つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

公園の神秘と感動。

2021年07月18日 15時15分15秒 | 自然
                 
閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声

山深く森に囲まれた寺院。
世俗とかけ離れたそこで、ただ蝉だけが命を燃やしている。
やがてその声も遠くなり、私の心は幽玄へと誘われてゆく。

「松尾芭蕉」が山形県の寺を訪れ、この句を詠んだのは、
元禄2年(1689年)の5月27日と言われる。
新暦にすると7月13日頃。
梅雨明け間もない時期。
つまり岩に染入っていた声の主は「ニイニイゼミ」と推測できる。

ニイニイゼミは、梅雨明け頃から出現する早い種類だ。
大きさは20~24mm、翅の端までは35mm程度。
灰色のまだら模様は樹皮に溶け込んでしまい目立たなくなる。
今朝、散歩中に抜け殻を見つけた。



ニイニイゼミの抜け殻は、全身が泥だらけ。
他は外皮が露わになっているのが殆どなのに、一線を画している。
泥被りの理由は、水分を多く含んだ土中で過ごすためとか、
小さな個体の乾燥を防ぐためなどと考えられているが、よく分かっていない。
とにかく、小指の先大ほどのサイズで実に可愛らしい。

ニイニイゼミは4~5年あまりを暗闇の中で生き永らえ、
夏の初めに太陽の下へ出る。
そして、サナギを経ず成虫にメタモルフォーゼ。
当たり前だが、僕たち人間とは、まったく違う。

それは、神秘的だ。
生き物は逞しく、神秘に満ちている。



例えばコレもその一つだと思う。

今朝ニイニイゼミの抜け殻を発見した場所、
「しらとり児童公園」の入口から中を撮影した写真である。
中央・奥の立木に注目していただきたい。
わずか半年前の姿形は別物。
すっかり枝葉を切り落とされていたのだ。



物も言えず、動いて逃げることも出来ない樹木は、
再生力、治癒力に優れている。
傷口で細胞分裂が始まり、細胞が増殖。
そこで、コルク組織が形成されて修復。
一旦はすってんてんになった状態から、
葉を生やし、枝を伸ばし、甦る様子は感動すら覚えてしまうのである。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏のご挨拶。

2021年07月17日 13時00分00秒 | 日記
              
拙ブログをご覧の貴方様へ。
暑中お見舞い申し上げます。

北陸は例年に比べ早めの梅雨明けとなりました。
連日うだるような暑さが続いています。
今年の列島上空は大気状態が不安定のようですね。
そちらはいかがでしょうか。
くれぐれもお身体ご自愛くださいませ。

さて、年々夏の厳しさを感じてしまうのは寄る年波のせいなのか、
それとも地球温暖化のせいなのか。
加えて「コロナ禍」も長くなりました。
個人的には「TOKYO 2020」後が心配です。
どうも夏空のように晴れやかな気持ちになれないのが正直なところです。

そこで、とりあえず「暑気払い」。
水浴びなどで体を外から冷やしたり、冷たいモノで内から冷やすなどして、
溜まった熱気を取り除くことを言いますが、
今回は拙作で、ほんの少しでも凉を感じてもらえたなら幸いです。


   題「アイスキャンディーとビキニガール

「ビキニ」とは、胸と腰だけをカバーするツーピース型の女性用水着。
発案者は、フランス人「ルイ・レアール」。
1940年代半ば、ビーチを眺めていた彼は、
肌をキレイに焼くためワンピース水着の端をまくり上げる女性が少なくないことを発見。
胴体を露出するデザインを思い付いたという。

だが既にツーピースの水着はあった。
「これ以上分割できない」という意味で「アトム」(原子)と名づけられたそれは、
「最も小さい水着」として売り出されていた。
--- とはいえ「アトム」は、おへそが隠れるボトムサイズ。
対する「レアール」版の布面積は、もっと狭く小さい。
史上初のへそ出しルックである。

発表直前、1946年7月1日。
アメリカが太平洋中部に浮かぶマーシャル諸島のビキニ環礁で原爆実験を行う。
そのニュースを耳にしたアイディアマンは、極小水着の“衝撃デビュー”を演出するため、
破壊的な威力を連想させるため「ビキニ」と命名。
“セクシー・アトミックボム”がビーチを席巻したのは、ご存じの通りである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<追記アリ>賭けたり、競ったり、乱れたり。

2021年07月12日 00時11分00秒 | 賭けたり競ったり
        
<はじめに>
今年も列島各地で大雨による被害が出ている。
熱海の土石流は人災が後押しした格好だが、九州、関東などはかなりの雨量と聞く。
ここ北陸も他人事ではない。
拙ブログをご覧の皆様の安泰を願っています。
--- では、お気楽な本編へ。

<本編>
今夜(2021/07/11)、香川県の「丸亀競艇場」に於いて
「全国ボートレース甲子園競走」優勝戦が行われる。
これは、令和に入ってから新設されたG2レースで、今年が第3回と歴史は浅い。
施行者の意図を反映した「企画大会」と言っていいかもしれない。

 

「全国高等学校野球選手権」をマネて、都道府県ごとの出身選手を選考。
「○○県代表レーサー」と銘打つ47名に、施行者推薦を加えた計52名が覇を競う。
優勝者には「深紅の大優勝旗」と、翌年のSG大会への出場資格が与えられる。

 「甲子園?!」
 「持ち回りの大優勝旗?」
 「公営競技にアマチュア野球風の演出?」
 「高野連に怒られないか?!」

正直、最初は随分奇妙に感じた。
しかし、ヒトは順応力で極地から熱帯まで生息域を広げてきた生きもの。
随分、慣れてきた。
それどころか、実は、心中まあまあ盛り上がっている(苦笑)。
何しろ、今夜のポールポジションに陣取るのは“上州のポイズンキラー”なのだ。
 


 1号艇:毒島 誠(群馬代表)
 2号艇:峰 竜太(佐賀代表)
 3号艇:太田和美(奈良代表)
 4号艇:平高奈菜(愛媛代表)
 5号艇:馬場貴也(和歌山代表(※))
 6号艇:桐生順平(福島代表)
(※馬場は京都出身だが、和歌山出身レーサーに該当レベルが不在の為、
  近畿エリアの和歌山枠で出場。つまりムリクリである)

今節「毒島」のパートナーとなったモーターは、
「今、日本で一番出ている」との声が高い評判機。
戦前から優勝候補の筆頭に挙げられていた。
果たして初日からきのうまで、そのポテンシャルを遺憾なく発揮。
人機一体となった素晴らしい走りで、勝利の山を築いてきた。

【鬼に金棒、毒島に丸亀64号機】

そう評して差し障りない。
かなり高い確率で優勝するだろう。
もちろん、勝負事だから何が起こるか分からない。
波乱の結着だってあり得る訳だが、今回ばかりは---。

毒島ファンの僕にとっては喜ばしい限りなのだが、
競艇ファンとしては悩ましい一面もある。
配当は低くても順当決着になると読むか。
高めの配当を期待して人気薄の決着を狙うか。
思いは千々に乱れ定まらない。



「ミニボートピア津幡」でもらった粗品
香川県「おがた食研」の「骨付き鳥味スティック」をかじりつつ、
逡巡している最中である。

<追記:国士無双>

施行者の意図を反映した「企画大会」--- 第3回「全国ボートレース甲子園競走」は,
予想通り群馬県代表「毒島 誠」の優勝で幕を閉じた。
1-2-3、三連単配当は1番人気の540円。
もちろん的中した。
盛大な当たり負けではあったが。



他艇に影も踏ませぬ「圧勝」に、素直に心から拍手を贈りつつ思った。
「これがSGだったら、グランプリだったらもっと良かったのに---」

「毒島」は大舞台での抽選運が悪い。
中の下~ワーストクラスの劣等生モーターを引き当てて、
整備を繰り返しながら戦い、あと一歩で涙を呑むケースが珍しくない。
今節のように優等生に恵まれれば、こんなに大活躍できるのだ。

この経験が「毒島」にとって有意義なものになるよう願う。
目指すは国士無双。
日本一の頂である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津幡の山間に佇む、昭和。

2021年07月10日 16時45分45秒 | これは昭和と言えるだろう。
               
僕が在校生だった当時(昭和50年代初頭/1970年代後半)、
母校「津幡中学校」には「木造校舎」が残っていた。

学校としての役割は既に終えていたが、一部施設は現役。
剣道部員の僕は、ギシギシと音を立てる渡り廊下を踏みしめ、
毎日、旧校舎の道場へ通ったものである。
もちろん冷暖房などなく、整備も満足ではなかった。
薄暗く、隙間風も吹き込む。
長い間に染み付いたであろう臭いもしたし、
所々雨漏りもしていたと記憶している。
だが、僕は、そこが嫌いではなかった。
不自由・不具合な諸々は、風雪に耐えてきた時が醸す風合いとして捉えていたのだと思う。



令和の今、津幡町内で木造校舎が残るのは、ここだけかもしれない。
「津幡町歴史民俗資料収蔵庫」として活用されている旧「吉倉(よしくら)小学校」だ。

明治 7年、創立(当時:吉倉村)。
昭和25年、画像の校舎落成(当時:笠谷村)
昭和29年、津幡町との合併を機に津幡町立吉倉小学校と改称。
昭和58年、廃校。前述の収蔵庫に転用。

建物の中には、農具、牛馬用具、照明用具、教育機材、衣類など、
民俗的な各種資料が保存されているという。
観覧のためには希望日の2週間前までに「れきしる」へ申請が必要。
内部の見学は次の機会に譲り、今回は外から眺めることとしたい。



推定、縦15メートル、横10メートル。
わずか5つのコースが設けられた小さなプール。
かつては子供たちの歓声が木霊したであろう場所だ。





正面玄関前には、
「二宮金次郎(にのみや・きんじろう)」像と
「乃木希典(のぎ・まれすけ)」像。
前者はご存知の方も多いだろうが、後者について簡潔に補足。

「乃木希典」は、明治時代に活躍した軍人。
嘉永2年、長州藩(現:山口県)江戸上屋敷で出生。
陸軍大将として、日露戦争の戦局を左右する「旅順攻囲戦」を指揮。
明治天皇を慕って殉死したことでも知られる。
学習院の院長時代に昭和天皇の教育係を務める教育者の側面もあった。
評価様々あるが、いわゆる戦争の英雄と言っていい。
没後「乃木神社」ができ、軍神に。
この像が建った頃、偉人として勇名をはせていたのは想像に難くない。

また、殉死を悼み、ゆかりの地が「乃木坂」に改名したのは有名な話。
今では地名・駅名として。
アイドルグループ名として。
高級食パンとしての方が一般的だろうか。



ちょうど「アル・プラザ津幡店」に出店中「乃木坂な妻たち」。
トレンドの発信地、スタイリッシュで文化的な「乃木坂」をイメージし、
家族を支える主婦(妻)に選ばれる店にしたいと命名された札幌発のフランチャイズ。
回りまわって自分の名前がこんな具合に引用されるとは。
江戸生まれ明治男の軍神は、さぞビックリしているだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本津幡駅の節目に寄せて。

2021年07月04日 10時34分34秒 | 鉄道
                  
拙ブログには度々登場する「本津幡駅」。
散歩の立ち寄り定番スポット。
特に春は「一本桜」の満開ぶりと併せてよく撮影している。
花の季節はとうに過ぎ、今は葉桜。
覆いかぶさるように茂る緑の奥に見える木造の建物が駅舎だ。



きのう、一歩足を踏み入れた時の印象が違った。
待合に人がいないのは珍しくないが、随分「がらん」としている。
空間のスペースは変わらないのに、広くなったような気がする。
掲示板の案内を読み合点がいく。
「無人駅」になっていたのだ。





本津幡駅の歴史は古い。
明治31年(1898年)、津幡仮停車場として開業。
明治35年(1902年)、現在地に移転し本津幡駅として再開業。
「津幡町史」に昭和元年~29年までの利用状況が、
折れ線グラフで掲載されている。



上は「乗る人」と「発送する貨物」。
下は「降りる人」と「到着した貨物」。
(※注:縦軸の利用人数は上下逆転)
太平洋戦争の開戦に合わせ、乗車・降車共に急増し、終戦をピークに減少している。
--- 往時の本津幡駅前では、
出征兵士を送る日の丸の小旗が打ち振られたり、
勤労奉仕に出発する少年少女の姿があったのだろうと想像する。

貨物も発送・到着共に昭和20年をピークに下降。
輸送手段として自動車(トラック)への転換が窺える。
昭和50年(1975年)、開業時から行われていた貨物の取扱を廃止した。



もう一つ「津幡町史」掲載の棒グラフ。
昭和36年の町内各駅利用者数を比較したものだ。
本津幡駅が堂々のトップ。
グラフ上、今と殆ど変わらない駅舎は、
120年近く多くの人を送り出し、多くの人を迎え入れてきた。
もちろん、僕もその1人である。



生家に自家用車がなかったこともあり、
遠方へ出かける際の交通手段は鉄道が主。
本津幡駅から乗り込む鉄路は、子供の僕を日常から連れ出してくれる入口だった。
当時は上下線を渡す陸橋はなく、一旦線路に降りてホームを移動した。
また、当時は電化以前。
ローカル線はディーゼルの匂いと共に走り抜けていた。
更に、当時の切符は硬券。
窓口で行き先を告げ、料金と引き換えに手渡された厚紙に、
改札バサミで切り込みを入れてもらった。



そんなやり取りをした一角も固く閉じたまま。
これも時代の流れ。
致し方ないのだが、記憶に残る光景が消え寂しさを覚える。
忘れてしまわないためにも、これからも時折、本津幡駅を訪れ、
眺めることにしよう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする