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ムスリムの子ども教育10~家庭の重要性

2018年09月22日 | 預言者の教育方法

ムスリムの子ども教育10~家庭の重要性

 

ハビーブ・アリー・ジェフリー師(アッラーのご加護あれ)子どもの教育(3:37:00~最後) bit.ly/1qdyDUw

  

子育てにおける家庭の重要性

 

子育てにおいて、家庭内で、夫婦の関係がうまくいっていることはとても大切です。子どもが育つ土台となる家庭において、夫婦にとって大切なことは、どちらの意見が通るか、どちらか強く、どちらが勝つのか、という点ではありません。夫婦は、敵同士でもなければ、家庭は、戦争の場でもないからです。イスラームにおける家庭というのは、夫婦がお互いを通して、アッラーに近づくための「手段」です。夫婦にとって、家庭において一番大切なことは、いかに妻が夫を通して、アッラーに近づき、アッラーを満足させられるか、また、いかに夫が妻を通して、アッラーに近づき、アッラーを満足させられるか、という一点です。夫婦の関係において大切なことは、どうしたら相手を通して、アッラーのご満足を得ることができるか、ということです。

 

家庭がアッラーのご満足を求める手段であれば、夫婦間で意見がどんなに違っていても、相手がアッラーのご命令に背いている場合以外には、決して議論することはありません。もし意見の違いがあっても、それも、アッラーのご満足を求めるために役立て、相手が、アッラーとの関係を悪化させてしまうのでない限り、意見の相違による問題は起こりません。家庭が、夫婦がお互いにアッラーのご満足を求める「手段」となると、家庭は、夫婦二人にとっての天国になります。

夫が、外の仕事や人間関係に疲れて帰って来ると、慈悲と慈愛に満ちた妻によって、外での喧騒や疲れを忘れ、妻は、子育てや家事で疲れて、仕事から帰った夫が子どもの面倒や家事を手伝うことで、休息がとれ、お互いがお互いを必要とし、お互いがお互いを助け合う、なくてはならない存在となります。お互いがお互いを助け、それによって、アッラーのご満足を得、アッラーに近づくことができます。そうすることにより、相手にいかにして勝つか、自分の意見をいかに通すか、喧嘩と戦争状態の家庭から、協力し、協調してお互いをアッラーへと近づけることができる家庭に変わります。

 

もし相手が自分に対してまちがいを犯してしまっても、アッラーゆえに忍耐し、10回でも、100回でも、アッラーゆえに許し続けることによって、更にアッラーに近づくことができます。

(DVなど犯罪性のあるものは、アッラーから預かっている自分の身を守るために、警察やDV相談などに相談し、解決する必要があります。それに忍耐することは、相手にとっても自分にとってもよくありません。)

 

「私は20年以上ずっと妻に忍耐してきた。もう十分だ!ただ人生を無駄にしただけだったじゃないか!」という人は、「アッラーゆえに」という意味を考えていないかもしれません。アッラーのために行ったことを、アッラーが無駄にすることがあるでしょうか?アッラーのために忍耐したことを、アッラーが無視することがあるでしょうか?アッラーは、必ずその報償を、天秤が善行と悪行のどちらにふれるかわからない時(最後の審判の日)、一番その報奨が必要な時にお与えくださり、天秤を善行の方に傾けさせてくださるでしょう。

 

相手がアッラーのご満足を得られるようになるよう、アッラーゆえに忍耐し、努力し、アッラーにドゥアーし続けましょう。相手がアッラーに近づくことができるよう願って、相手がアッラーに近づくことで、必ず自分に対する振舞いが変わります。10年、相手に忍耐しても、それが、ただ相手が自分に対して良い振舞いをするのを求めてした忍耐なのか、アッラーゆえの忍耐かにより、まったく手にする物は違ってきます。相手が自分に善く振る舞うことを願ってした忍耐や努力は、もしかしたら成功するかもしれませんが、もしかしたらしないかもしれません。成功しなければ、その10年は無駄になり、何も残りません。

一方、相手の導きを望み、アッラーゆえに忍耐した10年は、アッラーのしもべの一人をアッラーへと導く努力をしたことにアッラーは大変お喜びになられ、ご満足なさり、その報償が必ず自分に返って来ます。多くの場合、それは、相手が善い状態に変わることです。しかし、もし相手の状態が変わらなかったとしても、来世では、アッラーゆえに忍耐した、アッラーに愛される人としてアッラーに会うことができます。配偶者に忍耐し、アッラーのご満足を得てアッラーの元での地位を得た模範が、預言者ヌーフ様(平安あれ)やルート様(平安あれ)であり、また夫に忍耐し、天国を約束されたのが、フィルアウン王の妻アーシア様(平安あれ)です。

 

家庭で、配偶者に対し、自分に対する振舞いを改善させようと努力するのではなく、配偶者のアッラーとのつながりを強化し、相手を通してアッラーのご満足を得ようと努力することで、本当の調和と信頼関係を得られます。自分の怒りを、アッラーゆえにコントロールすることです。結婚してから何度、配偶者に対して怒ったでしょうか?そして、相手も、何度自分に対して怒ったでしょうか?一方、配偶者との関係において、何度、アッラーゆえに、自分に対して怒ったでしょうか?私たちが、アッラーゆえに、自分の欠点、自分の至らなさに対して怒るならば、アッラーのご満足を得て、アッラーの元で最も高いレベルに達します。

 

イスラエルの民のある信者が、70年間アッラーに崇拝行為を捧げ続け、一度も、一瞬たりともアッラーに背いたことがありませんでした。ある日、彼は、男に水汲みを頼まれたので水を汲んでやった後、自分にも水を少し分けてくれないかと尋ねましたが、男は断りました。彼は、自分の家に帰ると、アッラーに嘆き、泣きました。「ああ、アッラー、私は70年間も崇拝行為をあなたに捧げ、一瞬たりともあなたに背いたことはありません。それなのに、私が水を求めたというのに、あなたは少しもくれないのですか?!」

 

そう言った後、彼はすぐに自分の間違いに気づき、言いました。

「アスタグフィルッラー(アッラーに自分の罪の赦しを求めます)。

アッラーに文句を言うというのか、悪いナフス(自我)よ!!

もし70年間、本当にお前がアッラーに誠実に崇拝行為をしていたら、アッラーは必ずお前のドゥアーを叶えてくださっただろう。

アッラーは決して不正をなさらない御方だからだ。

お前のドゥアーに対するアッラーの返答が遅れたのは、きっと自分の欠点や弱点、悪い崇拝行為のために違いない!!」

こう言って自分に対して、怒り、自分を責め、過去の70年間の非について、自分を非難し、アッラーゆえに自分を叱責しました。こうして彼が、過ぎ去った70年間を反省し、自分を叱責していると、家のドアを叩く音が聞こえました。「誰ですか?」と彼が聞くと、その時代に、アッラーから遣わされた預言者が立っていました。そして、彼にこう言いました。「アッラーが私に、貴方に平安を送るように、と命じました。そして、アッラーは、貴方にこう伝えるよう言いました。

『貴方が、私のために自分を叱責した一時間は、私にとっては、貴方の70年間の崇拝行為よりも価値がある。』」

 

私たちが、自分の怒りを、アッラーゆえに、自分に向け、叱責するならば、アッラーにどんどん近づくという大きな成果を生みます。私たちの中にある「怒り」という感情は、アッラーゆえに怒るために、アッラーがお与えくださったものです。間違えてはいけないのは、怒りは、自分のために、ではなく、アッラーのために、怒るために使うものだという点です。

家庭内で、この実践を始めることができれば、家庭に、調和に満ちた幸せが行き渡り、家全体が、アッラーへの案内となり、子どもをそこで産み、育てる準備ができます。こうして、その準備ができると、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)がおっしゃった状態を、その家庭で実現することができます。

《結婚し、子どもを増やしなさい。最後の審判の日に、私はあなた方のことを、他の共同体に自慢するでしょう。》イブンハッバーン伝承


ムスリムの子ども教育9~子育てにおける女性の重要性

2018年09月22日 | 預言者の教育方法

ムスリムの子ども教育9~子育てにおける女性の重要性

 

ハビーブ・アリー・ジェフリー師(アッラーのご加護あれ)子どもの教育(3:27:13~37:00) bit.ly/1qdyDUw

  

子育てにおける女性の重要性:

 

男性に比べ、女性は、理性にもまして、思いやりや情緒面に優れている、という特徴をアッラーから授かっています。それは女性の欠点でも欠陥でもなく、子育てをする上で、子どもの傍にいて、うまく世話をすることができるというアッラーから与えられたすばらしい長所です。男性は、どんなに子どもに対して慈愛を表し、愛情をかけたとしても、この点で、母親に追いつくことができる男性は稀でしょう。赤ちゃんがおもらしした服や床を掃除する時、母親のように赤ちゃんに怒ったりせず、愛情深くできる父親がどれだけいるでしょうか。一回や二回はできるかもしれませんが、毎日、毎日何回も続くことに、父親は耐えられないでしょう。先生が見かけたご夫婦は、赤ちゃんのうんちの匂いに、父親が、臭い!と言った時、母親は、私にとってはどんな香水よりもいい香り💛、と言っていたそうです。これには、父親は完敗、子育てにおいて、父親よりもすごいものを母親にアッラーが特別に与えているのは間違いありません。アッラーは、赤ちゃんが安全に安心して育つことができるように、母親に、深い愛情と豊かな情緒を与えてくださいました。

 

「イクメン」のように、育児を得意とする父親もいることを否定する必要はなく、もちろん個人差もありますが、一般的に、女性はアッラーが、人類の子孫継承のための子育ての大役を任せることができるよう、愛情深く、情緒豊かにお創りになられました。一方、男性は感情に左右されず冷静に判断することに長けているといえます。

 

この男女に置ける理性と愛情の組み合わせは、アッラーへと近づく道においても象徴的です。理性ある男性が、アッラーの唯一性に確信を持ち、アッラーのしもべとして謙虚にアッラーに崇拝行為を続けることにより、アッラーは、彼に、アッラーの元から、彼に欠落している情緒と愛情をお与えくださり、アッラーの光が彼の理性を包むと、彼は、その光により、普通の男性にはない情緒と愛情を与えられ、とても慈悲深い人となります。誰よりも理性に長け、知的で聡明であられた預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)に、アッラーがご慈悲をお与えくださり、【万有への慈悲として】(クルアーン21-107)この世に遣わされたように。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、最も慈悲深いお方でした。慈悲は、理性ではなく、愛情や情緒から発生するものです。

 

その愛情や情緒に恵まれた女性が、アッラーのご満足を求めるために、それを正しく使う時、アッラーは、彼女に、知性と理性をお与えくださり、誰よりも理性的な人となることができます。子育てにおける、母親の愛情の使い方は、例えば、子どもが礼拝を怠った時に、父親に言うと怒られるから、子どもをかわいそうに思い隠してあげたい、というような場合、それが愛情の正しい使い方か間違った使い方かを立ち止まって考えます。この場合、子どもの怠惰を隠すことは、アッラーからもらった愛情を、アッラーのお怒りをかうために使っていることになってしまいます。母親の子どもへの愛情によって、子どもが礼拝を怠るのを習慣化させてしまうからです。アッラーのご満足を求めるために、アッラーからもらった情緒や愛情を正しく使うことが大切です。

 

イスラームにおける偉大な女性たち:

 

イーサー様(平安あれ)の母親であるマルヤム様(平安あれ)の徳:

 

アッラーから知性を与えられたイーサー様(平安あれ)の母親であるマルヤム様(平安あれ)が、父親のザカリーヤ様(平安あれ)に話しかけるところがクルアーンにあります。

 

【それで主は、恵み深くかの女を嘉納され、かの女を純潔に美しく成長させ、ザカリーヤーにかの女の養育をさせられた。ザカリーヤ一が、かの女を見舞って聖所に入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マルヤムよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これはアッラーの御許から(与えられました)。」本当にアッラーは御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。】クルアーン イムラーン家章3-37

 

マルヤム様(平安あれ)がいた部屋は、鍵のかかった高窓がひとつあるだけで、梯子を使わずには入ることができない場所で、父親のザカリーヤ様(平安あれ)がそこから食べ物や飲み物を差し入れていました。あるタフシール(クルアーン解説)によると、マルヤム様(平安あれ)のところにあった食べ物は、冬には夏に採れるフルーツで、夏には冬に採れるフルーツでした。もちろん当時は冷蔵庫も冷凍技術もなく、理性では説明のつかないことでした。ザカリーヤ様(平安あれ)は、自分しか鍵を持っていない部屋に、自分が差し入れたのではない食べ物が置いてあること、また、季節外の果物があることを理解できません。マルヤム様(平安あれ)は、そこで理性的に、こうおっしゃったのです。

 

【「これはアッラーの御許から(与えられました)。」本当にアッラーは御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。】クルアーン イムラーン家章3-37

 

アッラーに近づけば近づくほど、アッラーは与えて下さいます。理屈では考え付かないところから、理屈では説明がつかない方法で。アッラーに不可能なことはないからです。それを十分ご存知だったマルヤム様(平安あれ)は、理性的に、父親にそう告げました。歴史的にもアッラーを愛し、アッラーに近づいた女性たちは、驚異的な理性と知性の持ち主でした。

 

アッラーに最も愛された、理性的な預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が、天使ジブリールに恐れおののき、身震いしながら家に逃げ帰った時に、理性的に、論理的に、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)をなだめ、やすらぎを与えたのは誰だったでしょうか。私たちの母である、奥様のハディージャ様(アッラーのご満悦あれ)です。

 

ハディージャ様(アッラーのご満悦あれ)の徳:

 

預言者ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)が、恐れおののいて帰宅し、ハディージャさまに「私を包んでください、包んでください !私は自分が恐ろしい。」と訴えた時、ハディージャ様(アッラーのご満悦あれ)は、動揺する夫を抱きしめ安心させ、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は彼女に洞窟で起こったことを話しました。最も身近で最も預言者さま(平安と祝福あれ)の高貴な性格の数々を目の当たりにしていた彼女は、自信と信仰と確信を持って、きっぱりとこう言いました。

 

「いいえ!アッラーに誓って。アッラーはあなたを辱められません。

あなたは親族を大切にし、誰にでも親切にし、貧者に施し、客人をもてなし、

不幸に見舞われた者を助けてきたではありませんか!!」

 

ハディージャ様(アッラーのご満悦あれ)の言葉はとても論理的です。この知性あふれる論理的なこの問いかけによって、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は平静を取り戻したのです。

 

 ハディージャ様(アッラーのご満悦あれ)は夫を信じ、イスラームに入信しました。そして、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)に起こったことの真相を確かめるべく、学者でもあるいとこのワラカ・イブン・ナウファルのもとへ、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)を連れて赴き、洞窟で見たことをワラカに話すと、ワラカは言いました:

 

「私の魂を手にする御方にかけて。それはムーサーを訪れたナームース(啓示伝達の天使、ジブリール)じゃ。やがて人々はそなたを嘘つき呼ばわりし、危害を加え、そなたをここから追い出して、戦いを挑んでくるだろう。」

 

  預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、クライシュ族でも(高い)地位で、人々から「信頼おける人」、「誠実な人」と呼ばれていたため、その言葉にとても驚き、「彼らが私を追い出すのですか?!」と尋ねました。ワラカは「その通り。そなたに起こったようなことに見舞われた者で、敵対されなかった者はいない。ああ、もしその日までわしが生きていられたら、大いにあなたをお助けできるのだが。」その後まもなくしてワラカは亡くなりました。

 

ハディージャ様(アッラーのご満悦あれ)は、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)に啓示が降りたとき世界で一番最初にムスリムとなった方でした。ある歴史家は、ハディージャ様(アッラーのご満悦あれ)のことをこう言っています。

 

「愛したゆえに結婚した夫に捧げた彼女の信仰こそ、

今日、その信者が世界の人々の7人に1人※と数えられるほどになったイスラームの、

その初期の時点での信仰を支えたものなのだ。」  (※現在は、世界人口の4人に1人はムスリムです。)

 

アッラーとその使徒を一番初めに信仰した彼女は、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)の傍で力となり、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)を一生涯勇気づけました。現在でも、特に日本では多くの方が、ご結婚がきっかけで入信されています。そういう方たちは、すべてこの天国の住人、ムスリム達の母と呼ばれる、ハディージャ様(アッラーのご満悦あれ)のスンナに従っていることになります、インシャーアッラー。

 


ムスリムの子ども教育8~夫婦の意見の相違(2)

2018年09月16日 | 預言者の教育方法

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

ムスリムの子ども教育8~夫婦の意見の相違(2)

 

ハビーブ・アリー・ジェフリー師(アッラーのご加護あれ)子どもの教育(3:11:24~27:13) bit.ly/1qdyDUw

前回は、子どもの教育の土壌・家庭における夫婦の意見の相違についてお話しました。今回もその続きです。

 

子どもの教育の土壌・家庭における夫婦の意見の相違:

 

怒りについて、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はこうおっしゃっています。

 

≪本当に怒りはシャイターンからで、シャイターンは火から創られ、火は水によって消されます。ですから、もしあなた方の一人が怒った時には、ウドゥーをしなさい。≫アブーダーウード伝承

 

怒っている時には口を閉じること、怒りを抑えることが本当の勇気であること、イスラームは、怒りの対処法をたくさん教えてくれています。

 

では、なぜ、アッラーは怒りを私たちにお授けになられたのでしょうか?アッラーが、無駄なものを作ることはありません。

 

【あなたがたは、われが戯れにあなたがたを創ったとでも考えていたのか。またあなたがたは、われに帰されないと考えていたのか。」アッラーは、尊くて気高い、真実の王者である。高潔な玉座の主を置いて外には神はない。】クルアーン 信者達章23-115~116

 

アッラーがお創りになられたのですから、怒りや欲望にも、アッラーの英知があります。私たちのナフス(自我)は、時には、人として、弱さに捕らわれたり、飽きてしまったり、臆病になったり、不可能なことがあったり、怠けたり、善くない感情が湧くこともあります。そういう状態になった時に、欲が沸き上がり、その欲に付従ってしまうことがあります。しかし、もしナフス(自我)が教育されれば、アッラーのお望みになることを望むようになります。最初は、自分のナフス(自我)との戦いです。欲が、「これをしなさい」と言い、そのことがハラームであったなら、私たちは欲に向かって、「ダメ!!」と言わなければなりません。

 

強い男性というのは、自分の妻のすることに、「ダメだ!」という人ではなく、また、勇敢な女性というのは、自分の夫の要求に対して、「ダメ!」と言い放つ人のことではありません。男性でも女性でも、本当に強く勇敢な人とは、自分のナフス(自我)に向かって、「ダメ!!」と言うことができる人です。ナフス(自我)がとてもそれを欲している時に、ナフス(自我)に対して、「ダメ!!」と言えること、それが本当の意味で強い人です。

 

アッラーのご満足を求めて、ナフス(自我)が悪いことを欲した時に「ダメ」と言えるよう、心のジハードの訓練をしていくと、アッラーがそれを見ていてくださいます。アッラーのためにしたことを、アッラーが放っておくことはありません。必ずアッラーはその努力をご覧になり、心にアッラーの光が入って来ます。すると、そのアッラーの光によって、欲はアッラーのお望みのことを望むようになります。悪い欲は死ぬのです。そして、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のおっしゃったような状態になります。

 

≪愛着までもが私のもたらしたものに相応しくならないかぎり、本当の信者とはいえない≫ イマーム・ンナワウィー編「40のハディース」

 

心のジハードによって、アッラーが、このアッラーの望むことを望む「愛着」を私たちの心にお贈りくださいます。心のジハードによって、心がアッラーをいつも唱念するようになると、アッラーのお望みのことを望む、善い欲、「愛着」が心の中に育成されます。そして、アッラーがお望みのことを望む欲を持つしもべを、アッラーはご覧になり、アッラーが、彼の欲することを急いで行うようになります。

 

アーイシャ様(アッラーのご満悦あれ)が、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)にこう言われた通りです。

≪あなたの主は、あなたの欲することを急いで行われるように見えます。≫ブハーリー伝承

 

この状態では、彼が望むものをすべて、アッラーがお与えくださるのです。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が、キブラの変更を欲していた時に、アッラーがお与えくださったように。

 

【われはあなたが(導きを求め)、天に顔を巡らすのを見る。そこでわれは、あなたの納得するキブラに、あなたを向かわせる。あなたの顔を聖なるマスジドの方向に向けなさい。あなたがたは何処にいても、あなたがたの顔をキブラに向けなさい。】クルアーン 雌牛章2-144

 

この下線の部分は、「تَرْضَاهَا」「あなたがそれに満足する」という意味です。私たちが今、礼拝の時に向かうキブラとしているカアバ神殿は、以前は、キブラではありませんでした。ムスリム達のキブラは、最初、パレスチナのアクサーモスクでした。しかし、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)がお望みのように、アッラーは、キブラをカアバ神殿に変更なさいました。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はこうおっしゃいました。

 

≪どれだけ多くの誰にも注目されないような、ぼさぼさの髪をした埃だらけのボロ布をまとった者が、アッラーに誓いを立てたら、アッラーは必ずそれを叶えてくださるであろうか。≫ティルミズィー伝承

 

彼が立てた誓いを、必ずアッラーが叶えてくださるようになる、そういう状態にまで、人は達することができます。心のジハードによって、心の中の欲が、アッラーのお望みのことを望むようになり、その心の光によって、彼が望むこととアッラーが望むことが、彼の愛着とアッラーのお望みとが、次第に一致するようになります。この卓越した状態になるために、さて、私たちはどこから始めたらいいのでしょうか?最初に始める場所、それが、私たちの家の中です。

 

ご家庭で、夫婦の意見が違った時、相手の間違いを指摘したい時、相手に怒り、叫びたい時、相手を言い負かしてやりたいと思った時、相手のために、ではなく、アッラーのご満足を得るためだけに、自分のナフス(自我)に、「ダメ!!」と言いましょう。そこから、すべては始まります。

 

相手が自分を馬鹿にしたら、自分は相手をもっと馬鹿にし、相手が自分を怒らせたら、相手をもっと怒らせ、自分に害を与えたら、相手にも害を返す、これは、ナフス(自我)の欲にすべて従っている状態です。アッラーのご満足を考えることで、相手に対する振舞いや対応は180℃違ってきます。相手が自分を馬鹿にしたら、アッラーのお喜びを求めて、相手を許し、相手が自分を怒らせたら、アッラーのお喜びを求めて、相手を喜ばせ、相手が自分に害を与えたら、アッラーが自分に善くしてくれることを求めて、相手に善くし、、、これが本来のクルアーンで言われる、家長である夫の家庭での役割です。

 

【男は女の擁護者(家長)である。】クルアーン 婦人章4-34

 

このアーヤ(節)を、欲によって間違って解釈する人と、心でアッラーの本来の意図を理解しようとする人がいます。間違って解釈する人は、夫婦間の意見に相違があると、妻に向かって、【男は女の擁護者(家長)である。】と言って、相手を黙らせようとします。一方、本来の意図を理解する人は、この「家長」という意味が、自分の欲に妻を従わせるためのものではなく、自分と家族を、アッラーのご満足へと向かわせるために、自分が家の操縦者になることを意図していることが理解できるでしょう。決して、夫が妻を自分に従わせるために、ではありません。夫が、家族をアッラーのご満足へと連れて行くために、「家長」となる責任を負っていることを、このアーヤ(節)は示しているのです。

 

預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のハディースにこうあります。

 

≪預言者は「あなた方は皆保護者である。あなた方は皆、各自が保護しているものに対して責任を負っている。

カリフは人々の保護者であり、彼の庇護下にある者達の責任者である。

男子は彼の家族の保護者であり、家族の責任者である。

主婦は家庭で彼女の夫や子供達の保護者であり、彼等の責任者である。

下僕は主人の財産の保護者であり、それの責任者である。

こうして、あなた方は皆保護者であり、各自は信じて託されたものの責任者であることに心せよ」と申された。≫ブハーリーとムスリム伝承

 

世界中のムスリム、16億人とも言われるこの大きなウンマを公正に正すために必要なこと、それは、まず、社会の一番小さな単位である、家庭をアッラーのお喜びのある公正なものにすることです。自分の家庭を、アッラーのご満足を求める場所に正すことです。それは、自分の心のジハードから始まります。そこからすべてが始まります。自分の心のジハードができれば、その人は、このウンマを正すことの第一歩に成功したことになります。

 

間違えやすいことは、自分のジハードを放っておいて、自分の周りの人たちに対して、裁判官のように、判決を下していってしまうことです。この人は善人で、あの人は悪人、この人は嘘つきで、あの人は正直、この人は信仰深く、あの人は不信仰者、この人は正しく、あの人は間違っている、、、アッラーは、私たちを、他の人に判決を下すために、お創りになられたのではありません。

 

自分の中に、アッラーの公正さを打ち立てること、それができれば、アッラーが、自分とその周りの人たちに、アッラーの英知を見せてくださいます。ご家庭の中で、アッラーを守ること、アッラーのご命令を守り、禁止事項を避けること、アッラーのご満足へと家族全員で向かうことができるように、その操縦者となること、それが、男性の家庭での役割です。アッラーのお怒りから、家族を守ること、これが「家長」の役割です。

 

もし私たちが、ある会社の社長で、あるプロジェクトを一人の人に任せて、それを成功させるように、と高い給料を与えて依頼したにもかかわらず、もしその人が、自分の欲に従って、自分のお気に入りの部下だけをかわいがり、楽な仕事を与え、自分の気に入らない部下はひどい扱いをして、いじめ、プロジェクトの成功を目標にするのではなく、ただ、自分の欲を満足させることだけを目的に、人を使っていたら、どうでしょうか。もちろん、そんな状態で、部下が協力してプロジェクトを成功させるわけはなく、プロジェクトは失敗に終わり、私たちは社長として、彼からその仕事を取り上げ、別の人を彼の代わりに責任者に置くでしょう。

 

アッラーが男性に与えた役割も同じです。もし彼が、アッラーのご満足を求めて、アッラーが彼に預けたアマーナである家族に善くし、自分の欲ではなく、自分と家族の現世と来世での成功を目標に、アッラーのご満足を求める方向へと家族を導いていけば、彼は成功者になります。反対に、自分の欲に従って、家族に暴挙をふるえば、彼は失敗者となります。

 

妻の家庭での目標も同じです。妻が、アッラーのご満足を求めて、夫の悪い振舞いに対して、自分の欲に従わずに、アッラーが自分に善くしてくださることを願って、相手に善くし、夫の悪行に対して、アッラーのご満足を求めて、忍耐すれば、現世と来世の幸せが、彼女の家の扉を叩くでしょう。アッラーは、彼女に、現世と来世での完全な幸せを与えてくださいます。現世だけの小さな短い幸せではありません。現世と来世の両方に続く、完璧な幸せが手に入ります。まず、現世では、アッラーとの振舞いによる甘美さを味わわせてくださり、アッラーは彼女を、夫の素行が正され、夫が成長する原因としてくださり、また来世では、永遠の幸せをくださいます。つまり、天国を約束された、フィルアウンの妻、アーシア様の地位へと昇ることができます。

 

イマーム・アルクルトゥビーのタフスィールより:

アブー・ル=アーリヤ(タービイーンの一人)はこう言った。:「フィルアウンは、彼の妻の信仰を知りたがり、民衆のところに行くとこう言いました。『アーシヤ・ビント・ムザーヒムについて、あなた達は何を知っているかね?』すると人々は彼女を褒めました。彼は言いました。『彼女は、我以外の主を崇拝している。』すると、人々は彼に言いました。『彼女を殺してしまいなさい。』そこで、彼女用に、杭を打ち込むと、彼女の両手と両足を引っ張りました。彼女は言いました。『主よ、楽園の中のあなたの御側に、わたしのため家を御建て下さい。』そこへフィルアウンがやって来ました。すると、彼女は天国の彼女の家を見て、笑いました。フィルアウンは言いました。『彼女の狂気に驚かないのか。我々は、彼女からのご加護を求める。』彼女は笑っていました。そして、彼女の魂は召されました。」

 

夫の悪い振舞いに耐えた妻の報奨は、アッラーのお傍の家、マカーム・ル=インディーヤ(お傍の聖地)であり、また、悪い夫に対する彼女の善い振舞いにより、彼女のこのドゥアーを、1400年経った今でも、世界中の人が読み続けていることです。

 

【またアッラーは、信仰する者のために例を示される。フィルアウンの妻である。かの女がこう言った時を思い起しなさい。「主よ、楽園の中のあなたの御側に、わたしのため家を御建て下さい。そしてフィルアウンとその行いから、わたしを救い、不義を行う者から、わたしを御救い下さい。」】クルアーン 禁止章66-11

 

彼女が、アッラーのお喜びを求めて、悪い夫に対して、善い振舞いをするたびに、アッラーは、彼女の心を生かし、真実の幸せを感じさせ、アッラーと共にいる甘美さを味わわせてくださいました。それにより、夫に対しての彼女の振舞いは、夫ではなく、その間にいらっしゃるアッラーに対しての振舞いとなり、彼女は、来世でも、人々が望むような快楽ではなく、「あなたの御側に」というアッラーの御側の場所を望み、ドゥアーします。夫が彼女を害した時も、彼女はもう夫を見ることなく、ただ、アッラーのご満足だけを見ていました。彼女が、アッラーを、自分と夫との間に置いたことで、アッラーは、夫よりも彼女に近しい存在となりました。アッラーへのすばらしいこの振舞いにより、アッラーは彼女に、現世と来世でアッラーの御側にいる幸せを感じさせてくださいます。

 

彼女のドゥアーを見ると、【 رَبِّ ابْنِ لِي عِندَكَ بَيْتًا فِي الْجَنَّةِ「天国に」、というよりも先に、「あなたの御側に」という単語が来ています。天国よりも、何よりも、ただ、アッラーの御側にいることを、来世でも望んだのです。

 

夫のいる女性には、この地位が手に入るチャンスが、それぞれの家庭で用意されています。アッラーが、私たちに、アーシア様と同じ場所を天国で与えてくださいますように!

 


ムスリムの子ども教育7~夫婦の意見の相違(1)

2018年09月16日 | 預言者の教育方法

ムスリムの子ども教育7~夫婦の意見の相違(1)

 

ハビーブ・アリー・ジェフリー師(アッラーのご加護あれ)子どもの教育(3:11:24~27:13) bit.ly/1qdyDUw

子どもの教育の土壌・家庭における夫婦の意見の相違:

 

家庭内でのご夫婦の意見が食い違うことは、ムスリムであっても、ムスリムでなくても、信仰深い人でもそうでない人でも、日常的に良くあることです。怒りや満足、相違や合意を繰り返すのが家庭でしょう。そして、その延長線上に、夫婦喧嘩や夫婦関係の悪化があります。その原因は、「欲が勝ってしまうこと」です。

 

家庭の基礎は、「夫婦が家庭を使って、お互いにアッラーのしもべ性を実現すること」のはずです。なぜ、その過程の中で、争いが起きてしまうのでしょうか。その原因は、家庭内で、夫婦がアッラーのご満足を求めずに、行動してしまうことに拠ります。もし、ご家庭において、アッラーのタウフィーク(ご同意)により、夫婦がお互いを通して、アッラーのご満足を求めていれば、例え、妻が何か間違いを犯してしまっても、アッラーが彼女の間違いを隠し、夫がそれに対してよい振舞いをできるようにしてくださいます。では、もし自分の目の前で、夫の間違いが発覚した時、あなただったら、どう対処するでしょうか。

そこには3つの選択肢があります。

 

1.彼の間違いを批判し、あなたの方が正しいことを夫に理解させ、自分の正しさを証明し、なぜそんな間違いを犯すことができるのか、信じられない、と彼を責める。その結果、お互いの心の中に嫌悪感が残り、夫婦喧嘩へと発展する。

 

2.その場を収めるため、彼を非難せず、許し、お互いに嫌な思いをしないように、彼を慰め、励ます。アッラーのことは考えず、ただお互いの気持ちが悪い状態ならないように、という目的で、怒らないようにする。

 

3.自分の正しさを証明することも、相手の間違いを批判することも考えず、ただ、どうしたらアッラーが満足してくださるかだけを考える。

 

ご家庭内で、ご夫婦や家族関係が悪くなることの根本的な原因は、夫婦が「アッラーのご満足を求めること」を意図して関係を築いていないことです。アッラーのご満足を目的にしていない夫婦関係は、現世で、敵同士になってしまう可能性があり、また、それを改善しなければ、来世でもお互いが敵となってしまいます。クルアーンでアッラーはこうおっしゃっています。

 

【その日、主を畏れる者を除いては、(親しい)友も互いに敵となろう。】クルアーン 金の装飾章43-67

 

しかし、このことを頭で理解していたとしても、実際に、相手から悪い言葉を投げかけられたリ、ひどい仕打ちを受けたりすれば、怒りが湧きます。その時はどうすればいいのでしょうか。

 

まず、自分の怒りの正体を観察することが大切です。自分が怒っているのが、アッラーのご満足とアッラーのお怒りのためなのか、もしくは、アッラーのお怒りに関係なく、ただ、自分の自我がそれを嫌って、怒ることを要求しているだけなのか。もし、ただ自分の欲が怒ることを求めているだけならば、アッラーのご満足がある行為は、相手にゆずること、自分の権利を放棄することです。本当にアッラーのご満足だけを求めるのであれば、相手にゆずることができます。相手が自分の権利を害した、自分の尊厳を傷つけた、自分を軽視した、ないがしろにした時、そのときこそ、アッラーのご満足を求める人がどう行動するのかが現れます。最も尊厳ある、最も軽視されるべきでない御方、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が、どう行動されたのかを見てください。

 

≪アッラーの御使い様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、アッラーの権利が侵害された時以外に、自分のために報復をしたことは一度もありませんでした。≫ブハーリー伝承

 

人は、欲に支配された時、理性による分別を失います。正しいことを間違っていると思い、間違ったことを正しいと思いこみます。そのため、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はこうおっしゃっています。

 

≪ある男が預言者(彼に神の称賛あれ)のもとを訪れ、彼が天国に行くためには何が必要かを尋ねたところ、預言者は彼に言いました「怒らないことだ。」≫ブハーリー伝承

 

ここでいう「怒らないこと」というのは、感情ではなく、行動です。つまり、「怒りを行動に移さないこと」という意味です。怒りを覚えること自体は、すべての人が感情として感じるもので、どんな人でも怒りを覚えることはあります。しかし、それを実行に移してしまわないように、と預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はこのハディースでおっしゃっています。もし相手に対して自分の内側に怒りを覚えた時には、まず、しなければならないことは、「話さないこと」です。なぜなら、怒りを内側に抱えている状態で、どんなに言葉を選んで話したとしても、必ず、間違った言葉が出てしまうからです。なぜなら、怒っている時には、理性による「分別」が失われているからです。少し考えてみてください。今までに、怒った時に言ってしまったことを、後から後悔したことはないでしょうか。

 

よく先生のところに来る相談の中に、「私は妻に『もう離婚だ!』と3回言ってしまったのですが、2回目に言った時は怒って理性を失っていたのです。ですから、まだ離婚は2回しか発生していなくて婚姻関係は続いていますよね?」というものが多くあります。(イスラーム法では、3回言ってしまうと、離婚が成立します。) 彼らは、怒りが去ってから考え、離婚を軽々しく口にしてしまったことをとても後悔しています。では、その気持ちは、怒っている時にはどこに行っていたのでしょうか。怒りが覆い隠してしまったのです。怒りは、欲という軍隊の中のひとつで、それが自分を支配すると、分別や理性を覆ってしまいます。そのため預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はこう仰っています。

 

≪あなたがたが怒った時に、立っていたら座りなさい。おそらく怒りは消えるでしょう。あるいは横になりなさい。≫アハマドの伝承

 

≪本当の強さは戦う人の力にあるのではない。

すると彼らは「アッラーの使徒よ、いったい誰にそれがあるのですか?」と尋ねた。

すると彼はこう言った。

それは怒った時に自分自身を制御することが出来る者である。≫ムスリム伝承

 

私たちが怒りをコントロールして、家庭を通してアッラーのご満足を求められますように✨ ✨ ✨


ムスリムの子ども教育6~家庭の土台の作り方(6)~

2018年09月16日 | 預言者の教育方法

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

ムスリムの子ども教育6~家庭の土台の作り方(6)~

 

ハビーブ・アリー・ジェフリー師(アッラーのご加護あれ)子どもの教育(2:34:58~43:46) bit.ly/1PPruiy

  

前回は、出産についてお話しました。今回はその続きです。

 

幼少期の子育て:

子どもがまだ小さい赤ちゃんの時期に、泣いたりぐずったりしたら、母親は赤ちゃんをどうやってあやすでしょうか。赤ちゃんを抱きあげて、「ラーイラーハイッラッラー(アッラー以外に神はいない)」などのズィクルの言葉(アッラーを唱念する言葉)や、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)への祝福祈願を繰り返しつぶやきながら、赤ちゃんをあやしているでしょうか。現代では、子どもが泣くと、スマートフォンで音楽を聞かせたり、テレビの音を聞かせたりすることがありますが、そういったものが、アッラーから預かっている赤ちゃんに聞かせるためにふさわしい歌ではないこともあります。

 

子どもが言葉を覚え始める頃、ムスリムの家庭では、最初に、どんな言葉を覚えさせるのでしょうか。アッラーの美名やクルアーンの最初の章ファーティハ章(開端章)、子どもならすぐに覚えてしまう短いイフラース章(純正章)を最初に覚えさせるでしょうか。

 

最近は、その子が大きくなってすると困ることでも、小さいときにやっているのを、親が褒めたり喜んだりすることがあります。子どもが2歳くらいになって話し出すと、暴言を吐いた時も、親は、「今、この子、『ばか』って言ったわ、なんて賢いの!」と喜んだりします。子どもが気に入らないことがあって、目の前の父親を叩いても、親は笑って喜んでいます。「どうして喜ぶのか?」と聞かれると、「この子は、気が強い!!」と嬉しそうにしています。子どもが人に暴言を吐いたり、人に暴力を振るったりすることが、将来のその子の「強さ」の理想の姿でしょうか。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が教えてくださっている本当の強さとはかけ離れています。《本当の強さは戦う人の力にあるのではなく、怒った時に自分を抑えられる人にあります。》ムスリム伝承

 

また小さな男の子が、隣の知らない小さい女の子にキスをすると、親が喜んで、「かわいい~!」と写真を撮ったり、「○○君と○○ちゃんは結婚するね~」と冗談で話題にしたりします。その子が小学生になってやったら変態と言われて困ることを、親が褒めます。これは幼児教育の専門家も注意を促していることです。

 

ある先生のお宅に2∼3才の女の子が連れて来られて、その子が膝や太ももの出ている短いスカートを着せられていると、先生は、「アウラを覆って隠してあげなさい。この子にちゃんと長いスカートを着る習慣をつけてあげなさい。こんな短い服を着ることに慣れさせてはいけません。」と注意していました。その場にいた人が、先生に言いました。

「先生、この子はまだ小さいですから。2才ですよ。」

先生「我が子よ、小さい子どもも成長し大きくなります。もし成長する際に、『慎み』や『恥じらい』を持たずに大きくなってしまったら、『慎み』や『恥じらい』はこの子にとって、とても重く面倒なものになってしまいます。」

 

年頃の娘を持つ親が、どんなに苦労し、悩み、ドゥアーし、何とかならないかと人に相談し、大変な思いをしているでしょうか、自分の娘に「恥じらい」や「慎み」を教え、ムスリマらしい肌の露出の少ない服装をするよう説得するために。

 

なぜ、その子の心の中に、ヒジャーブに対する抵抗や、露出の少ない服を着ることへの嫌悪が育ってしまったのでしょうか。なぜ、大きくなった女の子が、自分の体を守る服装をするために、親が、何日もかけて、時には、何年もかけて、説得をし、教えなければならないのでしょうか。

 

なぜなら、その子が小さいときに、両親が、きちんと、その子に、真実を教えてあげなかったからです。

 

「あなたは、とても大切な存在なんだよ。」

「あなたの体は、とても大事なもので、ただ知らない男の子が見て楽しむためのものではないんだよ。」と。

 

アッラーは、子どもの誕生から6才くらいまでのかわいい盛りの時期を、両親にお恵みになりました。この時期は、両親にとっては、育児にとても手間がかかり、時間も労力も子どもに費やさなければならない時期ですが、一方で、かわいい子どもの笑顔に癒され、一緒に遊び、子どもと過ごす時間を楽しむ時期でもあります。両親は、この恩恵に対して、アッラーに感謝する必要があります。しかし、この時期は、ただ、楽しむだけで終わってしまってよい時期ではありません。両親が、子どもに大切なことを教えるための時期でもあるからです。両親が子どもに、洋服を着ることの目的を正しく教えなければなりません。

 

親が気づかないうちによく犯してしまう大きな罪のひとつに、子どもに服を買う時に、

「この服を着たら、あなたは幼稚園で、一番かわいい子になれるわよ。」

「このかわいい服を着たら、みんながあなたのことをうらやましがるわ。」

と言ってしまうことです。よく言われるこの言葉のどこに大きな罪があるのでしょうか。

 

それは、まだ物心がつき始めたばかりの子どもの大切な時期に、子どもの心に、洋服を着る目的を、誤って教え込み、間違った人生の目的を植え付けてしまっている点です。

 

私たちが服を着る目的は、他の人より美しくなるためでも、周りの人をうらやましがらせるためでもありません。私たちムスリムは、自分の価値が、体を覆っているだけの、ただの「布切れ」にあるのではないことを、十分知っています。私たちは、アッラーが、「ラーイラハイッラッラー」というアッラーへの信仰によって、尊厳を与えてくださった存在です。信仰という大きな尊厳をアッラーから恵まれている私たちが、自分の価値を、ただの「布きれ」に置くことはふさわしくありません。「布切れ」が破れたら、自分の価値も破れ、それが汚れたら、自分の価値も汚れ、それがなくなったら、自分の価値もなくなってしまうのでしょうか。私たちの価値は、破れることも、汚れることも、なくなることもありません。なぜなら、私たちの価値は、いなくなることのない、永遠に存在する御方「アッラー」にあるからです。

 

私たちが気づかないうちによく犯してしまう罪は、子どもの心に、間違った目的を植え付けてしまうことです。

母「もっと食べなさい。」

子「どうして?」

母「もっと大きくなって、○○君に負けないようにならなくちゃ。」

子どもが大きくなる目的は、他の子どもに勝つためでしょうか。それとも、大きくなって、アッラーに崇拝行為をしっかりできるようになるためでしょうか。

 

小さいからよくわからないだろう、と思わないでください。小さい子がどんなに真似をするのが上手か知っているでしょう。親が子どもの前で、汚い言葉で誰かを非難したら、子どもはその通りの言葉を口にするようになります。

 

兄弟げんかをして、妹がお姉ちゃんに叩かれて泣いていたら、親が、妹に、「お姉ちゃんに叩かれたの?じゃあ、お姉ちゃんを叩き返しに行こう。」と言って、妹の手を持って、お姉ちゃんを叩いて、お姉ちゃんが泣く真似をしたら、「ほら、もう叩き返したからいいでしょ。」と言って、泣いている子を慰めることがあります。しかし、これは、子どもに復讐を教えています。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、自分を害されたら、相手に同じ害を与えることを私たちに教えたでしょうか。兄弟げんかをして、お姉ちゃんに叩かれて妹が泣いていたら、お姉ちゃんに本当に叩いたのか確認し、お姉ちゃんが叩いたことを認めたら、妹のところに行って、謝ることを教えます。子どもの時に教えるこういったしつけは、とても大切です。

 

子どもに服を着せる時にも、こう言いましょう。

「この服を着ようね。アッラーは、あなたにあげたこのかわいい服をあなたが着ているのを見るのが、とても好きなのよ。」

「天国に入るためにアウラを隠そうね。アッラーは、あなたが天国に入れるように、アウラを隠すように教えてくれたのよ。」

分別がつくようになった子どもに、もしくはまだ分別がつかない子どもにかけるこうした言葉が、どんなに子どもの柔らかい純粋な心に植え付けられ、大きく育って行くでしょうか。

 

「もっと食べなさい。しっかり食べて、アッラーのためになる善いことを沢山できる子になるためにね。」

「大きくなって、イスラームを日本に広めるために、役に立つ子になれるよう、しっかり食べなくちゃね。」

「弱い子や困っている人を助けられるくらい強くなるために、しっかり食べようね。」

「かわいそうな人のお手伝いができるように、よく食べて強くなろうね。」

「おばあさんが杖をついて道を渡っていたら、手を取って一緒に渡ってあげられるように、強い子になろう。そしたら、アッラーが天国に入れてくれるからね。」

 

服を着せる時、食べさせる時、日常の何気ない動作の時にかける小さい時のこういった言葉がけは、とても大切です。子どもの心にしっかりと確実に残って行くからです。

 

 

両親の価値観が、どこに一番重要性を置いているか、というのを子どもはよく見ています。

 

母「夜更かしはダメよ。明日学校があるんだから、早く寝なさい!」

子「少しだけいいでしょ。」

父「ダメ、絶対にダメ!朝、学校に遅れたらどうするの!すぐ寝なさい!」

朝になると、

母「さぁ起きなさい!」

子「ねむいよ。」

母「なに言ってるの、早くしないと学校に遅れるわよ!」

子「昨日、寝るのが遅かったし。。」

母「だから言ったじゃない!なんで夜更かししたの!?学校に遅れたらどうするの!なんでもいいから早く起きなさい!!!」

 

子どもはお母さんの権幕から、学校がとても大切なものだと学びます。

 

では、子どもをファジュル礼拝に起こすことに、お母さんが、この大きな関心の4分の1でも払っているのを子どもは感じているでしょうか。このことこそ、子どもが現世で勉強に失敗する原因となり、崇拝行為を嫌悪し、アッラーに従わない人生を送ることになる大きな原因の一つとなっています。

 

子どもがファジュル礼拝に立つことができれば、子どもの心の中に、崇拝行為の重要性を築くことができ、子どもがアッラーとの関係を作っていくことができます。子どもはファジュル礼拝を逃すことの損失を、学校に遅れることの損失よりも、より重大に感じることができるようになります。そうなれば、その子は現世と来世で成功し、学校でも成功するでしょう。なぜなら、その子は学校に目的意識を持って行くことができるからです。自分がなぜ学校に行くのか、きちんとしたニーヤ(意思)と目的を持って、授業を受け勉強できるからです。現在、ムスリムの子どもたちの学校の成績が悪いとしたら、それは、目的を失ってしまっているからです。親がどんなに必死で子どもに学校の重要性を伝えても、子どもは勉強の重要性を感じることができまぜん。なぜなら、親が子どもに植え付けている学校に行く目的が、そもそも間違っているからです。

 

子どもに、学校へ行く目的をきちんと正しく教えましょう。「あなたが学校に行くことで、アッラーのご満足を求めなさい。」と子どもにしっかり教えましょう。アッラーのご満足を求めて行ったことをアッラーが放っておくわけはありません。アッラーのために、アッラーの教えに役立つ人になるために、と勉強をしている子どもが、学校でアッラーに背くことを行えるはずがありません。アッラーに背くことを行わずにアッラーのご満足を求めて真面目に学ぶことで、アッラーがその子の成績を保証してくださるでしょう。

 

思春期になって、子どもたちが心と体の変化に苦しむ時期が来ても、学校で様々な誘惑にあって、自分の現世と来世を壊してしまう行いに駆られる時にも、アッラーのご満足を求めて学校に行っている子に、その害が及ぶことはありません。しかし、何の目的もなく学校に行っている子どもたちや、現世の目先の利益だけを目的に学校に行っている子どもたちは、シャイターンのおもちゃとなって、あちらこちらへと引きずられてしまいます。

 

先生のところには、子どもが悪い仲間と付き合っていて、その子たちの影響を受けてお酒を飲んだり、男女交際をしたり悪行を行うようになってしまった、という相談に来る親がいます。両親は、その子が小さいときに、子どもの心の中に、悪行を禁じ善行を薦めるという教えの種を植えてあげたでしょうか。子どもがクルアーンの1章を覚えたことを、子どもが学校でよい成績を取った時よりも喜んであげたでしょうか。子どもは、親の心の中にあることを敏感に感じます。親が、アッラーのご満足を求めている姿を見せて、アッラーにドゥアーをし続ければ、子どもが悪行に陥ることはありません。アッラーを求める人には、アッラーは現世と来世の両方を与えてくださいます。私たちの家庭を、アッラーを求める場所にしなければなりません。

私たちの子どもに、アッラーのご加護がありますように。