プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

斎藤正弘

2023-05-28 16:28:30 | 日記
1961年
かくれた逸材として斎藤正弘投手が案外ひろいものだったと期待を集めている。斎藤投手は三十五年かぎりでライオンズを退団した桑原投手の後輩でやはり左投手だが、1メートル63しかなかった桑原とちがい、斎藤は1メートル76、72キロと体がよい。しかも打っても二年のときから四番を打ち高校生活最後の一年では打率5割、ホームラン5本をたたきだしたということだ。そのため首脳陣もピッチングを生かすべきかバッティングを伸ばすべきか目下考慮中だが、本人は、「どちらかといえば打撃のほうをとりたい」といっている。とにかく、「先輩(桑原)の分までやります」というなど、なかなか頼もしい新人だと、もっぱらの評判である。

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金子貴博

2023-05-28 16:20:43 | 日記
1991年


左横手投げの金子は球が速く制球力もあるが、スタミナに課題。


船橋法典、金子の速球とスライダーに最後までほんろうされた。

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七森由康

2023-05-28 12:06:05 | 日記
1965年
昨年暮れ、金田の巨人入団が実現したとき、セ・リーグ鈴木会長は、巨人軍に、セ・リーグ発展のため、スワローズへの友情のトレードを働きかけ、両球団の意見一致をみて実行されたのが七森の移籍だった。当時の林監督は、七森が左投手であること、二十歳の若さ、速球を武器とする荒れ球を持っていることなどに目をつけ、「この素材は磨けば必ずものになる」と高く評価したといわれている。もとより巨人は好きで入ったチームだが、将来自分を生かす道を真剣に考えたら、スワローズの移籍への決心は早くついた。決心がつくと、七森は荷物をまとめて多摩川から大倉山へ、一日で引越し、ジャイアンツからスワローズのユニフォームに着替えたのだった。今春二月の湯之元キャンプにこの青年はいわば青雲の志を抱いて参加した。勢いトレーニングにも熱がはいり、ピッチングにも力がこもった。しかし、このキャンプで七森の荒れ球はなおらなかった。これを、後方でじっと見ていた林監督は、たまらずにアドバイスした。「七森、ピッチングは球威だけではない。コントロールがそなわってこそ、生きた投球ができるのだ」そしてそのために、やや腕を下げたフォームに直した。こうすれば、たしかにコントロールはつき易い。真上から投げていたときにはなかったようなシュートの切れも出てきた。しかし、七森はそのために特徴を殺すはめになった。スピードがなくなってしまったのだ。オープン戦に6試合に登板して3勝1敗、幸い乱打されてみじめに降板するということはなかった。だが、七森の死んだ球がペナントレースで通用するはずがなかった。四月十一日の大洋2回戦、七森は4回投げて2安打を譲り、ワンポイントの役割さえ、果たせずに終わった。同十四日の広島2回戦には、早くも先発が回ってきたものの、二回投げて被安打3、失、自責点各2と振るわず、しだいに林監督の信頼は薄れていった。そして、チームは国鉄からサンケイへ、監督は林から砂押へと、スワローズは球団史上初の動乱期を経験、七森は七森なりに、不安と期待の中にこの時期を過ごしたが、たとえ監督が変わろうと、七森が一度失ったスピードは返ってこなかった。結局、五月二十五日の大洋7回戦を最後に、七森の姿は一軍から消えた。それまでに残した成績は5試合、0勝0敗、6回1/3、自責点8であった。不調をかこって二軍へ落ちた七森は、今度は故障に見舞われた。「柔軟体操をやっていた間に腰を痛めたらしいんです」すぐ鶴見の「矢橋整形外科」へ行ったところ、脊椎が伸びていたことが分かった。幸い故障は軽く、一週間足らずで全快したが、悪いときには悪いことが重なるものだとつくづく感じたということだ。さらに、七森は父親が高血圧で倒れるという不運にあった。父ひとり、子ひとりの七森は合宿を出て、いまは東横線学芸大駅近くのアパートに移り、手足の不自由な父を大阪から呼んで二人で暮らしている。ここから毎日大倉山グラウンドまで通って練習しているわけだが、田所コーチの指導のもとでフォームを元の上手投げにもどし、徐々にスピードを取りもどしつつある。七森の身上は、荒れぎみの速球と大きなカーブ。これで、昨年は広島打線をシャットアウトした実績をもっている。「金田さんの身代わりということは考えず、ボクはボクなりにチームにつくしていきたいと思います」という謙虚な好青年の再起をファンと共に期待したい。

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高野一彦

2023-05-28 11:20:47 | 日記
1960年
福岡京都高というあまり名のしられていない学校から、高野がプロに身を投じたのは三十三年である。体が大きく、オーバースローの投球は、コーチの筒井に「これはよくなる」とよろこばせるほどだった。たしかに体はよかった。数年前、九州巡業のとき横綱栃錦が父親のもとに訪れたとき、お世辞もふくめて「いい体だ。相撲取りにならんかね」といったほどである。コントロールのないのが玉にキズで、二年間はそのコントロールにあけくれた。もともと欲の強いほうではなかった。負けたくなかったが、同僚を敵とみるほどの闘争心はもちあわせず、素材としてキメの荒いまま商品にならなかった。それがこの春のキャンプで、ようやくコントロールを身につけるようになった。上手投げの速球をもっていたから、コントロールがつくと強い。昨年の4勝5敗はすでにお返ししてしまった。おそらく、シーズン末になって消えるようなことはあるまい。昇格筆頭組の一人だと、彼の同輩たちはいうのである。

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山田裕

2023-05-28 10:18:55 | 日記
1966年
山田裕は、高知市にある丸の内高校二年のときに、学校をやめ大洋のテストをうけた。父親は、中学生のときになくなった。母親は病院で働き、彼はそのおかげで学校へ通うことが出来たのだが、夏になると毎年のように持病が出て苦しんだのである。それでも彼のために通院した。「母さんにこれ以上苦労をかけられん…」そしてある日、大洋のテストが近くあるのを、新聞で知った。彼は、球団に葉書を出すと学校をやめ、兄さんから汽車賃をかりて上京、テストをうけた。もちろん母親には、学校をあっさりやめてしまったのは内緒であった。そして、運よく合格。十五歳のときであった。フリー・バッティング・ピッチャーとしての生活がこうして始まったのである。やがて、彼は、川崎市にアパートをかりると、高知から母親を呼び一緒に暮らすようになった。「もう、苦労せんでもええぜ、ゼイタクは出来んけど、持病で苦しむよりはええわ」しかし、仕事はくる日もくる日も、バッティングに投げることであった。母親は、口では健気なことをいう我が子だが、将来、大洋のマウンドに立つのは無理のようにおもえた。ある日、三原監督をたずねていうのであった。「あの子は、駄目でしょうか」三原監督はいった。「熱心にやってますよ、しかし、何せもう一つ、特徴がありません。まぁ、お母さん、しっかりやるように、それとなく励ましてやって下さい」山田は、母親が心配のあまり監督をたずねたのを知らない。昨年の終盤、彼が、広島球場でバッティング練習にほうっていると、岩本コーチが打撃の必要上、いった。「ちょっと、スライダーをほうってくれんか」「ぼく、駄目なんです」事実、彼は、ストレートと、カーブしかほうれなかった。「こうやってほうるんだ」山田は、そのとおり投げた。ボールは鮮やかに外角にすべった。その翌日、彼は、別所コーチに呼ばれた。「イースタン・リーグにいってほうって来い」彼は、最終日の東京戦に出て、三回投げて勝った。それから公式戦がおわったとのファームの練習試合に五試合出て、一度も負けなかったばかりか、秋のオープン戦、静岡での東京戦にも先発することが出来た。このことは、なんでもないことのようだが、大洋の懸命なチームづくりをあますことなくいっている。普通、多くのチームでは、一度、バッティングピッチャーという任務をあたえられ、運命づけられると、その男は、そのまま、あきらめの中に埋没してしまう。だが、山田は、ピッチングスタッフのなかに加えられた。大洋の指導者の神経がよくいきとどき、隅々まで目が光っているという前に、ホエールズの投手団は、新旧交代期のまっ只中にあり、投手団の再建も、まさに急をつげていた…というべきであろう。それはことしにかける大洋の決意にほかならない。

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小玉明利、浜田義雄

2023-05-28 09:14:32 | 日記
1970年
経営者といえば、阪神をやめた小玉明利内野手(プロ十七年、尼崎工、兵庫県出身、三十五歳)は、マンション経営を目論んで目下奔走中。変わった事業の経営をやるのに、東映の二軍の内野コーチだった浜田義雄(プロ二十二年、荏原中、東京都出身、四十五歳)氏の幼稚園がある。二十年に及ぶプロ生活に終止符を打った浜田氏は、副業として以前から経営していた横浜市神奈川区三ツ沢の幼稚園の園長さんとなる。

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笠原栄一

2023-05-28 09:09:25 | 日記
1986年


笠原君は何㌔ぐらいのスピードが出るのかな?
笠原 140と少しでしょう。でも、常時140出るわけではないので、疲れてくるとだんだん球威が落ちるんです。自分でもわかるんですよ(笑)5回くらいまではいけるんですが。


変化球はどうなの?


笠原 カーブとスライダーがあります。


シュートは?


笠原 投げませんが、疲れてくると腕が下がってきてしまうんです。すると、ナチュラル・シュートになってしまいます(笑)今、直してるんですが、フォームを。


どういうふうに?


笠原 首が右に曲がって、腕が横から出るようになってしまうんです。スリークォーターから投げたいんですが…。


それができれば一軍に?


笠原 フォームを自分のものにできれば、ですね。

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名取和彦

2023-05-27 11:21:56 | 日記
1980年
甲府商ー明大ー日産自動車とずっと投手。その素質は明大時代から高い評価を受けていたが、本領を発揮し始めたのはノンプロ4年目の昨年から。「技術もだけど精神的にやっと投球がわかってきた。納得してのプロ入りだから年齢は気にしてません」武器は何といっても1・83メートル(78キロ)の長身から投げおろす重い速球。あとは大きく割れるカーブとシュートが持ち球。本人の見込みは「プロで生きるには落ちる球が必要。社会人時代に練習したことのあるフォークを何とかマスターしたい」ちゃんとわかっているようだ。

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柳田利夫

2023-05-27 10:48:00 | 日記
1960年
「これがぼくの契約金ですか。冗談じゃない。ぼくの力はぼくがいちばん知ってます。これではやれませんから帰らしてもらいます」三十二年の秋、すすんで大毎のテストを受けて合格しながら、契約金が安いといって郷里に帰ってしまったという話がある。どこまでがほんとうかしらないが、ウソではないらしい。大変自尊心の強い、右か左かはっきりわりきらないと気のすまない、それでいて辛抱つよいところのある柳田の、まるで作りあげたようなエピソードである。福島県湯本市に、常盤炭鉱を定年でやめた利吉さんの四男として彼は生まれた。兄三人もすべて炭鉱づとめ。彼もまた見習工として働くかたわら内郷高に通っていた。野球を覚えたというより、社内で盛んなスポーツといえば野球しかなく、その唯一の娯楽をたのしんでいたといったほうがいい。この常盤炭鉱チームには小野(大毎)がいて、小野は清峯伸銅にひっぱられ、そこに半年ほどいて大毎に入った。常盤炭鉱というのは、大毎とまんざら縁のないところではなかったわけである。プロ入りした柳田は、プロに入ったことで周囲に気押されることもなかった。むしろその荒っぽい気性は、実力本位のこの世界の空気にふれて、さらに鋭くとぎすまされていったようである。まもなく認められて一軍へ上がったが、シーズン半ばでふたたび二軍へ帰るように別当にいい渡された。紳士別当と異名をとった前監督別当薫には、ただいたずらに向こう気の強い、荒さだけの目立つ柳田は肌に合わなかったのかもしれない。別当がそのまま大毎に居座ったら、あるいは柳田の人生は変わった絵をかいただろう。柳田を買っていた二軍西本監督が別当に代わったことで、柳田の環境は一変した。西本新監督のもとでキャンプに参加した柳田が、人知れず一軍昇格を夢みて練習にはげんだのはうなずけることだった。もともと器用なタイプではなく、ダッシュのきかない足で守備はいいほうではなかった。守備がダメでも打てたらいいんだろうと、柳田は一流のわり切りようで、キャンプでは打つことに専念した。柳田のライバルは八田である。守備なら文句なく八田が上であり、打撃も悪くはなかった。西本がシーズン・インにさいして、どっちを遊撃にするか迷ったのは、それぞれに特色がありながら決定的な印象を二人とももたぬことであった。西本が柳田にきめたのは、同じようなものなら、気性のはげしい馬力のある柳田をすえようと思ったのは、その柳田のもつはげしさが、いままでのオリオンズになかったからだった。手首をきかせたキャンプでの長打も、西本の決定に一役買った。評論家小西得郎は「キャンプと公式戦でこれほどちがいをみせた選手はみたことがない」といったが、「この男はきっと一線で打つ。ひょっとすると三番のダーク・ホースだ」といった人である。前に大毎にいた佐々木信也である。ある日、映画をみて帰った友人が、たまたま殺し屋の竜という映画の題名から、角ばった、目つきのよくない柳田の顔をみてふと思いつき。殺し屋のリュウと呼んだ。柳田の一字にかかっているこの呼び名が、案外ぴったりしているのだろう。柳田の周囲で二、三度このニック・ネームが口にされたとき、それを伝えきいた新聞記者が紹介した。この殺し屋は、文字どおり五球団のエースたちに必殺の打棒を加え、一躍ジャーナリズムの筆にかかる存在となった。

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1970年プロ野球引退後

2023-05-27 10:12:05 | 日記
1970年
・アトムズから西鉄に移籍されたオカボンこと岡本凱孝が、立大時代の友人が専務をやっている大阪のある鉄鋼会社に庶務課長として迎えられ、相変わらず威勢のよいところを見せている。


・西鉄の鈴木五郎(プロ七年生、仙台工・宮城県出身、二十七歳)は、故郷・仙台に帰って家業のクリーニング屋を手伝うはずだったが、夫人が福岡で高校の音楽教師をしていて、仙台へ行けないこともあって、福岡市内のある工務店に平社員として入社した。そこでは「野球をやめた場合を考えて…」と、取っておいた運転免許が役に立っているそうだ。


・十人あまりの選手がやめさせられたヤクルトでは、「就職についてはいつでも相談にのる」と温情のあるところをみせていたが、その相談に乗ってもらえたのが、倉島今朝徳捕手。赤井喜代治外野手、無従史朗外野手。全国的な販売組織を持っている親会社ヤクルトが控えているからには、外部に就職口を求める必要はない。倉島と赤井はヤクルト本社の総務課に入って七万円の月給。年二回の賞与を入れると選手時代の九万円とそう変わりない。無徒は、故郷の大阪のヤクルトへ…。もう一人、上地英満という選手名簿に載らない選手が沖縄ヤクルトへ派遣された。


・南海の田坂正明内野手は選手から用具係へ転向を命じられたが、昨年暮に広瀬選手の仲人で結婚したばかりのところへ、この転機命令はショックだったようで「ユニホームを着られないのなら、新しい職業で…」と、鶴岡元監督の口ききで早川電気に入社した。


・中日の神原隆彦捕手(プロ十年目、愛知学院大、広島県出身、三十二歳)は、名古屋の愛知学院大から西鉄入り、その後中日に移籍しただけに、地元で知人も多く、新たに名古屋市内で喫茶店をはじめた。経営者兼マスター。


・若くて経営者になるのに西鉄に一年間いた中村益章(プロ一年、川内実業、鹿児島県出身)という無名の選手がいる。この中村は昨シーズン西鉄入りした右腕投手で、球団ではクビにするつもりはなかったのだが、鹿児島県川内市で旅館を経営中の父親が病気になったためせっかく二年目の成長を期待されながら自分から退団を申し出て、親父にかわって客商売に精を出す。


・西鉄の柏熊克美投手、同じく羽里功投手が、それぞれ故郷の実家に帰って家業を継ぐことになった。


・同一球団での職場転換では、広島の山本真一内野手がスコアラーに、またロッテの堀田芳信投手が二軍のマネジャーになっている。


他球団の選手として拾われたのには、西鉄の藤本和宏投手がいる。藤本は福岡市内でバーを経営する予定だったが、野球への未練が捨て切れず、広島カープのテストを受けて、合格したものである。


近鉄から西鉄に移った徳久利明は、視力減退がもとで、あたら新人王も十年の寿命を保つことが出来ず、西鉄でも再起せず退団した。彼の新しい人生は、知人の紹介で、住み慣れた大阪で、創価学会の職員になった…、と伝えられているが、その詳しいことは本人の希望で明らかにできない。

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浜浦徹

2023-05-27 09:42:18 | 日記
1978年
浜浦の変身ぶりに目を見張った。三回まできれいに三人ずつ料理していった。パーフェクトピッチングのすばらしいスタートだ。7回3分の2で永射にバトンを渡し、完投こそ逸したが、五十一年七月三十日の後期、対南海一回戦以来、二年越しでうれしい白星を飾った。変化球にコントロールがついた。カーブ、スライダーで、カウントをかせげるようになったのは強みだ。当然、安定感が出てきた。投の一角をまかされるだけの力をつけたとみていいだろう。長いトンネルを抜け出した本人は「ホッとした」と白い歯をのぞかせた。毎年大きな期待をかけられながら裏切ってきた浜浦。自分自身にもどかしさを感じ、苦しみぬいていたときの勝利だけに、この味は格別だ。この日浜浦は、朝食をすませると「スッキリしよう」と思い、宿舎近くの散髪屋へ行ってきた。サッパリしてのマウンド。力んで一人相撲をとる昨年までの姿はまったく見られなかった。冷静なピッチングは「余分なことを考えずキャンプでやってきたものだけを出すことを心がけて投げた」からである。つまり、キャンプではフォーム固めに専念した。そのフォームで打者と対することだけを考えていたのだ。浜浦がベンチへ帰ると、根本監督が1イニングごとにアドバイスをしていたが、これも「状況判断するのもいいが、お前の持ち場は、いかに正確に投げるかにあるんだ。打者に投げるのが先決だ」と、同監督は口をすっぱくして言い続けた。「フォームが安定したので、コントロールがよくなった。力まなくなったのもフォームが固まったからだ。八回は、結果を考えてしまった。だからスピードの落ちたところを打たれた。でも、ある程度投げられる自信はついた」投手が苦しんでいるときの一番いい薬は白星である。波に乗るきっかけをつかんだ浜浦に期待したい。

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水沢薫

2023-05-27 09:31:55 | 日記
1988年
ルーキーだった昨年度、イースタンで最優秀救援投手賞(8セーブポイント)に輝いた。武器は大きく割れるカーブと胸もとを鋭くえぐるシュート。「特にシュートは絶品。あれだけのシュートを投げられるのは、西本以来じゃないか」とは、2軍の首脳陣の声だ。

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木下智裕

2023-05-27 09:29:34 | 日記
1986年
東海大からドラフト1位で阪急入り。58年には9勝4敗1Sと活躍したが昨年、阪急を自由契約になった。巨人のテストを受け採用決定。左腕から繰り出すシンカーなど変化球が武器で、上手から横手からと変幻投法も特徴。中継ぎとして期待大。


1988年


第二の人生(知人と会社経営予定。) 61年阪急から移籍。今季は一軍出場なし。


ちょっと肩をこわして調子を落とすとヤジ・罵声、それがつらかった。これからは実業家として大成したい。

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フレッド

2023-05-27 09:24:03 | 日記
1978年
中日の助っ人・フレッド投手が二日のゲーム前に初練習した。稲尾・中山両コーチの見守る中でブルペンで約50球。時差ボケ、寒さなどで周囲は「大丈夫かな?」と心配していたが、左腕から速球、カーブ、スライダー、フォーク、チェンジアップと持ち球をすべて披露した。フォームもスリークォーター、上手、サイドと投げ分け、クセ者ぶりの片リンをチラリ。投げ終わったフレッドは「先週の日曜日にハワイで9回を投げたので、一週間くらいでベストになる。得意球は速球。もう少し速くなる。日本の野球は微妙なコントロールが必要だと聞くが、自信はある」と胸を張る。また、ハワイに比べて寒い日本の気候については「ソルトレークシチー(ユタ州)はもっと寒かったので平気」と言った。稲尾コーチは「米国でいう二番手投手タイプ。来たばかりで、あの程度では評価ははっきり出せないが、最初はリリーフだろう。コントロールはよさそうだね」一週間ほど名古屋で練習させてから、一軍登録するか決める予定だ。

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猪爪義治

2023-05-27 09:16:01 | 日記
1999年


サイドハンドからMAX143㌔の直球とフォーク、スライダーが武器。「内角をガンガン突くピッチングが身上です」

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