。
持つのは、羊を飼う杖と五つの小石の入った投石袋。
それだけでペリシテ人の戦士ゴリアテに向かって行ったのだそうです。



 「おまえは、剣と、槍と、投げ槍をもって向かって来るが、
私は、おまえのなぶったイスラエルの戦陣の神、
万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
この全集団は、
【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう」(新改訳))、と。



 この方、天の神、【主』、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
また、義の実を結ばせる種を、
平和をつくる人によって、
平和のうちに蒔いてくださる方なのだそうです。
義の実の一点もない私たちにも。


 神である主は、私たちにも
「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」
と仰ってくださり、
わたしたちの救い主となって、
私たちが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
ご自身の使いをもって私たちを救ってくださるのだそうです。
その愛とあわれみによって私たちを贖(あがな)い、
私たちを背負い、抱いて
運んでくださるのだそうですから。(イザヤ63:8~9 新改訳) 


 【主】は言われます。
ああ。渇いている者はみな、
水を求めて出て来い。金のない者も。
さあ、穀物をかって食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買い、
代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。
なぜ、あなたがたは
食料にもならない物のために労するのか。
わたしに聞き従い、良い物を食べよ。
そうすれば、あなたは脂肪で元気づこう。
耳を傾け、わたしのところに出て来い。
聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。
わたしはあなたがたととこしえの契約、
ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
見よ。わたしは彼らを諸国の民への証人とし、
諸国の民の君主とし、司令官とした。
あなたを知らない国民をあなたが呼び寄せると、
あなたを知らなかった国民が、
あなたのところに走って来る。
これは、あなたの神、【主】のため、
また、あなたを輝かせた
イスラエルの聖なる方のためである。(イザヤ55:1~5 新改訳)


 私たちにも。

今日も。



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力と愛と思慮分別の霊の導きについて行って

2019-12-29 08:29:34 | 聖書から
言(ことば)は肉となって、
私たちの間に宿られた。
私たちはその栄光を見た。ヨハネ1:14(12/29の週の聖句)



 若者も倦(う)み、疲れ、
勇士もつまずき倒れようが、
主に望みをおく人は新たな力を得、
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、
歩いても疲れない。イザヤ書40:30~31



 神は、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と思慮分別の霊を
私たちにくださったのです。Ⅱテモテ1:7



 ルカ2:(22~24)25~38(39~40)
 イザヤ書54:1~10(通読箇所)
  (ローズンゲン日々聖句12/29;Ⅴ日曜)


 天地、宇宙が存在する前、
その初めに【父である神】とともにおられた【御子である神】。


 この方は、【父である神】の御思いの表現、
表れでもあられるので、
【神のことば】、【ことばなる神】と呼ばれるのですね。



 また、すべてのものは、この方によって造られたのだそうです。
造られたものでこのかたによらないでできたものは
一つもないのだそうですから。



 たとえば、【父である神】が、「光よ。あれ」と思われ、
それを、【御子である神】、【ことばである神】が「光よ。あれ」と表現され、
【聖である霊】と呼ばれる神がそのことばのとおりに、
光を実現なさった、ということなのでしょうね。
すべてのものに。



 そして、【父である神】が、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになって」いて、
「的外れ」になっている私たち人間を、
最初の創造の目的のとおりの、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」というものに
取り戻そうと意図された、
その計画のとおりに、
すべての人間の「背き」「的外れ」の責任を自分の身に負い、
十字架刑での処刑を受けるために、
【御子である神】は、天の栄光の座を後にして、
今、人として、人の世に来られたというのですね。
私たちと同じ肉体を持つ人間イエスとなって。


 【父である神】は、
この「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスが受けてくださった十字架刑で処刑に合わせてくださって、
処刑された者、死んだものとしてくださるのだそうです。



 さらに、私たちに、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、【父である神】の右の座に復帰されたイエスを通して、
もう一人の方、【聖である霊】と呼ばれる方を派遣してくださって、
ご自身の御思いを私たちの心に置き、書きつけてくださって、
受け入れる者がご自身と思いを一つにし、
心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうですから。



 「われわれ」、
【父である神】、【御子である神】、【聖である霊】と呼ばれる神が、
それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
愛において、自由意思で、自発的に、
思いを同じくし、心を一つにしておられるように、
私たちも、「われわれ」、この方々と
愛において、自由意思で、自発的に、
思いを同じくし、心を一つにする者へと。



 そして、この、【聖である霊】と呼ばれる方によって
【父である神】と思いを同じくし、心を一つにして生きる者は、
【主】、この方々が、
疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れないように、
疲れても新しく力を得、弱り果てることはない、のだそうです。



 イエスを通して来てくださり、
私たちのうちに働いてくださっている【聖である霊】と呼ばれる方は、
おくびょうな方ではなく、
力と愛と慎(つつし)み、思慮分別な方、なのだそうですから。



 【父である神】は、この御救い、
ご自身と心を一つにして生きる生き方を、
「異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの光栄として、
万民の前に整え、備えて」くださったのだそうです。(ルカ2:31~32)



 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は仰せられるのですね。
「『子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。
生みの苦しみを知らない女よ。
喜びの歌声を上げて叫べ。
夫に捨てられた女の子どもは、
夫のある女の子どもよりも多いからだ。


 あなたの天幕の場所を広げ、
あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、
綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。

あなたは右と左にふえ広がり、
あなたの子孫は、国々を所有し、
荒れ果てた町々を人の住むところとするからだ。


 恐れるな。あなたは恥を見ない。
恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。
あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、
やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。
あなたの夫はあなたを造った者、
その名は万軍の【主】。
あなたの贖(あがな)い主は、イスラエルの聖なる方で、
全地の神と呼ばれている。
【主】は、あなたを
夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、
若い時の妻をどうして見捨てられようか』
とあなたの神は仰せられる。



 『わたしはほんのしばらくの間、
あなたを見捨てたが、
大きなあわれみをもって、あなたを集める。
怒りがあふれて、ほんのしばらく、
わたしの顔を隠したが、
永遠に変わらぬ愛をもって、
あなたをあわれむ』と
あなたを贖(あがな)う【主】は仰せられる。


 『このことは、わたしにとっては、
ノアの日のようだ。
わたしは、ノアの洪水を

もう地上に送らないと誓ったが、
そのように、あなたを怒らず、
あなたを責めないと私は誓う。
たとい山々が移り、丘が動いても、
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない』と
あなたをあわれむ【主】は仰(おお)せられる。」(イザヤ54:1~10 新改訳)

のだそうですから。
私たちにも。

この新しい週、
いよいよ、【聖である霊】と呼ばれる方の導きについて行って。



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私たちが、自由人として生きられるようにと

2019-12-27 21:15:41 | 聖書から
わたしが彼らの軛(くびき)の棒を折り、
彼らを救い出すとき、
彼らはわたしが主であることを知るようになる。エゼキエル書34:27



 主の霊のおられるところに
自由があります。Ⅱコリント3:17



 マタイ2:13~18
 イザヤ書53:6~12(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/28;土)


 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方が、
私たちを救ってくださり、
私たちの自由を奪っているくびきを取り去ってくださるというのですね。


 【主の霊】、【聖である霊】と呼ばれる方は、
私たちを解放し、
自由な生き方をさせてくださるのだそうですから。



 その当時、ユダヤを治めていたヘロデ大王が、
「ユダヤ人の王として生まれた方」(マタイ2:2)、赤ん坊のイエスを、
自分の王位を脅かす者として殺そうと兵を送ったとき、
主の使いが現れ、
ヨセフとマリヤとイエスをエジプトに避難させたように。(マタイ2:13~18) 



 このイエスについての、
700年ほど前のイザヤの預言は次のようでした。


 私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちのすべての咎(とが)を
彼に負わせた。


 彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように
彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から断たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設(もう)けられ、
彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行わず、その口に欺(あざむ)きはなかったが。


 しかし、彼を砕いて、痛めることは
【主】のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを
罪過のためのいけにえとするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができ、
【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの
激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、
その知識によって多くの人を義とし、
彼らの咎(とが)を彼がになう。
それゆえ、わたしは多くの人々を彼に分け与え、
彼は強者を分捕り物として分かちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、
そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、
そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ53:6~12 新改訳)



 この言葉のとおりにイエスは、逃げることもなく捕縛され、
裁判の席においても、一言の反論、抗弁をすることもなく、
兵士たちにも、なされるままに身を任せ、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。


 そして、イエスの、この十字架刑での死と

三日目の新しいからだへの復活、
そして、天の【父である神】の右の座への復帰を通して
私たちに【聖である霊】と呼ばれる方が来てくださる道が開け、

この方をお迎えするところには、
神との交わりの中における自由があるのだそうですから。

今日も。



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御霊に導かれて進もう

2019-12-26 22:37:34 | 聖書から
今日こそ、
主の声に聞き従わなければならない。
心を頑(かたく)なにしてはならない。詩95:7~8



 聖霊に満たされますように。エフェソ書5:18



 ヨハネ21:20~24
 イザヤ書52:13~53:5(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/27;金)


 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方の
御思いについて行くことこそ、
私たちにとって重要なこと、のようです。



 「的外れ」の、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになっている」私たちは、
心の頑(かたく)なな者であり、
自分の理性の判断で「善し」と思うことをやっていく者ですけれど。



 【父である神】は、その判断の出どころである、私自身、
〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑された者、死んだものとしていてくださるのだそうですから。


 イエスは、十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、【父である神】の右の座に復帰されたのだそうです。



 そして、求める者にもう一人の方、
【聖である霊】と呼ばれる方を派遣してくださり(ルカ11:13)、
この方によって【父である神】の御思いを私たちの心に置き、
書きつけてくださるのだそうですから(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。



 それで、受け入れる者は、
【父である神】と思いを同じくし、心を一つにし、
行動を一つにしていくようにしていただけるのだそうですから(創世記1:26、ヨハネ17:21~22)。



 【聖である霊】と呼ばれる方によって、
御思いの中に満たされ、
上からおおっていただき、沈められ、漬け込まれて。



 私たちは、ペテロがそうであったように、
ほかの人はどうなんだろうかと気にする者なのですね。
けれども、イエスは、
「それがあなたに何のかかわりがありますか。
あなたはわたしに従いなさい」と言われるのですね。(ヨハネ21:20~22)

 
 イエスご自身、
人を気にすることなく、
【父である神】の御思いのとおりに
ご自身の道を歩まれたのだそうですから。


 その顔だちはそこなわれて人のようではなく、
その姿も人の子らとは違っていて、
多くの国々は、驚き、王たちは口をつぐむことになるのだそうです。


 彼は主の前に若枝のように芽生え、
砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために(槍で)刺し通され、
私たちの咎(とが)のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、【主】、「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちすべての咎(とが)を
彼に負わせた。(イザヤ52:13~53:6 新改訳)



 【聖である霊】と呼ばれる方は、
私たちにも、この方のように
【父である神】の御思いのとおりに
ついて行かせてくださるのだそうですから。
今日も。



(近くの教会を知りたい等、
また、教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、
また、婚活で広く出会いを求めたい、

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