どこまでも主に信頼せよ、
主はとこしえの岩。イザヤ書26:4
イエスは、
「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。ルカ8:25
Ⅰコリント10:16~17
使徒19:23~40(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句8/3;木)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちのとこしえの岩。
この方に、どこまでも信頼していけば大丈夫なのだそうです。
どんな時も。
この方は、ガリラヤ湖の突然の突風で、ガリラヤ湖の漁師であったペテロたちさえもなすすべがなく、おぼれて死にそうですと言うとき、
風と荒波とをしかりつけ、「黙れ。静まれ」と命じられ、風をやませ、大なぎにされる方なのだそうですから(ルカ4:35~41)。
私たちは、この、とこしえの岩である方と一つにしていただけるのだそうです。
パン(食べた物)が食べた人のうちにあり、
食べた人のからだは食べた物によって出来ており(食べた物のうちにあり)、
パン(食べた物)と食べた人とが一つであるように、
イエスの十字架刑での処刑を通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の私たち一人一人にかかわる御思いが、それぞれの受け入れる者の内にあり、
私たちの思いの全部が、〔父である神〕に知っていただいて、〔父である神〕のうちにあることによって。
それで、これを受け取っている者同士も、イエス・キリストのからだの肢体(一部分)としていただき、
一つのからだの構成部分として、一つにしていただけるのだそうですから(Ⅰコリント10:16~17、ヨハネ6:48~63)。
イエス・キリストのからだ、一つからだの一部分として、受け入れる者は、イエスが言われたように、「自分のこころを行うためではなく、私たちを遣わされた方の御心を行う」ことを求めて、
一つ御思い、一つの御計画の中を生きる者にしていただけるのだそうですから、
どこまでも主に信頼して。
今日も。
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