朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

約束の言葉のとおりに、実現しているのですから

2018-12-31 09:47:48 | 聖書から
ダビデの祈り:
主なる神よ、
今この僕とその家について賜ったお言葉を
とこしえに守り、
御言葉のとおりになさってください。サムエル記下7:25


 神の約束は、
ことごとくキリストにおいて
「然り」となりました。
それで、私たちは神をたたえるため、
この方を通して「アーメン」ととなえます。Ⅱコリント1:20



 ルカ12:35~40
 ロマ8:31b~39
 マタイ4:12~17
  (通読箇所)(ローズンゲン日々聖句12/31;月)



 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
ダビデとその家について約束されたことを、
そのことばのとおりに守り、実現されたのですね。



 神が、聖書の中で約束されたことは、
すべて、イエスによって実現し、
「然り」、「本当」となったのだそうですから。



 神は、アブラハムに、
「わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、
あなたの名を大いなる者としよう。
あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろうものをわたしはのろう。
地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される」(創世記12:2~3)、
「あなたの子孫にこの地を与える」(創世記12:7)とおっしゃられたのですね。


 そして、アブラハムの子孫としてイスラエル民族を起こし、
その中にダビデ王家を起こして、
「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、
あなたの後に起こし、
彼の王国を確立させる。
わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」と約束されました。



 そして、「彼は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく」
と約束された「女の子孫」(創世記3:15)として、
〔御子である神〕を人間イエスとして、
そのダビデの子孫である処女のマリヤの胎を通して、
この人間の歴史の中に派遣されたのだそうです。



 このイエスは、およそ、33歳の頃、
ユダヤ人の指導者たちのねたみにより、
「自分を神の子、キリストだと言い、
人間でありながら、自分を神と等しい者とした」として、
神を冒涜する者として訴えられ、
神に背く者、神に呪われた者として、十字架刑で処刑されました。


 しかし、〔父である神〕は、
墓に葬られたこのイエスを、
三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れさせ、
神の国のことを語らせた後、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、天に引き上げられ、
ご自分の右の座に復帰させなさったのだそうです。

 「エルサレムを離れないで、
私から聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、
あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」(使徒1:4~5)
と言い残して。

 そして、それから10日後の
五旬節(ペンテコステ、モーセの律法授与の記念日)の日に、
約束のとおりに(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
待ち望んでいた弟子たちに、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が来られて、
弟子たちは、この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いのままに話し出したのだそうです(使徒2:1~4)。

 新約、新しい契約が実現し、
それからおよそ2000年、現在の私たちにも届いているのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる神が来てくださり、
私たちの心に〔父である神〕が
私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と心と思いを一つにしながら生きる、
という事実が。

 さらに、このイエスは、
「また、来る」と言い残しておられるのですね(ヨハネ14:1~3)。
いつ来られるのか。
その来られるのは、
婚礼から帰って来る、家の主人のように、だというのですね。
当時のユダヤの婚礼は1週間ほど続くので、
婚礼に行った主人がいつ帰って来るのか分からなかったのだそうです。
真夜中か、夜明けなのか。



 あるいは、泥棒のように思いがけない時に来るのだそうです」(ルカ12:35~40)。
「然り」、事実として。



 私たちは、この約束のことばを、
通り過ぎて、あるいは退いて、滅びてしまうものではなく、
受け取り、とどまって、いのちを受ける者、なのですね。



 使徒パウロが言うように、
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、
ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょに
すべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。



 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
どんなものも、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできない(ロマ8:31~39)、のですから。



 この1年間がそうであったように、
今日も、
新しい年も。


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また、教会に行っていないけれど、葬儀はキリスト教で等の
お問い合わせもどうぞ。)

栄光に輝く御座の前に、ご自身と同じ栄光に輝かせて立たせようと

2018-12-29 22:50:48 | 聖書から
言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた。
私たちはその栄光を見た。ヨハネ1:14


 見よ、神は私を助けてくださる。
主は私の魂を支えてくださる。詩54:6


 あなたがたが罪に陥らないように守り、
また、喜びにあふれて
非のうちどころのない者として、
栄光に輝く御前に立たせることのできる方、
私たちの救い主である唯一の神に、
私たちの主イエス・キリストを通して、
栄光、威厳、力、権威が
永遠の昔から、今も、
永遠にいつまでもありますように。ユダ書24~25

 ルカ2:(22~24)25~38(39~40)
 マタイ4:1~11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/30;Ⅴ日曜) 

 神の言(ことば)と呼ばれる方、
〔父である神〕の御思いの表現者であられる方が、
私たち人間と同じ肉体を着て、
私たちの間に住んでくださったのだそうです。



 使徒ヨハネたちは、
「私たちはその栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた」
と証言しているのですね。



 まことに、天の神、主は私たちを助けてくださる方、
私たちの魂、いのちを支えていてくださる方。



 私たちを罪に陥らないように、
「的外れ」の生き方にならないように守り、
非のうちどころのない者、
誰からも責められるところのない者にして、
大きな喜びにあふれて、
栄光に輝く御座の前に立たせてくださる方。



 私たちの救い主である唯一の神であり、
栄光、威厳、力、権威を、
永遠の昔から、今も、
そして、永遠に、世々限りなくまとっておられる方。



 その方が、人として、
ヨセフとマリヤの息子として、
私たち人間の歴史の中に来てくださったのだそうです(ルカ2:22~40)。



 自分の考えを行なうためではなく、
ひたすら、〔父である神〕の御思いを行なうために(マタイ4:1~11)。



 そして、〔父〕から託された、
自分のなすべきその御業を完了され(ヨハネ19:40)、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたのですね。



 そして、受け入れる者に、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、
〔父である神〕の御思いを私たちの心に置き、
受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにして、
自分の思いを行なうのではなく、
心に来た〔父である神〕の御思いを行なうように(ヨハネ14:12)
してくださるのだそうです。



 心を一つにしているものとして、
ご自身の栄光に輝く者にしようと。

今日も。


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主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源

2018-12-29 09:10:10 | 聖書から
悲しんではならない。
主を喜び祝うことこそ、
あなたたちの力の源である。ネヘミヤ記8:10

 希望の源である神が、
信仰によって得られる
あらゆる喜びと平和とで
あなたがたを満たしてくださるように。ロマ15:13

 Ⅰヨハネ3:11~16a
 マタイ3:13~17(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/29;土)

 バビロンの捕囚からエルサレムに帰ってきた人たちは、
まず、神殿を再建したのですが、
エルサレムは城壁は崩れたままの裸の町で、
近隣の民のそしりの中にあったのだそうです。



 それで、
ペルシャの王アルタシャスタに献酌官として仕えていたネヘミヤは、
王に願い、総督としてエルサレムに帰り、
民を指導して城壁を再建したのですね。



 そして、第七の月の一日
(レビ記23:24、ラッパが吹き鳴らされ、聖なる会合を開く日)に、
民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まったのだそうです。



 それで、祭司であり学者であるエズラは、
夜明けから真昼まで律法の書(創世記~申命記)を朗読し、
レビ人たちは民に律法を解き明かしたのですね。



 民は読まれたことを理解し、みな泣いていたのだそうです。
そのとき、ネヘミヤやエズラ、レビ人たちは民に言ったのだそうです。
「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。
泣いてはならない。悲しんではならない。
行って、上等の肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。
何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。
きょうは、私たちの主のために聖別された日である。
悲しんではならない。
主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源であるから」と。


 私たちも、聖書のことばに照らすとき、
天の神、主の御思いから大きく「的外れ」になっていることが解る者です。


 〔父である神〕は、私たちの、その「的外れ」の責任のすべてを、
〔御子イエス〕の上に置き、
この方を神に反逆した者、神に呪われた者として十字架刑で処刑されたのだそうです。


 そして、私たちをこのイエスに合わせられたものとし、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わっているもの、死んだものとしてくださっているのだそうです。



 そのうえで、受け入れる者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に
御自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
私たちをご自身と一つ思いになって生きる者にしてくださるのだそうです
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28))。



 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)
と言っていただける愛によって、
私たちが神のうちにおり、
神も私たちのうちにおられる者に(Ⅰヨハネ4:11~16)。



 それで、このことを受け取った者、もらった者は、
〔生まれたときからの私〕に死んで、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きる、
新しく生まれた者(ヨハネ3:1~8)として、
〔御霊〕に導かれて進む者に(ガラテヤ5:25)
していただけるのだそうです。


 だから、どんなに自分の「的外れ」が見えても、
「泣いてはならない。主を喜び祝いなさい」
と言っていただけるのだそうです。

 望みの神、希望の源である神は、私たちを、
この方への信頼関係で得られるあらゆる喜びと平和で満たし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方の力によって
望みにあふれさせてくださるのだそうですから。

今日も。

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顔を明るくさせようとして

2018-12-28 09:05:27 | 聖書から
心に喜びを抱けば顔は明るくなり、
心に痛みがあれば霊は沈み込む。箴言15:13


 私たちの主イエス・キリストの父である神は、
あらゆる苦難に際して
私たちを慰めてくださるので、
私たちもこの慰めによって、
あらゆる苦難の中にある人々を
慰めることができます。Ⅱコリント1:3、4

 マタイ2:13~18
 マタイ3:1~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/28;金)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちの心を喜ばせ、
顔を明るくしようと思っていてくださる方、のようですね。


それで、私たちのあらゆる苦難を慰めてくださり、
また、私たちを通して、
その慰めによって、
あらゆる苦難の中にいる人々を慰めようとしていてくださるようです。
突然に幼い子を失って悲しんでいる母親(マタイ2:16~18)のような
大きな悲しみの中にいる人々をも。



 イエスが受けてくださった
十字架刑での処刑に合わせていただいて、
自分の〔生れたときからの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものとしていただいた者に、
もう一人の方、〔聖霊〕と火とのバプテスマを授け(同一化し)(マタイ3:11)、
この方によって、
受け入れる者の心に、ご自身の御思いを置き、
受け入れる者をご自身と一つ心の者にして(エレミヤ31:31~34 ,エゼキエル36:25~28)。



今日も。



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自由人として愛する

2018-12-27 11:08:08 | 聖書から

あなたたちは、
心変わりして主を離れ、
他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、
注意しなさい。申命記11:16

自由を得させるために、
キリストは私たちを
自由の身にしてくださったのです。
だから、しっかりしなさい。
奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。ガラテヤ書5:1


 ヨハネ21:20~24
 マタイ2:13~23(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/27;木)



 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者と名乗られる方は、
ストーカーではないのですね。
「わたしのほうだけ向いて、他の男に目をそらすな」と強要するような。

私たちを、イエスによって、
自由な身にしてくださったのだそうですから。



 戒めで私たちの自由を縛り、
「神を愛すべきだから」と一生懸命努力する、
自分の力で神の戒めを全うしようとする古い契約、「律法主義」の道から、
解放していてくださるのだそうですから。



 だから、二度と、その道に帰らないように、
と言われるのですね。





 天の神、主から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、
彼らも(わたしたちと)一つである」ように
と望まれて造られた私たち人間。



 けれども、私たちは、天の神、主との「一つ」の中にではなく、
むしろ、対立、対抗しているものとして生まれて来ているようです。
「神のひとりのようになり、善悪を知る」者として(創世記3:5、22)。



 ですから、私たち、今は、
天の神、主が用意してくださったものの中で、
恵みの中に生きていますが、
やがては、その神の恵みから完全に切り離されて、
自分で生きなければならない時が来るのだそうです。





 けれども、天の神、主は、
なお、私たちと一つになりたいと思い続けておられて、
御子イエスが受けられた十字架刑での処刑によって、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑済み、死んだものとしてくださるのだそうです。



 そして、受け入れる者に
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、ご自身の御思いを私たちの心に置いてくださり、
受け入れる者がご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです。



 〔父である神〕と〔御子イエス〕と
〔聖である霊〕と呼ばれる神が愛し合っておられる、
その愛の中に、
自由な者として、自発的に加わるようにと。



 また、私たちは、あの時のペテロのように、
ほかの人が神様からどう扱われるか、気になる、
不自由な者ですが(ヨハネ21:21)、
〔父である神〕は、私たち一人一人にそれぞれご計画を持っておられ、
その御思いのとおりに一人一人にふさわしく
用いてくださるのだそうです。
自由な者として。

今日も。





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