プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

山本勘介

2018-11-28 22:53:01 | 日記
1954年

熊本の済々黌高は戦前中学済々黌といって陸、海軍の予備校的存在で剣道の強い学校であったそれが戦後野球部を結成してわずか七年のうちに選抜に二度、選手権大会に一度と三度も全国大会に出場、いまや野球でも全国的に知れわたるようになった山本はこの済々黌が生んだ初のプロ野球選手である。(元阪急、現大鉄吹田の上妻一塁手は済々黌出身だが柔道部)二年生のときからマウンドを守っていたが、当時は調子の波が大きく、著しく不安定なピッチングであった。それでいて初陣の県大会に優勝して春の九州大会に出場。夏の予選も西九州地区大会までコマを進め得たのは重い球を持っていたからである。夏の予選後、当時の監督田村氏(元門鉄選手、現大淀高監督)のコーチでステップを小さくしてから上体の機動が少なくなりしかも腰の回転が鋭くなったため制球力と球速がついてきた。こうなれば鬼に金棒、県大会を圧倒的に勝ち進み、九州大会で準優勝して選抜大会に出場した私が彼を初めて見たのはその大会前の特別練習だった。スタンドで見ているとまるでキャッチボールのように軽く投げていながら本格的ピッチングのようにスピードが乗っていたのに興味をひかれわざわざグラウンドに降りてピッチングをつぶさに見て二度びっくり、投球動作は遠くで見たときと同じように軽いウォームアップ程度、ワインドアップから球をはなす瞬間まで全く無造作、それほど力を入れて投げていないようだが球にウエイトがよく乗っているので重味がありしかも低目にホップしてきまっていた。重い球は彼の持って生れた天分によるもの、投手としてはこのうえもない素質を持っているわけだがそれとともにスナップが十分にきいていること、ステップが小さい割に腰がよく入っていることも見逃せない。結局この重い球が彼のピッチングの特色でもあり、生命でもあるわけだ。ストレートは変化せず、速球投手にはまずらしくシュートがないが、オーバーから内角、サイドハンドから外角と速球を投げ分ける。特にサイドから外角低目をつく速球がウイニング・ショット。選抜では二回戦に彦根東高をワンヒット・ノーラン、残塁三の好記録でしりぞけ、三回戦には浪華商中下と投げ合い(延長十三回)敗れはしたが十三本の三振を奪うなど明電舎に入った北口(洲本)南海入りの太田(伏見)などにおとらぬピッチングを見せていた。まだまだピッチングは若く、浪商の敗れた十三回一死一、三塁のピンチに中下に対して外角へハーフ・スピードのストレートを投げて決勝点を奪われたのがその好例。敬遠とも勝負ともつかぬ中途はんぱな球を投げたのが命とりであった。しかし五尺八寸、十八貫、体格にも恵まれスナップ、腰、肩と投手としての条件、素質をそろえた彼への期待は大きい。十八歳、背番号39

野口二郎投手

山本君は正攻派の投手だ。オーバーハンドの球はすばらしい伸びがある。フォームが安定しているのでコントロールが荒れるようなこともない。体格も申し分ない。欲をいえばいつでもくさいところへ投げられるように努力することだ。あとは打者との駆け引きさえのみこめば十分今年から使えるのではないか。腰から下の強みは文句のつけどころがないほどいい。
コメント
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