自転車のサドルの上で・・・

サドルの上での気ままなひとりごと

美術館へ

2024-09-22 | Weblog
 今、描いている楯が崎の絵が思うように描き進められていない。ので、最近は絵に向かう時間が多い。
 細部が出来ていない箇所が多く、10月下旬に出品しようと思っているが、例え完成しなくとも、おおよその格好はつけないと、と焦っている状態。
 従って、自転車に乗る時間を短くして、と思うようになっている。
 さわさりながら、息抜きも必要。と、今日は県立美術館へ行ってきた。長崎県美術館と三重の所有するスペイン絵画の展示(15cから現代の作品まで)という訳で、そうは期待しないが、長崎県が所有する、アントニオ・ロペス・ガルシアの絵が一枚あり、観たかった。ガルシアは現代のスペイン・リアリズムの巨匠である。
 見出しの画像はミランダという人が1650年前後に描いた、聖アンナ(ヨアキム、ヨハネ)と聖母子の絵。純然たる宗教画なので、比べるのもどうかだが、模写したダ・ヴィンチの絵(聖アンナと聖母子)とは大違いだ。100年以上前に描いた、ダ・ヴィンチがいかに芸術的に偉大であったか、という事が良くわかる絵でもあった。
 ガルシアの絵はリアリズムの表現について、色んな示唆を頂いた感じだった。勉強になった。(この絵は撮影禁止のため掲載できず)
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「はつかり」

2024-09-19 | Weblog
 画像は、引き続き鉄道ネタ。
 高校2年の時の夏休み、東京の兄の大学の寮に3週間ほど寝泊まりして遊学していた事がある。見出しの写真はその時撮影した、上野駅を出発した常磐線経由の青森行特急「はつかり」号、キハ81系。
1968年で、10月には東北本線の電化完成で、東北本線経由となり、気動車は廃止される。それが分かっていたので、最後の姿をカメラに納めた。その後、この車体は、回り回って、紀勢本線の「くろしお」号として一時活用されることとなる。流線型を形どったのだろうが、顔が犬のようで愛嬌がある。
 今朝は、椿~水沢~和無田の定例コースサイクリング50㎞。和無田池の姫こうほねは、まだ咲いていた。今年の夏はことのほか暑く、我が家の花々も異常事態。これまで栽培してきた夜顔も、花が上手く咲かないし、雄しべだけの花や、めしべだけの花があったりして、種が全くできない状態。気候変動は、種の存続にも大影響なのかしらん、と。生態系がおかしくなっていくのかも・・・と。
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忍法”穴抜け”

2024-09-16 | Weblog
 前回に引き続き鉄道ネタ。
 加太トンネル(930m)は加太側から柘植側に向けて上り坂25パーミルの蒸気時代としての最大勾配である。明治23年開通のトンネルで狭い。ここを登るSLにとっては命を懸けたトンネルである。風は低い所から高い方へ流れる。下には煙は流れず、トンネル内に、煙は充満する。
 63年ほど前、父親が佐那具の病院へ入院していた頃は、SLがけん引する客車に乗って佐那具へ行ったが、トンネル前には箱のすべての窓を閉めなければ、大変なことになると。お客はほとんど乗っていなかったように思うが、開いている窓を見つけ、閉めるのが大変だった。
 このため、加太側の入り口には排煙シャッター(幕)が設置されている。列車がトンネルに入ったあと、幕を閉めて、列車後ろを真空状態にし、煙が前に行かないようにする仕組みである。(それでも客車内にはモヤッとした煙が侵入し立ちこめる。幕のない時代はどうであったのだろう・・・)
 見出しの新聞は1969年か70年の記事と思うが、機関士は防毒マスクをして運転しなければならない、とある。昭和3年、敦賀の柳ケ瀬トンネル内では登りに弱い性質のSLがトンネル内で空転し、死亡事故が起きている。この記事によれば、「排煙幕」が大正9年には手動で、昭和30年に動力化されたとある。(下の写真は1974年4月撮影。中在家信号場付近の山から望遠で。これは柘植から下ってきたD51貨物列車。坂を下ってくる場合は幕を使用しない。この幕番人に4人が交替で業務にあたっていたとの事。写真隅には物干しに布団が干してあるのが見える。)

 今日は最高気温32度との予報。そろそろロングにも備えなければ、と思って、7:40頃家を出て、下庄~グリーンロードで白山まで、亀が広~久居~中勢BPで11:10頃帰宅。昔は3時間の練習コースだったが今は30分余計にかかるし、ムシムシの天気だし、くたびれました。走行76㎞。
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機関区の思い出(2)

2024-09-12 | Weblog
 6日付けのブログで、亀山機関区のC50について触れ、遠方からのC50の写真を載せた。この写真は遠足のバスの中から撮った写真(国一号、亀八食堂の近く)で高校の時だ。
 また、地下道の写真も載せたが、ここは貨物ヤードがあったところで、今は太陽光発電の敷地となっている。太陽光発電の作業用道路を残して、地下道はオープンになっているが、昔は全面線路下で、暗い地下道だったのだ。(高さ1.7m)
 C50はハチロク(8620)の後継機だが、できた時は昭和4年、既にC51やC53が出来ており、軽量貨客用としての役割だが、改良で軸重が重くなり、ローカル線では難しい面もあったようだ。
 当時、亀山には構内入れ替え用に75号と76号の2機がいて、我々は「兄弟」と呼んでいた。朝10時からは点検整備の時間となって、数人がかりで点検、清掃をしていた(みだしの写真 1969年7月)デフ(徐煙板)なしで、スポーク動輪の古風な感じ、また、可愛い姿が気に入っていた。今見ても懐かしい。
 今朝は、椿~水沢~和無田の定例50kmコース。絵の会の先生宅へ来週予定の役員会資料を届けることを兼ねてサイクリング。
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熱中症のリベンジ

2024-09-10 | Weblog
 夏の時期は、晩酌に500mlのビールを夫婦で飲んでいる。自分は350ml程度で、追加で、冷蔵庫に残っていた酒(田光 喜雨)5勺(100ml程度)を飲んだら、バタンキューで居間で寝てしまった。
 酒の飲める程度はこんな程度である。
 そんな事で、昨夜はサイクリングのブログを書くことができなかった。
 昨日は、7月下旬に走り、家に帰ったとたんに熱中症になったコースをたどってみようと、8時前に家を出て、錫杖湖~柚の木峠~加太、関のコース。
 一旦錫杖湖まで登って、水補給。前回の事があるので、今日はゆっくり、水も飲みながらのんびりと峠を登る(見出しの写真)。ほとんど日陰の涼しい上り坂なので、前回は水を飲む気にもならなかった。
 関で水補給、天気も雲も多く、蒸し蒸しはしているが、それほど暑くもなく、体調も問題なく、快調に11時ごろ帰宅。走行63㎞。熱中症のリベンジ。
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機関区の思い出

2024-09-06 | Weblog
 今日の朝はずいぶんとしのぎやすくなった?と思ったのもつかの間、陽が高くなると暑い日となった。
 午前中サイクリングと、8時前に家を出て、まずは椿神社。東海自然歩道(見出しの写真)で亀山へ抜ける。白木の7月一杯で閉店したうどん屋(池田)に名残惜しく寄ってみる。大変流行っていた店だ。後継者があれば譲ると言っていたけれど、どうなったのかな。交差点を右折して、忍山大橋手前から鈴鹿川左岸へ降りる。この間立ち寄った松月地蔵を再度見たくて寄ったのだが、国道1号へ抜ける地下道を発見した。関西線と、亀山運転区(昔は「亀山機関区」と言っていたが)の線路の下の半地下道だ。(下の写真)
 亀山機関区は高校の時、何度もSL写真を撮りに訪れた。ホームから直接、詰所へ行って、住所氏名を記載すれば、自由に立ち入れた。勿論、安全には自主的に注意し、作業中の車両からは安全確保優先、線路を横断する時は指差し確認は常識だった。SLの運転席にも座った事もあるが、装置には触らないのはルール。自由に立ち入りできたのは、今では考えられないだろうなぁ。
 引き込み線では車両の入れ替えにC50が2台働いていた。(下の写真)今や、貨物列車などコンビナートのタンク車以外、見ることもなくなった。
 しばし、引き込み線を見ていると、紀勢線の4両編成の気動車がやって来た。運転手が前後移動して戻っていくだけで、牽引でないので、面白みがないなぁ、と思う。
 忍山橋(下の写真)を渡って、阿野田~下庄、中勢BPで10時40分頃帰宅。走行59㎞。 



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三日休むと・・・

2024-09-03 | Weblog
 20年少し前の事か?穐吉(あきよし)敏子のピアノを聴きに行ったことがあり、先日、NHKBS4Kでの再放送を愉しく観た。現在94歳の現役JAZZピアニストの終戦後から現在までの活動を紹介する番組だ。(DVDレコーダーが新しくなってのメリットはこの4K1局を新たに見ることが出来る事(テレビは2Kだけれど)。)
 その中で『一日休むと自分でわかり、二日休むと近所の方がわかり、三日休むと聴衆がわかる』と言っていた。『指の筋肉は毎日練習しないと衰える。(家の)ピアノは1オンス半、キーを重くしてある』とも。また、『死ぬまで、前進したいなと思っている』とも。・・・元気づけられました。
 昨日は絵を描いていたので、今日は久しぶりに、午前サイクリング。台風もあったが、10日ぶりの自転車。向かい風の中、20㎞台前半で進まず、西の方面へ。まぁ、毎日乗らないと筋肉は衰えるものかも、だ。
 8月は、6回乗って、300㎞と近年最小の走行。暑い夏はロングも止めて、シーズンオフにしているとはいえ、穐吉さんになんと言われるか、と思いながら、河内渓谷忍田橋(写真)から朝津み前経由の50㎞。帰途、追い風で40㎞維持を試みるも、続かず、10日休むと、もう誰にでもわかる。
 
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すいとん

2024-09-01 | Weblog
 台風の影響もあって、チャリには乗っていない。絵の作業に根をつめているが、進捗ははかばかしくない。
 さて今日は1923年の関東大震災から101年目。小学校の頃、始業式を済ませて昼頃に帰宅すると、この日の昼食は「すいとん」に決まっていた。
 親父は震災当日、東京市深川区(現 江東区)佐賀町で3歳だった。(下の弟は生後6か月)。子ども9人の5男であった。全員、命は無事だったようだが、家は焼けた(深川区の世帯の92.7%が焼失)。震災後、被災地では「すいとん屋」が流行ったという。小麦粉を練って、団子にして、汁で食べる。身を寄せた先でも食べたのであろう・・・。
 祖父は自営業。震災後、再建の見通しもなく、兄弟は親戚などに預けられ、バラバラになったようだ。私の父やその下の弟は祖父とは離れ、母(祖母)と共に母の実家に戻った。
 その辛苦の話を聞き、「すいとん」を食べるのが家族の行事だった。
 もっとも、出汁は効いていたので、まずくはなかったが・・・。今作れば、具沢山、贅沢なものになるだろうなぁ・・・。
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戦争論

2024-08-29 | Weblog
 今、描いている絵の作業が遅れている。10月下旬の展覧会に出さないといけないが、多分、途中で出さざるを得ない。8、9割方出来てはいるが、細部の書き込みが出来ていない。
 そんなこともあって、自転車は気合が入らないが、台風のおかげもあって、絵の作業時間は取ることが出来る。といっても、それほど集中力もなく、昔買った本など再度読み直してきたりする。
 この「戦争論(上巻)」もそう。昭和49年刊で、大4年生の時購入。星一つ70円。在学中に50円から70円に大幅値上げとなった(石油ショック)。この上巻は星4つであり、280円という訳だ。(1981年に星表示は廃止)
 クラウゼビッツがこれを書いたのは1820年代。40代の時だ(刊行は本人死後、妻により1832年刊)。プロシャの軍人。上中下巻の上巻のみ買ったが、半分ほど読んだだけ。
 戦争とは何か、戦略と戦術の違いはなにか、という事を知りたかった。「(戦争は)相手に我が方の意思を強要するにあり」「戦争の目的は相手の防御を完全に無力ならしめるにある」「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」などなど。森鴎外もドイツに留学し、この本の1,2編(上巻部分)を最初に訳し、士官学校でも使われている。
 クラウゼビッツの功績は近代戦の時代において、戦争を政治の中へ組み入れた事である、と訳者は3点のうちの第1点として挙げている。
 ウクライナやガザなどの時代において、改めて読み直してみる。
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コミュニケーション

2024-08-25 | Weblog
 今日は四日市文化会館で開催されている市民の写真展と美術展へ行ってきた。
 美術展(見出しの画像)には「丘の会」としてブースが作られ、会のメンバー13人が26点(10号以下)出品していた。昨年10月下旬の丘の会展(四日市文化会館)の展示を事務局が見に来て『出品してほしい』と言われたそうな。もっとも、四日市在住(菰野もOK)に限るとのこと。市民展だからネ。絵を描いている以上、ひとりでも多くの人に見てほしい、と思うのはそのとおり。音楽でもなんでもそうだ。自己表現でもあるので、コミュニケーションの手段でもあるのだ。批評、意見は多いに歓迎だ。
 1階で開催されていた写真展には、かつて属していた写真サークルの面々の素晴らしい作品が優秀賞として展示されていたし、入選作品はプロジェクターで紹介されていたし、観ながら構図などの勉強にもなった。久しぶりに写真の先生にもあって、少しお話もできたので良かった。

 昨日は、午前中、自由が丘~和無田~西山~水沢~椿、といつもとは逆回りの50㎞サイクリング。いつもは30㎞越えで下る集落の道も、逆回りで20㎞前半では随分長い道だな、などと感じたのも当然か・・・。たまには良い。
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