朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

信仰のない私たちの求めも聞き取ってくださって

2019-01-31 21:49:59 | 聖書から
主よ、
私の言葉に耳を傾け、
つぶやきを聞き分けてください。
助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。
あなたに向かって祈ります。詩5:2~3

 信じます。
信仰のない私をお助けください。マルコ9:24

 コロサイ書1:24~29
 ロマ書5:1~11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句2/1;金)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』 という者」と名乗られる方は、
私たちの言葉に耳を傾け、
つぶやきを聞き取ってくださって、
私たちを助けてくださる方なのですね。

 私たちの信仰は、自分勝手で、
御前に通用するようなものではないのですから。

 だから、天の神、主は、
信仰のない私たちを助けてくださるのだそうです。

 私たちをキリストにある成人、
完全な者にするように(コロサイ1:28)と。

 私たちがまだ弱かったとき、
罪人であったとき、
キリストは定められた時に、
不敬虔な者のために死んでくださって、
ご自身の血によって私たちを義と認めてくださいました。

 神の怒り、審判から救い、
ご自身の死によって神との和解を与えてくださり、
ご自身のいのちによって救いにあずからせてくださって。

 そして、神を大いに喜ぶ者にも(ロマ5:6~11)。

 信仰のない私たちに、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、
受け入れる者をご自身と一つ思いを思う者にして。
今日も。


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人をいやす舌に

2019-01-31 07:33:31 | 聖書から
軽率なひと言が
剣のように刺すこともある。
知恵ある人の舌は癒す。箴言12:18

 船を御覧なさい。
大きくても、強風に吹きまくられている船も、
舵取りは、
ごく小さい舵で意のままに操ります。
同様に舌は小さな器官ですが、
大言壮語するのです。
どんな小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。ヤコブ書3:4~5

 使徒13:42~52
 ロマ書4:13~25(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句1/31;木)

 私たちの口から出る言葉は、
人の心を刺し通すこともあり、
また、いやすこともあるのですね。

 大きな船が小さな舵によって意のままに操縦され、
思うとおりの所へ持って行かれるように、
舌は小さな器官ですが、
大きなことを言って誇り、
からだ全体を汚し、
人生の車輪を焼き、
ゲヘナ(地獄)の火によって焼かれます。

 自分を誇りたい
自分が何者かでありたい霊の思いが心に来て、
それを舌が語るようですから。

 ですから、いくら舌を制御しようとしても、
心が変わらなければ、
さらに、その心の思いの出どころである霊が変わらなければ
舌を制御することはできないのですね。

 努力すればするほど、
賛美と呪いが同じ口から出て来る、
泉が甘い水と苦い水を同じ穴から湧き上がらせるというような
おかしいことになってしまって。

 だから、霊を、心を変えないで、舌を制御しようとすることは、
いちじくの木にオリーブの実を求めたり、
ぶどうの木にいちじくの実を求めたりするようなもの(ヤコブ3:4~12)。

 それで、天の神、主、
「『わたしはある(I am)』 という者」と名乗られる方は、
まず、私たち人類の代表としてイスラエルの民を選び、
これに律法を示して、
私たちの、
私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊が
創造の目的から「的外れ」な、
御思いからズレた存在になっていることを自覚させようとされたようです。

 そのうえで、神の御子である方が人となって人の世に来られ、
この方がおよそ33歳の頃、
私たち、すべての人間の「的外れ」の責任をご自身の身に負って、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
この御子イエスの処刑を
私たちの〔生まれたときからの私〕の処刑と見なしてくださり、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
「的外れ」になっている

私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わったもの、
死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。

 そして、この、処刑され、墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活させ(ロマ4:24~25)、
40日に渡って何度も弟子たちに現れさせて
神の国のことを語らせた後、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、引き上げられ、
天の、ご自身の右の座に復帰させなさったのだそうです(使徒1:3~9)。

 さらに、このイエスを通して、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣して、
この方の働きで、私たちの心に、
ご自身が私たち一人一に思っておられる御思いを置き、
私たちがご自身と同じ思いを思い、
一つ心になって(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
ご自身がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12、使徒2:4)
してくださるのだそうです。

 「われわれのかたち、われわれに似せた」(創世記1:26)、
ご自身と心を一つにして生きる者に復帰させ
(ヨハネ5:19、30、8:28、12:50、17:21~22)、

 〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いを語っていた私の舌を、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる
〔父である神〕の御思いを語る舌、
人をいやす舌に変えようと。
今日も。

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心に留め、祝福しようと。私たちも

2019-01-29 23:01:25 | 聖書から
主よ、
私たちを御心に留め、
祝福してください。詩115:12

 あなたがたの名が
天に書きしるされていることを
喜びなさい。ルカ10:20

 ルツ記1:1~8(9~15)16~19a(19b~21)
 ロマ書4:1~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句1/30;水)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たち一人一人のことを心に留め、
祝福していてくださるのだそうですね。
天にその名を記して。
「わたしの民」、
「私の神」と呼び合う関係において(ルツ1:16)。

 働く者の場合に、
その報酬は恵みではなくて、
当然支払うべきものとみなされます。

 しかし、何の働きもないわたしたちも、
不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じる、
その信頼で義とみなしてくださり(ロマ4:4~5)、
神の民とし、
天にその名を書きしるしてくださるのだそうですから。
今日も。


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顔と顔を合わせて見る

2019-01-29 08:20:24 | 聖書から
イスラエルの希望、
苦難の時の救い主よ。
なぜあなたは、
この地に身を寄せる人、
宿を求める旅人のようになっておられるのか。エレミヤ書14:8

 私たちは、今は、
鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、
顔と顔を合わせて見ることになる。Ⅰコリント13:12

 ロマ書15:7~13
 ロマ書3:21~31(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句1/29;火)

 エレミヤは言います。
「私たちの咎(とが)が、私たちに不利な証言をしても、
主よ、あなたの御名のために事をなしてください。
私たちの背信ははなはだしく、
私たちはあなたに罪を犯しました。
イスラエルの望みである方、
苦難の時の救い主よ。
なぜあなたは、
この国にいる在留異国人のように、
また、一夜を過ごすために立ち寄った旅人のように、
すげなくされるのですか。
なぜ、あなたはあわてふためく人のように、
また、人を救うこともできない勇士のようにされるのですか。
主よ。あなたは私たちの真ん中におられ、
私たちはあなたの御名をもって、
呼ばれているのです。
私たちを、置き去りにしないでください」(エレミヤ14:7~9新改訳)、と。

 私たちの知っているところは一部分であり、
今は、銅板をみがいて作った鏡に、
おぼろに、ぼんやり映ったものを見ているようですが、
その時には、顔と顔を合わせて見ることになり、
私たちが完全に知られているのと同じように、
完全に知ることになるのだそうです。

 私たちの望みの神は、
私たちを、
信頼関係によるすべての喜びと平和をもって満たし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方の御力によって
望みにあふれさせてくださいますから(ロマ14:13)。


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
律法とは別に、
しかも律法と預言者によってあかしして、
ご自身の義を示されました。

 それは、イエス・キリストを信じる
信頼関係による神の義であって、
ご自身を信頼するすべての人に与えられ、
そこに、なんの差別もないのだそうです。

 すべての人は、
罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができません。
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスが受けてくださった
十字架刑での処刑による贖(あがな)いのゆえに、
価なしに、働きなしに
義と認めてくださるのだそうです。

 〔父である神〕は、
キリスト・イエスを、
その血による、なだめの供え物として、
公にお示しになりました。

 それによって、神はご自身の義を現わされました。
神は、今までに犯されて来た罪を、
忍耐をもって見のがして来られましたが、
今は、ご自身の義を現わし、
神ご自身が義でありながら、
イエスに信頼する者を義と認める道を用意してくださったのだそうです。

 律法の行いでは合格できない者のために、
神が恵みのプレゼントとして用意してくださった
イエスによる義を、神に信頼して受け取ることによって
義とする道を(ロマ3:21~31)。

 私たちの身代わりとなって
十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語り、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、上げられ、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
その方が、受け入れる者の心に、
〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が
〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になって、
神がしようと思われることをしていくように
してくださるのだそうですから。

 天の神、主と一つになって生きる、
義なる、本来あるべき生き方、
律法を確立する生き方をし、
その時には、
顔と顔を合わせて見るように、と。
今日も。


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