イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

78章解説【3】

2012年04月19日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
31.まことに、畏れ身を守る者たちには成就(救済の成功)がある。
32.(つまり)いくつもの庭とぶどう畑、
33.そして同年齢の胸の丸く膨れた乙女たち、
34.そして満たされた酒杯(があり)、
35.そこでは彼らは戯れ言も(互いが)嘘つき呼ばわりすることも聞くことはない。
36.おまえの主からの報いとして(つまり)十分な賜物として。
37.(つまり)諸天と地とその間のものの主、慈悲深い御方(からの報いとして)。彼らは彼に話しかける権限を持たない。
38.霊(ジブリール)と天使たちが整列して立つ日、彼らが語る(請願する)ことはない。但し、慈悲あまねき御方が許し給い、正語を述べた者は別である。
39.それが真実の日である。それゆえ、望む者は主の御許に帰り処を得る(が良い)。
40.まことにわれらはおまえたちに近い懲罰を警告した。人が己の手が以前になしたことを見、そして、不信仰者が「ああ、わが身が土くれであればよかったものを」と言う日における(懲罰を)。

「まことに、畏れ身を守る者たちには成就(救済の成功)がある。(つまり)いくつもの庭とぶどう畑、そして同年齢の胸の丸く膨れた乙女たち、そして満たされた酒杯(があり)、そこでは彼らは戯れ言も(互いが)嘘つき呼ばわりすることも聞くことはない。おまえの主からの報いとして(つまり)十分な賜物として。」

主に従い、自らに禁じられた諸事項を避けることで主を畏れた者たちには:「成就(救済の成功)」があります。つまり、成功、至福の楽園の獲得、地獄の罰からの解放です。また彼らには、「いくつもの庭とぶどう畑」つまり、実のなった木々やぶどうがふっさりとついた木々からなる庭園があります。「そして同年齢の胸の丸く膨れた乙女たち」完全に女性として成熟し、胸がはっきりと表れた、年齢が統一された女たちがあります。「そして満たされた酒杯」次々に満たされた、楽園の住民が飲むに純粋な酒杯があります。「そこでは彼らは戯れ言も(互いが)嘘つき呼ばわりすることも聞くことはない。」間違った言葉も罪も彼らはそこで聞くことはなく、お互いを嘘つき呼ばわりすることもなく、嘘を聞くこともありません。「おまえの主からの報いとして(つまり)十分な賜物として。」つまり、アッラーはそれら全てを彼らが行ってきた善行に対する褒美、報奨として、御自身の寛大さをもって楽園の住民に与え給うということです。

以上は、クルアーンが述べた視覚的な至福の描写です。代わって、その本当の甘美さや楽しさはというと、私たちの理解を超えるものです。来世の至福は現世の至福をその質や持続性において上越しており、現世の至福は過少かつ消えゆくものです。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は来世の至福の描写に関して、主に代わってハディースを伝えています:「わたしの善良なしもべたちのために、目が見たことも、耳が聞いたことも、人間の心が想像したことのないようなものをわたしは準備した。」

そしてクルアーンは、最後の日におけるアッラーの荘厳さと偉大さを解明していきます。その時、あらゆる裁定はアッラーおひとりのみに委ねられます:

「諸天と地とその間のものの主、慈悲深い御方。彼らは彼に話しかける権限を持たない。」

アッラーとは、諸天と大地とその間にあるすべての被造物の主です。かれは慈悲深い御方、つまり、最良の至福を与え給う御方です。罪人達の罪を軽減してもらうためや、無罪の人々の報奨の増加のためにかれに話しかける権限を持つ者などいません。

クルアーンは続けます:
「霊(ジブリール)と天使たちが整列して立つ日、彼らが語る(請願する)ことはない。但し、慈悲あまねき御方が許し給い、正語を述べた者は別である。」

つまり、ジブリールと天使たちがアッラーの荘厳さを前に整列して立つ日。至高なる主が許し給うた者か、正しいことを言った者以外に話す者はその日誰もいません。または、執り成されることをあらかじめアッラーによって許された者以外の人間は誰も執り成しについて話すことはないとも言われます。またその許された者とは、現世において正しい言葉を話し、ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラーのほかに神はなし)と言っていた者を指します。

続いてクルアーンは、再生は疑いなく真実であり、それを迎えるために善行によって準備する機会は誰にも与えられていることを解明します:
「それが真実の日である。それゆえ、望む者は主の御許に帰り処を得る(が良い)」

最後の日は真実の日です。それゆえ、主の良き報奨に帰り処を求める者は、アッラーを信仰し、かれに服従することで求めなさい、ということです。

続いて、多すぎる罪に沈んでいる、再生を否定する者たちに対する警告の言葉をもってこの章は結ばれます:
「まことにわれらはおまえたちに近い懲罰を警告した。人が己の手が以前になしたことを見、そして、不信仰者が「ああ、わが身が土くれであればよかったものを」と言う日における(懲罰を)」

アッラーは人々に近づいた罰を警告し給います。その日すべての人間は行ってきた良い行為、悪い行為を目の当たりにします。それらは天使たちによって書簡にしっかりと記録されています。「そして、不信仰者が「ああ、わが身が土くれであればよかったものを」と言う」つまり、現世で私は土くれであれば、存在させられることも、責任能力を負わされることも、清算されることもなかったのに、という意味か、私はこの日土くれになることができれば、清算のために甦らされることもなかったのに、という意味になります。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP15~17)

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78章解説【2】

2012年04月05日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
17.まことに決定(最後の審判)の日は定刻であった。
18.角笛が吹かれる日、おまえたちは群れを成してやって来る。
19.また、天は開かれ、数々の扉となった。
20.また、山々は動かされ、蜃気楼(のように)なった。
21.まことに、火獄は待ち伏せしていた。
22.無法者たちのために(待ち伏せる)、帰り処であった。
23.彼らはそこに長々と留まって。
24.そこでかれらは涼しさを味わうことはなく、また飲み物を(味わうこともない)、
25.ただ、煮え湯と膿汁ばかりを(味わう)。
26.相応の報いを(報われる)。
27.まことに彼らは清算を期待(想定)していなかった。
28.そして、われらの諸々の印・節を嘘として激しく否定した。
29.だが、ことごとくを、われらは書に数え留めた。
30.それゆえ、おまえたちは味わえ。われらはおまえたちには懲罰よりほかに増し加えはしない。

 クルアーンはいくつかのアッラーの御力の現象を数え上げた後、最後の審判に起きる現象の描写に移ります:「まことに決定(最後の審判)の日は定刻であった。」決定の日とは、審判の日を指します。その日は定められた期限に起こるものとされており、決定の日と名付けられたのは、アッラーがその日にある決定を下し給うためで、善行を行った従順であった者たちは報奨を得、悪行を行った罪人達はその行為のために罰を受けるということです。

 そして最後の審判の日は、次の出来事で始まります:「角笛が吹かれる日、おまえたちは群れを成してやって来る。」角笛はその名の通り、角の形をしています。そこに息が吹き込まれることは魂たちが体に戻る原因となります。以上が第二の吹き込みと言われるものです。その時、集団となって清算、報いを受けるために人々が現われます。この第二の吹き込みの前の第一の吹き込みの直後に天地にいるすべての生き物が死にます。これについてはアッラーが次の御言葉で説明し給うています:

 「そして、角笛が吹かれ、諸天にいる者も地にいる者も、アッラーが御望みの者を除いて気絶した。それからもう一吹き吹かれると、すると途端に、彼らは立って眺める。」(39章68節)

 続いてクルアーンは審判の様子の描写を続けます:「また、天は開かれ、数々の扉となった。」つまり、天はあちこちから裂けて、その裂け目はまるで壁にあるドアのようです。ドアが私たちの慣れ親しんだ形から来世では替ってしまうことがクルアーンの中で説明されています。「大地が大地でないものに替えられ、そして諸天も諸天でないものに替えられ、彼らが唯一なる支配者アッラーの許にまかり出る日。」(14章48節)

 続いてアッラーは仰せになります:「また、山々は動かされ、蜃気楼(のように)なった。」山々が引き抜かれ、バラバラにされ、風に振り散らばる姿は、見ている者にまるでそれが何もないように思わせます。そのため、遠くから見ると水ではないのに水に見える蜃気楼というのです。

 続いて、アッラーは罪人たちのかの日における帰り処を解明し給います:
 「まことに、火獄は待ち伏せしていた。」火獄とは、来世における罰の家であり、無法者たちが渡るべき道です。ここでのミルサードは見張りと準備という意味があります。火獄は彼らがそこに入るのを見張っている、またはそこは彼らのために準備された場所、ととれます。「無法者たちのために(待ち伏せる)、帰り処であった。」罪人たち、不信仰者たちのための家であり、帰り処であるという意味です。「彼らはそこに長々と留まって。」『アハカーブ』は、『ハクブ』という時の期間を意味する単語の複数形で、長い間、と理解できます。つまり彼らは火獄の罰の中に終わりなく留まり続けるということです。「そこでかれらは涼しさを味わうことはなく、また飲み物を(味わうこともない)、」つまり、その場所では彼らの身体の表面を冷やすものを味わうことがなく、喉の渇きを軽減する飲み物もないということです。「ただ、煮え湯と膿汁ばかりを(味わう)。」非常に温度の高い水と、地獄の民の身体から流れる膿だけ。「相応の報いを(報われる)。」つまり、この罰は彼らの悪行に相応している報いだということです。「まことに彼らは清算を期待(想定)していなかった。」本当に彼らは、自分たちがアッラーによって行為の清算を受けると思っていなかったという意味です。「そして、われらの諸々の印・節を嘘として激しく否定した。」またクルアーンの諸印は嘘であると度を超すほど否定した。「だが、ことごとくを、われらは書に数え留めた。」彼らに報いるために、彼らの全ての行いをアッラーは書き記すことで数え上げ給うた。続いて、屈辱と非難をもって悪行者たちが地獄で苦しめられることが彼らに伝えられます:「それゆえ、おまえたちは味わえ。われらはおまえたちには懲罰よりほかに増し加えはしない。」罪人達よ、主の罰を味わえ、彼からは罰の追加しかおまえたちにはない、という意味です。彼らの罰の追加とは、彼らの皮膚が焼かれる度にアッラーが違う皮膚に替え給うというものです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP13~15)

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78章解説【1】

2012年03月20日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
1. 何について彼ら(マッカの不信仰者たち)は尋ね合うのか。
2. 大いなる消息(復活)について。
3. それについて彼らは意見分裂する。
4. 断じて、彼らはやがて知るであろう。
5. それから、断じて、彼らはやがて知るであろう。
6. また、われらは大地を寝床に成さなかったか。
7. また、山々を杭と(成さなかったか)。
8. また、おまえたちをつがいに創り、
9. また、おまえたちの眠りを休息と成し、
10. また、夜を衣服(覆い)と成し、
11. また、昼間を生計と成した。
12. また、われらはおまえたちの上に堅固な7つ(の諸天)を打ち建て、
13. また、燃え立つ灯火(太陽)を置き、
14. また、われらは雨雲からほとばしる水を降らした。
15. それによってわれらが穀物や草を萌え出でさせるため、
16. また、生い茂る園をも(萌え出でさせるため)。

 預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がアッラーからのメッセージを受けて遣わされた際、『ムハンマドは何を持って来たのか?』と多神教徒たちはお互いに尋ね合い、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が遣わされた目的について議論し合いました。そして人間が現世でしてきた行為が清算される審判の日の知らせを含んだ啓示についてもです。そのためアッラーはこの章を啓示し給い、「何について彼らは尋ね合うのか。」という御言葉で章を始め給いました。つまり、彼ら多神教徒たちは何について尋ね合っているのか?また彼らは復活の真実についてではなく、それが起こるかどうかについて尋ね合っていたのです。審判は起こるのか?それとも起こらないのか?と。

 アッラーから発せられたこの質問は、本当の意味での質問ではありません。なぜなら本物の質問とは、質問者が質問しているものに対して無知であることから発生するからで、それはアッラーには不可能なことです。ここの質問の目的は:事の重要性の強調です。「彼らが尋ね合っている事柄が如何に偉大であることか」といった意味になります。その根拠はクルアーンが続いて述べた次の聖句です:「大いなる消息について。」ナバウ(消息)は、有益な知らせを意味し、大いなる消息は、死後の復活を指します。「それについて彼らは意見分裂する。」つまり、復活を信じる者とそうでない者とで相違するという意味です。

 また、宗教の目的の全てが、人間が行為の清算を受けるかの日の真実に帰することに疑いの余地はありません。その日、善行は善で報われ、悪行は悪で報われます。

  続いてクルアーンは、多神教徒が復活の到来を認めないことを非難し、脅迫します:
 「断じて、彼らはやがて知るであろう。それから、断じて、彼らはやがて知るであろう。」

 カッラー:非難と叱責を意味します。つまり、彼らが主張しているように、死後に復活はない、ということではなく、やがて彼らは復活を実際に見る時に真実を知るだろう、という意味です。クルアーンは復活の到来が確実であることと、その恐ろしさの強調ために繰り返して述べています。

 続いて、聖句のそれぞれが私たちを、復活の日、人間を生きた状態に戻すことのできるアッラーの偉大な御力に向けさせてくれます:

 「また、われらは大地を寝床に成さなかったか。」アッラーは大地を人間と動物の住処と成し給いました。また大地はそこでの生活がされやすい形に創造されました。

 続いてアッラーは山々を杭と表現し給いました:「また、山々を杭と(成さなかったか)。」これは地質学が認めた重要な描写です。後ほど科学的解説で詳細を見ていきます。

 続いてアッラーは仰せになります:「また、おまえたちをつがいに創り、」つまり、雌雄に、という意味です。繁殖が行われ、人間が残り、地球が発展するためです。このことは英知溢れる、整える力に富んだアッラーの御力の存在の根拠の一つです。

 続いてアッラーは仰せになります:「また、おまえたちの眠りを休息と成し、」眠りは創造主の御力を示す諸印の一つです。これについても後ほど科学的解説で詳細を見ていきます。

 アッラーは夜を描写して仰せになります:「また、夜を衣服(覆い)と成し、」リバースはもともと人間が着たり覆われたりするものを指します。夜がその闇で人々を覆うことから衣服と呼ばれています。また衣服は暑さや寒さの害から着る人を守ってもくれるように、衣服に似せられた夜も体の疲れから眠りを介して守ってくれます。人間は眠ることで癒しを得、力を回復させます。

 またアッラーは昼間を描写して仰せになります:「また、昼間を生計と成した。」つまり、昼間を生活と糧の追求のために努力する時間とした、という意味です。人間が仕事や何らかの活動で忙しい昼間にかけて忙しくし、昼間は生活の糧をもたらすものの探求といった継続した変化は、少しの欠陥も持たない規則正しい動きを持つ地球を創造したアッラーの御力のしるしの一つです。

 続けてアッラーは仰せになります:「また、われらはおまえたちの上に堅固な7つ(の諸天)を打ち建て、」つまり、人々よ、われらはおまえたちの上に7つの天を打ち建てた、という意味です。堅固とは、時間の経過に影響されない、精密にまた強く創られていることを指します。その本当の姿について知るのはアッラーおひとりのみです。

 そしてアッラーは太陽を描写して仰せになります:「また、燃え立つ灯火(太陽)を置き、」アッラーはここで太陽を灯火に、つまり発光する灯りに喩え給いました。それは火で着火され、油やアルコールやガスで燃えることで光ります。スィラージュ(灯火)は自らが生む光を持っています。また太陽が燃焼するガスの塊であることと、内部で起こる核爆発や反応によってエネルギー得ていることを科学はすでに解明しています。つまり科学はクルアーンが述べた、太陽が燃える物体であり、エネルギーをその内部から得ているという事実を発見したということです。

 またアッラーは雲を描写し給います:「また、われらは雨雲からほとばしる水を降らした。」つまり、雲から豊かに雨を降らしたという意味です。雲がムウスィラート(しぼられるものという意味)と言われているところから、影響を与える存在よって雲が絞られて、そこから水が降ろさられていることが理解できます。風や電気の放散が雲からの降雨を手伝っている影響を与える存在です。

 続いてアッラーは少ない言葉で大地に生えるすべてのものを解明し給います:「それによってわれらが穀物や草を萌え出でさせるため、」つまり、この雨水によってアッラーが穀物や植物を生えさせるため、です。「また、生い茂る園をも(萌え出でさせるため)。」たくさんの木が植わっている園であり、その枝は豊かでその近さから絡み合っています。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP10~13)

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79章解説【3】

2012年03月01日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
34.それで最大の溢れ押し寄せる破局(復活の日)が来た時、
35.(つまり)人間が己の精を出してきたことを思い出す日に、
36.そして、焦熱地獄が見る者の前に出現せしめられた(日に)。
37.さて、無法に振舞った者については、
38.そして今生を優先した(者については)、
39.まことに、焦熱地獄、それが住み処である。
40.一方、己の主の立ち処を恐れ、自我に欲望を禁じた者については、
41.まことに、楽園、それが住み処である。
42.彼ら(マッカの不信仰者)はかの時についてお前に尋ねる、「その停泊(到来)はいつごろか」。
43.その(かの時の)言及についておまえはどこにいるのか。
44.おまえの主の御許にその(かの時の)結末(究極の知識)はある。
45.まことに、おまえはそれ(かの時の)慴れる者への警告者に過ぎない。
46.彼らがそれを見る日、あたかも彼らは一夕かその朝のほかは(現生に)留まらなかったかのようである。

続いてクルアーンは最後の審判の日と、人々のその日の行く末についての話に移ります:
「それで最大の溢れ押し寄せる破局(復活の日)が来た時、(つまり)人間が己の精を出してきたことを思い出す日に、そして、焦熱地獄が見る者の前に出現せしめられた(日に)。」

『アッターンマ(最大の溢れ押し寄せる破局)』は、復活の日を指します。その日はその恐ろしさをもって、全てに反抗し、溢れ返ります。その瞬間、人間は現世で行ってきたことをじっくりと思い出します。しかし思い出したとしても、後悔の念と苦しみだけしか残りません。「そして、焦熱地獄が見る者の前に出現せしめられた(日に)。」つまり地獄が見る者たちにはっきりと見せつけられるという意味です。

罰の原因については、代わってアッラーが解明し給います:
「さて、無法に振舞った者については、そして今生を優先した(者については)、まことに、焦熱地獄、それが住み処である。」

『トゥグヤーン(無法な振る舞い)』は、限度を越し、不信と罪深さに熱心になることを意味します。また現世の生活を優先し、そのためだけに行動し、来世のために何もしなかった人だけにトゥグヤーンの属性が相応しくなります。彼らの来世における住処は、その火で苦しめられる地獄です。

続いて、対照的に、来世における至福の原因が以下の通りであることが語られます:
「一方、己の主の立ち処を恐れ、自我に欲望を禁じた者については、まことに、楽園、それが住み処である。」

つまり、審判の日にアッラーの御前に立つことを恐れ、その時にアッラーにより下される裁定を恐れて、義務を全うし、禁止事項を避けた者を指します。「お自我に欲望を禁じた者」つまり自らの魂に、アッラーが嫌い給い、満足し給わない種類の欲望を禁じて、魂の望む反対のことを実践した者を指します。審判の日には天国がその者の安住の場となり家となります。

つまりアッラーの尊大さと偉大さを懼れる者は、自らの魂をその欲望から遠ざけます。欲望とは、本能に不相応なものに傾くこと、悪い意味でも良い意味でも何かに惹かれることをいいます。ただ聖法上では好ましくないものに使われることの方が多いです。完全な自由を与えられた欲望は、結果を考慮しないまま瞬間的な快感に人を導こうとし、痛みと害を招く有害な欲の享受を獲得するよう鼓舞します。

代わって理性ある者は、直後に痛みを生む快感、後悔を生む欲から自身を制します。自我が元来から欲望に傾きやすいものであるからこそ、激しい努力と反抗の気持ちをもって自我がもとめるものと戦う必要があるのです。また自我を責めないでいると、思考は自我が求める欲望の追求に手を貸そうとするため、腐敗した意見に安堵したりするようになります。以上から、欲望が全ての悪と災難の原因になると言えるのです。

自我を欲望から制することは、勝利と成功の基本です。自我に対して有害な熱望や破壊を招く欲望を禁じることを生むアッラーへの畏敬の念だけが、欲望を抑制することができるのです。また自らに禁じる行為を、アッラーは来世で天国の至福と交換してくださります。

最後に、審判の日の恐ろしさを聞いてそれがいつ起きるのかと預言者(平安と祝福あれ)に尋ねる不信仰者たちの質問にアッラーが答え給います:

「彼ら(マッカの不信仰者)はかの時についてお前に尋ねる、「その停泊(到来)はいつごろか」。」ここでの『かの時』は、復活の日を指します。アラビア語における『かの時=サーア』は、時間の一部分を意味します。最近になってこれに新しく60分間という限定された意味が付加されました。そしてサーアは時間をはかる機械の名として知られるようにもなりました。しかしクルアーンはサーアをまた特別に扱っており、非限定形で使うときは、秒や分で表さない短い時間という意味だけで登場させます。以下で仰せになっているとおりです:「そして、彼らの期限が来た時、彼らは一時も遅れることはなく、先んずることもない。」(16章61節)代わって、サーアが限定形でクルアーン中で使われると、復活の日のみを指します。それは、危険で非常に大きな変化のために地球の規則が乱れてしまう、決定的な日です。

不信仰者たちによる、復活が起こる日はいつかという質問に対する返答は次でした:「その(かの時の)言及についておまえはどこにいるのか。」つまり:ムハンマドよ、その時がいつであるかおまえが語るための小さな知識もおまえにはないのである、という意味です。「おまえの主の御許にその(かの時の)結末(究極の知識)はある。」おまえの主にその知識の結末と詳細が帰り、彼以外それが起きる時期を知ることはない、という意味です。「まことに、おまえはそれ(かの時の)慴れる者への警告者に過ぎない。」ムハンマドよ、おまえの任務は、復活の日の到来を確信し、アッラーに背いてしまったことで彼から受ける罰を恐れている人たちに警告することである、という意味です。

続いて、クルアーンはかの日の恐ろしさを描写します:「彼らがそれを見る日、あたかも彼らは一夕かその朝のほかは(現生に)留まらなかったかのようである。」現世の生活と多くの出来事がぶつかり合う、その日の魂が受ける衝撃の大きさから、復活と来世の世界を目の当たりにする時、快楽の中を過ごした長い人生が彼らには夜か昼の数時間しかなかったかのように感じられます。

この消えゆく現世の生活と少ない楽しみのために人間は永久の来世を犠牲にしてしまうのでしょうか?自分が存在している理由と死後の帰り処から迷ってしまう人間はなんと愚かなのでしょうか。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP29~31)

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79章解説【2】

2012年02月16日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
15.おまえにムーサーの話は届いたか。
16.彼の主が聖なるトゥワーの谷で彼に呼びかけ給うた時のこと。
17.「フィルアウンの許に行け。まことに彼は無法を極めた」。
18.「そして、言え、『あなたには(不信仰などから離れ)清まることの方に(向いたいという願望)はあるのか』」。
19.「『そして、私があなたをあなたの主に導き、あなたも(彼を)慴れるようになる(ことに向いたいという願望はあるのか)』と」。
20.それから彼(ムーサー)は彼(フィルアウン)に最大の印を見せた。
21.だが、彼(フィルアウン)は嘘と否定し、(アッラーに)背いた。
22.その後、背を向け、(ムーサーの妨害に)奔走し、
23.それから(人々を)集め、そして呼びかけ、
24.そして言った、「われは至高なるおまえたちの主である」。
25.そこで、アッラーは彼を捕え給うた、後者と前者の見せしめの懲罰として(懲らしめた)。
26.まことに、そこには懼れる者への教訓がある。
27.おまえたちの方が創造に関してより難しいか、それとも彼(アッラー)が打ち建て給うた天の方か。
28.その高さを高め、そして、それを均し、
29.そして、その(天の)夜を暗くし、その(天の太陽の)光を出し給うた。
30.そして、大地を、その後、押し広げ給い、
31.そこ(大地)からその水とその牧草を出でさせ給うた。
32.また、山を停泊(固定)させ給うた。
33.おまえたちと、おまえたちの家畜の慰楽(活計)として(アッラーはこれら全てを創造し給うた)。

 続いてクルアーンは訓戒を得られるよう、ムーサーとフィルアウンの物語に移ります。クルアーンの中で最も出番の多いお話がムーサーの物語ですが、なぜなら彼はユダヤ人の預言者であり、アラブ人の隣人である彼らはアラブ人に預言者たちの物語を伝えていたためです。その一人が、トーラーにも記載のあるこのムーサー(平安あれ)なのです。

 物語におけるクルアーンの目的に、アラブ人に彼ら自らの生活環境や思考方法から得られるものに基づいた影響を与えることと、ユダヤ人が陥ってしまった自分らの宗教に対する間違った理解を正し、見失ってしまった諸真実と不可視の知らせを齎しつつクルアーンがアッラーの啓示であることを顕現させイスラームに彼らを導くことが挙げられます。

 クルアーンの各章の中で、ムーサーの物語は様々な表現で、ときに簡潔にそしてときに詳細に渡って登場します。ここではムーサーとフィルアウンの物語が短く纏められた形で訓戒を与えつつさらりと述べられます。訓戒は:『フィルアウンがその背徳のために滅ぼされる』です。この中には預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の心を堅甲にし、アッラーがフィルアウンを負かしてムーサーに勝利を授けたように、信仰者たちを迫害した不信仰者たちに対する勝利の約束が含まれます。アッラーは仰せになります:

 「おまえにムーサーの話は届いたか。彼の主が聖なるトゥワーの谷で彼に呼びかけ給うた時のこと。「フィルアウンの許に行け。まことに彼は無法を極めた」。」

 つまり:ムハンマドよ、清らかで祝福された、トゥワーと名付けられた谷でムーサーの主が彼に呼びかけ給うた知らせがおまえに届いたか。トゥワーは、シナイ山のふもとに位置し、「「フィルアウンの許に行け。まことに彼は無法を極めた」。」とアッラーがムーサーに仰せになった場所です。つまりフィルアウンは背徳と不信において度を越したという意味です。アッラーは無法を極めることを嫌悪し給いますが、なぜなら現世の生活におけるアッラーの慣行に反するものであり、大地を汚してしまうからです。また人間は主を忘れるか否定してその導きから外れてしまうときだけ、背徳に陥るのです。

 アッラーはその預言者であるムーサーにフィルアウンを諭すよう命令し給います:「「そして、言え、『あなたには(不信仰などから離れ)清まることの方に(向いたいという願望)はあるのか』」。」ここでの質問文には、優しさと柔らかさがにじみ出ています。意味は、不信の穢れとあなたが神であるという主張や背徳行為、イスラエルの民に対する迫害行為から清まりたいと思っているのか、です。「「『そして、私があなたをあなたの主に導き、あなたも(彼を)慴れるようになる(ことに向いたいという願望はあるのか)』と」。」また私があなたを主が御満悦される道に導き、あなたに課せられた義務を全うし、禁じられた諸事項を避けることで死後を懼れるようにしたいと思うのか、という意味です。

 アッラーに対する懼れは、導きの後にしか現れません。なぜなら主に導かれることで主の偉大さを知り、人間はアッラーの偉大さを知らずしてかれを懼れることなど出来ないからです。

 続いてクルアーンは、ムーサーとフィルアウンのやり取りを述べます:「それから彼(ムーサー)は彼(フィルアウン)に最大の印を見せた。だが、彼(フィルアウン)は嘘と否定し、(アッラーに)背いた。その後、背を向け、(ムーサーの妨害に)奔走し、それから(人々を)集め、そして呼びかけ、そして言った、「われは至高なるおまえたちの主である」。」

 ムーサーははっきりとフィルアウンに教えを示し、その真実性を示す奇蹟を見せました。それは蛇に変身する杖で、ムーサーの使命を最大限に援護しているため「最大の印」と表現されました。しかしフィルアウンはムーサーを嘘つき呼ばわりし、アッラーの命令に背きました。そしてムーサーが脅迫している事柄に立ち向かおうと急ぎながらムーサーを否定しました。また人々がムーサーを信じないように立ちはだかり、魔法使いたちを集めて言いました:「われは至高なるおまえたちの主である」フィルアウンの自惚れが自らの神性の主張を生みだしたのですが、彼はそれが嘘であることを心の底では十分に理解していたのです。

 しかしアッラーの慣行が、神性を主張する人間に厳しい復讐を与えないわけにはいきませんでした:「そこで、アッラーは彼を捕え給うた、後者と前者の見せしめの懲罰として(懲らしめた)。まことに、そこには懼れる者への教訓がある。」つまりアッラーはフィルアウンを来世では火で罰し、現世では海で溺れさせ給いました。この事実の中には、アッラーを懼れ、その罰を懼れる者が得る確実な訓戒があります。

 続いてクルアーンは、人が死んでその骨がボロボロになってしまった後に生き返ることを不可能であるとして甦りを否定する人たちに対する呼びかけに移ります:

 「おまえたちの方が創造に関してより難しいか、それとも彼(アッラー)が打ち建て給うた天の方か。」

 意味:人々よ。おまえたちの創造の方が天の創造に優っているのか。まことに天を打ち建てた御方にとっておまえたちやおまえたちのようなものを創造すること、また死後に生き返らせることは容易である。またおまえたちの死後におまえたちを生き返らせることは、アッラーにとって天の創造よりも難しいことではないのである。

 クルアーンはこの意味を別の御言葉でも繰り返しています:「諸天と地の創造は、人々の創造よりも偉大である。だが、人々の大半は知らない。」(40章57節)

 アッラーは天の創造を、建てる、と表現し給いました。「それとも彼(アッラー)が打ち建て給うた天の方か。」アラビア語で建てるという動詞は、ばらばらのものを結合させて一つにすることを指します。このようにアッラーは惑星や星で御創りになったのです。各部分それぞれに軌道を与え、特定の引力によってそこを回り、またその軌道を邪魔するものはありません。以上が集まって一つの世界、つまり天という名の、私たちの上にあり、また私たちを覆っている世界が存在しているのです。

 またアッラーは天の創造を「その高さを高め、そして、それを均し、」と表し給いました。つまり大地からの距離を高いものとし、天それぞれの形を似通わせて、欠陥の無いものとし給うたという意味です。またアッラーは天の外見のいくつかを次のように表し給いました:「そして、その(天の)夜を暗くし、その(天の太陽の)光を出し給うた。」

 アッラーは大地を描写し給います:「そして、大地を、その後、押し広げ給い、」天の創造後、大地を広げ、大地の住人たちのためにそれを平らにした、という意味です。「そこ(大地)からその水とその牧草を出でさせ給うた。」これらの少量の言葉でクルアーンは大地の上での出来事のすべてを描写しています。それは水と植物です。描写において、修辞的にそして繊細さについても、クルアーンの文章にまさる完璧な表現はありません。

 そしてアッラーは山を描写し給います:「また、山を停泊(固定)させ給うた。」大地に山がしっかりと据えられていることを指しますが、これはアッラーの御力の顕現の一つです。大地の広がり、そこからの水と牧草の出現、山の固定。以上の現象はアッラーの御力の印でもあります。そして同時に人間と動物にとって有益なものでもあります。「おまえたちと、おまえたちの家畜の慰楽(活計)として(アッラーはこれら全てを創造し給うた)。」

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP25~28)

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79章解説【1】

2012年01月19日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم

1.(不信仰者の魂を)力任せに引き抜く者(天使)たちにかけて、

2.また(信仰者の魂を)やさしく取り出す者(天使)たちに(かけて)、

3.また(空中を)泳いで飛ぶ者(天使)たちに(かけて)、

4.また、先んじて先を行く者(天使)たちに(かけて)、

5.また、事を処理する者(天使)たちに(かけて)、

6.(復活の前の死滅を告げる天使の角笛で)震動するもの(大地、あるいは万物)が震動する日、

7.それには次に来るもの(復活を告げる第二の角笛の響き)が続く。

8.心はその日、おののき震え、

9.その(心の所有者の)目は伏せられる。

10.彼らは言う、「なんと、まことにわれらが原状に戻される者であるのか」。

11.「腐朽した骨となった時にか」。

12.「それ(戻されること)は、そうなれば、損な帰還である」と彼らは言った。

13.だが、それ(戻されること)はまさしく一声の叱声に過ぎない。

14.すると途端に彼らは地表にいる。

 

 この章は死後に起きる復活と、その後に起きる報復を内容として扱い、また現世と来世における罪深い人々の行く末をフィルアウンとその民に起きたことを提示しながら解明します。

 

 まず、次の事柄をもって復活がやってくることに関する誓いの言葉から章は始まります:

 

 「(不信仰者の魂を)力任せに引き抜く者(天使)たちにかけて、また(信仰者の魂を)やさしく取り出す者(天使)たちに(かけて)、また(空中を)泳いで飛ぶ者(天使)たちに(かけて)、また、先んじて先を行く者(天使)たちに(かけて)、また、事を処理する者(天使)たちに(かけて)、」

 

 「(不信仰者の魂を)力任せに引き抜く者(天使)たちにかけて」وَワ:誓いのために使われます。引き抜く:力を込めてものを引っ張ることを指し、度を越していることを意味します。魂が体からなかなか離れようとしないため、天使たちは不信仰者の魂を強制的に引き抜きます。どの不信仰者も魂が体を離れる前に地獄の光景を見せ付けられ、恐ろしいものを死の直前に見た魂は体の奥深くに引っ込んでしますが、それを激しく荒々しく死の天使が掴むのです。

 

 「また(信仰者の魂を)やさしく取り出す者(天使)たちに(かけて)」نشط は、仕事を速やかに、軽やかに行うことを意味します。信仰者の魂は聖なる世界への飛来を待ちわびているため、死の天使は信仰者の魂を優しくそして容易に引き抜くことをここでは指しています。つまりどのような信仰者も死ぬ間際には自分に与えられる天国での場所を目撃するため、魂が体外に早く出たいと欲するのです。信仰者の魂が身体に依存していないために死の天使は彼らの魂をやさしく引き抜くことができるのです。

 

 「また(空中を)泳いで飛ぶ者(天使)たちに(かけて)」この天使達は天からアッラーの命令に応じて降りてきますが、その様子はまるで泳いでいるかのようです。

 

 「また、先んじて先を行く者(天使)たちに(かけて)」アーダムの子(人間)よりも先に善行を行う天使達を指すと言われています。

 

 「また、事を処理する者(天使)たちに(かけて)」地に住む人たちにアッラーより受けた命令を実行する天使達を指すと言われています。

 

 見積もって見えてくる誓いの答えは:きっとおまえたちは復活させられ、清算されるだろう、です。根拠は、誓いの数節の登場の後にクルアーンが述べた審判の日の特徴です:

 

「(復活の前の死滅を告げる天使の角笛で)震動するもの(大地、あるいは万物)が震動する日、それには次に来るもの(復活を告げる第二の角笛の響き)が続く。心はその日、おののき震え、その(心の所有者の)目は伏せられる。」

 

ラージファ(راجفة)とは、大地が混乱し、生き物が死す第一声です。それは第一の角笛の響きと表現されます。ラーディファ(رادفة)は、第二の角笛の響きであり、万物の主のために人々が墓から生きて出てきます。クルアーンはその様子を次のように描写しています:「そして、角笛が吹かれ、諸天にいる者も地にいる者も、アッラーが御望み者を除いて気絶した。それからもう一吹き吹かれると、すると途端に、彼らは立って眺める。」(3968節)

 

 この偉大な光景は私たちの心を沈黙させ、当惑させます。「心はその日、おののき震え」心はかの日の恐ろしさのため、怖がりますが、不信仰者の心をここでは指します。「その(心の所有者の)目は伏せられる」その目は敗北感に覆われて低められます。

 

 続いてクルアーンは、不信仰者たちが言い慣れていた蘇りの否定やそれに対する嘲笑について述べます:

 

 「彼らは言う、「なんと、まことにわれらが原状に戻される者であるのか」。「腐朽した骨となった時にか」。「それ(戻されること)は、そうなれば、損な帰還である」と彼らは言った。」

 

 不信仰者たちは嘲笑しながら次のように言っていました:「なんと、まことにわれらが原状に戻される者であるのか」つまり死んだ後に生きた状態に戻るのか?という意味です。「腐朽した骨となった時にか」朽ち果てた骨になった後に?という意味です。「「それ(戻されること)は、そうなれば、損な帰還である」と彼らは言った。」もし来世で生き返されたら私たちはそれを嘘だとしてきたことで損をしてしまうな、と言う意味で、彼らによる嘲笑の言葉です。

 

 続けてクルアーンは彼らの否定と嘲笑に応えます:「だが、それ(戻されること)はまさしく一声の叱声に過ぎない。」第二の角笛の響きを指します。「すると途端に彼らは地表にいる。」死んで地の中にいたというのに、生きた状態で地表に現れます。

 

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP2325

 

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80章解説【2】

2012年01月03日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم

24.それで人間には己の食べ物の方をよく眺め(考え)させよ。

25.(つまり)われらが水をざあざあと注ぎ、

26.それから、大地を(植物の萌芽によって)裂き割り、

27.それから、そこに穀物を生やし、

28.またぶどうや青草を、

29.またオリーブやナツメヤシを、

30.また生い茂る庭園を、

31.また果物や牧草を、

32.おまえたちとおまえたちの家畜のための慰楽(活計)として(生やしたことの方をよく眺めさせよ)。

33.それで(復活の)耳がおかしくなる程の大音声が来た時、

34.(つまり)人や己の兄弟から逃げる日、

35.また母や父からも、

36.また伴侶や子供たちからも(逃げる日には)、

37.彼らの誰もが、その日、己の気を奪うものを有する(自分のことで精一杯である)。

38.数ある顔はその日、明るく、

39.笑い、喜ぶ。

40.また、数ある顔はその日、上に塵があり、

41.埃が顔を覆う。

42.それらの者、彼らこそ不信仰な背徳者である。

 

 人間が始めどのような姿だったかやまたその終わりの姿について解明した後、クルアーンはアッラーが人間に与え給うた恩恵の数々を思い起こさせます。そうすることで人間に感謝するよう促すためです。その一つが、生きていくために不可欠である食べ物に目を向けることです。至高なる御方アッラーは仰せになります:

 

 「それで人間には己の食べ物の方をよく眺め(考え)させよ。(つまり)われらが水をざあざあと注ぎ、それから、大地を(植物の萌芽によって)裂き割り、それから、そこに穀物を生やし、またぶどうや青草を、またオリーブやナツメヤシを、また生い茂る庭園を、また果物や牧草を、おまえたちとおまえたちの家畜のための慰楽(活計)として(生やしたことの方をよく眺めさせよ)。」

 

 植物を萌え生やすという奇跡は、人間の創造と同等の奇跡です。両者とも原形質から出来ています。

 

 植物と人間の原形質はとてもよく似ていますが、植物や果物、木の種といった細胞の中に奇跡は隠れています。これらは大地を裂き、同じような種子や木々を作り出す能力を持っているのです。

 

 同様に、アッラーの叡智はこれら植物に栄養を与える雨にも隠れています。「(つまり)われらが水をざあざあと注ぎ」この雨が太洋、大河、湖の蒸気からいかに構成されているか。そして決められた季節にいかに降下し、大地の命の存続に関わっているか。そしてこの雨がいかに大地を裂いて、植物、ぶどうの房を、新鮮な緑、オリーブ、ナツメヤシを生えさせるきっかけとなっているのか。「また生い茂る庭園を」つまり数多くのしっかりとした木々を持つ園を指します。「おまえたちとおまえたちの家畜のための慰楽(活計)として」人々よ、おまえたちがこれらの作物から益を得、ラクダ、牛、羊といった家畜に餌をあたえるためだ、という意味です。

 

 続いてクルアーンは人々に審判の日の存在とその恐ろしさを思い起こさせます:

 「それで(復活の)耳がおかしくなる程の大音声が来た時、(つまり)人や己の兄弟から逃げる日、また母や父からも、また伴侶や子供たちからも(逃げる日には)、彼らの誰もが、その日、己の気を奪うものを有する(自分のことで精一杯である)。」

 

 「耳がおかしくなる程の大音声」がやってくるとき。それによって審判が起こります。その激しさは、聴覚を失わせてしまうほどです。その時、人間は自分に最も近い人を拒否します:兄弟、母、父、妻、子供から逃げてしまいます。皆それぞれ、自分のことしか頭にありません。他のことを考える余裕がないほどの悩みを抱えています。

 

 そして審判の日には信仰者がどのような状態にあるか、そして不信仰者がどのようにあるのかの描写で終わります:

 

 「数ある顔はその日、明るく、笑い、喜ぶ。また、数ある顔はその日、上に塵があり、埃が顔を覆う。それらの者、彼らこそ不信仰な背徳者である。」

 

 その日の信仰者たちの顔は「明るく」つまり輝き、光っています。「笑い、喜ぶ」アッラーから戴いた恩恵や栄誉のために嬉しくて笑っています。代わって不信仰者たちの顔はその日、「上に塵があり」つまり塵と煙に覆われます。悩みのために塞ぎ込むことを意味します。「埃が顔を覆う」屈辱に覆われるということです。「それらの者、彼らこそ不信仰な背徳者である」彼らこそがアッラーを信仰せず、過去に行なった罪業を気にしなかった人たちです。そのためにアッラーが彼らの悪い行いに対して報われるのです。

 

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP4142

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80章解説【1】

2011年12月22日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم

1.彼(預言者ムハンマド)が眉をひそめ、背を向けた。

2.かの盲人が彼の許に来たことのために。

3.そして、彼(かの盲人)が清まるかもしれないと何がお前に分からせるか。

4.あるいは、(おまえの言葉によって)彼が留意し、その訓戒が彼に益するかもしれないと。

5.自足した者(クライシュ族の有力者)については、

6.おまえは彼に没頭(熱心に応接)した。

7.彼が清まらないことは、おまえに責めはないというのに。

8.一方、おまえの許に足労して来た者については、

9.彼(その者)が(アッラーを)れて(来て)いるのに、

10.           おまえは彼をなおざりにする。

11.           断じて(その様に振る舞ってはならない)、まことに、それ(クルアーンの章・節)は訓戒であり、

12.           ――それで望んだ者はそれを思いに留めるが良い――

13.           高貴なる諸書のうちにあり、

14.           高く揚げられ、清められた、

15.           記録者(天使)たちの手による(諸書のうちにあるが)、

16.           (彼らは)気高く、敬虔(である)。

17.           (不信仰の)人間は殺された(呪いの言葉)、彼はなんとひどく恩知らずなことか。

18.           どんなものから彼(アッラー)が彼(不信仰の人間)を創り給うたことか。

19.           一滴の精液から彼を創り、それから彼に割り当て給うた。

20.           それから、その道を易しいものとなし給い、

21.           それから、彼を死なせ、墓に埋めさせ給い、

22.           それから、望み給うた時に彼を甦らせ給うた。

23.           断じて、彼(人間)は、彼(アッラー)が命じ給うたことをまだ果たしていない。

 

この章は、人間や植物の創造におけるアッラーの御力の証拠について語っています。また審判の日とその恐ろしい光景についても語っており、また預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対するアッラーからの叱責の言葉もあります。

 

 まず初めに、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)と盲目で貧しい教友アブドゥッラー・イブン・ウンムマクトゥームの間で起きたある出来事の想起が述べられます。アブドゥッラーが預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の許を訪れた際、彼はちょうどマッカのクライシュの有力者と貴族との会合で彼らをイスラームに誘うための話をすることに忙しくしていました。なぜなら預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は彼らが帰依することで彼らを追従する人たちも一緒に帰依することを切望していたためです。アブドゥッラーは次のように言いました:アッラーの使徒さま。アッラーがあなたさまに教え給うたことを私に読み、お教えください!と。アブドゥッラーは何度も何度もお願いの言葉を繰り返しましたが、彼は預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が人の集団の応対に忙しくしていることを知らずにいたのでした。しかし預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はアブドゥッラーの言葉を遮ってしまい、眉をひそめてしまいました。その時に次の節が啓示されました:

 

 「彼(預言者ムハンマド)が眉をひそめ、背を向けた。かの盲人が彼の許に来たことのために。そして、彼(かの盲人)が清まるかもしれないと何がお前に分からせるか。あるいは、(おまえの言葉によって)彼が留意し、その訓戒が彼に益するかもしれないと。自足した者(クライシュ族の有力者)については、おまえは彼に没頭(熱心に応接)した。彼が清まらないことは、おまえに責めはないというのに。一方、おまえの許に足労して来た者については、彼(その者)が(アッラーを)慴れて(来て)いるのに、おまえは彼をなおざりにする。」

 

 預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は盲人に対して眉をひそめ、彼を制してしまいました。クルアーンでは、三人称代名詞が使われています:「彼が眉をひそめ、背を向けた」。アッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する優しさから、「おまえは眉をひそめ、背を向けた」とは仰せになりませんでした。

 

 アッラーは続けて預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に語り給います:「そして、彼(かの盲人)が清まるかもしれないと何がお前に分からせるか。」つまり、ムハンマドよ、おまえが眉をひそめたこの盲人がおまえから受ける導きの言葉で罪から清められるかもしれないことをおまえに教え、知らせるものは何なのか。「あるいは、(おまえの言葉によって)彼が留意し、その訓戒が彼に益するかもしれないと。」もしくはおまえから聞く導きの言葉が彼を訓戒となり、彼に益するかもしれないと。「自足した者については、」信仰やおまえが持つ導きの言葉を不要とし、「おまえは彼に没頭(熱心に応接)した」そのような者におまえは自ら進んで応接し、その者の指導を重要視した。「彼が清まらないことは、おまえに責めはないというのに」彼が不信から清められてイスラームに帰依しなくてもおまえには何の責任もないのに。「一方、おまえの許に足労して来た者については、彼(その者)が(アッラーを)慴れて(来て)いるのに」善を求めて急ぎながらおまえの許にやって来たアッラーをおそれる者については、「おまえは彼をなおざりにする」おまえは彼を軽視して、彼以外のことで忙しくした。

 

 預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は盲人に対する指導を制止する立場ではなく、イスラーム宣教のためにもっとも大切であると判断した事柄において奮闘努力する立場にありました。しかしアッラーはこの叱責の御言葉から、貴族の特権を無効にし、障害者も含む善い意志を持つ人たちに対する賞賛し、どんなに社会的地位高くても真実の言葉を軽蔑する人たちに彼らは優ると仰せになりました。だからこそかの盲人の弱さと貧しさが預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)のしかめ面や軽視の理由となってはならないのです。どんなに盲人がミスしてしまってもです。本当に彼は敏感で、善良な魂の持主なので、どのようなアッラーのしるしを聞いても訓戒を得ることが出来るはずなのです。

 

 続いて。この盲人はしかめ面をされたことを知らず、また見てもいません。しかしそれは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が優先すべき行為ではありませんでした。そのためにアッラーはその預言者をかの御言葉で叱責し給い、また盲人たちに教育を施し、敏感な彼らの気持ちを傷つけてはならないことを信徒たちに教え給いました。またその中にはアッラーからいただいた導きの教えを進んで学ぼうとする盲人たちに向けられた賞賛も含まれています。

 

 またアッラーからの叱責の言葉は、クルアーンがアッラーの啓示であること、ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性の信憑性を示す大きな根拠の一つでもあります。もし預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が預言者ではなく単に有力で偉大な男性たちの一人でクルアーンは彼の書いたものだとしたら、きっと自分が叱責されたことに関する言葉が公表されることなどけっして許さなかったでしょう。またこの叱責の言葉が啓示であると言うことにも満足しなかったはずです。

 

 叱責の後、アッラーは仰せになりました:

 「断じて(その様に振る舞ってはならない)、まことに、それ(クルアーンの章・節)は訓戒であり、――それで望んだ者はそれを思いに留めるが良い――高貴なる諸書のうちにあり、高く揚げられ、清められた、記録者(天使)たちの手による(諸書のうちにあるが)、(彼らは)気高く、敬虔(である)。」

 

 カッラー(断じて):抑制の意味があります。つまり:ムハンマドよ、もうかのようなことをしてはいけない、という意味です。「まことに、それは訓戒であり」この章またはこの諸節は訓戒であるということです。「それで望んだ者はそれを思いに留めるが良い」アッラーのしもべの中で望む者はそれを思い起こして熟考すれば良いと言う意味です。「高貴なる諸書のうちにあり」このクルアーンはアッラウフ・ル・マハフーズからコピーされたものであり、偉大とされた諸書の中にあります。「高く揚げられ」実際に高いところにあり、位も高いです。「清められた」汚れ、余分なもの、不足から清い状態にあります。「記録者(天使)たちの手による」使徒とアッラーの間の遣いとされた天使たちの手です。「(彼らは)気高く、敬虔である」アッラーの御許で尊い存在であり、信心深く、善良です。

 

 以上の真実が述べられた後、アッラーは彼の恩恵を否定し、命令に背く人間を批判し給います。

 

 「(不信仰の)人間は殺された(呪いの言葉)、彼はなんとひどく恩知らずなことか。どんなものから彼(アッラー)が彼(不信仰の人間)を創り給うたことか。一滴の精液から彼を創り、それから彼に割り当て給うた。それから、その道を易しいものとなし給い、それから、彼を死なせ、墓に埋めさせ給い、それから、望み給うた時に彼を甦らせ給うた。」

 

 「人間は殺された」つまり呪われた。不信仰者を指します。呪いの中でも最も酷いものです。不信仰の度の高さに対する驚きが込められています。「どんなものから彼(アッラー)が彼(不信仰の人間)を創り給うたことか。」彼がどのように創造されたのかの質問です。そして彼の存在に重要性がないことを表して、「一滴の精液から彼を創り、それから彼に割り当て給うた」。一滴とは数え切れないほどの精子を含んだ精液であり、その一つが卵子と受精することで、胎児の誕生のきっかけとなります。そして血液の一固まりとなり、次に肉の塊、そして最終形態に変化していきます。「それから、その道を易しいものとなし給い」母親のお腹からの脱出を、出産という形で実現し給うたということです。また:それから、彼をイスラームに導き給い、それを容易にし給うた、ともとれます。「それから、彼を死なせ、墓に埋めさせ給い」それからアッラーは彼を死なせ給い、尊厳の表しに大地の中の墓を彼の居場所にし給いました。「それから、望み給うた時に彼を甦らせ給うた」そして審判の日になると、清算を受けさせ、そして行為の報いを受けさせるために生きた状態に戻し給います。

 

 ここである質問が浮かびます:人間はこの終わりのための準備をしたか?答がアッラーから返ってきます「断じて、彼(人間)は、彼(アッラー)が命じ給うたことをまだ果たしていない。」主の恩恵を忘れている不信仰な人間はけしからん、彼は清算の日の準備となる義務の遂行を全くしていない、という意味です。

 

  続く

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP3841

 

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81章解説【2】

2011年12月06日 | ジュズ・アンマ解説

ビスミッラーヒッラハマーニッラヒーム

15.われは誓おうではないか。隠れるものに、

16.(つまり)身を潜める走るものにかけて、

17.そして闇と共に去来する時の夜にかけて、

18.そして、息を吐いた(光が広まった)時の朝にかけて、

19.まことに、それ(クルアーン)は高貴な使徒(天使ジブリール)の言葉であり、

20.力を持ち、玉座の持ち主(アッラー)の御許に場を占め、

21.そこ(その場)で(他の天使たちに)従われ、信頼された者。

22.そしておまえたちの仲間(ムハンマド)はもの憑き(狂人)ではない。

23.そして確かに彼は、明るい(東の)地平線に彼(ジブリール)を見たのである。

24.そして彼は、隠されたもの(啓示内容)に対して出し惜しみする者ではない。

25.そしてそれ(クルアーン)は石もて追われた悪魔の言葉ではない。

26.それなのに、おまえたちはどこに行くのか。

27.それ(クルアーン)は諸世界への訓戒に他ならず、

28.(つまり)おまえたちのうち真っすぐ立ちたいと望んだ者への(訓戒にほかならない)。

29.だが、諸世界の主アッラーが御望みにならない限り、おまえたちは望むことはないのである。

 

 続いてアッラーは、クルアーンが天使ジブリールを介してかれの使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)に下された啓示であることを数々の事柄にかけて誓い給います:

 

 「われは誓おうではないか。隠れるものに、(つまり)身を潜める走るものにかけて、そして闇と共に去来する時の夜にかけて、そして、息を吐いた(光が広まった)時の朝にかけて、まことに、それ(クルアーン)は高貴な使徒(天使ジブリール)の言葉であり、」

 

 アッラーは、視覚に入らず、また継続して発生し、そして隠れる事柄にかけて誓い給いました。

 

 また「闇と共に去来する時の夜にかけて」にあるように、闇にかけて誓い給い、「息を吐いた(光が広まった)時の朝にかけて」と太陽が昇り、発光する朝にかけて誓い給いました。以上の表現は、クルアーン特有の言語の正則性が由来しています。「息を吐く」は修辞学において「イスティアーラ」の名で知られており、朝の広まりの開始を意味しています。動き一つ感じられない静かな状態にあった自然に朝が訪れると、大地は目覚め、生命が広まる様子が表現されます。またその終わりは死と静けさの印でもあります。

 

 以上の誓いはすべて―アッラーが一番に御存知ですが―新設や改ざんや相違から来る争いを原因に消えてしまった過去のアッラーからのメッセージの真相の象徴なのかもしれません。そのため闇が人々の間に広まってしまい、導きの光は消えてしまったのです。この闇から朝を引っ張りだすことを望み給うたアッラーは、御自身の使徒であるムハンマドを導きと真実の教えと共に遣い給いました。つまりムハンマド(平安と祝福あれ)の使命は、人類のための朝の呼吸だったのです。

 

 クルアーンといったムハンマドに知らされたものは、ジブリールが主の啓示として携えてきたものであることを元に、以上の全ての事柄で誓い給いました。ジブリールはそれを順々にウンマの人々に述べ伝えていた預言者(平安と祝福あれ)に伝えました:

 

 「まことに、それ(クルアーン)は高貴な使徒(天使ジブリール)の言葉であり、力を持ち、玉座の持ち主(アッラー)の御許に場を占め、」クルアーンはジブリールのことを強い力の持ち主であり、玉座の主アッラーの御許では高位にある者と表現しています。王者の座る場所が高いところにあることから、アルシュ=玉座と名付けられました。そして威厳、権威、支配といった意味が込められます。アッラーの玉座の本当の姿について人間はその名前以外のことを知ることはありません。

 

 またアッラーはジブリールを「そこ(その場)で(他の天使たちに)従われ、信頼された者。」と描写しました。つまり天において天使たちに従われ、アッラーの御許では啓示を任されているということです。

 

 続いてアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の描写に移り給います:「そしておまえたちの仲間(ムハンマド)はもの憑き(狂人)ではない。」「おまえたちの仲間」という表現によって、彼は狂人だと主張するマッカの民に対して証拠を見せつけます。彼(ムハンマド)は啓示を受ける前、かつて交友し、付き合いのあった彼らの仲間であり、彼ら以外の人間が知らないような彼の真面目さ、誠実さ、頭の良さを彼らは最もよく知っていたはずです。それなのにどうして彼らは啓示を授かった後のムハンマド(平安と祝福あれ)を狂人と呼ぶのでしょうか。またムハンマド(平安と祝福あれ)は600の翼を持つ天使ジブリールをその本来の姿で確かに東の地平線上で見たのです。「そして確かに彼は、明るい(東の)地平線に彼(ジブリール)を見たのである。」

 

 またムハンマド(平安と祝福あれ)はアッラーにより教えられたクルアーンの教授を出し惜しむこともありませんでした。「そして彼は、隠されたもの(啓示内容)に対して出し惜しみする者ではない。」

 

 クルアーンは、不信仰者たちが言うようなものではありません。「そしてそれ(クルアーン)は石もて追われた悪魔の言葉ではない。」不信仰者たちは、クルアーンは悪魔たちの言葉であると主張していました。彼らは占い師たちが不可視界を知っており、ジンから成る悪魔たちが最上天から知らせを盗み聞きして知らせを持ってこられると思い込んでいましたが、至高なるアッラーは、悪魔たちには正しきこと、善きこと、不可視の知らせなどのクルアーンの言葉のようなものは啓示されないと彼らに仰せになっています。物事が以上のようであるならば「それなのに、おまえたちはどこに行くのか。」つまりおまえたちはクルアーンを嘘とするどのような道を辿ろうと言うのか、という意味です。

 

 最後に、クルアーンは人々の中でも真っすぐに生きたいと望む者のための訓戒であることを解明し給います:

 :「それ(クルアーン)は諸世界への訓戒に他ならず、(つまり)おまえたちのうち真っすぐ立ちたいと望んだ者への(訓戒にほかならない)。」

 

 アッラーは人間に歩む道を選ぶ自由を授け給いました。導きの道を歩むのか、それとも迷いの道を歩むのか、です。ただ、人間の意志はアッラーの御意志に制限されるため、人間の意志は完全に自由とはいえません。それは章の終りでアッラーが次のように仰せになっているとおりです:「だが、諸世界の主アッラーが御望みにならない限り、おまえたちは望むことはないのである。」

 

 アッラーの御意志は正道に人々を導き、迷いの道を忠告する使徒たちの派遣の中に顕れます。そして人間の意志は二つの道のどちらかを選択するときに明解になります。

 

 そしてアッラーは、かれの道に付いて行く者が導かれることに同意し給います。「それによってアッラーは彼の御満悦を追い求めた者を平安の道に導き、彼の御許可によって彼らを諸々の暗闇から光に連れ出し、まっすぐな道に導き給う。」(516節)、「そしてアッラーを信じる者があれば、彼(アッラー)は彼(その者)の心を導き給う。」(6411節)

 

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP4851

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81章解説【1】

2011年11月22日 | ジュズ・アンマ解説

ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム

1.太陽が巻き上げられ(その光が失われ)た時、

2.そして星々が流れ落ちた時、

3.そして山々が動かされた時、

4.そして妊娠10ヶ月の身重ラクダたちが放置された時、

5.そして野獣が追い集められた時、

6.そして海洋が燃え上がった(溢れた)時、

7.そして魂が(肉体と)組み合わされた時、

8.そして生き埋めにされた女児が

9.己はどんな罪で殺されたかと問われた時、

10.   そして(行状の)帳簿が開かれた時、

11.   そして天が剥ぎ取られた時、

12.   そして焦熱地獄が燃えあげられた時、

13.   そして、楽園が近寄せられた時、

14.   魂は己が持ってきたもの(帳簿に記載された行状)を知る。

 

 この章は、イスラーム信仰の二つの真実を扱っています。

 一つ目:審判の真実とそれに関連した、恐れを思い起こさせるような大地の混乱や壮大な出来事について。

 

 二つ目:ムハンマド(平安と祝福あれ)に与えられた啓示の真実と、啓示を携える大天使ジブリールの性質やそれを宣揚する預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)について。

 

 審判の現象の一つに、「太陽が巻き上げられ(その光が失われ)た」があります。巻き上げられるとは、その各部分が一つになること、太陽が落ちること、その光が隠されることを指します。太陽が高熱で燃えている大量のガスが集まった星であることは有名です。地球上に存在するすべてのエネルギーや生を感じさせるものは太陽が発するエネルギーが由来しています。そのため、その光が遮られ、その場所から動かされてエネルギーが消えることは、地球に住むすべての生き物の死を意味することになります。

 

 また審判の他の現象の一つに:「そして星々が流れ落ちた時」つまりそれらが散らばり落ちて、光を失うことを指します。中くらいの星の大きさが太陽と同等であることと、星の数が数えきれないほどでアッラーにしかその数を知らないことを考慮すると、これらの星が流れ落ちることの恐ろしさが理解できます。

 

 審判の他の現象:「そして山々が動かされた時」おそらく、どこかの天体が地球に近づくことでその引力を原因に山々が引き抜かれることを指します。

 

 他の現象:「そして妊娠10ヶ月の身重ラクダたちが放置された時」妊娠して10ヶ月を迎えたラクダは、アラブ人たちにとって最も価値のある富の一つでありました。ある人が貴重なこのラクダを所有していたとしても、かの日になるとその存在を無視してしまいます。それほどにかの日の出来事は重大なのです。

 

 他の現象:「そして野獣が追い集められた時」相当の数で集められますが、彼らはお互いに敵対したり、弱者を餌食にすることを考えません。なぜなら彼らに降りかかった出来事と地球に起きた変化以上の関心事がその日にないからです。

 

 他の現象:「そして海洋が燃え上がった(溢れた)時」海洋が溢れ、一つになります。山々が砕かれて膨大の量のその土が散らされると、海の大部分が流れ込んできて一つになると考えられます。

 

 他の現象:「そして魂が(肉体と)組み合わされた時」魂の本質については、アッラーのみが御存知です。魂は身体の消滅で消えることはありませんので、死後もそのまま残ります。審判の日には、アッラーが新しい形として創り給う体に魂が返されます:「おまえたちの同類を取替え、(復活の日に)おまえたちをおまえたちの知らないものに創生し(直す)ことに対して(われらは先を越されない)。」(5661節)そのため審判の日の再生は、魂と身体と共に起こるのです。「そして魂が(肉体と)組み合わされた時」の他の意味に、性質において似た魂同士が集まるともあります。

 

 他の現象:「そして生き埋めにされた女児が」昔のアラブ人は、貧困か女性を捕虜や奴隷にされることといった不名誉を恐れて、女児を生きたまま埋めていたのでした。特に部族間で争いが起こっている間にそのようなことが行われました。女性は誘拐されると、誘拐した側の所有物つまり奴隷となるのでした。そして生き埋めにされた女児は尋ねられます。彼女に対する質問と表現は、生き埋めという問題全体を重要視することを指します。なぜなら生き埋めにされた女児に責任がないどころか、彼女は被害者だからです。また加害者、殺害者が犯した罪を問うということは、女児を殺した者への侮辱、クルアーンが恐ろしい行為であるとしたこの犯罪を危険視していることを指します。またクルアーンはそれを天変地異の描写の中に組み込みました。「己はどんな罪で殺されたかと問われた時」殺害によって無実の命を奪う者たちに対する脅迫です。不当に命を奪う行為は、厳しい罰が約束された最も重く罪の一つで、クルアーンの多くのアーヤがそれについて言及しています。また殺害は、審判の日に人間が第一に清算される罪です。預言者(平安と祝福あれ)は言われました:《(殺害のために流れた)血についてしもべたちは第一に裁かれます》(アル=ブハーリー、ムスリム)

 

 他の現象:「そして(行状の)帳簿が開かれた時」それは行為が記された帳簿です。それが広げられるとは、死ぬ時に閉じられ、それが再び開かれることを指します。その帳簿には、天使が記した人々が現世で行った善いこと、悪いことが載っています。審判の日には、人々に見えるように彼らの前で開かれます。

 

 そして人間の帳簿が開かれるという表現には暴露の意味が含まれます。人間が生前に行っていた、覆うことに励んでいた隠された罪といったすべての行為が審判の日には皆の前に広げられます。

 

他の現象:「そして天が剥ぎ取られた時」カバーが剥ぎ取られるように天は元の位置から剥ぎ取られます。これは地球に起こるであろう変化の描写です。地球は元の形のまま存在し続けないということです。「大地が大地でないものに替えられ、そして諸天も諸天でないものに替えられ」(1448節)

 

 そして審判の日の最後の光景が続きます。それはアッラーが罪人たちに準備し給うた地獄の描写です。「そして焦熱地獄が燃えあげられた時」点火され、火が強化される様子です。

 

 それに対応するように、敬虔な者たちの楽園の描写が続きます:「そして、楽園が近寄せられた時」つまり、敬虔な者たちに近づくことです。

 

 以上すべては、この章が述べた審判の日の光景です。それら全てが起こる時:「魂は己が持ってきたもの(帳簿に記載された行状)を知る」ナフス(魂)に定冠詞がはずされていることで、魂全てが知る、という意味になります。各魂は、行ってきた善悪について、天使が記していた帳簿が持ってこられることで知ります。アッラーは次のようにも仰せになっています:「誰もが己のなした善を眼前に、また己のなした悪をも見出す日、己とその(悪事の)間に遠い隔たりがあればなぁ、と望む」(330節)

 

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP4548

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