緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

2017年度 Nコン全国大会高等学校の部を聴く

2017-10-07 22:59:33 | 合唱
今日(7日)、東京渋谷のNHKホールでNコン(NHK全国学校音楽コール)全国大会高等学校の部が開催された。
運よく入場整理券が当たったが、聴きに行けるか微妙な状況であった。
何とか仕事を片付け、今日、生演奏を聴きに行くことができた。
しかし先日勤め先から、長時間労働の警告が出された。
今日も日頃の疲れと睡眠不足から演奏に集中することが出来なかった。
これは本当に悔しいことだ。

このような万全の体調ではなかったが、生演奏を聴けるだけでもありがたいし、嬉しい。
今年の高等学校の部の課題曲は、作詞:Elvis Woodstock(リリー・フランキー)、作曲:大島 ミチルの「君が君に歌う歌」という曲。

今日初めて詩を読んだ。
リリー・フランキーさんのことは何も知らなかった。
私と恐らく同い年ではないかと思う。
この詩を読んで、とても誠実なものを感じた。
素朴な正直な気持ちが綴られている。
野心とか、奇抜さや難解な比喩とかで驚かそうとか、そのようなものは感じられない。
長く淡々としているが、経験に裏打ちされた、借り物ではない、本物の気持ちが感じ取れる。
詩の中で最も強く惹かれたのは次の部分。

「恋をして すれ違い 離れ離れになる
涙が止まらないのは 悔しいからじゃない
それは君が 
相手の痛みがわかるようになったから」

「卒業し 仕事して 立ち止まってしまう
涙が止まらないのは 出来ないからじゃない
それは君が
自分の可能性を信じているから」

この一節を読んで自分の20代の頃を思い出す。
大学を卒業して就職で東京に出てきて、ボロボロになってしまった自分。
もう話すことも聞くことも何も出来なくなって、うずくまり、この世から抹消しようとした自分。
一晩でバケツ一杯ほどの涙を流して 思いとどまった。

涙が止まらないのは、決して弱いことではないことに後で気付いた。
「涙が止まらないのは 出来ないからじゃない」
これは素晴らしい言葉だ。 涙が止まらないのは、人間であることの証だ。
人間らしい最も大切で根源的なものが、自分にはある、ということだ。
そこに価値を見出していい。
私は若い時、道を大幅に外れたが、いまでもちゃんとこうして生きているし、社会にも貢献しているという実感もある。何とかなるものだ。

大島ミチルさんの音楽は先のフレーズで短調へ転調する。この部分がこの曲でもっとも好きだ。
ここの部分のフレーズが最もキーとなる。
大島ミチルさんは平成21年度大会で「あの空へ~青のジャンプ~」という曲を作曲しているが、この曲は私の最もお気に入りの合唱曲の一つだ。
今回の課題曲は例年になく聴き応えのあるものだった。この曲もこの先何度も聴くことになるだろう。

さて、今日は体調が悪かったし、また3階席の後ろでステージとかなり離れていたが、全11校の中で印象に残った学校2校を演奏順に紹介させていただく。

まず演奏順4番目の島根県出雲北稜高等学校。
課題曲が良かった。この課題曲の演奏は素晴らしいと思った。
素朴だけど自然な歌い方。
ソプラノがいい。
決して力んでいないのに、このソプラノの澄んだ音色が3階席の後ろまで直線的に届いていた。
音量ではないと思う。
澄んでいて直線的に遠くまで届く音色というのは器楽でよく感じることであるが、合唱でも同じだと思った。
大音量でもうるさく感じるものがある。この違いは何なのであろう。
音を強くすればいいというものではない。
自然に力まずとも、ホールの奥まで突き抜けるような音色というものが合唱の世界でも可能であることを教えられる演奏であった。

次に2校目であるが、演奏順最後の東京都大妻中野高等学校。
この学校の演奏に初めて触れたのは、平成17年度全国大会の録音を聴いたときであった。
課題曲「風になりたい」という曲だった。
この曲のあるフレーズを聴いたとき、とても驚いたのだが、歌声の奥から表現しがたいが、とても優しいものを感じたのである。
そして次のフレーズで弱っているものを引き上げるような強いエネルギーを感じたのだ。
この時、この学校が人間の本当の気持ち、感情を聴き手に意識せずとも伝えようとしていることに気付いた。
元の作品は作詞者、作曲者のものである。
しかし聴き手に伝えるのは演奏者しかできない。

その後、東京都大妻中野高等学校が全国大会に出場するごとに、このブログの記事で取り上げてきた。

今日の大妻中野高等学校の課題曲の演奏は稀にみる素晴らしい演奏であった。
合唱、音楽演奏の本質をまさに感じた演奏だった。
聴き手に語りかける演奏。人の傷んだ気持ちを和らげたいという気持ちが伝わってきた。

演奏者に、日常から人に伝えられる気持ち、心が何もないと、ただの上手いだけの計算された演奏に終わってしまう。
このような演奏はいくら上手くても何度聴いても感動することは無い。
大妻中野高等学校の演奏はこのような演奏とは全く本質的に違う演奏なのだ。
つまり合唱とか音楽演奏とは、演奏者の人間そのものなのだ。
ここが最も大切なところ。
その演奏者の人間が発する、心の深いところから出てくる本物の感情に、聴き手の心が共振するのである。
聴き手の心の深いところで長い間凍っている感情を引き出す力を持った演奏が本物なのだ。
音量や音色がどうのこうのとか、ここはこういうように表現しようとか頭で計算して組み立てる演奏がとても色あせて感じられてくる。
そのような演奏は、金賞を取ろうと野心的になっているから、演奏に力みが出たり、何よりも演奏にそのような作為性が少しでもあれば、聴き手に無意識に感じ取られるものである。

自由曲の「アンソロジーⅠ」から ~序・泣いているきみ~(作詞:寺山修司/谷川俊太郎、作曲/三宅悠太)の演奏も同様に素晴らしかった。

今日家に帰ってから録画した大妻中野高等学校の演奏を改めて聴いた。
目の輝き、自然な感情の発露、人の純粋な根源的なもの。
音の強さは物理的な音量の大きさではなく、実は演奏者の感情エネルギーの強さだと分かる演奏。

長い間このような演奏スタイルはなかなか評価されてこなかった。
今日、大妻中野高等学校の演奏が評価されて私も嬉しく思う。

今日の全国大会は終わったあとの後味が例年に無く良いものだった。
演奏者たちには、賞にこだわることなく、もっと根源的なものを学んで欲しいと思った。
合唱だけではいい演奏は望めない。
文学を読んだりや映画を観たり、絵画や音楽でも器楽を聴いてみたり、また、日常生活でいい人との交流を持つとか。感受性の豊かな時に、いろいろチャレンジして欲しい。

賞を得ようと思ったら、必ず失敗する。
賞は結果である。
賞をもらった時は素直に喜んでいい。しかしそれが全てではない。ごく一部のことに過ぎない。
賞の結果が正しいとは限らない。

大切なのは人がどう評価しようが、自分の演奏スタイルが何であり、その演奏スタイルが本当に自分にとって確固たるものであると感じることだ。
それが分かるようになれば自信を持っていいと思う。


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