イスラーム勉強会ブログ

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89章解説【2】

2011年04月12日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
17. 断じていけない。いや、あなたがたは孤児を大切にしない。
18. また貧者を養うために、互いに励まさない。
19. しかも遺産を取り上げ、強欲を欲しい尽にする。
20. またあなたがたは、法外な愛で財産を愛する。
21. 断じていけない。大地が粉々に砕かれる時、
22. 主は、列また列の天使(を従え)、来臨なされる。
23. また地獄は、その日(目の当たりに)運ばれ、その日人間は反省するであろう。だが反省したとて、どうしてかれのためになろうか。
24. かれは、「ああ、わたしの(将来の)生命のために、(善行を)貯えていたならば。」と言う。
25. それでその日、誰もなし得ない程の懲罰を加えられ、
26. また誰も拘束し得ない程に束縛なされる。
27. (善行を積んだ魂に言われるであろう。)おお、安心、大悟している魂よ、
28. あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。
29. あなたは、わがしもべの中に入れ。
30. あなたは、わが楽園に入れ。

 続いてアッラーは試練の真意について無知な、正しい道を歩まない富豪から成る罪人を批判し給います:

 「断じていけない。いや、あなたがたは孤児を大切にしない。また貧者を養うために、互いに励まさない。 しかも遺産を取り上げ、強欲を欲しい尽にする。 またあなたがたは、法外な愛で財産を愛する。」

 孤児に寛大に接しないどころか彼らを軽蔑し、自分たち同士で貧者に食事を提供しようとせず、自身や他人の遺産を激しく浪費し、あらゆる手段を使って集める金を貪欲に愛するこの大金持ち達。アッラーは次の節の始まりの「カッラー كلا」の言葉で彼らを暴露し給います。つまりこれらの醜い行為から遠ざかりなさい、それは求められている健全な道ではないから、という意味です。

 アッラーが彼らの悪行を露わにし給うと、彼らに対する恐ろしい約束が言及されますが、それによって導きの道を彼らが選ぶことを望み給うているからです。地震、大地にある全ての崩壊といった審判の日の恐怖に満ちた光景が描写されることで警告が示されます。その日、アッラーの命と裁定、天使たちが列をなし、地獄が罪人たちに見せつけられます:「断じていけない。大地が粉々に砕かれる時、主は、列また列の天使(を従え)、来臨なされる。主は、列また列の天使(を従え)、来臨なされる。また地獄は、その日(目の当たりに)運ばれる。」

 この震え立つような光景の前で、人間の行為が記された書物が開かれますが、生前に何を行ったかを思い出しても、何の役にも立ちません。もう手遅れなのです。「その日人間は反省するであろう。だが反省したとて、どうしてかれのためになろうか。」その瞬間、主に背いていた人間は、悲観と後悔の念で溢れる言葉を露呈します:「かれは、「ああ、わたしの(将来の)生命のために、(善行を)貯えていたならば。」と言う。」来世の自分の命を益する善行を現世で行っておけばよかった、ということです。クルアーンは、「私の生命」が来世のものだとしており、本当の命こそが、「命」の名に相応しいことを示唆しています。そのため現世における人間の背信行為は来世において悔いと悲観しか齎しません。しかし後悔の念など役立つことはなく、そこには現世に存在するどのような罰にも似ない罪人たちを苦しめるアッラーの罰があるのみです:「それでその日、誰もなし得ない程の懲罰を加えられ、また誰も拘束し得ない程に束縛なされる。」

 この混乱した状況の中、魂は請い願いながら無垢な善良者たちの帰り処に向きます。ここでアッラーが準備してくださっている報奨である善良者たちに対する吉報が登場します:

 「おお、安心、大悟している魂よ、あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。あなたは、わがしもべの中に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。」

 安心大悟している魂とは、恐れや悲しみに扇動されない魂です。主との謁見、信仰の民に約束された善良な帰り処に対して安心大悟しています。

 安心大悟している魂とは、現世ではアッラーに背いたことがなく、すべてをアッラーに任せている魂をいうのです。

 この安心大悟している魂は、アッラー御自身がムーサー(平安あれ)に語りかけ給うたように、または人々が清算を終わらせたときの天使の言葉として、または復活の際か死ぬ際に語りかけられます:「あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。」アッラーがあなたに準備し給うた素晴らしい報奨に満足して、あなたの主の報奨と寛大さに帰りなさい。アッラーもあなたが積んだ善行に満足し給うている。「あなたは、わがしもべの中に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。」側近のアッラーのしもべたちの集団の中に入り、天国で終わることのない至福を楽しみなさい、という意味です。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP107~108)


預言者伝22

2011年04月07日 | 預言者伝関連

بسم الله الرحمن الرحيم
71.ユダヤ人に敵意が生まれ始める:
  ユダヤ人たちは、マッカとマディーナの信徒と多神教徒に対し、中立の立場をとっていましたが、徐々に彼らのイスラームに対する敵意が現われ始めました。以前の彼らはイスラームに傾いていた、と言えるかもしれません。なぜなら彼らもイスラーム教徒も皆、いくつかの点で意見を違えていても、預言を信仰し、復活を信仰しているからです。ユダヤ人は、アッラーの本質の唯一性とかれの属性を信じているという点で、イスラーム教徒に最も近い共同体なのです。とはいえ、彼らが隣接した無知な共同体や、追放された歳月を過ごした偶像崇拝の土地から受けた影響が、彼らの信仰を弱めていたのも事実です。

数多に残る根拠すべては、彼らがこのような中立的立場にあったことを示しています。イスラームは彼らの啓典を確証し、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は、ユダヤの民から輩出された預言者たちを信仰するよう人々に呼びかけたにもかかわらず。イスラーム教徒は、次のように言います:「皆、アッラーと天使たち、諸啓典と使徒たちを信じる。わたしたちは、使徒たちの誰にも差別をつけない。」(雌牛章285節)ユダヤ人たちもこの節のようであれば、人類の歴史は違う方向に向かって歩んでいたことでしょう。

しかし、
1.ユダヤ人に元来より備わっている妬みと心の狭さ
2.クルアーンが批判した、ユダヤ人が信奉する間違った信条、腐敗した性格、劣悪な習慣
この二つの理由によって、イスラームとユダヤ人の間の問題が絶えることはありませんでした。

アッラーの使徒(平安と祝福あれ)は、政治指導者として、この難しい状況に立ち向かいました。彼はユダヤ人の怒りと敵対を煽るような行為から遠ざかりながらも、アッラーから預かったメッセージを全ての人々に述べ伝える義務を担っていたため、どのような問題が立ちふさがろうとも、以前の預言者たちが歩んだ道を、彼も歩まねばなりませんでした。これこそが強硬な道であり、政治と預言を隔てるものです。

ユダヤ人の信条、生き方、行儀に反する姿勢は、ユダヤ人たちを刺激し、彼らはイスラームに対する立場を変え、隠れた敵意を向けて来ました。

ユダヤ人の聖職者や学者の何人かがイスラームに改宗すると、ユダヤ人たちのイスラームに対する怒りと憎悪がさらに増しました。彼らの間で一目置かれていたアブドゥッラー・イブン・サラームなどの学者がイスラームに改宗するとは、彼らは想像すらしていなかったのです。

ユダヤ人たちはイスラームに敵対し遠ざかるのみならず、自分達同様、唯一神を崇めるイスラーム教徒たちを差し置いて、多神教の偶像崇拝を良しとする立場を取るようになりました。クライシュの宗教とムハンマド(平安と祝福あれ)が誘う宗教のどちらが優れているかと尋ねられたら、必ずイスラームが偶像崇拝に優ると証明するにもかかわらず、残念ながらイスラームに対する敵意が、彼らから正しい選択を奪いました。

72.キブラ(礼拝時に向かう方向)変更:
預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)と信徒たちは、エルサレムに向かって礼拝していました。マディーナに移ってから16カ月の間、そのような状態が続きましたが、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)は、キブラがマッカに変わることを望んでいました。カアバに深い愛情を寄せるアラブ人ムスリム達も、カアバ以外を神殿と認めず、また、イブラーヒームとイスマーイールのキブラを諦め、違う方向をキブラとすることに違和感を持っていたため、キブラがカアバに変えられることを待ちわびていました。キブラがエルサレムとされることは信徒たちにとって試練でしたが、「聞き、従います」という信徒としての振る舞いに徹していました。また、「私たちは信仰します。すべては我が主から与えられる。」と言い、アッラーの使徒に従い、アッラーの命を守ることだけに専念していました。

アッラーの命令に従い篤信であるかどうか、アッラーが信徒たちの心をお試しになった後、アッラーはアッラーの使徒(平安と祝福あれ)と信徒たちを、カアバの方向に向けさせ給いました:
「われがあなたがたの守っていたものに対し、この方向〔キブラ〕を定めたのは、只、踵を返す者と使徒に従う者とを見分けるためである。これは容易ではない事であるが、アッラーが導かれる者にとっては何でもない。」(雌牛章143節)

そして信徒たちはアッラーとその使徒に従い、カアバへのキブラ変更を受け入れました。

(参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P204~209)


89章解説【1】

2011年04月05日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
89章解説
1. 暁において、
2. 10夜において、
3. 偶数と奇数において、
4. 去り行く夜において(誓う)。
5. 本当にこの中には、分別ある者への誓いがあるではないか。
6. あなたはアッラーが、如何にアード(の民)を処分されたかを考えないのか、
7. 円柱の並び立つイラム(の都)のことを、
8. これに類するものは、その国において造られたことはなかったではないか。
9. また谷間の岩に彫り込んだサムード(の民)や
10. 杭のぬしフィルアウン(のことを考えないのか)。
11. これらは(凡て)、その国において法を越えた者たちで、
12. その地に邪悪を増長させた。
13. それであなたの主は、懲罰の鞭をかれらに浴びせかけられた。
14. 本当にあなたの主は監視の塔におられる。
15. さて人間は主が御試みのため、寛大にされ恵みを授けられると、かれは、「主は、わたしに寛大であられます。」と言う。
16. だがかれを試み、御恵みを減らされる時は、「主はわたしを、軽視なさいます。」と言う。

 アッラーがしもべを善と悪で試し給うことにおけるアッラーの慣行の解明と共に、道を外し腐敗した過去の文明に対して発せられた警告がこの章の中で述べられます。審判、その時のアッラーの威厳さ、その恐ろしい日の人々の帰り処…至福か罰か…についても述べられます。

 アッラーはまず、被造物を発明し給うた素晴らしさ、御自身の物事の進め方における叡智を示す数々の重要な事柄に関連させた誓いの言葉で章を開始し給います:

 「暁において、10夜において、偶数と奇数において、 去り行く夜において(誓う)。本当にこの中には、分別ある者への誓いがあるではないか。」

 「暁において」:アッラーは朝の光において誓い給いました。なぜならそれはかれの驚異的な創造の一つだからです。夜が過ぎて、昼の到来が来るように、「10夜において」と、至高なるアッラーは徳のある10日間においても誓い給いました。この10日間は、人々の導きとしてクルアーンの降下が始まったライラトゥルカドゥルが遭遇するラマダーン月の最終10日間であるかもしれないことで、暁との関連、つまり暁が夜の暗闇を分散させるように、クルアーンは無知と不信の暗闇を払いのけることに関心を向けさせます。また、ズ・ル・ヒッジャ月の祝福された最初の10日間であるとも言われます。なぜなら巡礼の儀式で忙しい日々であり、その時に人々が罪から浄化されるからです。アル=ブハーリーの真正ハディースに次のようにあります::《この日々(ズ・ル・ヒッジャ月の最初の10日間)に行われる善行よりもアッラーが好まれるものはない。》

 「偶数と奇数において」存在するすべての偶数と奇数においてアッラーは誓い給うていますが、それで被造物と創造主を指しています。おひとりのアッラーは「奇数」、被造物は雌雄に分かれる「偶数」です。

 「去り行く夜において」過ぎゆく夜においてもアッラーは誓い給うています。その後には昼が訪れます。夜と昼の交代は、アッラーの御力を示すしるしの一つです。「本当にこの中には、分別ある者への誓いがあるではないか」つまり、これまでに述べられた事柄は、理性ある者を説得させる誓いではないだろうか?という意味です。誓われる事柄は省略されており、「これらの事柄の主(アッラー)は必ず不信仰者を罰するだろう」であると推測できます。次に続く言葉がそれを示しています:

 「あなたはアッラーが、如何にアード(の民)を処分されたかを考えないのか、円柱の並び立つイラム(の都)のことを、これに類するものは、その国において造られたことはなかったではないか。また谷間の岩に彫り込んだサムード(の民)や 杭のぬしフィルアウン(のことを考えないのか)。これらは(凡て)、その国において法を越えた者たちで、その地に邪悪を増長させた。それであなたの主は、懲罰の鞭をかれらに浴びせかけられた。本当にあなたの主は監視の塔におられる。」

 至高なるアッラーは仰せになります:ムハンマドよ、アッラーが「アードの民」に何をされたか知らないのか、という意味です。遠い昔に滅びたアラブ系の民であった彼らは、オマーンとイエメンの間にある砂丘に住んでいました。「イラム」アードの部族の一つか、アードが住んでいた都の名前です。「円柱の並び立つ」高い円柱という言葉から、アード人は背が高かったのではないかと言われています。また:テントの柱ではないかとも言われます。彼らは牧草地を転々とし、旅する度にテントを張っていたためです。また、円柱を立ててその上に城を建てていたとも言われます。「これに類するものは、その国において造られたことはなかったではないか」つまり、彼らのような力強さ、たくましさと身長の高さを持つ民など創造されたことはない、という意味です。「サムード」過去に滅びた有名なアラブ系の民です。彼らはヒジャーズとタブークの間に住んでいました。「岩に彫り込んだ」つまり、山の岩を取って来て、彫り込み、自分たちの家とした、という意味です。「谷間の」村の谷です。「杭のぬしフィルアウン」つまり、フィルアウンを強化する軍隊を持つフィルアウンです。また:フィルアウンはかつて杭を使って人々を苦しめ、死ぬまで縛りあげていたとも言われます。「これらは(凡て)、その国において法を越えた者たちで」つまり、不正と敵対において限度を超えたということです。「その地に邪悪を増長させた」その地に不正、殺戮といったあらゆる悪を増やしたということです。「それであなたの主は、懲罰の鞭をかれらに浴びせかけられた」激しい罰を指します。「サッバ」は本来、飛び散らせながら水をかけることを意味します。「サウト(鞭)」は、よく知られた叩くための道具です。鞭が体に浴びせられるという表現で、痛みがどれほど激しいものなのかがよく伝わってきます。「本当にあなたの主は監視の塔におられる」あなたの主はすべての人間の行為を見張り給うている、という意味です。そしてアッラーはその行為に報い給います。

 続いてクルアーンは、豊かさと貧しさ、それらが魂に与える影響についての話題に移ります:

 「さて人間は主が御試みのため、寛大にされ恵みを授けられると、かれは、「主は、わたしに寛大であられます。」と言う。だがかれを試み、御恵みを減らされる時は、「主はわたしを、軽視なさいます。」と言う。」

 裕福な人たちの多くは、豊かな財産は、アッラーが自分たちを満足し給うていることの証拠であり、他の人たちを除いて、自分たちだけ特別に恩恵を与えてくださっているのだと思い込んでいます。そして多くの貧しい人たちは、貧困はアッラーが自分たちを軽視し給うている証拠だと思い込んでいます。この二種類の人たちに対してクルアーンは次の節の始まりで、「断じていけない(全く違う)」と言っています。つまり、その二つの状態は、人間が思い込んでいるようなものではないということです。アッラーが糧を豊かにしてくださったということは決してその者に対してアッラーが寛大に接し給うたのでも、その者がアッラーの御許で尊い存在であると証明しているわけではありません。また糧を少なくされたということは、軽視され、アッラーの御許で位を低めらていることを指しているのでもありません。アッラーは人間に対する試練として、糧を豊かにし給い、また少なくし給うのです。だからこそアッラーは豊かさについての話と貧しさについての話を扱ったこの節を「主が御試みのため」という言葉で開始し給うているのです。御試みは、試験を意味します。

 豊かさは、恩恵の誘惑にどの程度立ち向かえるかの見極めのため、アッラーから人間に与えられた試練です。貧しさも同様に、苦しみにどのくらい耐えられるかはっきりさせるための試験です。恩恵や不幸は与えられた人にとって良いこととなる場合があります。恩恵にどっぷり浸ることが不正、欲望追従、崇拝行為の放棄に繋がるように、貧困がアッラーへの回帰のきっかけになることがあるということです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP101~107)